その他
――まだ、起きたくないなあ……
頭の先から脚の先まですっぽり布団の中にくるまって丸まりながら、僕はぐずぐずと夢の世界と現実の世界を行ったり来たりしていた。
ちゅんチュンとさえずる鳥の声。
障子の向こうから差し込む、優しい陽の光。
僕を気遣って、気配を殺して動く支度の音。
すべて気がついていたけれど、それでもまだ心地よい波間から離れたくなくて僕は悪あがきする。そろそろ支度しないとな、とは思うけど布団が僕を離してくれないんだ。仕方ないじゃないか。
「雷蔵」
支度が終わったのだろう。
コトン、と道具を仕舞う音がしたなと思ったすぐ後に、三郎が呼びかけてきた。
「雷蔵、起きて」
――起きてるよ
心の中でそう返して、僕は目を瞑る。
やけに弾んだ声だ。きっと今日の変装が上手くいっただとか、そんなところだろう。
予測をしておいてなんだけど、僕はまだ布団から離れたくない。
どうしようかなあ。
もう起きた方がいいよな。
でも、ヒンヤリと張り詰めた布団の外に対してポカポカと暖かい布団の中で微睡む時間は手放し難い。ぐずぐずと身動ぎしながら延々と思案する。三郎は何言わない。やけに長い沈黙に、ほんのちょっとだけ居心地が悪くなってきて、返事くらい返そうかなと思った矢先だった。
「雷蔵、朝だ!」
バサっと勢いよく掛け布団が取り払われて、僕は身体を縮こませる。
にっこり笑った三郎の顔が恨めしい。
「おはよう、雷蔵! 見てくれ!!」
「…………おはよう、三郎」
身体を起こし、どう見ても"いつも通り"にしか見えないマスクを指さす三郎を眺めながら、僕はどうしたものかと思案した。
◇◇◇◇◇◇
三郎は機嫌がよかった。
「どれ、私がやってやろう」なんていいながら僕がまだ返事をしていないのに髪を結わえてくれた(うたた寝していたらいつの間にか身支度が整っていたから楽だった。たまにはいいかもしれない)し、食堂へ向かう足取りがやけに軽そうで、鼻歌が聴こえてきそうな錯覚がした。
挙句の果てに、「お残しは許しまへんでー!!」といつもの決まり文句で呼びかけるおばちゃんに、「はーい!」と元気よく返事を返すものだから、1年は組の良い子たちが集まる一角が楽しそうに騒ぎ出して、一緒にいる僕らにまで注目が集まったから、少し照れくさかった。
「なあ、三郎のやつどうしたんだ?」
耳打ちしてくる八左ヱ門は、顔こそ笑っていたが眉がへの字にぴくぴくと動いている。それは、僕も同じようなものだろう。
横目で三郎を確認したあと、僕も小さな声で返した。
「今日の変装、一等上手く出来たんだってさ」
「変装が?」
「そう、変装が」
八左ヱ門がじーっと三郎の顔を凝視する。そして、肩を竦めてこっちに視線をよこすから、僕は苦笑いした。
「うーん、僕にもよく分からなくて」
「……だよなあ」
一緒になって三郎の顔を眺めるけれど、やっぱりさっぱり分からない。
「どうしたふたりとも。私の顔に見惚れてるのか?」
「いや、三郎。それ、雷蔵の顔だから」
視線に気付いた三郎が、決めポーズのようなものを見せながら得意気にそんなことを言って来た上に、すかさず八左ヱ門がそんなことを言うものだから、面白くなって僕は思わず吹き出してしまった。
◇◇◇◇◇◇
自分で言うのもなんだけど、僕はそこそこ真面目だ。だからいくらランチで腹が満たされようが、眠気を誘う日差しが差し込み僕らを誘惑してこようが、先生の話にじっと耳を傾けようともがいていた。
だが、三郎をはさんで隣に座る八左ヱ門は限界を迎えたのだろう。さっきから何度もがくっがくっと首が揺れては起き、揺れては起き……を繰り返している。
「ねえ、三郎」
「……ん?」
たまらず、隣に座る三郎にこっそり話しかければ退屈そうに(でも真面目に)授業を受けていた三郎が僕を見る。
「八左ヱ門、起こしてあげてよ」
「えー、なんで私が」
「このままじゃ先生に叱られるじゃないか」
「いいじゃないか、八左ヱ門が叱られても」
「なんでさ。可哀想だろ」
「だって、その方が面白い」
「もー、それでも友達?」
ニヤニヤと笑う三郎の背を僕は呆れて眺めた。三郎は面白くて良い奴だけど、こういうところは良くない。こうしている間にも、八左ヱ門は本格的に夢の世界へと旅立とうとしている。絵に描いたような鼻ちょうちんが、規則正しく動いている。三郎はその様を楽しそうに眺めていたかと思えば、指でつついて壊して腹を抱えながら笑いを堪えている。
「三郎!」
そんなふうにたしなめながら、僕も本当は面白くて笑いを堪えるのに必死だった。ごめん、八左ヱ門。心の中でそんなふうに言い訳をする。
と、その時だ。
「おい、そこ! 聞いてるのか?」
先生の視線が痛かった。
すかさず、三郎が手を挙げる。
「せんせーい! 竹谷くんが居眠りしていまーす」
「何っ? 竹谷!!!!」
先生の怒号が飛んで、八左ヱ門が弾かれたように立ち上がった。
「はい!!!!」
「竹谷、今何してた?」
「はい!!!逃げ出した毒虫たちを追いかけて……」
