週刊少年リビドー
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ふと時計を見上げると、わたしたちがカフェに入ってからかなりの時間が経っていた。グラスの氷は既に溶けきっている。
テーブルの上に置いていた手が、ふわりと温かいものに包まれる。仗助くんの手だった。しかし、わたしが驚きで身じろぐ様子を見せたからか、彼は数秒も経たないうちにあっさりと離してしまう。大きく椅子を引いて、彼は立ち上がった。
「そ、そろそろ出よーぜ」
「……うん」
わたしたちはカフェを出た。このところ一段と気温が下がり、外の空気はひんやりとしている。ぶらぶらと町を歩きながら、わたしは仗助くんの様子をこっそりうかがった。
最近、彼の距離感が変わった気がする。
キスしたことをきっかけに、スキンシップが増えた……というのとは少し違う。わたしたちの関係は一向に進展していない。どこまで近づいていいのか、今はお互いの許容範囲を手探りで確かめているような感じだ。
仗助くんからされることは、どれも嫌じゃない。それを直接伝えられたらいいのに。
目を伏せると、袖の先から出ている大きな手のひらが視界に入ってきた。やっぱり繋ぎたいな、と思う。受け身のままではなく、たまにはわたしから積極的に動くべきだろう。
彼に気づかれないよう、少しずつ距離を縮めていく。もうすぐ指先が触れる——その時、仗助くんが突然立ち止まった。
「うっ……!」
「どうしたの?」
「い……いや、なんでもねえ。それよりよ、なんか喉乾いてきたなあ〜っ。タイミング悪くいま通り過ぎちまったけどよおー、やっぱコンビニ寄っていいか?」
「えー、さっきクリームソーダ飲んでたよね? 別にいいけど……」
「なんでもない」という言葉とは裏腹に、仗助くんの笑顔はぎこちない。それに、わたしの背中を押すようにして、やけに急かしてくる。……もしかして、冷たいものを飲んだせいでお腹を壊したのだろうか。
こんなに涼しいのに汗をかいているし、間違いない。絶対に腹痛だ。確信を得たわたしは、彼の不自然な態度には触れず、大人しく引き返すことにした。——正確には、引き返そうとした。
「仗助と……隣にいるのは誰だ?」
知らない男性の声だった。
仗助くんの名前を呼んでいるということは、十中八九彼の知り合いだろう。声の主を確認しようと振り返ると、突如として目の前に黒い壁が現れた。一瞬呆気に取られたものの、すぐにそれが仗助くんの背中だと気がついた。
「誰? 仗助くんの友達?」
「あ〜……いや、別に……おめーは先に行っててくれ。おれは後から行くからよォー」
「『別に』? フン、こっちから願い下げだ」
背中の向こうから聞こえてくる声は刺々しく、お世辞にも友好的とはいえない。なんだか怖そうな人だ。仗助くんの言う通り、コンビニに避難した方がいいかもしれない。
「言っとくけどな、ぼくは最初から君が歩いてくるのに気づいていたぜ。挨拶もせず逃げようとするなんて、この『岸辺露伴』に対して相変わらず無礼なやつだと思ったが……」
「!」
今、聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。仗助くんが後ろ手で「早く行け」と合図を送ってきているが、わたしは衝撃のあまり、その場から一歩も動けなかった。
「理由がわかったよ。君、ガールフレンドと一緒だったんだな」
「……そーっスよ、おれの彼女です。さっきはすみませんでした。でも、ちったあ大目に見てくださいよ……デート中に『知り合い』に会うなんて気まずいじゃあないっスか」
「仗助くん、岸辺露伴先生と知り合いだったの?」
「ちょっ——」
焦る声が聞こえたが、構わず前に出る。仗助くんと話していた男性と、ばっちり目が合った。
特徴的なヘアバンドに、意志の強そうな切れ長の目。雑誌のインタビュー記事に載っていた写真と、そっくりそのまま同じ姿——信じられない光景を目の当たりにして、思わず口がぽかんと開いた。
「ほ、本物だ……!」
そこには、週刊少年ジャンプで『ピンクダークの少年』を絶賛連載中の人気漫画家、岸辺露伴が立っていた。
噂には聞いていたけど、本当に同じ町に住んでいたんだ。人生のほとんどをこの杜王町で過ごしてきたから、有名人に会うなんて初めての経験だった。深呼吸した後、わたしは意を決して露伴先生に歩み寄った。
「あのっ、ファンです。先生が描かれてる『ピンクダークの少年』毎週楽しみに読んでます」
「君がぼくの『ファン』だって?」
