幸福な蝶と甘い蜜


あの人は、蝶に似ていた。いつも自由に、そして気まぐれにどこまでも空を飛び回る蝶のようだ。
追おうとすればするほど、捉えようとすればするほど、その人は自分の手をすり抜け、決して捕まってはくれない。そしてまたどこかへふらりと、甘い蜜を求めて気ままに飛び去っていく。

そんな奔放な気ままさに目も心も奪われ、今日もまたあの人を目で追ってしまうのだ。
例えあの人が──彼女が、自分を見てはくれぬと分かっていても。



*  *  *



「……おい、カミュー」


剣術の稽古を終え一呼吸ついている俺に、相棒のマイクロトフが声をかけてきた。見ると眉間にシワを寄せ、とても怪訝そうな顔をしている。
…ふむ。さては先程の打ち合いで俺に負けたのを根に持っているのか。これだから戦う事しか頭にない脳筋は困る。良い歳なのだから、剣の道一辺倒ではなくそれ以外の事も少しは覚えてはみたらどうだ。
特にお前、騎士という肩書きを持つ割には女性の扱いがまるでなっていないぞ。話にならんな。


「どうした、マイクロトフ?」
「それはこっちの台詞だ。お前、さっきから一人で何ぶつぶつ言ってるんだ? 蝶がどうのとか、甘い蜜がどうのとか…。はっきり言って気持ち悪いぞ」
「んん…?」


何という事だ。俺とした事が、ついつい口に出してしまっていたか。
だがそれも止むを得ん。それだけあの人は素敵なのだから。彼女の有り余るほどの愛らしさと可愛さを、ただ胸の内だけにしまっておくのは非常にもったいないというものだ。
それに、口に出す事で彼女の魅力がより一層強まる感じがする。言霊、というのは本当にあるのかもしれない。俺の口には思わず笑みが浮かんだ。


「そうか、そうだったか…フフ。すまないな、フフフ…」
「…気持ち悪いと言われて笑っているお前の神経が理解できん。そういうところが本当に気持ち悪い。なぁ、最近のお前おかしいぞ? 頼むからそれ以上気持ち悪くならないでくれ。これはお前と長年連れ添う同僚、かつ親友の俺からのたっての願いだ。日に日に気持ち悪くなっていくお前の姿を見ると、胸焼けがして吐きそうになる。だから頼む。この通りだ」


…おいおいおいおい。昔から不躾でデリカシーのないところはあったが、流石に今の発言は頂けないな。いくら何でも失礼すぎる。


「このほんの数分の間に、お前何回『気持ち悪い』と言った? このわずかな時間で一生分の『気持ち悪い』を使い果たしてしまったんじゃないか? そんな事では今後本気で気持ち悪いと感じた時に『気持ち悪い』と言えなくなってしまうぞ。それでも良いのかお前? 後悔するぞ?」
「お気遣い頂き光栄だが、その心配はないから安心しろ。後にも先にもここまで本気で気持ち悪いと思う事はないだろうからな。今のうちに一生分使い切っておく」
「意固地になるな。まったく、強情っ張りめが」
「強情とかそういうんじゃない。純粋な本音だ」
「……」


マイクロトフは眉一つ動かさずそう言ってのけた。迷いのない真っ直ぐな瞳をしている。
散々な言われようだが、俺はこんな事で目くじらを立てるほど狭量な人間ではない。不肖の友の不用意な発言を、俺は寛大な心で受け入れる。…フッ、俺が心の広い男で良かったな。マイクロトフよ。


「…ところで、カミュー」
「どうした?」
「何だってお前、ナナミ殿にそこまで目をかける? 俺だって騎士の端くれだ。弱きを助け強きを挫く、そして女性を守るのは騎士として当然の行いというのは理解できる。しかし、お前のナナミ殿に対するそれは異常だ。明らかに度を超えている。彼女に、どうしてそこまで執着するんだ?」
「……」


マイクロトフの言葉に俺は思わず眉をひそめた。奥歯に物が挟まったような、妙に棘のある言い方だ。まるで俺が彼女を──ナナミ殿を好きになった事を咎めているような、そんな気持ちにさえなる。


