悪夢明けのオンステージ


「忘れなくたって良い。無理して忘れる必要なんてないんだ。ずっとその痛みを抱えたまま、生きていけば良い」


月が綺麗に輝いていたあの日、あなたはわたしにそう言った。少しだけ悲しそうに、けれどはっきりと。
忘れもしない、今も鮮明に憶えている。

そんなあなたが、わたしにはとても強くて、眩しくて。
……ほんの少しだけ、遠い存在に思えてしまった事も。



*  *  *



「………」


ビュッデヒュッケ城の自室にて。リリィは何をするでもなく、一人ぼんやりと佇んでいた。言葉を発する事もなければ、他の誰かと接する訳でもない。ただ時間だけがいたずらに過ぎていく。
基本的にお喋り好きで行動派のリリィにしては珍しい事態だ。普段の彼女ならば、無為に時を過ごす事を絶対に良しとしないだろう。
その間リリィがしていた事といえば、両手で部屋のテーブルに頬杖をつきながら眉間に皺を寄せる事、そして時折ため息をつく事ぐらいだ。その表情は物憂げで、どこか険しさをも帯びている。やはりいつもの彼女らしくはない。

リリィをそのような状態に追い込んでいたもの、即ち悩みの種──それはテーブルに置かれた一冊の本である。それを裏付けるように、彼女の視線は終始その一点にばかり注がれていた。


(ったく…どうすんのよ。どうすれば良いのよ……)


どういう訳かリリィは目の前のその本を読もうとしないばかりか、表紙をめくろうともしない。元々彼女が本を読むのが苦手というのもあるが、それには彼女なりの、もっと深刻な理由があった。


「はぁ……」


リリィが今日何度目のものか分からないため息をつくと、部屋をコンコンとノックする音が聞こえた。


「失礼します、リリィお嬢さん」


間もなくドアが開き、その人物が顔を見せた。リリィの付き人のリードである。
リードはアイスティーの入ったグラスをトレイに載せ、部屋の中へと入ってきた。


「お嬢さん、お茶お持ちしました」
「…あぁ、そう。その辺に置いといて」
「分かりました。…っと、おや?」


言われた通りグラスをテーブルの上に置くと、リードの視線はごく自然に、その例の本へと移る。浮かない顔のリリィとは対照的に、リードはその本を見た途端心なしか表情が明るくなり、興味津々な様子を見せた。


「あ、遂に明日なんですよねぇ。お嬢さんが主役の劇って。準備は出来ました? もうバッチリって感じです?」
「……ん、まあ……ぼちぼちね」
「お嬢さんにとっては良い思い出じゃないでしょうし、辛いと思いますけど…。もしどうしてもお嬢さんが嫌なら俺が代わりに、って言いたいとこなんですが、ちょっと無理ですしね。ゲームの仕様上、俺はリーダー役出来ないんで」
「…は?? 何よそれ?」
「あ…! 何でもないです! じゃあ俺はこれで。明日サムスと一緒に観に行くんで、頑張ってくださいね」


そう言い残すとリードは会釈をし、部屋を後にした。こちらの気も知らず呑気なものだ──リリィは去っていくリードを見送り、呆れたように深いため息をついた。
部屋に静寂が戻り、再びリリィはその本と対峙する。しばし勝敗のつかない睨めっこが続く。


(ふぅ…。でも、本当にそうなのよね…。時間ないのよね。どうしたものかしら…)


先程のリードの言葉を受けようやく自覚したのか、今度はリリィの表情に焦りが見え始める。尻に火が付く、とはまさに今のこの状況だろう。その時は確実に迫っている。先延ばしにしていたが、もうそんな余裕もないらしい。
そろそろ現実と向き合う時が来たようだ。諦め半分にリリィはその現実、もとい目の前の本へと視線を運んだ。

決戦ネクロード──その本のタイトルにはこう書かれていた。かつてリリィの家庭教師を務め、現在はティント国大臣及び歴史家として名を馳せているマルロ・コーディーが書き綴った戦記であり、彼の代表作の一つ。
そして明日は劇場にて、この作品が舞台公演される予定となっている。その主役でありかつての同盟軍リーダー・リオウ役に白羽の矢が立ったのがリリィという訳だ。ちなみに彼女の想い人であるフッチもこの劇に出演する事になっている。
にも関わらずリリィはこの台本を読む事はおろか、触れようともせずに現在に至っている。近々大事な舞台を控えている役者にあるまじき行動だ。
決してやる気がない訳ではない。舞台の上に立つのが嫌な訳でもない。むしろ目立つのは好きな方なのだ。──ただ、自分が演じるのがこの演目でなければ。

