竜騎士は動かない
人間は産まれてくる時は一人、その生涯を終える時も一人。にも関わらずたった一人で生き続ける事は困難であるし、ほぼ不可能に近い。何とも不便で矛盾した生き物である。
それ故に、生を享受している間は少なからず他の人間と関わりを持ち、交流しなければならない。
その過程でヒトは他者と様々な形で接点を持ち、関わりながら共存していく。血の繋がった家族、友人、相棒、師弟関係、ライバル同士。その関係性は非常に多岐に渡る。
その中でも特にオーソドックスなのが、恋人あるいは夫婦という間柄だ。
出会った二人が互いに惹かれ愛し合うと恋人同士になり、未来永劫共に寄り添う事を約束すると結婚へと発展。その後二人は晴れて夫婦となる。
しかしながら、出会い結ばれるばかりが人間ではない。出会いがあれば別れもある。一度結ばれた絆であっても何かしらのきっかけで綻び、以前のように戻れなくなってしまう事も少なくない。
ヒトは時に自らの意思で他人との関係を断ち切り、袂を分かつ。それが夫婦間で言うところの離婚である。
「…ちょっと! なんでここにいるのよ!? こんなところ、誰かに見られでもしたら…!」
フッチが慌てふためく彼女──アップルを目撃したのは、本当に偶然の事だった。もちろん他意などない。
(あれは……アップルさん…?)
本来なら何も見なかった振りをして、早急にこの場から立ち去るべきだった。そして後は知らぬ存ぜぬを貫けば問題ない。
にも関わらずそれが出来ずにいたのは、彼女が古くからの知り合いであった事に加え、フッチの中にほんの僅か好奇心が芽生えてしまったからだった。俗に言う『魔が差した』というところだろう。
アップルは建物と建物の隙間、人目を忍ぶようにとある人物と言葉を交わしていた。
どうやらアップルと歳の近い若い男のようだ。
「なんでって、そんなのお前に会いに来たに決まってんだろ。それ以外に何があるってんだよ?」
「はぁ?? 何言ってるのよ。どうせまた『遊ぶお金が尽きたからお金を借りに来た』とかそんな理由でしょ? 良い歳してホンット、みっともないわね」
「おいおい、そんな言い方ねーだろ。冷たいなぁ~アップルちゃんは。…ま、金に困ってるのは事実だけど」
「ほら、やっぱりそうじゃない。はぁ…。本当にこの人は…」
しばしの間、フッチは二人のやり取りに耳を傾ける。逢い引きと呼ぶほど彼らの間に甘い雰囲気は感じられず、喧嘩というにはあまりに軽快で妙に小気味良い。その様子から、アップルとその話し相手は旧知の仲であろう事が窺える。
惜しむらくは今フッチのいる場所からはアップルの後ろ姿しか見えず、相手の男の顔は死角ではっきりと見えない点だ。これ以上近づくと彼女達に気づかれてしまうため、それも叶わない。
(しかし…何だろう。あの光景、どこかで…)
アップル達の会話をぼんやりと聴いているうち、フッチの中に不思議な思いが湧き上がっていた。
例えるなら遠い昔、子供の頃に見た古い書物を再びめくり読み進めているような懐かしさ、既視感。それらがフッチの胸の中を往来している。
「はぁ……。ほんの一時でもこんな人と元夫婦だったなんて…正直自分でも認めたくないわ」
「なーに言ってんだよ。そんな事言って、今でもオレの事好きで好きでたまんねークセにさ」
「馬鹿言わないで。『好き』って気持ちだけであなたとずっと一緒に居れるほど、私はもう子供じゃないの。…もう、あの頃とは違うんだから」
──そうか、そういう事か。フッチは一人合点する。
アップルが以前結婚していたという話は風の噂で聞いた事がある。その後訳あって別れたが、離婚の原因は元夫の浮気だったとも。
前述の通りアップルとは互いに知らぬ仲ではない。アップルとかつて懇意にしていた人物の顔くらいならば容易に思い出せる。
昔から彼女と親しく、かつ性別が男で、既婚ながらも他の女性に手を出しそうな人物。といえば──。
(あ……。アップルさんの元旦那さんって、もしかして…)
今フッチの頭の中に浮かんだ人物。彼がアップルのかつての結婚相手だとすれば、色々と辻褄が合うし納得もいく。恐らく十中八九『あの人』だろう。
しかし、あの人が──彼が何故はるばるこの地を訪ねてきたのだろうか。金の無心をするならば何も別れた妻でなくとも、故郷の両親を頼れば良い話なのだから。その点に関してはフッチも気になるところではある。
「……なぁ、アップル」
突如、男の様子が明らかに変わった。先程までのどこか浮ついた軽薄な声色は鳴りを潜め、その口調は静かで真剣味を帯びている。
「何? どうしたのよ? 急に深刻な顔して」
「…あのさ。お前、大丈夫なのかよ」
「大丈夫って、何が?」
「またここでデカい戦が起きるんだろ? だから、その…大丈夫なのかなって」
「え…? だから、何がよ?」
「いくらお前が軍師で戦に欠かせない存在だって言っても、お前はただの人間で、一人の女だし…その…」
「…話が見えないわ。言いたい事があるならはっきり言いなさいよ」