「確かにナナミ殿はいつも溌溂としていて明るいし、気立ても良い。軍主殿の姉君という点を差し引いても、彼女はとても良い娘だと思う。それは俺も認めるさ。しかし……」


そこでマイクロトフは何故か言い淀んだ。都合が悪そうに視線を逸らしたマイクロトフを俺は真正面から睨みつけ、次の言葉を促した。


「何だ? 言いたい事があるなら言ってみろ。お前らしくもない」
「らしくないのはどっちだ。…これは俺からの忠告だ。これ以上真実から目を背けてどうする?」
「何だと…?」


あえて俺を非難するような言葉を使うマイクロトフに、俺は顔をしかめるしかなかった。忠告などとのたまいながら、俺にとってその言葉はもはや挑発でしかない。人を好きになるのが、彼女を好きになるのがそこまで悪い事だと言うのか? そこまで責められるべき事なのか?
ここまで来ると俺だけではなく、彼女までもが悪く言われているような気分になってくる。何だか腹立たしい。

しかしマイクロトフが次に顔を上げた時、奴はひどく哀れみを帯びた目でこちらを見つめていた。その眼差しは上辺だけの事務的なものではなく、ただ一人の人間として、長年の友人として俺を本気で気遣うような表情だった。


「確かに俺も遠回しに言い過ぎたな…。すまない。この際だからはっきり言おう」
「……」
「お前は、ナナミ殿の一番になれない。どんなにお前が彼女を好いても、あの娘がお前の気持ちに応えてくれる事はない。…お前のその想い、きっと報われんぞ」
「…………」


さっきまで随分と回りくどかったくせに、今度は歯に衣着せぬ物言いをする。いちいち極端な男だ。
ただ、マイクロトフの言っている事は正しかった。何も間違った事は言っちゃいない。
──俺はナナミ殿に、一方的な恋心を抱いている。それは覆しようのない事実だ。


(俺は彼女の一番にはなれない、か)


その一言は毒のようにじわじわと効いていき、徐々に全身に駆け巡る。その度に俺の心の中は苦々しい気分で満たされるのだ。


「彼女にとって一番大切な存在はリオウ殿と、そしてハイランドに寝返ったという例の幼馴染みの少年だ。それは…言わずともお前だって分かっているはずだろう」
「ああ。…そうだな」
「彼女の心にお前が入り込む隙なんてないのに、彼女がお前の方を振り向いてくれる事はないのに…何故そこまで彼女に肩入れするんだ? このままだとお前が、後々しんどい思いをするのに…」
「……。マイクロトフ、お前…」


思ってもみなかったマイクロトフの言葉に、俺は思わず目を見張ってしまった。まさかこの朴念仁から、色恋沙汰に全く免疫のないこの男から、こんな台詞を聞ける日が来るとは。俺はこの男の事を少々見くびっていたようだ。


「つまりお前はこう言いたいわけか。ナナミ殿の事は綺麗さっぱり諦めろ、と」
「ん…ま、まぁ…そういう事だな」
「ふふ、ふふふふ…。はははは」


ずっと神妙な面持ちをしている目の前の男が途端に滑稽に思えてきて、俺は思わず笑ってしまった。


「な…っ。何笑ってる? 俺は、お前の事を心配して…!」
「ああ、その事には感謝してるさ。…だがな、マイクロトフ」
「?」
「諦めろと言われて諦めきれるほど、彼女への俺の気持ちは生半可なものではないし、そこまで往生際の良い男じゃないんだよ。俺は」
「カミュー…?」


こいつにここまで気を遣わせて、これ以上黙っている訳にはいかない。俺は胸の内の本心を、彼女への思いの丈を、目の前にいる無二の親友に打ち明ける事にした。


「マイクロトフ。さっきお前は俺に、『どうしてそこまで彼女に執着するのか』と訊いたよな?」
「ん? あ、ああ…」
「最初はそんなつもりはなかった。初めは彼女も、騎士として守らなければならない女性のうちの一人で…それ以上でも以下でもなかった。俺にとって女性は皆等しく大切な存在だからな」
「そうか…。それが何故、ナナミ殿を?」
「リオウ殿のお側であの人をずっと見ているうちに、守りたいと思うようになった。いつも懸命で、ひたむきで、ただ一途にリオウ殿を思う姿を…。リオウ殿のためならば命を賭けても構わないと言わんばかりの意志の強さや危うさも、全てをひっくるめて愛しいと思うようになった。気づくと俺は、あの小さな身体から繰り出される笑顔やパワフルさに、魅了されるようになっていたよ」