この作品の内容、あらすじ自体は以前からリリィは知っていた。近しい人物が書いた物だからというのもあるが、何より彼女自身が、当時の出来事を身をもって経験していたからだ。だからその点は問題ない。最悪の場合、台本に一切目を通さなくても何とかなるだろう。
リリィにとって最も気がかりだったのは、この劇に出演する事に対するためらい。当時のトラウマが蘇るかもしれないという恐怖心。あの事件を完全に昇華出来ていない事へのわだかまり。ひいては己の未熟さから来るものだった。
あの忌まわしい異形と、何より過去の自分と向き合う勇気が未だリリィには備わっていなかった。今でもあの時の事を思い出すと震えが止まらないのだ。大人になるにつれ涙を流す事は少なくなったが、その分心の中に留めたり封じ込めたりする事が多くなった。あの出来事に限っては。

この劇を演じると決まった時、この役に抜擢された時に断る事も出来たはずだ。むしろそうした方が楽に違いない。この演劇に限って言えば、リリィの代わりなどここにはいくらでもいるのだから。
それでもそうしなかったのは、彼女の持ち前の負けん気やプライド、そして彼女の心の片隅にある前向きな気持ち、確かな希望──あの出来事を忘れたい、乗り越えたいという思いがわずかでも存在したからである。逃げてうやむやにするつもりは毛頭なかった。
しかし、いざ向き合おうとするとこうして尻込みしてしまう。台本に触ろうともしないのが何よりの証だ。
──そんな時脳裏に浮かぶのは、幼い頃から想いを寄せる彼の言葉。とある月夜の日、彼と語り合ったあの日に、彼がリリィに告げた台詞だった。


「…忘れなくても良いんじゃないかな。君が今感じているその痛みも、君の大切な一部だ。だから、忘れなくたって良い。無理して忘れる必要なんてないんだ。…ずっとその痛みを抱えたまま、生きていけば良い」


長年悪夢にうなされ苦しんでいたリリィを、そっと包み込む言葉。心に負った傷を労り、癒すような言葉。あの出来事を早く忘れたい、忘れなければと使命感にも似たもどかしさを抱いていたリリィにとって、思いがけず意外なものであった。
だからその日以来、リリィはその言葉を支えに過ごしてきた。辛くても悲しくてもそれも自分自身の一部なのだから、大事にしていこうと。

しかしいつからか、リリィはそんな自分に息苦しさや苦々しさ、以前にも増して歯がゆさを感じる事が多くなっていた。今ひとつ自分が過去と向き合えないのもそれが原因だった。
あの事件で負った痛みを忘れずにずっと抱えていくという事は、ずっとあの事件に縛られて生きていくという事だ。あの時芽生えた恐怖も味わった苦痛も全て、自身の胸に秘めながら。
──どうして? どうしてずっとそんなイヤなもの抱えてなきゃいけないの? どうしてずっとあの化け物に囚われて生きなきゃいけないの? どうして??


(いつまでわたしは苦しまなきゃならないの? ねぇ、教えて。頼むから、お願いだから…教えてよ…!)


声にならない叫びが、想いがリリィの心を支配する。無論その声に応える者は誰もおらず、空ろな侘しさだけが彼女を取り囲む。
苦しい時に「苦しい」と口に出せないのは想像以上に遥かに苦しいし、ずっと辛い。それを一人で抱えて生きていくという事は、ずっと苦しんでいくという事だ。これからの長い人生、日々そんな思いをして過ごしていかなければならないのか。果たしてそれに何の意味があるのだ。

想いを巡らせているうち、いつしかリリィの心は絶望に満たされ濁り、淀んでいく。そんな人生など生きていても死んでいるのと同じだ。そんな生き方、少なくとも自分はしたくない。それならば今自分は、わたしはどうしたら良い?
──こんな時にもリリィの頭の中に思い浮かぶのは、やはり恋しい『彼』の姿であった。


「ねえ、教えて…。教えてよ……フッチ……」


やはりその呼びかけに応じる者はない。今この場に彼は──フッチはいないのだから。その声は静かな部屋に溶けて沈み、跡形もなく消えていく。やり場のない痛みだけを残して。
結局その日は台本に手を付けられないまま、リリィは次の日を迎える事となってしまった。

1/5ページ