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その他

ポト…。肩に雨粒が落ちてきた気がして、綾部は一心不乱に穴を掘り続けていた手を止めた。気が付くと辺りは真っ暗になっていて、にぎやかだった学園はひっそりと静まり返っている。おそらく夜間鍛錬を行っている上級生はいるのだろうが、昼間の学園とは全く様相が違っていた。掘りかけの蛸壺は気になるし、まだまだ作業を続けたいことは山々だったが、天候がそれを許してくれそうではなかった。ついさっきまでは気が付かないほどしか降っていなかった雨が、こうして考えている間に量を増している。このままではずぶ濡れになってしまう。

(それに…)

と綾部は自らの腹に手を当てる。夢中になっていて気づいていなかったが、ずいぶん長時間掘り続けていたのだろう。ひどく腹が減っていた。ひとまず、何か食べたい。

(ごはん、まだあるかな)

今が何時か全く見当がつかない。とりあえず行ってみようか、と綾部はゆっくりと穴から出ると、食堂に向かって歩み始めた。



その日、久々知兵助はいつものように(といえば語弊があるかもしれないが…)趣味の豆腐作りをしていた。ここの所、次の日が休日となれば恒例行事のように豆腐作りや豆腐料理に精を出している。最初は面白がって見物していた友人たちは、今は余程のことがない限り寄り付かなくなっていた。最も、誘えばいつでも付き合ってくれるのだろうが。
食堂のおばちゃんも慣れたもので、今では毎週この日の戸締りや後片付けは兵助の仕事になっていた。いつも通り完成した豆腐を見届け、調理し、試食をして終えるはずだったこの日課だったが、今日は何か違う気配を感じていた。扉の外に誰かいるのだ。悪意や殺気は感じないので、敵ではないだろう。そもそも、学園に誰かが忍び込んで来れば日夜鍛錬を欠かさない先輩たちによって既に発見されているはずだ。では、一体誰だろうか。5年生の級友だろうか。思い当たる顔を一人一人浮かべるが、しっくりこない。そもそも彼らならば遠慮することなく扉を開けて入ってくるはずだ。しかも、気配を消し切れていないことから下級生であることは確かだろうと予測する。



「そこに誰かいるのかい?」



怖がらせないように、なるべく優しく問いかける。すると、扉の向こうの気配が震えるのを感じた。



「何か用事があるなら、入ってきたら?」



カタン、と音を立て扉が開いた。そして、入ってきた人物を見て兵助は驚いた。そこには、四年生の綾部喜八郎がずぶ濡れな上、泥まみれで立っていたのだから。



「君、四年の綾部だよね。こんな時間にどうしたんだ?」



すぐ傍にあった手拭いを慌てて渡す。



「蛸壺、掘ってました」
「蛸壺…?」
「たこたこ一号です」
「たこたこ??」
「たこたこ一号」



四年生の綾部喜八郎は美人で天才的なトラパーだが、変わり者でマイペース。不思議ちゃんで掴めない。兵助の脳裏に風の噂で聞いた情報がよぎる。綾部は無表情ともいえる表情で食堂を見渡している。



「それで、たこたこ一号を掘っていたのはわかったけど、どうしてそんなにずぶ濡れなのかな」
「……降ってきたので」
「降ってきた?」
「雨です。急に」
「ああ、そっか」



豆腐に夢中で気づいていなかったが、確かに外は雨が降っていた。シトシトと雨が降り続ける音がするし、心なしか食堂にも湿気が漂っている気がする。

ぐーーーーー

と、その時。綾部の腹の虫の音が食堂に響き渡った。



「おなか、すきました」



ぽつん、と一言だけ綾部がつぶやく。その一言で、兵助はようやく状況を飲み込んだ。



「もしかして、放課後からずっと掘ってたのかい?夕食も食べず?」



うなづいたのがわかった。相変わらず表情が読めない。



「食堂、もう終わってたんですね。すみませんでした」



そして、何でもないかのようにのんびりと告げるとスタスタと出口に向かっていく。



「ちょっと待って!」



思わず、兵助は呼び止めた。ゆっくりと紫色の髪をなびかせながら綾部は振り返る。



「よかったら、豆腐食べる?」



初めて、彼の表情が動いた気がした。





[newpage]


それから。とりあえず風邪をひいてはいけないからと綾部に風呂に入るように促した。そして、今兵助は湯豆腐を作りながら先ほどまでの出来事を思い出していた。綾部は、本人は知っているかはさておき学園では有名だった。マイペースで不思議な子。作法委員長のお気に入り。良い噂から悪い噂まで幅広く聞こえてくる。しかし、兵助が彼に会うのは初めてのことだった。



(…綺麗だったな)



ふと、そんなことを考える。ずぶ濡れな上に泥だらけだったが、彼は確かに噂通りに美人だった。いや、噂で聞いていた以上だった気がする。(これは兵助の主観だが)
と、そこまで考えて兵助は一人首を振る。



(いやいや、そうじゃなくて)



いくら穴掘りが好きでも、限度がある。彼はいつもこんな生活をしているのだろうか。だとしたら、夕食を食いっぱぐれることも度々あるのではないだろうか。そんなことを繰り返していれば、今後厳しくなってくる授業に耐えられないのではないか。先輩としてきちんと指導しなければ。そう心に誓う。

