二つの川のほとりで
英雄戦争一時休戦の合間を縫い、その日リリィはデュナン国へと遥々足を延ばしていた。
ビュッデヒュッケ城から更に東に位置する、かつてジョウストン都市同盟とも呼ばれていた地。自身の故郷であるティントも以前はその都市同盟に名を連ねており、15年前の戦いに関わっていた。それ故にリリィとも縁浅からぬ場所である。
デュナン統一戦争──世界史に名を刻み、今なお語り継がれる大きな戦の一つであるが、当時幼かったリリィはその時の事を鮮明に憶えている訳ではない。むしろ記憶はぼんやりとして曖昧だ。
彼女にとっての統一戦争は化け物、もとい吸血鬼に誘拐された恐ろしくも腹立たしい過去。そして何より助けにきてくれた『彼』がとても優しくて、おとぎ話の王子様のようだった事。リリィがはっきり憶えているのはそれぐらいだ。
今回リリィが訪れたのはデュナン国トゥーリバー市。国の中では西寄りにあたる町である。
特筆すべきは異なる三つの人種がひしめくように暮らしており、それぞれの居住区が二本の川によって分かたれている点だろう。
昔は不仲で諍いが絶えなかった各人種だが、統一戦争時の共闘を経て、その関係もかなり改善されているようだ。現在は交流が積極的に行われているようで、異種族同士の交友、交際も珍しくないと聞く。現にここに来てから、人間とコボルトの子供同士が楽しく遊んでいる様子や、ウィングホードの男性と人間の女性が仲睦まじく手を繋いで歩いている光景をリリィは何度か目にしていた。確かに時代は変わりつつあるという事なのだろう。
ここはミューズやサウスウィンドゥほど賑わっている訳ではないし、グリンヒルのような立派な学校がある訳ではない。しかしながら、この町には他の都市にはない魅力があるのは否めなかった。
(着いたわ。ここね)
しばらく歩き続けたリリィは、とある一軒の建物の前で立ち止まった。見たところ民家ではない、何かの飲食店のようだ。純和風といった雰囲気で、築十数年といったところだろう。
二つの川を繋ぐように建っているそれは決して大きな店とは言えなかったが、自然なくらいその土地にしっくりと馴染んでいる。ガラガラとやけに喧しい音のする引き戸を開けると、リリィの眼前には更に騒がしく、賑やかな景色が広がった。
「女将さん、いかの酢味噌和え一つお願い!」
「私は鯖の塩焼きで!」
「あ、こっちには三種の唐揚げセットをひとつね」
「あいよ! 今すぐ作るから、ちょいと待ってておくれ!」
扉を開けた途端、狭い店内に飛び交う声の数々。女将と呼ばれたその人物は、既に満員に近い卓を順に駆け回り、客の注文を取っていた。動きやすいよう着物の袖をたすきでまくし上げ、さばさばとした男性的なその口調からは、生来の血の気の多さや気風の良さを感じさせる。
「女将さぁん、もう『薬』がなくなっちまったよぉ…。薬飲まねぇと駄目だ…死んじまう…! だから早いとこ、俺に追加で薬を…!」
「はぁ⁇ 馬っ鹿野郎! なーにが薬だ! 結局おめぇはただ酒が飲みてぇだけだろーがッ!」
「いだッ!!」
そう言って女将は声をかけてきた常連らしき男性を睨み、軽く小突いた。瞳に宿る野生じみた鋭い眼光には、見る者を黙らせる迫力がある。──この女将が只者でない事は、その時点で明白だ。
「てか何度も言ってるけどなぁ、ここは料理屋だ! 居酒屋じゃねーんだよ! ふざけんな!! …てかいい加減家帰って寝やがれ! 身体壊すぞ!!」
「ふへへへ…。もしかして、俺のこと心配してくれんのか…? やっぱ女将は良い女だよなぁ…。ふひっ、ふひひひひ…」
「う、うるせぇっ!! 誰がてめぇの心配なんかするかよ! 気色ワリいっ!」
表向きは口が悪く乱暴ながら、客への気遣いや面倒見の良さを隠しきれない辺りに女将の人間性が表れている。現に男性客の方も不快に思っている風はなく、むしろ満更ではなさそうだ。
(ふぅむ…。これは、どうしたものかしら)
活気づいた店の様子に、普段は傍若無人なリリィが珍しく尻込みしてしまっていた。どう切り出して良いか分からなかったからだ。久々の再会故に、柄にもなく緊張していたのかもしれない。
