ヴィルケイss
どんな瞬間も最高に美しくあるべきだとか考えて、美しくなければ意味がないとも思ってるのかもしれないけど、オレにとってヴィルくんはどんな時でもただひたすらに美しい人だ。誰よりも綺麗。ストイックで常に上を目指してるから、当然のように日増しに人気も上がる。そのくせ本人はここがダメとか見せ方の工夫とか言って他人の評価を気にするので、その声は当然オレも拾うことになった。
「この投稿はイマイチな反応ね」
って呟いた時に見てた画像はオレの投稿の10倍以上のハートで埋め尽くされていて、無意識にキュッと喉が締まるのを感じた。
ズルイ、けどヴィルくんが普段から努力してるのを知ってるから何も言えない。
輝かしい場所で活躍してるヴィルくんと、インフルエンサーになりきれてない曖昧なオレ。はりぼてみたいな紛い物。
でもオレだって市場リサーチはしてるし、ニーズは理解してるつもりだし、やれることはやってる。だからフォロワーは段々増えてるんだけど……。
言い訳して自分を慰めて、それを繰り返して虚しくなったからオレは逃げた。卒業して一緒に住もうと提案してくれた恋人から渡された鍵を、たった今、海に投げ捨てたところ。今日は同棲初日のはずだった。
ばいばい、ヴィルくん。お元気で。
いつまでも綺麗な君でいられることを今はただ願うよ。
「GPSの信号が途絶えたわ」
ひと気の少ない街角のカフェで、顔を突き合わせている金髪の美少年達の長髪の方の男が、自身のスマホをまじまじと見つめながら言葉を放った。それを受けて向かいに腰掛けていたボブの少年が口につけていたティーカップをソーサーに戻してふむと辺りを見渡す。どうやらこの話に聞き耳を立てている者が居ないかの確認をしているらしい。しかしここは丸いテーブル席が5台あるだけの小さな店だ。オーガニックを感じさせるハーブが飾られていたり、清潔感のあるテーブルクロスが引かれているのだが、華やかさには欠ける古い店である。客は古びた店内に不釣り合いな煌びやかな少年達と、窓際で居眠りしている老夫だけ。幸い店主もキッチンに籠もってケーキを焼いている為、聞き耳を立てているだろう者は一人も居ない。しかし用心するに越したことはない。何故ならここに存在するのはかなりの有名人である。金髪ボブの方の少年、ルークは向かいに座る美しい少年ヴィルにだけ聞こえるように小さな声でそっと囁いた。
「GPSって、ケイトくんに渡したっていうアレかい?」
「そう。アタシの家の合鍵に仕込んだやつ」
「ヴィル、私は時々君が恐ろしいよ」
「ふん……あっ、信号が復活したわ。何これ?」
「海、だね。紛れもなく海を指してる……まさか!?」
ヴィルのスマホに表示されていたのは地図だった。GPSの信号をキャッチしていることを示す小さな赤い点がちかちかと点滅している。
「落としたと信じたいわ。問題ない。スマホにも追跡用のアプリが入っているから……」
「抜かりがないね」
かつての自分の所属寮の寮長がどのような人物なのか忘れたわけもない卒業後わずか二日目の出来事である。在学中から目にしてきた執着をまたしても目の当たりにして溜息をつく。ルークは再び紅茶を飲み行く末を見守っていたが、刹那、ヴィルが手からスマホを落とした。テーブルに乗ったハーブティーのソーサーに当たってがちゃんと大きな音を立てる。衝撃で倒れたカップの中身はテーブルクロスに大きな染みを作ったし、老夫は目を覚まして辺りをきょろきょろ見回した。大惨事のテーブルの上など見てもいないヴィルの顔面はみるみるうちに青くなっていく。血の気の引いた顔に非常事態を読み取ったルークはヴィルのスマホを持ち上げた。水滴の散った画面の中は先ほど彼が覗いた画面と何ら変わらない小さな点の映し出された地図だったが、左上に表示されていたのはこの端末がここにあるという意味を示す文字列で明らかに鍵に仕込まれたGPSのことではない。ケイトのスマホは鍵と同じく海に沈んでいることを示していた。
ケイトは嘆いていた。嘆いていない日もあった。
