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透けてる心臓


 残穢を辿り、玉犬の走る方へと駆けて行く。帳が下された空間は、光の一筋も入らない。文字通りの真っ暗闇になった中で、伏黒と釘崎は迷路のような廃墟を奔走していた。カビと鉄が腐敗した悪臭が、二人の鼻を突く。コンクリートは既にボロボロと崩れていて、形を保てている方が奇跡と言ってもいい。息苦しくなるほどの無音は、不気味さを引き立てていた。ヒビ割れた床をひたすら進む。廊下だったような場所には、窓ガラスの破片が散らばっていた。踏んでいくと、パキパキと音がする。奥へ入り込めば入り込むほど、圧が重くなっていった。一歩を踏み出すたび、頭の上から抑え付けられる鈍痛が増す。
 それでも、伏黒と釘崎は足を止めなかった。中にいる呪霊は報告通り、特級に相当するものだろう。今まで出会ってきた、特級呪霊の呪力と大差がない。逃げたくなるほど、凶悪だった。入り組んだ道もどきを潜り抜け、玉犬が動きを止める。何時間も迷い続けていた感覚があったが、これでようやく決着をつけられる、ということだ。二人は顔を見合わせ、頷きあう。禍々しい混沌の中へと、足を踏み込んだ。


 泥のように疲れた体を引きずり、伏黒と釘崎は帳から姿を現す。辺りはすっかり夜になっていた。それなりに時間はかかりはしたが、二人で特級を退けることができた。呪力の消耗が激しい。伏黒は領域展開せざるを得なかったし、釘崎も呪霊の動きに付いて行くのに必死だった。頭が全く働かない。手足は痺れて震えている。伏黒は目眩に襲われた。今にも倒れそうになるのを、残った体力で堪える。早く、監督補助の誰かに、連絡をしなければならない。横にいる釘崎を横目で確認した。真っ直ぐに整えられた茶髪が乱れている。
 「帰ってシャワー浴びたい」
 呻くように釘崎がぼやいた。げんなりと肩を落としている。立っているのもやっとのはずだ。いつものうるささはなりを潜めているが、態度は何も変わっていない。伏黒はその様子にほんの少しだけ安心して、電話をかけた。電子音の後に、事務的な人間の声がする。伏黒の第一声が若干掠れはしたが、なんとか意思疎通をとることができた。二十分ほどで車が迎えに来るらしい。それまでの間、二人はその場で待機を命じられた。指示がなくとも、どうせしはらくは動けそうにない。怠く重たくなった身体を、伏黒は脆いコンクリートの壁に預ける。釘崎の方は、既に地面に座り込んでいた。無理もない。過去の二人だったら、生きて帰ってくることすら難しかっただろう。一級呪術師二人でも、特級呪霊を祓うのは、相当な技量が必要とされる。五体満足でいられるのは、奇跡としか言いようがない。今回の任務を当てがった担任の顔が浮かんだ。普段と何一つ変わらない軽々しい態度で、「二人で行けば特級も祓えるでしょ」などと言われた時は、本気で拳を構えた。五条の適当さと軽薄さは、いつまで経っても治らない。
 瞼が恐ろしく重たかった。鉛でも乗せられているのだろうか。伏黒はぼやける頭を手放し、そのまま眠りの世界に招かれた。迎えが来ることなど、綺麗に抜け落ちていた。


 じっとりと暑い空気が、伏黒の素肌を包む。纏わりつく湿気が鬱陶しい。額から流れ落ちた汗を拭った。空を見上げると、巨大な入道雲が重く流れている。白く柔らかそうな塊は、悠々と青いキャンバスを滑っていった。風も吹かない嫌な夏だ。吹いたところで、熱気しか訪れない。シャッターが閉まった店の屋根の下で、伏黒は虎杖を待っていた。二人での任務中だった。帰り道の途中、「喉が渇いた」と虎杖が突然言い出し、伏黒は仕方なく日陰で虎杖の帰りを待っている。蝉が忙しなく鳴いていた。虎杖と釘崎が「田舎の蝉はこんなものじゃない」と言っていたのを思い出す。自慢なのか、愚痴なのか、よく分からない口調だった。あの二人が揃うと、夏の騒がしさを連想させる。暑くて、痛いくらいに青い空が、背景にいつも映った。ちょうど、こんな日のような雰囲気だ。