そうこうしている間に湯豆腐は完成した。なかなか満足のいく出来だ。味見をして、綾部を待つ。まだ彼は戻ってこない。本当に戻ってくるのか不安になってくるが、それは杞憂だったとすぐに明らかになった。扉が開き、綾部が戻ってきたのだ。



「うん。ちゃんと入ってきたみたいだね」
「先輩に言われたので…」



久々知の方をチラリと一瞥した後、綾部はスンスンと部屋の中に漂う香りをかぎながら辺りを見渡し始めた。どうやら、彼は自分のことよりも湯豆腐が気になっているらしい。



「お腹すきました」

思わず、くすっと笑ってしまう。



「先輩、何か面白いことありました?」
「いや、何でもないよ。湯豆腐作ったから、食べて。あったまると思うよ」



そういって綾部を椅子へと座らせ、湯豆腐をふるまった。



「では、頂きます」



遠慮なく箸を手にすると、綾部は豆腐を口に運んだ。



「どうかな?それ、俺が作ったんだけど」
「すごく、おいしいです」



そういって、綾部は一瞬柔らかく微笑んだ。一瞬、自分の目を疑った。綾部が笑っている。それは一瞬のことで、今は相変わらずの表情で豆腐を口に運び続けている。見ていて気持ちがよい食いっぷりだ。でも、確かに笑っていたのだ。ふんわりと、優しく。



「綾部も、笑うんだ」
「……?おかしいですか?」
「いや、そうじゃないよ」
「……??」
「気にしないで、食べて。おかわりもあるから」
「では、遠慮なく」



ガツガツと彼は食べ続けている。そんな様子を、兵助はただ見守っていた。


しばらくして、満足したのか綾部はご馳走様でしたというと箸をおいた。そして、兵助の方を振り返る。



「先輩、お豆腐作るの上手なんですね」
「あ…ありがとう」
「とてもおいしかったです」



そういって再び笑った。トクン、と胸が高鳴るのを感じる。少し、身体が熱い。



「あのさ、よかったらもうちょっと食べる?冷ややっこならすぐに食べられるんだ」



思わず、そういって綾部に背を向ける。なぜか、照れ臭くて彼の方を向けなかった。



「いいんですか?」
「もちろん!」



それから、二人はたわいのない話を繰り返した。いつも穴を掘っているのか。普段は何をしているのか(ちなみに綾部は普段も穴掘りをしているらしい)質問を投げかける大半は兵助の方だったが、そんなことは気にならないくらい楽しい時間だった。

と、その時。スパーン!!と音を立てて食堂の扉が開いた。驚き、そちらを見ると、そこには平滝夜叉丸がいた。



「喜八郎!こんな時間までどこにいるのかと思ったら!」



滝夜叉丸はズンズンと歩いてくると綾部に詰め寄る。



「探したんだぞ!毎日毎日夕食の時間には戻れといっているのに……」



グダグダ……滝夜叉丸の説教が延々と続き、綾部はそれをぽかんとした表情でいや、すこしウンザリした表情で聞いている。



「うん。今度から気を付ける」
「お前はそうやっていつも…!」
「次は大丈夫」
「本当だな!」
「うん」



そして満足したのか。彼は少し落ち着きを取り戻して周囲を見渡した。



「で、お前は深夜の食堂で何を……!?って久々知先輩!?」



あ、今まで気づいていなかったんだと思ったものの、兵助はやあ、こんばんはと挨拶をした。



「喜八郎!まさか先輩にご迷惑をおかけしたのではないだろうな!」
「先輩に豆腐料理作ってもらった」
「なんと…!久々知先輩、ご迷惑をおかけしてしまい……」
「いや、気にしないで。俺も豆腐料理食べてもらいたかったし」
「しかし!」
「本当に大丈夫だから」



滝夜叉丸はやや不服そうだが、しぶしぶと納得したらしい。今度は綾部に向き直る。



「喜八郎。お前、先輩にお礼はしたのか?」
「したよ」
「本当だな?」
「もー、本当だって」



綾部がくるりと振り返った。



「先輩、ありがとうございました」



それを見て、滝夜叉丸は満足したようだ。



「よし、帰るぞ。」



そういって綾部の手を引くと、一礼して去っていく。その姿を見送りながら、兵助は思わず一言声をかけていた。



「あのさ、よかったらまた食べに来て!」



驚いたような表情で二人が振り返る。自分でもなぜこんなことを言ったんだろうと戸惑っていた。



「いや、無理ならいいんだ。綾部さえ良ければ」
「……また、食べたいです」



一言、確かにそう綾部は言った。それを聞いて、また胸が高鳴るのを感じた。



(あれ…俺どうして)



滝夜叉丸がまた一礼をして綾部を連れて帰ろうとしているのが見える。その姿を高揚する気分で見送りながら、もう一度振り返ってくれないかな、などと考えていると、綾部がまた振り返った。そして一言。



「そういえば、先輩のお名前何でしたっけ?」
「……えっ?」



滝夜叉丸が怒鳴る声が食堂に響き渡る。このやり取りを聞くのは何度目だろうか。兵助は脱力し、苦笑いを浮かべながらなんとか告げる。



「5年い組の久々知兵助だよ」




………と。


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