ただひたすらに愛しさに顔を綻ばせ、ヴィルの心が健やかであれば良いと願っていた。もう二度と黒く陰鬱な影にのまれないように、彼の美しさを保てれば良いと望んでいた。
その結果、ケイトは気付けば心が黒く塗りつぶされていくような心地の中で生きていた。前向きに考えて、自分が輝ける方法を模索して、良い結果が得られたと感じても眩い光の直ぐ側にいる限り、自分の背の先には一番色濃い影が伸びるのだと悟った。
好きだけど、好きなだけでは心を保てない。フォロワーの伸び悩んだマジカメのアプリを開いたまま、ケイトは自身のスマホを海へと投げた。
やっぱり取りに行く!なんてことも出来ない高さ5階建てのビルに相当する断崖絶壁。眼下で波打つ潮に消えた、ヴィルに貰った合鍵とスマホを見つめていたケイトは、前髪をかき上げて回れ右をする。髪も結ってない。メイクもしていない。服は白いシャツとジーンズにスニーカー。在学中とは打って変わった簡素な装いに真顔のケイトはズボンのポケットからスマホを取り出した。契約したばかりの新しいSIMの番号が表示されたことを確認して、彼は電話を掛ける。海の藻屑となったスマホはじきに通信データもデータフォルダの中身も消えるだろう。大自然にこんなことをして申し訳ない気持ちもあれど、ケイトの意思は固かった。単純に逃げても束縛の強い彼に追われるとわかっている。簡単には追えないようにあえてこの方法を取ったのだ。
ケイトは電話のコールを続けながら側に停めていた車に乗りこみエンジンをかける。4WDの車内で背もたれに体を預け、シートベルトを引き、カチッと止めたところで電話の相手が通話に応えた。
「あっ、もしもし久しぶり」
「……、久しぶり?何言ってるのさ」
「ははは、一昨日ぶり」
気の抜けた相手方の声にケイトは大口を開けて笑った。この日初めての笑顔だ。
「どういうことなの?拙者に電話かけてきたりして。知らない番号は普通は出ないんだけど」
「逆探知とか、こっちが不利になりそうな準備までしてわざわざ出てくれてありがとね」
電話をかけた先は同学年だったイデアだ。実家に戻りステュークスの深層部で研究を始めたばかりの彼の番号は無理やり聞き出しておいて正解だったと、ケイトはほくそ笑む。
「バレてましたか。それで?一体何の用なの?」
「手伝ってほしいんだよね。ヴィルくんの知らない場所で、彼のように輝くために」
「ヴィル氏から離れるのに拙者の手を借りたいってこと?」
「そうだね、オレの痕跡を消してほしい。前の番号は解約してきたけど、この番号を契約する為には本名が必要だった。当然免許証も登録されてる。それが見つからないようにしてほしい」
「何?喧嘩したの?ヴィル氏相当楽しみにしてましたぞ。ルンルンでケイト氏との同棲報告してきたし」
「そうじゃない。オレが悪いの。オレが弱いの」
「詮索するなってことね。見返りは?」
「実家にがけものノベライズ初版があったんだけど……」
「乗りましょう。この番号だけでいいの?」
「うん。大丈夫。オレが見えなくなるように、できるだけ長く」
「……お元気で」
か細くなるケイトの声に、イデアは絞り出すように彼の心身を憂いて声を掛けた。今にも消えてなくなりそうな儚さはイデアは感じたことがなく、面食らっていたし同時に残された彼の恋人が心配だった。秘匿と逃げたい意思を感じさせるぶつりと途切れた通話を皮切りに、イデアは手元のキーボードを叩き出す。ケイトがいた場所は記憶になる。確かに同じ高校に通っていたし、在学証明もある。しかしその後の行方は誰も知らない。イデアでさえも、最初に電話をして以降は関わることはなくなる。
この日ケイト・ダイヤモンドは、消えた。
オレンジ色のウェーブヘアの後ろ姿を見かける度に歓喜しては落胆を繰り返し、すっかり疲弊してしまったわ。何年同じことをして来たのかしら。あの子の名前を呼んで、振り向いた別人の顔に、また違ったのねと心を殺されることが怖くて名前を発するのをやめた。
だって凄く凄く苦しいのよ。どうして居なくなってしまったの?
アタシの側はアンタにとって居心地が悪かった?
