満腹中枢
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とうとう現実に向き合う日がやってきた。
「最近太ってきた気がする……」
カップを口元に運びながら、レイはこちらに視線を向けた。何も知らない人が見たら、彼が飲んでいるのはブラックコーヒーだと思うかもしれない。しかし、その黒い液体の中に消えていった砂糖の量を、私は知っている。
レイと交際を始めてから、私の日常は甘くて美味しいもので満たされるようになった。
それはすごく幸せなことだけど——幸せの「代償」から逃れることはできない。
「というわけで、ダイエットを始めようと思ってるんだ。応援してくれる?」
「思っているだけで行動に移す気はないのだな」
「……私、またお菓子の袋を開けてた?」
いつの間にか、私の片手にはポテトチップスが握られていた。一度取り出してしまったものは仕方ないので、そのまま口に放り込む。
一連の動作が冷ややかな目で見られていることに気づき、私は口の中のものを慌てて飲み込んだ。
「本気で取り組むつもりはあるんだよ。ただ……手が勝手に動いちゃうの。『好きなもの』が目に入ると、つい自制が効かなくなって——こんな風に」
もう片方の手で、私はレイの頬を撫でた。形を確かめるように輪郭を指先で辿り、耳たぶをくすぐる。彼はわずかに目を細め、抵抗する素振りもなくそれを受け入れた。
「……このまま私まで食べるつもりか?」
「そうしようかな。あなたは甘党だから、甘い味がするかも」
「菓子と人間の区別すらつかなくなったとは、確かに重症だな」
笑いながら、レイが手のひらに頬をすり寄せてきた。温かい吐息が肌に触れ、少しくすぐったい。
薄く開いた唇が近づき、慣れ親しんだキスの予感に身を硬くする。けれど、いつまで経っても期待した感触はやってこなかった。
「お前が本気でダイエットに取り組むと言うのならば、私もできる限りの協力はする」
「……ありがとう」
食べようとした仕返しに、食べられるかと思った。
気恥ずかしさと少しの落胆を覚えながら、それを悟られないよう手を元の位置に戻す。
「レイ先生が専属のダイエットアドバイザーになってくれるなんて心強いよ」
「私が監督していないと、誰かさんは食事を抜くだけの不健康なダイエット法を実践しそうだからな」
「え、駄目なの?」
彼の表情を見た瞬間、自分が失言をしたことに気づいた。
先ほどまで漂っていた甘いムードは跡形もなく消え去り、部屋の気温が急降下する——そして、「サルでもわかる! レイ先生のダイエット講座」が始まった。
「成人女性の基礎代謝量と深空ハンターの身体活動レベルから計算すると、一日に必要な摂取カロリーは……この位が目安だ」
スマホの電卓を使って叩き出した数字を、レイは画面に映し出して見せた。彼の真面目な表情を見ると、休日にもかかわらず「仕事」をさせているような気分になる。
「だが、先ほどお前が立てた目標を達成しようと考えると……」
全ての数字が一度消され、新たに入力されていく。その絶望的な摂取カロリー量を見て、私は思わず悲痛な声を上げた。
「少なすぎない? これだと餓死しちゃうよ!」
「ならば目標設定から見直すことだな」
「体重が増えるのは一瞬なのに、減らそうと思うとこんなに時間がかかるなんて。私はもう二度とポテトチップスを食べることができないんだね……」
「大げさだな……」
重いため息を吐き出した後、シクシクと泣き真似をしてみせる。指の隙間から、仕方なさそうな笑みを浮かべているレイの姿が見えた。
「私が言いたかったのは——過度な食事制限は、短期的には体重減少の効果を見込めるかもしれないが、健康リスクも大きいということだ」
「つまり?」
「……少しくらいなら、ポテトチップスを食べてもいい」
袋の中から一枚つまみ上げ、彼が差し出してくる。私はにっこりと笑って、促されるままに口を開けた。
スナック菓子の恐ろしさは、その中毒性にある。さらなる「食の喜び」を求めて、いつもの癖で袋に手を伸ばしかけたが——すんでのところで堪えた。
「やっぱりいいや。残りはあなたにあげる」