 やることもないので、伏黒は辺りを見渡す。ほとんどの店が、シャッターを下ろしていた。最近、駅の近くに大きな百貨店が建ったらしい。どれだけ人々に馴染みがあっても、新しい流行り物には敵わないのだろうか。ここはいわゆる、廃れたシャッター商店街の典型例だろう。
 ふと、伏黒の中で疑問が生まれた。よく考えてみれば、こんな場所に来た記憶はない。任務の数はこなしてきたが、伏黒の脳内でここに当てはまる思い出は、存在しなかった。なら、ここは一体どこなのだろう。嫌な予感が頭をもたげた。ポケットから携帯を取り出す。虎杖に電話をかけるが、応答はない。変だ。予感が的中した。早くここから退散すべきだろう。伏黒は影の中から足を出した。射抜くような日差しは容赦がない。暑くて茹で上がりそうだというのに、全てが蜃気楼のような紛い物に思えた。今、肌で、耳で、目で感じている実体は本当に現実だろうか。頭を振り、伏黒は余計なことを考えるのをやめる。とにかく、脱出が最優先だった。クリーニング店の曲がり角を越え、歩道を走り抜ける。なぜか、真っ昼間だというのに、人の姿は全く見えなかった。まるで、伏黒一人がこの世界に取り残されたようだ。奥歯を噛み締めて、出口を探す。式神を出そうとして、不意に背後から声がした。
 「伏黒、どったの?」
 数歩後ろに、虎杖がいる。伏黒は安心した。虎杖が無事だったことを、確認しなければならない。だが、肩の力がまだ抜けなかった。振り向くことを、本能が拒絶している。足が地面から動かなかった。コンクリートに溶けてしまっているようだ。虎杖が近づいてくる気配がある。背中に太陽の視線を受け、汗がダラダラと伏黒の全身を伝った。
 「置いてくなよ。寂しいじゃん」
 虎杖の柔らかい声が、すぐ側で聞こえる。伏黒は出ない声で叫んだ。
 違う。置いて行ったのはオマエだ。
 青空にヒビが入り、真夏の世界は音を立てて崩壊した。


 徹夜明けのような頭痛が、伏黒を支配している。頭蓋骨の内側で、ガンガンと殴りつけられているようだった。ベッドからのっそりと起き上がる。携帯を拾い上げた。既に、時刻は昼の一時を回っている。一級術師に昇級してからというもの、伏黒の日常は、不規則な生活サイクルを刻んでいた。朝から晩まで呪霊討伐に追われ、帰ってからは次の昼まで起きない。丸一日眠っていることもよくあった。どう頑張っても、呪術師という職業は安定しない。
 目を擦り、顔を洗いに洗面所へ立った。鏡に映った男の顔は、随分と酷い顔をしている。一言で言ってしまえば、伏黒自身も苦笑いするほど顔色が悪かった。血の気を失い、唇も色が消えている。十分寝たはずなのに、疲れが取れたとは感じなかった。多忙が重なれば重なるほど、疲労は蓄積されていく。前までは欠かさずに読んでいた本も、机の上に積んだまま触っていない。肩を回し、蛇口を捻る。冷水が伏黒の中に溜まった熱を発散させた。この疲れが昨日の特級呪霊の案件のせいなのか、さっきまで見ていた夢のせいなのかは、判断がつかない。まず、何かを考えられるほどの余裕がなかった。歯も磨いて、もう一度鏡を見た。やはり、くたびれた顔の男が一人、そこに立っている。
 伏黒は制服に着替え、隣の部屋の前まで来た。外の蝉の喧騒とは対照的に、部屋はひっそりとしている。コンコン、とノックした。少し間を置いて、「どうぞー」と呑気な声がする。伏黒が躊躇わずにドアを開ければ、虎杖がベッドの上で寛いでいた。何をするでもなく、ただ寝そべっている。伏黒を見るなり虎杖は起き上がって、血の気の引いた顔を指さした。
 「ひっでえ顔してる」
 「疲れてんだよ」