何でもしてあげるつもりだったし、してあげる覚悟も出来ていた。
それなのに、部屋に残されたものは何もない。
当然よね。ケイトが引っ越して来る前だった。チェストの上に乗った写真立てには、滅多に撮らなかったツーショット。卒業式に撮ったものだ。アタシの中のケイトの記憶はそこで終わっている。
この部屋の合鍵を渡した時に微笑んだアンタのまま、いつまでも心惹かれて忘れられはしない。写真の前に飾ってあるリングケースに二人分の指輪を収めていたのに、ケイトはこれを見たこともない。アタシも、もう随分長いこと中身を見ていないわ。捨てたいのに捨てられなくて、なのに見ていたら泣いてしまいそうだもの。
視線を外して玄関に向かい、靴を履いていつも通りの「いってきます」。返ってくるはずもない声を今日もまた待ってるのよ。
ヴィルが卒業して6年の時が経とうとしていた。季節は晩夏、長袖を着る人が街に増え始めているころだ。
ヴィルは今日は雑誌の撮影の仕事が入っていた。世界的なモード雑誌の表紙を飾るための写真だというのに、撮影スタッフに違和感を覚える。いつもとメンツが違うのだ。正確にはヴィルが殆ど知らない顔ぶれというのが正しい。撮影現場において、スタジオが同じでもスタッフが常に同じなわけはないのだが、幼少期から芸能界に身を置いていたヴィルにとって顔馴染みが少ないことが不思議だった。彼はたまたま側を通り過ぎたアシスタントの男の腕をつかむ。いつぞやかに有名な監督の映画の撮影現場に居た男の顔を覚えていたのだ。
「ねぇ、アナタ、久しぶりよね」
「え!?覚えてくださってるんですか!?」
「ごめんなさい、名前はわからないけれど映画の撮影の時にご一緒したわよね?」
「はい!アシスタントのエディって言います!覚えて頂いてとても光栄です。あの時のヴィルさんはとても素敵で……」
「ねぇ!今日のスタッフ、毛色が違わないかしら?」
「あっ、そうですね。よくお気づきで。メインカメラが他国のスタッフで、その方がお連れしてるスタッフなんですよ」
「他国の?」
輝石の国の雑誌の表紙にわざわざ他国のカメラマンを入れるなど、この雑誌においては彼はあまり聞いたことがなかった。長年発行されてきた歴史ある雑誌にアニーバーサリーでもない時期に投入するなど、お硬い編集長がよく許したものだ。テコ入れか何なのか。時代の変化か。まさか売れ行きが悪くてカメラマンを変えてみる実験体として自らが選ばれたのではと少しご立腹の様子を見せる。
「何故わざわざ他国のカメラマンを?」
「今までも何度か他国のカメラマンを起用してはいるみたいですが、今回の方は前年のワールドコンペで優勝してるからですね」
「ワールド……凄腕じゃない」
「そうなんです!しかもその方、ヴィルさんと同年代で、若くてかっこいいのに才能もあって!」
「ファンなのね」
「はい!!金髪の方ばかり撮ってるんですよね。お好きなのかなぁ?」
「何処の出身なの?」
「確か嘆きの島かと。ディアって活動名をされてます」
「ディア……」
ヴィルはかつての学び舎の学園長の顔を思い起こしていた。いや、素顔は見たことなどないが胡散臭い笑い声まで聞こえてくるようで頭をブンブン振って残像をかき消す。
「ディアマンディ、がフルネームです。テトラ・ディアマンディ 」
その響きを耳にした時、ヴィルは懐かしい気持ちとなった。かつて触れた愛しい熱が蘇ったようで目頭が熱くなる。
その時、出入り口に挨拶をしながら入ってくるキャップを被った男が目に入った。髪をひとまとめにして目深に被った帽子のつばにより顔は見えないが、その背格好に見覚えがあった。6年の月日で少しガッチリと筋肉が増えたように思えたが、あの日の記憶のままの八重歯を見せて、顔を上げた彼が笑んだ。
「……ケイト」
ヴィルは立っているのがやっとだった。駆け寄ることも手を伸ばすことも出来ずにただじっとケイトを見つめていた。まさしく本物のケイトだった。ヴィルが焦がれ夢にまで見た愛しい人が最後に見た日と同じく笑みをこぼす。愛しくて仕方なくて、何度も抱き締めたいと思っていたはずなのに足が一歩も動かない。