一方の女将は入り口の前で突っ立っている客を不思議に思ったのか、ようやくこちらへと声をかけてくる。
「ん? あぁ、お客さんだね。いらっしゃい! 気づかなかったよ、悪い悪い…ッ!?」
その瞬間、女将の動きがピタリと不自然に止まった。まるで重大な事実に気づいたかのように。目の前にいる人物が果たして『本物』なのかと、半ば疑っているかのように。
「ふふっ、相変わらずみたいね。お店を始めたって聞いたから、もっと色々落ち着いてるのかと思ったけど」
「ち、ちょっと待ちな。てかあんた……あんた、やっぱり…!」
女将の反応が楽しくて、リリィはくすりと笑った。慌てふためいた様子で口をパクパクとさせるものだから、少しからかいたくなってしまったのだ。
今のやり取りで確信を得た女将──先の統一戦争では、灯竜山三兄妹の紅一点として名を馳せた元山賊。
そんな元山賊の彼女が現在店を経営していると聞きつけ、こっそりトゥーリバーまでやって来た──統一戦争時はまだ幼く非力だった少女。
懐かしい記憶を辿りながら、二人は互いの名を口にした。
「あ、あんた…リリィ!? リリィなのかい!?」
「お久しぶり、ロウエンお姉ちゃん」
* * *
「いや~、こいつはたまげた。まさかあんたがここに来てくれるなんてねぇ。…本当、久しぶりだね」
湯呑みと小皿をテーブルへ置くと、ロウエンはしみじみと呟く。
客席へ案内されたリリィはいただきます、と軽く会釈をし、早速小皿の中のお通し──タコの酢の物を口に含んだ。途端にタコの張りのある食感と弾力、酢のさっぱりした風味が心地良く口の中で交わり、長旅で疲弊したリリィの心と身体を癒していく。
「てか来てくれんなら、連絡ぐらいくれても良かったのによ。こっちにも心の準備ってもんが必要だろ?」
「あら、心の準備なんてされたら困るわ。だってわたし、お姉ちゃんをびっくりさせたくてわざわざここまで来たんだもの」
「ははっ、言うねえ。このおれをここまで驚かせるたぁ、あんた将来大物になるよ」
「お姉ちゃんにそう言ってもらえて光栄だわ。まぁ、今以上に有名になっちゃうのもどうかと思うんだけど。大っぴらにデートとか出来なくなっちゃうわ」
「ははははは! しばらく見ないうちに口まで達者になりやがって! でもよぉ、そういう口のデケェ奴は嫌いじゃないぜ。おれは」
おどけた口調のリリィに、心底愉快とばかりにロウエンはガハハと声を上げて笑った。その豪快な笑い声も、ぶっきらぼうな話し方も、実は笑うと少女のようにあどけない表情も、昔と何も変わらない。何もかも全てが懐かしい。
否応なしにリリィの心は、15年前の『あの頃』に引き戻された。
15年前のあの日──吸血鬼ネクロードに攫われた日。
ロウエンも自分と同じように囚われ、ネクロードの城に幽閉されていた。恐怖のあまり泣きじゃくるしかなかったリリィを慰め、励ましてくれたのは他ならぬロウエンだった。同盟軍の助けはもちろんの事、ロウエンがいなければ今の自分はなかっただろう。
事件以降は機会がなくほぼ会う事はなかったものの、それ以来リリィはロウエンを『お姉ちゃん』と呼び慕うようになった。リリィにとっては彼女もまた、大切な命の恩人に違いないのだから。
「あんたが英雄戦争に参加してるって話はコウユウから聞いてたけどよぉ、正直ちょいと心配してたんだぜ? でも何だかんだ元気そうでほっとしたよ」
「ああ…マルロ経由でそっちに話がいってたのね。性格正反対なくせに昔っからずっと仲良いのよねぇ、あの二人」
「だよな。でもちょくちょくうちら三兄妹の面倒見てもらって、うちの店の資金援助もしてもらって、マルロには頭が上がらねぇんだ。本当ありがてぇよ。あんたからも今度、マルロに礼言っといてくれ」
「うん、分かったわ。…伝えとく」
「女将さんご馳走様! お代、カウンターの上に置いとくからね」
「おう、ありがとな! また来てくれよ!」
食事を終え店を後にする客を見送りながら、ロウエンが笑顔で手を振る。そんなロウエンと未だ客で賑わう店内をまじまじと眺め、リリィは切り出した。