「まだ半分以上残っているのにか? 後で食べたかったと駄々をこねても責任は取れないぞ」
「こねないよ! いきなり食べる量を減らすより、まずは間食を控えるところから始めてみようと思って。……あなたの協力が無駄にならないよう、ダイエットを成功させたいんだ」
ポテトチップスの袋を閉じ、遠くへ押しやる。これで一番の強敵は消え去ったが、全ての脅威を排除できたわけではない。
共に過ごす休日を楽しむために、スーパーでレイと一緒に選んだあれやそれ……大量のおやつの存在が、私を誘惑していた。
「レイ先生の監視がないと誘惑に負けちゃいそう……。何か良いアドバイスはない?」
「口を動かしてよく噛むと満腹中枢が刺激され、食欲を抑えられる。間食を控えたいのなら、ガムを噛むのも効果的だ」
「それなら簡単そうだしやってみようかな」
……でも、ガムは確か家に置いてなかった気がする。
私は膝立ちになって部屋の中を見回し、「満腹中枢を刺激してくれるもの」を探した。不審な行動を取り出した私を見て、レイが眉を上げる。
「何をしている?」
「ガムがないから、代わりになるものを探してるんだよ〜」
そう言って、私はレイの顔でぴたりと視線を止めた。察しのいい彼なら、これから私が何をするつもりなのか既に気づいているだろう。
「すごく美味しくて、『ゼロカロリー』なのに満足させてくれる……そんな都合の良いものが、私のすぐ近くにあればいいんだけどな」
「……あると言ったらどうするつもりなんだ?」
わかってるくせに白々しい。彼の膝に乗り、たしなめるように頬をツンツンとつつく。
「ダイエットに協力してくれるんでしょ?」
ポテトチップスは我慢できても、レイを我慢するのは到底不可能だ。私の甘くて美味しい日々の全ては、彼によって形作られているのだから。
結局のところ……私はレイさえ摂取できれば、それで満足なのだろう。
「食べさせて」
そして、今この時、彼も私と同じ気持ちならいいと思った。
小さく笑う気配がして、唇を柔らかく噛まれる。
望み通り、私は彼に食べ尽くされた。
「最近太ってきた気がする……」
カップを口元に運びながら、レイはこちらに視線を向けた。何も知らない人が見たら、彼が飲んでいるのはブラックコーヒーだと思うかもしれない。しかし、その黒い液体の中に消えていった砂糖の量を、私は知っている。
レイと交際を始めてから、私の日常は甘くて美味しいもので満たされるようになった。
それはすごく幸せなことだけど——幸せの「代償」から逃れることはできない。
「というわけで、ダイエットを始めようと思ってるんだ。応援してくれる?」
「思っているだけで行動に移す気はないのだな」
「……私、またお菓子の袋を開けてた?」
いつの間にか、私の片手にはポテトチップスが握られていた。一度取り出してしまったものは仕方ないので、そのまま口に放り込む。
一連の動作が冷ややかな目で見られていることに気づき、私は口の中のものを慌てて飲み込んだ。
「本気で取り組むつもりはあるんだよ。ただ……手が勝手に動いちゃうの。『好きなもの』が目に入ると、つい自制が効かなくなって——こんな風に」
もう片方の手で、私はレイの頬を撫でた。形を確かめるように輪郭を指先で辿り、耳たぶをくすぐる。彼はわずかに目を細め、抵抗する素振りもなくそれを受け入れた。
「……このまま私まで食べるつもりか?」
「そうしようかな。あなたは甘党だから、甘い味がするかも」
「菓子と人間の区別すらつかなくなったとは、確かに重症だな」
笑いながら、レイが手のひらに頬をすり寄せてきた。温かい吐息が肌に触れ、少しくすぐったい。
薄く開いた唇が近づき、慣れ親しんだキスの予感に身を硬くする。けれど、いつまで経っても期待した感触はやってこなかった。
「お前が本気でダイエットに取り組むと言うのならば、私もできる限りの協力はする」
「……ありがとう」
食べようとした仕返しに、食べられるかと思った。
気恥ずかしさと少しの落胆を覚えながら、それを悟られないよう手を元の位置に戻す。
「レイ先生が専属のダイエットアドバイザーになってくれるなんて心強いよ」