「ああもう! だからっ! オレはお前の事心配してんだっつーの! それぐらい気づけよ、バーカ!」
「……はぁ??」
その時アップルが素っ頓狂な声を上げたのは、やや離れた場所にいるフッチにも明白だった。
既に縁を切り今は無関係なはずの昔の夫が、自分の身を案じている。アップルからするとそれは確かに不可解な事かもしれない。
しかし同時に、フッチには元夫である彼の心情も理解出来てしまうのだ。
アップルの元夫は若い頃から女性関係にだらしない男ではあったが、決して人柄は悪くない。お調子者故の軽さと明るさに、かつて愛竜ブラックを喪い塞ぎ込んでいた当時のフッチは随分と救われたものだ。
そんな彼の性格からすれば、例え別れたといえど未だアップルの事を気にかけているのも不思議ではない。いや、むしろそんな彼だからこそ、と言うべきか。
「………。何よそれ。まさか、それを確かめるためだけにここまで来た、とか…?」
「さっきからそう言ってんだろ。ホント疑り深いよなー、お前って」
「疑ってなくちゃ軍師なんて務まらないわよ。あなたの場合は尚更ね」
「うわ、ひっでぇなー。昔の旦那にそこまで言うかフツー?」
「だからこそ、よ。…結局、私達は根本的に合わなかったのよね。性格も物の考え方も、全部」
「でもよー、オレのそういうとこが好きって言ってたのもお前だろ? だから結婚しようって事になったんじゃん」
「ん……。そ、それはそう、だけど…」
その途端、これまで毅然としていたアップルの口振りに初めて動揺が見られた。狼狽えたという事は、恐らく図星を突かれたのだろう。
「…何度も言うけど私、もう二度とあなたとヨリを戻すつもり、ないから。どうせまた別の女の子に目移りするに決まってるもの」
「……分かってるよ。こういう話する時のお前は死ぬほど頑固なの知ってるし、もう無理強いするつもりなんてない。それに、オレも他の子に目移りしないとは決して言い切れねーし」
「ふふ、それが賢明ね。…お互いに」
──そういえば、アップルの方は彼をどう思っているのだろうか。ふとフッチの中にそんな疑問が浮かんだ。元夫に対する態度や口調こそ素っ気ないが、そこまで彼を邪険に扱っている感じでもない。
浮気された女性の立場になってみれば、もっと彼の事を憎んだり妬んだりしても良さそうなものなのだが。「あんな奴ともう二度と会いたくない、顔も見たくない」と絶縁されてもおかしくはない。
しかし、これまでの二人の会話を聞く限り、彼女達の間に険悪さは一切感じられないのだ。良くも悪くも遠慮がなく明け透けで、清々しいまでに二人の関係はあっけらかんとしている。
この二人がかつて夫婦だったと言われても半ば信じられないくらいだ。
「でも、たまにこうして会いに来るくらいなら良いだろ? 昔のよしみでさ」
「今日みたいに突然来られたら困るわ。私だってそれなりに忙しいのよ。あなたと違って」
「ほうほう。つまり、前もって連絡したら会いに来ても良い、って事だよな?」
「……解釈はお任せするわ。どうぞご自由に」
「はいはい、分かったよ。ったく、昔からホント素直じゃねぇよな…」
「…あら? 何か言ったかしら??」
「いいえ~。何でもないですよ~っと」
「んもう、何よそれ。……ばか」
まるで子供のようなやり取りを続ける彼らにフッチは思わず吹き出していた。やはりこの二人、あの頃と相変わらずだ。それぞれの立場や取り巻く環境は異なれど、本質的なところは変わっていない。
もしかしたらアップルは今でも別れた彼を、あの人の事を──。
「お前の言う通り長居するワケにもいかねーし、オレそろそろ行くわ。んじゃな」
「…あ…! ね、ねぇ。ちょっと待って」
「ん?」
「……今日、会えて嬉しかった。あと……心配してくれて、ありがとう…」
そう呟いた時のアップルの声はあまりにもか細く、遠くから聴こえる微かな喧騒にすらかき消されるほど心許ないものだった。
しかしながら、その声を聞き逃さなかった者がこの場に二人。
そのうちの一人は彼女の側にそっと寄り添い、もう一人はそんな彼らにそっと背を向ける。
(…行こう。これ以上は流石に野暮ってもんだ)
アップルが言っていた通り、あの二人は今後も復縁するつもりはないのだろう。そうしたところで結果は目に見えている。きっと同じ事の繰り返しだ。
もしかしたら彼女達の場合は結ばれる事、即ち夫婦という決まりきった型の中に納まる事で互いを傷つけ、自身をも苦しめていたのかもしれない。
結ばれるだけが縁ではない。時には距離を置く事で気づく事、見えてくるものがある。一度別れて袂を分かったとしても、相手への想いが完全に消え失せたとは限らない。
それならば他人と別れるというのは実はとても前向きな行いで、他人とより深く繋がるという事になるのではないだろうか。
離れ離れになったからこそ、きっとあの二人は共に幸せになれるだろう──そんなあべこべで矛盾した確信を抱きながら、フッチは静かにその場を後にした。
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