「てかさ、すごく繁盛してるのね。もう10年以上やってるんだっけ? それだけ長く続くって、凄い事よね」
「ふふん、まあな」
ロウエンは軽く鼻を鳴らし、得意げな表情を見せた。自身の店を称賛されたのが嬉しくて仕方ない様子だ。
「何たってうちの店は、食材にすげぇこだわってんだよ。扱ってる食材は朝一で、かつ厳選に厳選を重ねて仕入れた物ばっかりだ。味付けも客の好みに合わせてちょこっと変えたりするんだぜ。色んな地方からお客が来てくれるからな、退屈させないように色々な国の味付けを研究してんのさ」
「へぇー…。そうなのね」
「極めつけは、美人女将が一人で切り盛りする料理屋ときたもんだ。そんなの繁盛しねぇワケねーだろ?」
そう言ってロウエンはニヤリと笑った。冗談めいたその表情は反面、修羅場をくぐり抜けた人間特有のある種の強かさを帯びている。ほんの少しだけ、経営者としての彼女の一面が顔を覗かせた。
「…あれ? そういや、お姉ちゃんってさぁ」
「あん? 何だい?」
「お姉ちゃんって、独身? 結婚してないの?」
「うぐ…っ!!」
ふとリリィから投げかけられた問いに、ロウエンは言葉を詰まらせる。その件には触れてくれるな、と彼女の表情は暗に語っていた。
昔よりは年齢を重ねた印象こそあれ、ロウエンは未だ若々しい容貌を保っていた。年齢は40代前半だが、化粧せずともしっかり艶のある肌。そして胴体に乱雑に巻きつけたサラシからこぼれ落ちそうな、存在感のある豊かな胸。
がさつな中にそこはかとなく漂う、女性ならではの色香──ロウエンはそれを確かに持ち合わせていた。男性客の比率が大きいのもそういう理由なのだろう。
「お姉ちゃん美人だしスタイル良いし料理も上手いし、まあ言葉遣いはちょっとアレだけど、性格だって悪くないし。絶対モテない訳ないと思うのよねー。ね、どうして? どうして結婚しないの?」
「ちっ、ちょいちょいトゲのある言い方しやがる。…まあ、改めて訊かれるとなんでかな…。なんつーか、性に合わねぇんだろうな」
「性に合わないって、何が?」
「一人の男と連れ添って所帯持って、一つ所にとどまる…みてぇなのがさ。店は好きだからずーっと続いてるけどよ。結婚とかは絶対向いてねーよ、おれには。正直面倒くせぇしな」
「ふーん、そういうものかしらねぇ」
「ていうかよ、おれの話はどうでも良いだろーが! 問題はリリィ、あんたの方だ」
「は? …わたし??」
突然こちらに話が向けられたせいか、リリィは動揺している。
「聞いたぜ。…あんた、フッチの奴と付き合ってるんだろ?」
「ッッッ!?!?!?!?」
ロウエンに耳打ちされ、リリィの顔は一瞬のうちに紅潮した。まるで赤いペンキを直接塗りたくられたかのように。
「え? そうなんだろ? ん?? なぁって?」
「んな…っ! ななっ、なんで…それを…ッ!!」
しつこく尋ねてくるロウエンに、今度はリリィが狼狽える番だった。まさに形勢逆転だ。この場でまさか彼の名前を聞く羽目になろうとは。
しかも何故、ずっと会っていなかったロウエンがその事を知っているのか。確かに自身は要人の娘であるが故、全くの無名という訳ではない。遠く離れたこの地にもその事実が伝わってしまうくらい、自分は既に有名人だったのか。こんな事ではプライベートも何もあったものではないじゃないか。
様々な疑問が矢継ぎ早にリリィの胸を去来し、ますますリリィの挙動を怪しくさせていく。
「これもコウユウから聞いたんだけどな、あんたの付き人の…サムス、だっけ? そいつが経過報告の手紙の中で、あんたとフッチの事をうっかりマルロにチクっちまったみたいなんだわ。それで一時期ティントのお偉いさん達が騒然となって、てんやわんやだったらしいぜ」
「はぁ!?」
「ま、でも安心しな。幸いあんたの親父さんにはまだバレてないって話だ」
「え…? あ、そうなの? それなら良かった…じゃなくてっ! サムスの奴、なんて事してくれたのよ! ビュッデヒュッケに帰ったらただじゃおかないからね! 覚えてなさいよ!!」
失態を犯した従者への不満を隠せず、リリィは怒りにその身を任せた。一方、そんなリリィをロウエンはニヤニヤと眺めている。