 「じゃあ部屋で休んどけよ。俺は、いっつもここにいるんだし」
 「いや、今話がしたかった。オマエと話してる方が落ち着く」
 伏黒の言葉にふうん、と虎杖は納得したようだった。真っ白なシーツの上で胡座をかく。
 「で、何の話してくれんの?」
 「昨日、釘崎と二人で特級を祓ってきた」
 虎杖の目が大きくなる。そして、光の差し込んだ海面のように、キラキラと輝いた。
 「スゲーじゃん!二人だけで?五条先生もナナミンもいなくて?」
 「だいぶ手こずったけどな。五体満足で帰ってこれた。次はもっと上手くやる」
 伏黒は突っ立ったまま、虎杖を見下ろす。流れるまま、部屋全体に目をやった。物はほぼ整理され、虎杖の私物はどこにもない。最初からあった付属品だけがそのままだった。殺風景な空間は、伏黒の心象を切り取っている。
 「あ、伏黒背また伸びた?」
 虎杖に言われ、伏黒はそういえばそうだな、と思い返す。
 「そろそろ百八十超えるぞ」
 「五条先生くらい大きくなっかな」
 「そこまではいらねえ」
 ニッと笑う虎杖の笑顔を伏黒は一蹴した。会話のぎこちなさに、伏黒が目を逸らす。そうだ。伏黒は虎杖を置いて一級呪術師になり、身長だって伸びてしまった。この先ずっと、伏黒だけが時計の針を進めていく。少し前にいたはずの虎杖を、追い越し続ける。歳をとって、思い出が美化されて、綺麗なだけの喪失が形作られてしまう。世界は虎杖を取り残し、恙なく回っていた。それが普通なのだ。しかし、伏黒だけはまだ認められない。どうしようもない、ということを理解しながら、空虚な偶像に縋っている。自分の情けなさに苦笑が浮かんだ。伏黒は虎杖の前に立つ。
 「虎杖、」
 「ん?」
 虎杖が朗らかに笑った。いつまでも笑っていてほしい。ずっとそう思っていた。
 「…これで良かったなんて、言うなよ」
 伏黒が項垂れて呻吟する。震える両手を力一杯握り締めた。分かっている。虎杖は何度時間を巻き戻しても、同じ道を選んでしまう。それが伏黒の信じた、幸せになってほしかった、虎杖悠仁という人間だった。自分の使命のために、人を守るために、命を懸けられる。自分の死を惜しむ人間がいることを知りながら、「ごめん、ありがとう」と笑うような善人だった。虎杖は笑顔のまま、何も言わない。そこから先の言葉をいくら想像してみても、伏黒には思い至らなかった。
 「伏黒」
 ドアを開けて、釘崎が部屋の前で立っている。伏黒は振り返らない。何もない部屋で、伏黒だけが異物だった。
 「交流会の打ち合わせやるわよ」
 「今行く」
 釘崎は伏黒の背中を眺め、その場から離れた。伏黒も、虎杖がいた部屋から退出する。今度こそ、空室は文字通り空っぽになった。
 一年前、秘匿死刑により虎杖はこの世を去った。両面宿儺の指を二十本集め終え、執行猶予が終わったのだ。虎杖がどんな風に笑い、どんな風に生きていたのか、必死に繫ぎ合わせようとしても、上手くいかない。ピントがぼやけた写真のように、虎杖の存在が曖昧になっていく。日の強い廊下を歩きながら、伏黒はまだ痛む頭で思考した。
 こんなことになるくらいなら、呪ってしまえばよかった。虎杖はきっと、どんな結末を迎えても誰のことも呪わないだろう。それなら、自分が呪えばよかったのだ。伏黒は口を歪める。そんなことをして、何になるのだろう。虎杖の魂を縛りつけ、側に置くことが本当の望みだったのか?違う。ズキズキと頭の中心に鈍痛が走った。虎杖が、平等に幸福を享受できなかった以上、伏黒の願いは潰えている。それでも、虎杖は「これでよかったんだ」と笑うのだろう。正気なままで、未だに消せない虚像を抱く伏黒を見たら、虎杖は笑うだろうか。
 真っさらになっていく向こう岸で、絶え間なく誰かが光っていた。
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