「私が監督していないと、誰かさんは食事を抜くだけの不健康なダイエット法を実践しそうだからな」
「え、駄目なの?」
彼の表情を見た瞬間、自分が失言をしたことに気づいた。
先ほどまで漂っていた甘いムードは跡形もなく消え去り、部屋の気温が急降下する——そして、「サルでもわかる! レイ先生のダイエット講座」が始まった。
「成人女性の基礎代謝量と深空ハンターの身体活動レベルから計算すると、一日に必要な摂取カロリーは……この位が目安だ」
スマホの電卓を使って叩き出した数字を、レイは画面に映し出して見せた。彼の真面目な表情を見ると、休日にもかかわらず「仕事」をさせているような気分になる。
「だが、先ほどお前が立てた目標を達成しようと考えると……」
全ての数字が一度消され、新たに入力されていく。その絶望的な摂取カロリー量を見て、私は思わず悲痛な声を上げた。
「少なすぎない? これだと餓死しちゃうよ!」
「ならば目標設定から見直すことだな」
「体重が増えるのは一瞬なのに、減らそうと思うとこんなに時間がかかるなんて。私はもう二度とポテトチップスを食べることができないんだね……」
「大げさだな……」
重いため息を吐き出した後、シクシクと泣き真似をしてみせる。指の隙間から、仕方なさそうな笑みを浮かべているレイの姿が見えた。
「私が言いたかったのは——過度な食事制限は、短期的には体重減少の効果を見込めるかもしれないが、健康リスクも大きいということだ」
「つまり?」
「……少しくらいなら、ポテトチップスを食べてもいい」
袋の中から一枚つまみ上げ、彼が差し出してくる。私はにっこりと笑って、促されるままに口を開けた。
スナック菓子の恐ろしさは、その中毒性にある。さらなる「食の喜び」を求めて、いつもの癖で袋に手を伸ばしかけたが——すんでのところで堪えた。
「やっぱりいいや。残りはあなたにあげる」
「まだ半分以上残っているのにか? 後で食べたかったと駄々をこねても責任は取れないぞ」
「こねないよ! いきなり食べる量を減らすより、まずは間食を控えるところから始めてみようと思って。……あなたの協力が無駄にならないよう、ダイエットを成功させたいんだ」
ポテトチップスの袋を閉じ、遠くへ押しやる。これで一番の強敵は消え去ったが、全ての脅威を排除できたわけではない。
共に過ごす休日を楽しむために、スーパーでレイと一緒に選んだあれやそれ……大量のおやつの存在が、私を誘惑していた。
「レイ先生の監視がないと誘惑に負けちゃいそう……。何か良いアドバイスはない?」
「口を動かしてよく噛むと満腹中枢が刺激され、食欲を抑えられる。間食を控えたいのなら、ガムを噛むのも効果的だ」
「それなら簡単そうだしやってみようかな」
……でも、ガムは確か家に置いてなかった気がする。
私は膝立ちになって部屋の中を見回し、「満腹中枢を刺激してくれるもの」を探した。不審な行動を取り出した私を見て、レイが眉を上げる。
「何をしている?」
「ガムがないから、代わりになるものを探してるんだよ〜」
そう言って、私はレイの顔でぴたりと視線を止めた。察しのいい彼なら、これから私が何をするつもりなのか既に気づいているだろう。
「すごく美味しくて、『ゼロカロリー』なのに満足させてくれる……そんな都合の良いものが、私のすぐ近くにあればいいんだけどな」
「……あると言ったらどうするつもりなんだ?」
わかってるくせに白々しい。彼の膝に乗り、たしなめるように頬をツンツンとつつく。
「ダイエットに協力してくれるんでしょ?」
ポテトチップスは我慢できても、レイを我慢するのは到底不可能だ。私の甘くて美味しい日々の全ては、彼によって形作られているのだから。
結局のところ……私はレイさえ摂取できれば、それで満足なのだろう。
「食べさせて」
そして、今この時、彼も私と同じ気持ちならいいと思った。
小さく笑う気配がして、唇を柔らかく噛まれる。
望み通り、私は彼に食べ尽くされた。
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