その間、少し、また少しとケイトはヴィルに近付いていく。逃げた分際で今更どの面下げて自分の前に現れるんだと、殴られる覚悟がケイトにはあった。もうとっくにヴィルに愛想を尽かされて恋人などという地位に居ないと判断して、初めましての体で握手をしようと右手を差し出した。
「テトラ・ディアマンディです。ヴィルさん、今日はよろしくお願いします!」
ヴィルは言いたいことがたくさんあった。
何故何も言わずにいなくなったの。どうして何の連絡も寄越してくれなかったの。どうして今更アタシの前に姿を見せるの。
頭の中でたくさん文章を羅列して、やっとの思いで声を絞り出す。
「ケイト……好きよ」
「……!」
「抱き締めても良いかしら」
「……」
「もし、アナタがアタシと同じ気持ちなら、アタシのもとに帰ってきて」
そう言ってヴィルは両腕を広げた。瞼を閉じてゆっくりと息を吸う。自分はとっくに捨てられているのかもしれない。ヴィルだけが過去の幻影に囚われてケイトの面影を追って熱を求めているのかもしれない。けれどそれを知っても尚、ヴィルはケイトを愛したことを忘れないだろうし、愛して良かったと、この先も永く思い続けるのだろう。
数十秒経った頃、ケイトは一歩踏み出した。
「ヴィルくん……ごめんね」
そう呟いて彼はヴィルの胸に顔を埋めて背に腕を回した。きつく抱きついてぼろぼろと涙を零す。
「ごめんね、ごめんね……」
「アタシのこと、まだ好き?」
「うん、大好きだよ」
「それなら良いわ。きっとアタシも悪かったもの」
お互いを抱き込んで額や頬をぐりぐりと擦って愛を表現する。抱きしめたままの至近距離で顔を見合わせ優しく微笑んで唇を寄せた時に、隣に立っていたエディが「ひえっ」と声を上げた。
「あっ、やだわ……つい」
「ごめんなさい!撮影だ!!ヴィルさん化粧直し行ってきてください!」
「ケイトがその呼び方するのヤダわ」
「ヤダって……」
「イヤ」
「我慢し…」
「いやっ!」
急に自宅で甘える恋人同士の空気感になった現場は苦笑と見守りの温かな笑顔で溢れていた。こんな場所で大っぴらに元恋人とよりを戻したような場面に出くわした芸能界の人間が、ヴィルのスクープを世に出さないわけがない。それを分かっていないはずなどないのに、お構い無しにべたりと体を寄せている。
「あの、ヴィルさんとディアさんは元恋人、なんですか?」
「ずっと恋人よ。別れた記憶がないもの」
「そう……なんだけど、あはは」
「これ世に出していい情報なんですか?」
「良いのよね?だからケイトはアタシを抱き締めてくれたんでしょう?」
「うん。ヴィルくんを独り占めしたくなった。ワールドコンペで結果出したし、これからはヴィルくんと対等な恋人になれる」
「対等……もしかして、それを気にして離れていったの?」
「そう。マジカメのフォロワーは100万人を突破したし、雑誌との契約も取れてるし、事務所も軌道に乗ってますし、エディの給料も来月からアップしますなぁ」
「ホントですか!?」
「えっ……!?アナタ、ケイトと仕事仲間なの!?」
けろっとしている二人に、ヴィルは怪訝な顔をした。エディは以前もヴィルと仕事を共にしている。もしかしてケイトはずっと自分の近くに居てこのタイミングを虎視眈々と狙っていたのではないかと考えると頭痛がした。
そうだとしたら、きっと一生勝てないし、一生振り回されるのかもしれないと少し複雑な心境のヴィルに、ケイトは耳打ちする。
「今日は一緒に帰ろうね」
初めてケイトが訪れる我が家の光景を想像して、ヴィルは泣きそうな顔で少し笑った。ケイトの好きそうな可愛らしい家具や雑貨に溢れた家を見て、彼が何と発するか想像ばかりしていた過去の自分が報われる気がしている。
「えぇ。また合鍵をあげるわね。今度は捨てないでちょうだいよ」
「もう二度と捨てないよ。ヴィルくんも、捨ててあげないんだからね」