俺は彼女との思い出を遡り、一つ一つ丁寧に辿りながら言葉を紡いだ。
最初に彼女と出会ったのは──ミューズでの丘上会議の時だったな。まだ俺とマイクロトフがマチルダ騎士団に属していた頃だ。
当時はまさかあの邂逅が、俺にとってこんなに運命的なものになるとは思っていなかった。やはり人生とは分からないものだ。


「あと…初めてだったんだ。自分から、心から本気で『好きだ』と、『振り向かせたい』と思った人は。今までの俺なら、何もせずとも女性の方から言い寄ってくる事も多かったが、その逆はなかった」
「振り向かせる自信はあるのか?」
「ないさ。さっきお前も言っていたように、ナナミ殿にとって一番大事なのは弟のリオウ殿とその友人だ。…俺如きが入り込む隙なんてないだろう?」
「だったら…。それが分かっているなら、どうして…」


俺の話を終始不思議そうに聞いているマイクロトフ。受け入れようと努力するものの、まだ完全に理解するには至っていないようだ。


「簡単な事さ。振り向かせるのが目的な訳じゃない。彼女にとっての一番がリオウ殿達であるように、俺にとっての一番がナナミ殿だというだけの話だ。それが何より俺にとっては重要で、幸せな事だからな」
「え…?」
「彼女が誰を思っていたって良いんだ。報われなくても構わない。でも、俺にとって一番大切なのは…好きなのはナナミ殿だ。だからずっと心の奥底で彼女を慕っている。…ただ、それだけだよ」
「………」


親友に初めて打ち明けた本音。ここまで赤裸々にさらけ出してしまうとは、自分でも思わなかった。
正直気恥ずかしさは若干あるが、別に後悔はしていない。むしろ話せて良かったとすら思っている。
…もしかしたら、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。彼女を想うだけで幸せと言いながら、心のどこかでは無意識に切なさや苦しさ、歯痒さを感じていたのかもしれない。
マイクロトフはしばらく俺の話にじっと耳を傾けていたが、やがて「…そうか」とだけ呟いた。


「…何だ。ここまで俺の本心を聞いておいて、今回は『気持ち悪い』って言わないのか? 正直自覚はあるし、我ながら大概だとは思ってる」
「あいにく、その言葉はさっき一生分使い切ってしまったからな。それに…」
「?」
「俺にはそういった存在がいないから、はっきりとは分からんが…。人を本気で好きになるっていうのは、きっとそういう事なんだろ? それを茶化すような真似はしない」
「……!」
「お前の気持ちは良く分かったよ。もうつべこべ言わない。お前のやりたいようにすれば良いさ。お前はこうと決めたら絶対に曲げないからな。…実は俺以上に頑固者だぞ? お前」
「…マイクロトフ……。お前…」


真摯な表情でそう語った後、マイクロトフはふっと笑った。
──やはり話して良かった。話したのがこの男で良かった。後腐れなく笑う奴の顔を見て、俺は心からそう実感していた。


「ふふ…今日はやけに優しいな、マイクロトフ」
「いつもは冷たいみたいな言い方をするな。失礼な奴だ」
「あぁ、これは失礼。しかしそれはそれ、これはこれだ。明日の打ち合いも決して容赦はしないぞ」
「何…? 当たり前だ、手加減などしたら俺が絶対に許さんからな!」
「分かってるよ。…まぁ、明日も俺が勝つだろうがな」
「ふん、言ってろ。明日勝利を手にするのは、この俺だ!」


俺達はその後、しばしそんなやり取りを続けた。胸中を吐露した事で安心したのか、肩の力は抜け、心の中はすっきりとした清涼感で満たされていた。


(マイクロトフ。……ありがとう)


全てを受け入れ、理解を示してくれた唯一無二の友へ、俺は心の中でそっと感謝の言葉を告げた。

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