悪夢の向こうに


どこまでも高く果てしなく続く空に、少年はずっと憧れていた。
空の上にはどんな光景が広がっているのか、空から見下ろすこの世界はどのように見えるのか。
少年の無垢な好奇心は大空の如く止まる事を知らない。

それに何よりこの大きな空を駆けてみたかった。
まるで自分の庭をそうするかのように、どこまでも自由に、自在に羽ばたいてみたいと思っていた。
己の思うがまま空の上を飛び回るのはどんなに楽しく爽快で、素晴らしい事だろう──それを考えるだけで少年の心は昂り、その思いは日に日に強まっていく。

──そして、そんな少年の切なる願いは、遂に叶う事となる。
成長した少年は故郷に代々伝わる儀式を乗り越え竜騎士となり、騎竜を与えられた。
大きな夢の第一歩を、少年は一匹の竜と共に踏み出したのだった。


「うっひゃー! 速い速い! ハハハ、サイッコーだぜっ!!」


その日も少年は、愛竜と空を駆けていた。
幾多の山と谷を軽やかに飛び越え、雲と雲の隙間を縫うように、その漆黒の竜は目にも止まらぬ速さで広大な空を舞い続ける。
これ以上ないほどの高揚感、充足感が少年の心を満たす。


「へへっ、やっぱりお前はすごいよブラック! この竜洞で…いや、この世界のどんな竜よりも速く飛べるんじゃないか?」


興奮気味の少年はそう言うと、空を飛び続ける相棒の首を優しく撫でる。すると、それに応えるようにブラックはキュイインと高らかに鳴き声を上げてみせた。
それを聞いた少年は満足し、誇らしげにニカッと笑みを浮かべる。


「なあブラック。お前はおれの最高の相棒で、一番の友達だよ。これからもずっと、ずっと一緒にいような? …約束だぞ」


少年はブラックの首元へしがみつき、全てを委ねるようにその重心を預けた。
硬い鱗にびっしりと覆われた竜体は強固でありながら、少年の小さな身体をすっぽりと包み込めるほどには柔軟であり、安定感もある。

少年は、相棒のその逞しさと温かさが好きだった。強さと優しさを兼ね備えた友に全幅の信頼を寄せていた。姿形や種族は違っても、そこには確かに絆があったのだ。
『空を飛びたい』という夢を実現させた少年は、それ以上にかけがえのないものを手に入れていた。

何があってもこいつだけは離したくない。離れたくない。失ってたまるか。
友への思いを更に募らせた少年は、首元へ回した手により一層力を込めた。が、しかし──。


「え…?」


次の瞬間、全てが一変する。
全身に感じていた心地良い風は勢いを無くし、無限に続く青空はひび割れて崩れ落ち、そこかしこに響いていた鳥達の声はピタリと鳴き止み。この刹那、世界を取り巻く全ての事象がその機能を失っていた。

そしてそれは、少年の相棒も例外ではなく。状況が理解出来ず狼狽える少年が次に聞いたのは、耳をつんざくほどのブラックの断末魔だった。
黒く艶めいた身体からは血が次々と噴き出し、その度にその巨体を仰け反らせ、苦痛の雄叫びを上げる。


「ブラック…? ……!?!? なあ! おい! ブラック!! 一体どうした! 何があったんだよ!?」


訳も分からぬまま友が傷ついていく姿を目の当たりにし、動揺しながらも少年は相棒の身体を強く抱きしめた。返り血を浴びる事も厭わず、友の苦しみを和らげるように、宥めるように。
しかし少年の懸命な努力も空しく、飛行する事すらままなくなったブラックは体勢を崩し、真っ黒な空の中をそのまま下降。奈落へと墜ちていく。


「ブラック!! ブラック────ッ!!!!!」


墜ちていく最中、少年は声の限り叫んだ。最愛の友の名前を、涙ながらに。
しかし相棒は答えなかった。瞳を開く事すらなかった。次第にその身体は見る影もなく朽ちていき、身動き一つせず、呻き声すら上げず、ただ闇の中へと沈んでいく。

その時、少年は予感した。これが相棒ブラックとの永遠の別れになる事を。


「ブラック…。ブラック…………っ!」


自らの身を引き裂かれるよりも残酷な、悲しさを伴った痛み。心の真ん中に穴が開いたような、不穏で歪な感覚。
絶望──幼心に少年はそれを理解した。

堕ちていく度にパラパラと剝げ落ちていく黒い鱗。
その一つ一つが、まるで友の流す涙のように見えた──。



*  *  *



「……ブラック……ッ!!」


フッチは自らの叫び声で目を覚ました。


「…………。夢か…」


先程の出来事が全て夢だと瞬時に悟り、フッチは深くため息を吐いた。
自らの手で守れなかった大切なものを悔やむように、あるいは慈しむように、その両の拳にグッと力を込める。

今しがたの刺激で呼吸が乱れ、心拍数も上がってはいるが、この状況に慣れているのかさほど混乱した様子も見せず、既に平静さを取り戻しつつあった。思考や意識もしっかりしている。
もしくはあまりにもこの夢を見過ぎたせいで、身体が麻痺してしまっているのかもしれない。


「さて…どうしたものかな」


時刻は中夜を回った頃。今この城にいる人間の大半、飲兵衛な一部の仲間以外は眠りに就いているだろう。
本来であればこのまま再び眠るべきなのだが、とうに眠気は去ってしまった。寝つくにはまだ当分時間がかかりそうだ。とはいえ今晩は酒場で飲み明かしたい気分でもない。
──しばし考えた後、辿り着いた答えは一つ。


「…少しだけ、夜風に当たってくるか」


最低限の身支度だけを整え、フッチは部屋を出た。

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