カメラをセッティングしていたアシスタントに近寄りケイトは機材の設定をいじり始めた。真顔で仕事モードに切り替わったケイトは「ヴィルくん、化粧直してきて!早く!」などと一流俳優兼スーパーモデルを急かしている。ご機嫌取りや気を遣われることに辟易してしまっていたヴィルは、離れ難い気持ちを抑え、新鮮な空気感の撮影現場の隅でメイクアップアーティストの持つパフが肌を滑っていくのを感じた。
一つに結ったケイトのちょこんと短いオレンジの髪を眺め、
「早く帰りたいわ」
などと珍かなことを呟きながら。
「この投稿はイマイチな反応ね」
って呟いた時に見てた画像はオレの投稿の10倍以上のハートで埋め尽くされていて、無意識にキュッと喉が締まるのを感じた。
ズルイ、けどヴィルくんが普段から努力してるのを知ってるから何も言えない。
輝かしい場所で活躍してるヴィルくんと、インフルエンサーになりきれてない曖昧なオレ。はりぼてみたいな紛い物。
でもオレだって市場リサーチはしてるし、ニーズは理解してるつもりだし、やれることはやってる。だからフォロワーは段々増えてるんだけど……。
言い訳して自分を慰めて、それを繰り返して虚しくなったからオレは逃げた。卒業して一緒に住もうと提案してくれた恋人から渡された鍵を、たった今、海に投げ捨てたところ。今日は同棲初日のはずだった。
ばいばい、ヴィルくん。お元気で。
いつまでも綺麗な君でいられることを今はただ願うよ。
「GPSの信号が途絶えたわ」
ひと気の少ない街角のカフェで、顔を突き合わせている金髪の美少年達の長髪の方の男が、自身のスマホをまじまじと見つめながら言葉を放った。それを受けて向かいに腰掛けていたボブの少年が口につけていたティーカップをソーサーに戻してふむと辺りを見渡す。どうやらこの話に聞き耳を立てている者が居ないかの確認をしているらしい。しかしここは丸いテーブル席が5台あるだけの小さな店だ。オーガニックを感じさせるハーブが飾られていたり、清潔感のあるテーブルクロスが引かれているのだが、華やかさには欠ける古い店である。客は古びた店内に不釣り合いな煌びやかな少年達と、窓際で居眠りしている老夫だけ。幸い店主もキッチンに籠もってケーキを焼いている為、聞き耳を立てているだろう者は一人も居ない。しかし用心するに越したことはない。何故ならここに存在するのはかなりの有名人である。金髪ボブの方の少年、ルークは向かいに座る美しい少年ヴィルにだけ聞こえるように小さな声でそっと囁いた。
「GPSって、ケイトくんに渡したっていうアレかい?」
「そう。アタシの家の合鍵に仕込んだやつ」
「ヴィル、私は時々君が恐ろしいよ」
「ふん……あっ、信号が復活したわ。何これ?」
「海、だね。紛れもなく海を指してる……まさか!?」
ヴィルのスマホに表示されていたのは地図だった。GPSの信号をキャッチしていることを示す小さな赤い点がちかちかと点滅している。
「落としたと信じたいわ。問題ない。スマホにも追跡用のアプリが入っているから……」
「抜かりがないね」
かつての自分の所属寮の寮長がどのような人物なのか忘れたわけもない卒業後わずか二日目の出来事である。在学中から目にしてきた執着をまたしても目の当たりにして溜息をつく。ルークは再び紅茶を飲み行く末を見守っていたが、刹那、ヴィルが手からスマホを落とした。テーブルに乗ったハーブティーのソーサーに当たってがちゃんと大きな音を立てる。衝撃で倒れたカップの中身はテーブルクロスに大きな染みを作ったし、老夫は目を覚まして辺りをきょろきょろ見回した。大惨事のテーブルの上など見てもいないヴィルの顔面はみるみるうちに青くなっていく。血の気の引いた顔に非常事態を読み取ったルークはヴィルのスマホを持ち上げた。水滴の散った画面の中は先ほど彼が覗いた画面と何ら変わらない小さな点の映し出された地図だったが、左上に表示されていたのはこの端末がここにあるという意味を示す文字列で明らかに鍵に仕込まれたGPSのことではない。ケイトのスマホは鍵と同じく海に沈んでいることを示していた。
ケイトは嘆いていた。嘆いていない日もあった。