そこまで言って、八左ヱ門は周囲を見渡した。すぐに顔が真っ青になって、彼は慌てて頭を下げた。
「す、すいません!!!」
教室中が笑い声に包まれる。
僕も三郎と一緒になって思わず笑ってしまった。事態に気付いた八左ヱ門が恨めしそうな瞳で見てくるからごめん、と仕草で合図を送る。
しかし、そうしていられたのもほんの僅かの間だった。
「罰として3人は放課後、教室の掃除をしなさい」
「ええっ! なんで私たちまで」
三郎がすかさず抗議を声をあげるが、先生は頑なだった。今度は八左ヱ門が大笑いしている。続く応酬に巻き込まれながら、僕は図書委員の仕事がない日でよかったとちょっとだけほっとしていた。
◇◇◇◇◇◇
ムスッとする三郎と八左ヱ門に囲まれながら、僕は黙々と掃除を進めていた。
「お前のせいで私たちまでこんな目にあったんだぞ!」
「なんだって? 三郎が起こしてくれていればこんな事にはならなかったじゃないか!」
「元はと言えば、居眠りしていたお前が悪い!」
最初は僕も間を取り持とうと右往左往していたけれど、ずっとこんな調子だから掃除が全く進まない。
――早く終わらせちゃった方がいいと思うんだけどなあ
そう思うものの、こうなってしまったからにはしばらくふたりはこの調子だろう。大丈夫。掃除が終わる頃にはケロッと仲直りしているはずだ。三郎と八左ヱ門の喧嘩はじゃれ合うようなものなのだ。
昔は、それが分からなかったから大変だった。
何とかふたりを仲直りさせたくて声をかけるのに、全く僕の言うことに耳を貸さないものだから、胸がいっぱいになって泣いてしまったこともあった。その時は、泣き止まない僕に戸惑ったふたりも一緒になって泣いてしまって、3人でわんわん泣くものだから、三郎と八左ヱ門が泣くなんて……とビックリした拍子に僕の涙は引っ込んだのだ。
僕が懐かしい思い出に浸っていた間も、三郎と八左ヱ門は言い争っている。もはや、原因となった授業のこととは関係ないことで互いに張り合っている。そろそろ怒った方がいいかなあ。僕がそう思ったその時だった。
「おーい! ろ組の3人!」
窓の向こうから声が聞こえて、僕はそちらに目を向けた。
「兵助! 勘右衛門」
見慣れた2人がひょこっと顔を見せていた。
「おー、ほんとに掃除してる。何やったんだよ、3人とも」
勘右衛門が笑いながら揶揄すると、三郎と八左ヱ門の矛先はお互いから勘右衛門へとうつったようだ。なんやかんやいいながら言い合いをしているが、どこか3人とも楽しそうだ。
「雷蔵」
兵助に声を掛けられて、僕は振り向いた。
「よかったら、手伝うよ。あの3人、しばらくああしてるだろうし」
「いいの? 助かるよ」
「早く終わらせて、夕飯にしよう」
「……兵助、もしかして」
「今日はいい大豆が手に入ったんだ!」
「…………あ、そうなんだ」
――おーい、三郎。八左ヱ門
それに、勘右衛門
僕の縋るような視線は、3人には全く届いていなかった。
◇◇◇◇◇◇
たらふく豆腐を食べて、片付けをしながらまた笑いあって、風呂で騒いで一緒に宿題に取り組んだあと、僕と三郎はようやく部屋へと戻ってきた。
「雷蔵、そろそろ灯りを消してもいいかい?」
「うん、いいよ」
三郎が蝋燭の灯りを消せば、部屋の中は真っ暗闇だ。それでも僕らは暗闇に慣れるように日頃から訓練しているから、三郎は真っ直ぐ自分の布団に潜り込んだ。
「それにしても、今日は散々だったな」
「もう、またそんなこと言って」
「だって、あれは八左ヱ門が悪いよ。雷蔵だってそう思うだろ?」
「えー、それはどうかなあ」
「らいぞ〜〜」
縋るように僕の名を呼ぶ三郎の声には、どこか弾んだ響きが混じっている。
三郎も八左ヱ門、勘右衛門も兵助も。
それに僕も。
口ではみんな色んなことを言うけれど、僕らは互いにこんな毎日を楽しんでいる。
言わずとも繋がる絆がそこにはあるんじゃないかと僕は思っていた。
だから、僕は三郎に問いかける。
「そんなこと言うけど、ほんとは楽しかったんだろ?」
三郎からの返事はない。
それを僕は肯定だと受け取ることにした。
しばらくして、三郎がポツリと独り言でもいうかのように小さな声で呟いた。
「雷蔵は」
本当に小さな声だから、僕は耳をすませてじっとしていた。どこからか聞こえるカエルの鳴き声よりもうんと小さな声で三郎は言った。
「雷蔵は、今日楽しかった?」
――もちろんさ
何でもない"いつも通りの日常"だけど、そんな日常がかけがえのないものなのだ。
「そうか」
そう答える三郎の声がどこか満足気なのは、僕の勘違いではないだろう。
胸の中がほんのりあったかい気持ちになって、僕は布団を深く被って目を瞑る。そして、満たされた気持ちで呟いた。
「三郎、おやすみ」
「うん。雷蔵、おやすみ」
明日もまた平凡で何気ないけれど、愛おしい日々を過ごせますように。無意識にそんなことを考えながら、僕は眠りについた。
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