わずかに目を見開いて、露伴先生がわたしを見下ろす。さっき仗助くんと話していた時より、幾分か柔らかい口調だった。その態度にほっとして、笑顔で頷く。
「はい! あ……えっと、プライベートなのに申し訳ないんですけど、サインいただくことって……」
言いかけて、はたと気づく。そういえば色紙を持っていない。先生に一言断ってから、わたしは鞄をひっくり返す勢いで綺麗なノートとペンを探した。
「おい、聞いたかよ仗助。君のガールフレンドがぼくのファンなんだってさ。なかなかセンスのある子だな」
「……そうみたいっスね〜〜」
尊敬している人に褒められ、顔が熱くなる。
こんなに良い人なのに、どうして仗助くんは隠そうとしたんだろう。ただ単に、知り合いに会ったのが恥ずかしかっただけなのだろうか。
露伴先生は仗助くんと二言三言交わした後で、くるりとわたしの方を振り向いた。ペン先を模した耳飾りが揺れる。
「ああ、サインだったね。もちろん構わないよ」
驚いたことに、「構わないよ」の「よ」を彼が言い終わる頃には、既にサイン入りのノートがわたしの手元に戻ってきていた。しかも、この短時間でキャラクターのミニイラストまで添えてある。
す……すごい、やっぱり天才漫画家だ! 露伴先生の絵に興奮して、わたしは今にも踊り出しそうな気分だった。
「わあっ、ありがとうございます、嬉しいです……!」
「横に名前も書いといた方がいいかい?」
「いいんですか? じゃあ『ナマエさんへ』でお願いしま——」
後ろから腕を引っ張られる。それほど強い力ではなかったが、思いがけずバランスを崩してしまう。よろめいたわたしの体を、仗助くんがしっかりと受け止めた。
「もういいだろ、早く行こーぜ!」
とうとう痺れを切らしたという声色だった。仗助くんは眉間にしわを寄せ、険しい表情をしている。そこでようやく、彼が一刻も早くコンビニに行きたがっていたことを思い出した。
「ごめん……」
腹痛を我慢しているのに、わたしのせいで余計な時間を取らせてしまった。彼に対する申し訳なさで、露伴先生に会えた喜びが一気にしぼんでいく。わたしは先生に会釈をして、仗助くんの後をついていった。
話の腰を折られたにもかかわらず、露伴先生に気分を害した様子はなかった。それどころか、むしろ……彼の口元は笑っているように見えた。
岸辺露伴先生。ああいう漫画を描くぐらいだから、一風変わった性格なのかと想像していたけど——なんて寛大な人なんだろう。
テーブルの上に置いていた手が、ふわりと温かいものに包まれる。仗助くんの手だった。しかし、わたしが驚きで身じろぐ様子を見せたからか、彼は数秒も経たないうちにあっさりと離してしまう。大きく椅子を引いて、彼は立ち上がった。
「そ、そろそろ出よーぜ」
「……うん」
わたしたちはカフェを出た。このところ一段と気温が下がり、外の空気はひんやりとしている。ぶらぶらと町を歩きながら、わたしは仗助くんの様子をこっそりうかがった。
最近、彼の距離感が変わった気がする。
キスしたことをきっかけに、スキンシップが増えた……というのとは少し違う。わたしたちの関係は一向に進展していない。どこまで近づいていいのか、今はお互いの許容範囲を手探りで確かめているような感じだ。
仗助くんからされることは、どれも嫌じゃない。それを直接伝えられたらいいのに。
目を伏せると、袖の先から出ている大きな手のひらが視界に入ってきた。やっぱり繋ぎたいな、と思う。受け身のままではなく、たまにはわたしから積極的に動くべきだろう。
彼に気づかれないよう、少しずつ距離を縮めていく。もうすぐ指先が触れる——その時、仗助くんが突然立ち止まった。
「うっ……!」
「どうしたの?」
「い……いや、なんでもねえ。それよりよ、なんか喉乾いてきたなあ〜っ。タイミング悪くいま通り過ぎちまったけどよおー、やっぱコンビニ寄っていいか?」
「えー、さっきクリームソーダ飲んでたよね? 別にいいけど……」
「なんでもない」という言葉とは裏腹に、仗助くんの笑顔はぎこちない。それに、わたしの背中を押すようにして、やけに急かしてくる。……もしかして、冷たいものを飲んだせいでお腹を壊したのだろうか。
こんなに涼しいのに汗をかいているし、間違いない。絶対に腹痛だ。確信を得たわたしは、彼の不自然な態度には触れず、大人しく引き返すことにした。——正確には、引き返そうとした。
「仗助と……隣にいるのは誰だ?」
知らない男性の声だった。
仗助くんの名前を呼んでいるということは、十中八九彼の知り合いだろう。声の主を確認しようと振り返ると、突如として目の前に黒い壁が現れた。一瞬呆気に取られたものの、すぐにそれが仗助くんの背中だと気がついた。