ただひたすらに愛しさに顔を綻ばせ、ヴィルの心が健やかであれば良いと願っていた。もう二度と黒く陰鬱な影にのまれないように、彼の美しさを保てれば良いと望んでいた。
その結果、ケイトは気付けば心が黒く塗りつぶされていくような心地の中で生きていた。前向きに考えて、自分が輝ける方法を模索して、良い結果が得られたと感じても眩い光の直ぐ側にいる限り、自分の背の先には一番色濃い影が伸びるのだと悟った。
好きだけど、好きなだけでは心を保てない。フォロワーの伸び悩んだマジカメのアプリを開いたまま、ケイトは自身のスマホを海へと投げた。
やっぱり取りに行く!なんてことも出来ない高さ5階建てのビルに相当する断崖絶壁。眼下で波打つ潮に消えた、ヴィルに貰った合鍵とスマホを見つめていたケイトは、前髪をかき上げて回れ右をする。髪も結ってない。メイクもしていない。服は白いシャツとジーンズにスニーカー。在学中とは打って変わった簡素な装いに真顔のケイトはズボンのポケットからスマホを取り出した。契約したばかりの新しいSIMの番号が表示されたことを確認して、彼は電話を掛ける。海の藻屑となったスマホはじきに通信データもデータフォルダの中身も消えるだろう。大自然にこんなことをして申し訳ない気持ちもあれど、ケイトの意思は固かった。単純に逃げても束縛の強い彼に追われるとわかっている。簡単には追えないようにあえてこの方法を取ったのだ。
ケイトは電話のコールを続けながら側に停めていた車に乗りこみエンジンをかける。4WDの車内で背もたれに体を預け、シートベルトを引き、カチッと止めたところで電話の相手が通話に応えた。
「あっ、もしもし久しぶり」
「……、久しぶり?何言ってるのさ」
「ははは、一昨日ぶり」
気の抜けた相手方の声にケイトは大口を開けて笑った。この日初めての笑顔だ。
「どういうことなの?拙者に電話かけてきたりして。知らない番号は普通は出ないんだけど」
「逆探知とか、こっちが不利になりそうな準備までしてわざわざ出てくれてありがとね」
電話をかけた先は同学年だったイデアだ。実家に戻りステュークスの深層部で研究を始めたばかりの彼の番号は無理やり聞き出しておいて正解だったと、ケイトはほくそ笑む。
「バレてましたか。それで?一体何の用なの?」
「手伝ってほしいんだよね。ヴィルくんの知らない場所で、彼のように輝くために」
「ヴィル氏から離れるのに拙者の手を借りたいってこと?」
「そうだね、オレの痕跡を消してほしい。前の番号は解約してきたけど、この番号を契約する為には本名が必要だった。当然免許証も登録されてる。それが見つからないようにしてほしい」
「何?喧嘩したの?ヴィル氏相当楽しみにしてましたぞ。ルンルンでケイト氏との同棲報告してきたし」
「そうじゃない。オレが悪いの。オレが弱いの」
「詮索するなってことね。見返りは?」
「実家にがけものノベライズ初版があったんだけど……」
「乗りましょう。この番号だけでいいの?」
「うん。大丈夫。オレが見えなくなるように、できるだけ長く」
「……お元気で」
か細くなるケイトの声に、イデアは絞り出すように彼の心身を憂いて声を掛けた。今にも消えてなくなりそうな儚さはイデアは感じたことがなく、面食らっていたし同時に残された彼の恋人が心配だった。秘匿と逃げたい意思を感じさせるぶつりと途切れた通話を皮切りに、イデアは手元のキーボードを叩き出す。ケイトがいた場所は記憶になる。確かに同じ高校に通っていたし、在学証明もある。しかしその後の行方は誰も知らない。イデアでさえも、最初に電話をして以降は関わることはなくなる。
この日ケイト・ダイヤモンドは、消えた。
オレンジ色のウェーブヘアの後ろ姿を見かける度に歓喜しては落胆を繰り返し、すっかり疲弊してしまったわ。何年同じことをして来たのかしら。あの子の名前を呼んで、振り向いた別人の顔に、また違ったのねと心を殺されることが怖くて名前を発するのをやめた。
だって凄く凄く苦しいのよ。どうして居なくなってしまったの?
アタシの側はアンタにとって居心地が悪かった?
