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【】の中は史実と異なります。
1570年‥金ヶ崎の退き口。浅井勝利。織田命からがら近江を脱出。
1570年6月‥姉川の戦い。浅井敗北。高虎多くの武功を上げる→長政より小判と太刀が贈られる。【勝頼、甲斐にて藤堂高虎の武功を耳にする】
1570年6月~9月‥織田包囲網が結ばれる。野田福島の戦い。
1570年12月‥信長が足利義昭に和睦の調停依頼。勅命和睦する。
1571年9月‥比叡山焼き討ち、比叡山壊滅。
《↓ここから物語が進んでいます》
1572年4月‥比叡山焼き討ちを聞き武田家、織田家包囲網に本腰を据える。【同盟結束の為に輿入れする事になるが浅井長政にはお市の方が正室で入っている為、武田勝頼の息女、浅井家家臣の藤堂高虎に正室として輿入れ。】
1572年7月‥信長が北近江に来襲。朝倉義景に援軍要請→一万五千の軍勢にて近江に駆けつけたが浅井・朝倉軍は織田軍に数で劣っており睨み合い。
1572年9月‥足利義昭の要請で信玄が進発。→遠江で織田徳川軍を撃破して三河に進軍(三方ヶ原の戦い)。
武田軍の進軍にて浅井・朝倉軍の役割は北近江の織田軍を岐阜に退却させない事で、数で勝る織田軍をバラバラにさせて本気で戦う事が出来ない状態を作り武田軍が織田を討つ算段だった。必ず成功させたかった。
1572年12月‥北近江に援軍に来ていた朝倉軍が疲労と積雪を理由に越前に退却→両軍睨み合いで足止めされていた織田軍がこれを好機に美濃に撤退。→退却させたくはなかったが浅井軍だけでは追撃出来なかった。→信玄が朝倉の独断撤退に激怒、再度出兵するよう手紙を朝倉義景に送ったが朝倉応じず黙殺的態度。一応信玄は朝倉の出兵を待つ為に軍を止める。
1573年2月‥とうとう朝倉出兵を待てずに信玄進軍開始。家康の野田城を攻め落とす。→直後、信玄が急死したため甲斐に退却。→信玄、自身の死を三年間伏せるように言い残す。→織田包囲網の一角であった武田家が信玄急死にて撤退した事で事実上破綻(はたん)。
1573年7月‥包囲網が弱体化した機を狙って信長が三万の軍を率いて北近江に攻め寄せる。→長政が義景に援軍要請、義景が二万の軍で駆けつけるが織田軍が北近江の城を即座に落としやむなく義景は越前に撤退を始める。→信長撤退している朝倉軍を追撃して滅亡させる(一乗谷城の戦い)。→織田軍、浅井軍に軍を向ける。
1573年8月‥小谷城が包囲される。→織田信長が浅井長政に二度使者を出し降伏するよう勧めたが拒否。→お市織田軍へ帰還。
1573年8月27日‥お市が織田陣営に帰還したのを合図に攻撃開始、長政父が自害。
1573年8月28日‥長政小谷城本丸にて自害。
?年‥高虎、浅井の旧臣阿閉貞征に仕える。→同じく旧臣磯野員昌に仕える。→後、近江を去り信長の甥、津田(織田)信澄に仕えたが冷遇され長続きしなかった。
1574年2月‥武田勝頼、東美濃の織田領に侵攻、明知城を落とす。→信長、嫡男と共に援軍を向かおうとしたが城が早く陥落したため撤退。
1574年6月‥勝頼、信玄が落とせなかった徳川領の堅城、高天神城を陥落させ東遠江をほぼ平定。
1574年9月‥勝頼、家康と対陣。浜松城下に放火。
1575年‥長篠の戦い。織田徳川軍の三段構えの鉄砲隊に武田軍大敗、命からがら甲斐に撤退。多くの旧臣を失う。
1576年‥高虎、羽柴秀長に300石で仕える。
1577年‥勝頼、同盟を結ぶため北条夫人を迎える。
1578年‥上杉謙信死去。上杉景虎(北条家からの養子)と上杉景勝(綾御前の息子で謙信の養子)が家督を争う(御館の乱)。→景勝が勝利した事により北条氏と関係悪化。
1581年‥高虎、但馬国の土豪を討ち取り3000石の所領を加増され鉄砲大将となる。→賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政を銃撃し敗走させ勝利の布石となる戦功を挙げたため1300石の加増。
1582年2月‥信玄の娘婿である木曾義昌が防御用の新城築城の負担増大に不満を持ち織田に寝返る。→信玄の娘であり木曾の正室激怒。離縁に至る。→木曾討伐の軍を出すが四方八方から織田・金森・徳川・北条が甲斐に侵攻。→尚、2月14日には武田勝頼が朝敵指名されてしまう。
1582年3月11日‥甲州征伐により天目山にて武田家自害。
1582年6月21日‥本能寺の変。明智光秀謀反、信長と嫡子信忠自害。
1585年10月以降‥高虎、紀州征伐。紀伊国粉可の地に5000石を与えられ、築城の普請奉行に任命される。
1585年‥四国攻めで功績があり一万石の大名になった。