「ふ──ん……。怒りはすれど否定しないって事は…やっぱ本当なんだね。へぇ、あんたとあのフッチがねぇ…へぇー……。やっぱりあん時の事件がきっかけだったってワケかい」
「うっ…。ううぅ……」
ロウエンの含みのある笑みが焼きつき、その舐め回すような眼差しが突き刺さり、リリィは気恥ずかしさで一杯になる。反論する事も叶わず、結局リリィは俯いたまま口を閉ざすしかなかった。
「別に恥ずかしがる事ないだろ。あんただってもう一人前の女なんだ。色恋の一つや二つ、あって当然じゃねぇか。しっかし、あいつもなかなか隅に置けないねぇ…。15年前は竜一筋の可愛いお坊ちゃんだったのに。あんたみたいな別嬪さんに愛されるなんざ、あいつは大層な幸せ者だぜぇ。うんうん」
「ちょ、ちょっとぉ…っ!! や、やめてよお姉ちゃん!」
居たたまれなくなりリリィはひとまず抵抗を試みるが、それがロウエンに効かない事は百も承知だった。今の自分の言葉など小鳥のさえずり、いや、蚊の鳴く音よりも遥か小さく微々たるものだ。それでも照れ臭い気持ちを紛らわせるため、あえてそうせずにはいられなかった。
「おれがあの坊やと同じ軍で戦ってたのはほんの少しの間だったけどよ、あいつは信頼に値する男だと思うぜ。きっと…いや絶対、あんたの事幸せにしてくれるさ。あんたの倍近く生きてるおれが言うんだ、間違いない。安心しな。あんた、男見る目あるぜ?」
「お姉ちゃん…」
そう言って不敵に笑うロウエンに、リリィは大いなる安心感を覚えた。それが口から出任せではなく、自信に裏打ちされたものである事を理解していたからだ。
だからこそ自分の選んだ道は間違いではなかった事──自分が好きになった『彼』をずっと信じていて良いのだと、リリィは改めて確信していた。
「よぉーし! 今日は可愛い妹分の記念すべき晴れの日だ。あんたらの前途洋々な恋路を祝して、盛大にやっちまうかあ!」
「は、晴れの日って…。わたし達まだそういう段階じゃ…!」
「あ? こまけぇこたぁ良いんだよ。とりあえず、おれが祝いたい日が記念日! っつー事だよ」
「そ、そんなめちゃくちゃな…」
「うるせーな、苦情は受けつけねーぞ。今日は新鮮な川魚が大量に手に入ったからよ。それを使って最高にうめぇモン作ってやるよ。へへっ、首を長ーくして待ってな!」
一方的にそう言った後、ロウエンは調理のため厨房へと入っていく。その足取りがあまりにも軽やかで本当に嬉しそうなものだったから、引き止める事も出来なかった。
しかし、何故だろうか。そんなロウエンの強引さや破天荒ぶりが、今のリリィにはとても居心地が良い。初めて訪れたはずのこの場所に愛着が芽生え始めている事に、我ながらリリィは驚きを隠せなかった。でも、こんなのも悪くはない。
やがて厨房の奥から音が聞こえてくる。食材を切り刻む包丁の音だ。その小気味良い音色に耳を傾けながら、リリィはロウエンの作る手料理を今か今かと待ち続ける。
そして自身を温かく迎えてくれた彼女に、彼と結ばれた事を喜んでくれる命の恩人に、今でも大切な姉のような存在に──リリィは心の中でそっと感謝の言葉を告げた。
(ありがとう。……お姉ちゃん)
この地に流れる川のように時代は緩やかに、されど確実に移ろっていく。その大きな流れを、源流をせき止める事は誰にも出来ない。時の流れに逆らって生きるのはとても困難だ。
それでもこの世界には変わらないものもある。長い年月を経てなお強まる絆がある。だからこそ人は強くなれるのかもしれない。
変わっていくものと変わらないもの。その両方を拒む事なく静かに受け入れ、人は生き、営みを続けていく。その先に明るい未来、幸せがあると信じながら。
二つの川は人々の暮らしに寄り添い、その生き様を厳かに見定める。まるでこの地の生き証人であるかのように。
二つの川のほとり、深まる二人の縁。その行方を二つの川は今日も静かに、かつ優しく見守っていた。
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