何でもしてあげるつもりだったし、してあげる覚悟も出来ていた。
それなのに、部屋に残されたものは何もない。
当然よね。ケイトが引っ越して来る前だった。チェストの上に乗った写真立てには、滅多に撮らなかったツーショット。卒業式に撮ったものだ。アタシの中のケイトの記憶はそこで終わっている。
この部屋の合鍵を渡した時に微笑んだアンタのまま、いつまでも心惹かれて忘れられはしない。写真の前に飾ってあるリングケースに二人分の指輪を収めていたのに、ケイトはこれを見たこともない。アタシも、もう随分長いこと中身を見ていないわ。捨てたいのに捨てられなくて、なのに見ていたら泣いてしまいそうだもの。
視線を外して玄関に向かい、靴を履いていつも通りの「いってきます」。返ってくるはずもない声を今日もまた待ってるのよ。
ヴィルが卒業して6年の時が経とうとしていた。季節は晩夏、長袖を着る人が街に増え始めているころだ。
ヴィルは今日は雑誌の撮影の仕事が入っていた。世界的なモード雑誌の表紙を飾るための写真だというのに、撮影スタッフに違和感を覚える。いつもとメンツが違うのだ。正確にはヴィルが殆ど知らない顔ぶれというのが正しい。撮影現場において、スタジオが同じでもスタッフが常に同じなわけはないのだが、幼少期から芸能界に身を置いていたヴィルにとって顔馴染みが少ないことが不思議だった。彼はたまたま側を通り過ぎたアシスタントの男の腕をつかむ。いつぞやかに有名な監督の映画の撮影現場に居た男の顔を覚えていたのだ。
「ねぇ、アナタ、久しぶりよね」
「え!?覚えてくださってるんですか!?」
「ごめんなさい、名前はわからないけれど映画の撮影の時にご一緒したわよね?」
「はい!アシスタントのエディって言います!覚えて頂いてとても光栄です。あの時のヴィルさんはとても素敵で……」
「ねぇ!今日のスタッフ、毛色が違わないかしら?」
「あっ、そうですね。よくお気づきで。メインカメラが他国のスタッフで、その方がお連れしてるスタッフなんですよ」
「他国の?」
輝石の国の雑誌の表紙にわざわざ他国のカメラマンを入れるなど、この雑誌においては彼はあまり聞いたことがなかった。長年発行されてきた歴史ある雑誌にアニーバーサリーでもない時期に投入するなど、お硬い編集長がよく許したものだ。テコ入れか何なのか。時代の変化か。まさか売れ行きが悪くてカメラマンを変えてみる実験体として自らが選ばれたのではと少しご立腹の様子を見せる。
「何故わざわざ他国のカメラマンを?」
「今までも何度か他国のカメラマンを起用してはいるみたいですが、今回の方は前年のワールドコンペで優勝してるからですね」
「ワールド……凄腕じゃない」
「そうなんです!しかもその方、ヴィルさんと同年代で、若くてかっこいいのに才能もあって!」
「ファンなのね」
「はい!!金髪の方ばかり撮ってるんですよね。お好きなのかなぁ?」
「何処の出身なの?」
「確か嘆きの島かと。ディアって活動名をされてます」
「ディア……」
ヴィルはかつての学び舎の学園長の顔を思い起こしていた。いや、素顔は見たことなどないが胡散臭い笑い声まで聞こえてくるようで頭をブンブン振って残像をかき消す。
「ディアマンディ、がフルネームです。
その響きを耳にした時、ヴィルは懐かしい気持ちとなった。かつて触れた愛しい熱が蘇ったようで目頭が熱くなる。
その時、出入り口に挨拶をしながら入ってくるキャップを被った男が目に入った。髪をひとまとめにして目深に被った帽子のつばにより顔は見えないが、その背格好に見覚えがあった。6年の月日で少しガッチリと筋肉が増えたように思えたが、あの日の記憶のままの八重歯を見せて、顔を上げた彼が笑んだ。
「……ケイト」
ヴィルは立っているのがやっとだった。駆け寄ることも手を伸ばすことも出来ずにただじっとケイトを見つめていた。まさしく本物のケイトだった。ヴィルが焦がれ夢にまで見た愛しい人が最後に見た日と同じく笑みをこぼす。愛しくて仕方なくて、何度も抱き締めたいと思っていたはずなのに足が一歩も動かない。
その間、少し、また少しとケイトはヴィルに近付いていく。逃げた分際で今更どの面下げて自分の前に現れるんだと、殴られる覚悟がケイトにはあった。もうとっくにヴィルに愛想を尽かされて恋人などという地位に居ないと判断して、初めましての体で握手をしようと右手を差し出した。