「誰? 仗助くんの友達?」
「あ〜……いや、別に……おめーは先に行っててくれ。おれは後から行くからよォー」
「『別に』? フン、こっちから願い下げだ」
背中の向こうから聞こえてくる声は刺々しく、お世辞にも友好的とはいえない。なんだか怖そうな人だ。仗助くんの言う通り、コンビニに避難した方がいいかもしれない。
「言っとくけどな、ぼくは最初から君が歩いてくるのに気づいていたぜ。挨拶もせず逃げようとするなんて、この『岸辺露伴』に対して相変わらず無礼なやつだと思ったが……」
「!」
今、聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。仗助くんが後ろ手で「早く行け」と合図を送ってきているが、わたしは衝撃のあまり、その場から一歩も動けなかった。
「理由がわかったよ。君、ガールフレンドと一緒だったんだな」
「……そーっスよ、おれの彼女です。さっきはすみませんでした。でも、ちったあ大目に見てくださいよ……デート中に『知り合い』に会うなんて気まずいじゃあないっスか」
「仗助くん、岸辺露伴先生と知り合いだったの?」
「ちょっ——」
焦る声が聞こえたが、構わず前に出る。仗助くんと話していた男性と、ばっちり目が合った。
特徴的なヘアバンドに、意志の強そうな切れ長の目。雑誌のインタビュー記事に載っていた写真と、そっくりそのまま同じ姿——信じられない光景を目の当たりにして、思わず口がぽかんと開いた。
「ほ、本物だ……!」
そこには、週刊少年ジャンプで『ピンクダークの少年』を絶賛連載中の人気漫画家、岸辺露伴が立っていた。
噂には聞いていたけど、本当に同じ町に住んでいたんだ。人生のほとんどをこの杜王町で過ごしてきたから、有名人に会うなんて初めての経験だった。深呼吸した後、わたしは意を決して露伴先生に歩み寄った。
「あのっ、ファンです。先生が描かれてる『ピンクダークの少年』毎週楽しみに読んでます」
「君がぼくの『ファン』だって?」
わずかに目を見開いて、露伴先生がわたしを見下ろす。さっき仗助くんと話していた時より、幾分か柔らかい口調だった。その態度にほっとして、笑顔で頷く。
「はい! あ……えっと、プライベートなのに申し訳ないんですけど、サインいただくことって……」
言いかけて、はたと気づく。そういえば色紙を持っていない。先生に一言断ってから、わたしは鞄をひっくり返す勢いで綺麗なノートとペンを探した。
「おい、聞いたかよ仗助。君のガールフレンドがぼくのファンなんだってさ。なかなかセンスのある子だな」
「……そうみたいっスね〜〜」
尊敬している人に褒められ、顔が熱くなる。
こんなに良い人なのに、どうして仗助くんは隠そうとしたんだろう。ただ単に、知り合いに会ったのが恥ずかしかっただけなのだろうか。
露伴先生は仗助くんと二言三言交わした後で、くるりとわたしの方を振り向いた。ペン先を模した耳飾りが揺れる。
「ああ、サインだったね。もちろん構わないよ」
驚いたことに、「構わないよ」の「よ」を彼が言い終わる頃には、既にサイン入りのノートがわたしの手元に戻ってきていた。しかも、この短時間でキャラクターのミニイラストまで添えてある。
す……すごい、やっぱり天才漫画家だ! 露伴先生の絵に興奮して、わたしは今にも踊り出しそうな気分だった。
「わあっ、ありがとうございます、嬉しいです……!」
「横に名前も書いといた方がいいかい?」
「いいんですか? じゃあ『ナマエさんへ』でお願いしま——」
後ろから腕を引っ張られる。それほど強い力ではなかったが、思いがけずバランスを崩してしまう。よろめいたわたしの体を、仗助くんがしっかりと受け止めた。
「もういいだろ、早く行こーぜ!」
とうとう痺れを切らしたという声色だった。仗助くんは眉間にしわを寄せ、険しい表情をしている。そこでようやく、彼が一刻も早くコンビニに行きたがっていたことを思い出した。
「ごめん……」
腹痛を我慢しているのに、わたしのせいで余計な時間を取らせてしまった。彼に対する申し訳なさで、露伴先生に会えた喜びが一気にしぼんでいく。わたしは先生に会釈をして、仗助くんの後をついていった。
話の腰を折られたにもかかわらず、露伴先生に気分を害した様子はなかった。それどころか、むしろ……彼の口元は笑っているように見えた。
岸辺露伴先生。ああいう漫画を描くぐらいだから、一風変わった性格なのかと想像していたけど——なんて寛大な人なんだろう。