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随時纏めていきます。
1570年‥金ヶ崎の退き口。浅井勝利。織田命からがら近江を脱出。
1570年6月‥姉川の戦い。浅井敗北。高虎多くの武功を上げる→長政より小判と太刀が贈られる。【勝頼、甲斐にて藤堂高虎の武功を耳にする】
1570年6月~9月‥織田包囲網が結ばれる。野田福島の戦い。
1570年12月‥信長が足利義昭に和睦の調停依頼。勅命和睦する。
1571年9月‥比叡山焼き討ち、比叡山壊滅。
《↓ここから物語が進んでいます》
1572年4月‥比叡山焼き討ちを聞き武田家、織田家包囲網に本腰を据える。【同盟結束の為に輿入れする事になるが浅井長政にはお市の方が正室で入っている為、武田勝頼の息女、浅井家家臣の藤堂高虎に正室として輿入れ。】
1572年7月‥信長が北近江に来襲。朝倉義景に援軍要請→一万五千の軍勢にて近江に駆けつけたが浅井・朝倉軍は織田軍に数で劣っており睨み合い。
1572年9月‥足利義昭の要請で信玄が進発。→遠江で織田徳川軍を撃破して三河に進軍(三方ヶ原の戦い)。
武田軍の進軍にて浅井・朝倉軍の役割は北近江の織田軍を岐阜に退却させない事で、数で勝る織田軍をバラバラにさせて本気で戦う事が出来ない状態を作り武田軍が織田を討つ算段だった。必ず成功させたかった。
1572年12月‥北近江に援軍に来ていた朝倉軍が疲労と積雪を理由に越前に退却→両軍睨み合いで足止めされていた織田軍がこれを好機に美濃に撤退。→退却させたくはなかったが浅井軍だけでは追撃出来なかった。→信玄が朝倉の独断撤退に激怒、再度出兵するよう手紙を朝倉義景に送ったが朝倉応じず黙殺的態度。一応信玄は朝倉の出兵を待つ為に軍を止める。
1573年2月‥とうとう朝倉出兵を待てずに信玄進軍開始。家康の野田城を攻め落とす。→直後、信玄が急死したため甲斐に退却。→信玄、自身の死を三年間伏せるように言い残す。→織田包囲網の一角であった武田家が信玄急死にて撤退した事で事実上破綻(はたん)。
1573年7月‥包囲網が弱体化した機を狙って信長が三万の軍を率いて北近江に攻め寄せる。→長政が義景に援軍要請、義景が二万の軍で駆けつけるが織田軍が北近江の城を即座に落としやむなく義景は越前に撤退を始める。→信長撤退している朝倉軍を追撃して滅亡させる(一乗谷城の戦い)。→織田軍、浅井軍に軍を向ける。
1573年8月‥小谷城が包囲される。→織田信長が浅井長政に二度使者を出し降伏するよう勧めたが拒否。→お市織田軍へ帰還。
1573年8月27日‥お市が織田陣営に帰還したのを合図に攻撃開始、長政父が自害。
1573年8月28日‥長政小谷城本丸にて自害。
?年‥高虎、浅井の旧臣阿閉貞征に仕える。→同じく旧臣磯野員昌に仕える。→後、近江を去り信長の甥、津田(織田)信澄に仕えたが冷遇され長続きしなかった。
1574年2月‥武田勝頼、東美濃の織田領に侵攻、明知城を落とす。→信長、嫡男と共に援軍を向かおうとしたが城が早く陥落したため撤退。
1574年6月‥勝頼、信玄が落とせなかった徳川領の堅城、高天神城を陥落させ東遠江をほぼ平定。
1574年9月‥勝頼、家康と対陣。浜松城下に放火。
1575年‥長篠の戦い。織田徳川軍の三段構えの鉄砲隊に武田軍大敗、命からがら甲斐に撤退。多くの旧臣を失う。
1576年‥高虎、羽柴秀長に300石で仕える。
1577年‥勝頼、同盟を結ぶため北条夫人を迎える。
1578年‥上杉謙信死去。上杉景虎(北条家からの養子)と上杉景勝(綾御前の息子で謙信の養子)が家督を争う(御館の乱)。→景勝が勝利した事により北条氏と関係悪化。
1581年‥高虎、但馬国の土豪を討ち取り3000石の所領を加増され鉄砲大将となる。→賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政を銃撃し敗走させ勝利の布石となる戦功を挙げたため1300石の加増。
1582年2月‥信玄の娘婿である木曾義昌が防御用の新城築城の負担増大に不満を持ち織田に寝返る。→信玄の娘であり木曾の正室激怒。離縁に至る。→木曾討伐の軍を出すが四方八方から織田・金森・徳川・北条が甲斐に侵攻。→尚、2月14日には武田勝頼が朝敵指名されてしまう。
1582年3月11日‥甲州征伐により天目山にて武田家自害。
1582年6月21日‥本能寺の変。明智光秀謀反、信長と嫡子信忠自害。
1585年10月以降‥高虎、紀州征伐。紀伊国粉可の地に5000石を与えられ、築城の普請奉行に任命される。
1585年‥四国攻めで功績があり一万石の大名になった。
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随時纏めていきます。