「テトラ・ディアマンディです。ヴィルさん、今日はよろしくお願いします!」
ヴィルは言いたいことがたくさんあった。
何故何も言わずにいなくなったの。どうして何の連絡も寄越してくれなかったの。どうして今更アタシの前に姿を見せるの。
頭の中でたくさん文章を羅列して、やっとの思いで声を絞り出す。
「ケイト……好きよ」
「……!」
「抱き締めても良いかしら」
「……」
「もし、アナタがアタシと同じ気持ちなら、アタシのもとに帰ってきて」
そう言ってヴィルは両腕を広げた。瞼を閉じてゆっくりと息を吸う。自分はとっくに捨てられているのかもしれない。ヴィルだけが過去の幻影に囚われてケイトの面影を追って熱を求めているのかもしれない。けれどそれを知っても尚、ヴィルはケイトを愛したことを忘れないだろうし、愛して良かったと、この先も永く思い続けるのだろう。
数十秒経った頃、ケイトは一歩踏み出した。
「ヴィルくん……ごめんね」
そう呟いて彼はヴィルの胸に顔を埋めて背に腕を回した。きつく抱きついてぼろぼろと涙を零す。
「ごめんね、ごめんね……」
「アタシのこと、まだ好き?」
「うん、大好きだよ」
「それなら良いわ。きっとアタシも悪かったもの」
お互いを抱き込んで額や頬をぐりぐりと擦って愛を表現する。抱きしめたままの至近距離で顔を見合わせ優しく微笑んで唇を寄せた時に、隣に立っていたエディが「ひえっ」と声を上げた。
「あっ、やだわ……つい」
「ごめんなさい!撮影だ!!ヴィルさん化粧直し行ってきてください!」
「ケイトがその呼び方するのヤダわ」
「ヤダって……」
「イヤ」
「我慢し…」
「いやっ!」
急に自宅で甘える恋人同士の空気感になった現場は苦笑と見守りの温かな笑顔で溢れていた。こんな場所で大っぴらに元恋人とよりを戻したような場面に出くわした芸能界の人間が、ヴィルのスクープを世に出さないわけがない。それを分かっていないはずなどないのに、お構い無しにべたりと体を寄せている。
「あの、ヴィルさんとディアさんは元恋人、なんですか?」
「ずっと恋人よ。別れた記憶がないもの」
「そう……なんだけど、あはは」
「これ世に出していい情報なんですか?」
「良いのよね?だからケイトはアタシを抱き締めてくれたんでしょう?」
「うん。ヴィルくんを独り占めしたくなった。ワールドコンペで結果出したし、これからはヴィルくんと対等な恋人になれる」
「対等……もしかして、それを気にして離れていったの?」
「そう。マジカメのフォロワーは100万人を突破したし、雑誌との契約も取れてるし、事務所も軌道に乗ってますし、エディの給料も来月からアップしますなぁ」
「ホントですか!?」
「えっ……!?アナタ、ケイトと仕事仲間なの!?」
けろっとしている二人に、ヴィルは怪訝な顔をした。エディは以前もヴィルと仕事を共にしている。もしかしてケイトはずっと自分の近くに居てこのタイミングを虎視眈々と狙っていたのではないかと考えると頭痛がした。
そうだとしたら、きっと一生勝てないし、一生振り回されるのかもしれないと少し複雑な心境のヴィルに、ケイトは耳打ちする。
「今日は一緒に帰ろうね」
初めてケイトが訪れる我が家の光景を想像して、ヴィルは泣きそうな顔で少し笑った。ケイトの好きそうな可愛らしい家具や雑貨に溢れた家を見て、彼が何と発するか想像ばかりしていた過去の自分が報われる気がしている。
「えぇ。また合鍵をあげるわね。今度は捨てないでちょうだいよ」
「もう二度と捨てないよ。ヴィルくんも、捨ててあげないんだからね」
カメラをセッティングしていたアシスタントに近寄りケイトは機材の設定をいじり始めた。真顔で仕事モードに切り替わったケイトは「ヴィルくん、化粧直してきて!早く!」などと一流俳優兼スーパーモデルを急かしている。ご機嫌取りや気を遣われることに辟易してしまっていたヴィルは、離れ難い気持ちを抑え、新鮮な空気感の撮影現場の隅でメイクアップアーティストの持つパフが肌を滑っていくのを感じた。
一つに結ったケイトのちょこんと短いオレンジの髪を眺め、
「早く帰りたいわ」
などと珍かなことを呟きながら。
