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眠れない夜には


 冷たさと生温さが、虎杖の頬を滑った。ゆっくりと目を開ければ、視界は薄くぼやけている。霧か何かが、そこら中に漂っていた。モヤに混じって、うっすらと潮のにおいが鼻をくすぐる。虎杖は自分の足元や衣服に目を通した。高専の制服のままだ。スニーカーが砂浜を確認するように、踏み込む。ここがどこなのかは、全くわからない。現実のような、夢のような曖昧な世界のように思えた。白く濁った空気は晴れないが、とにかく歩くことにした。
 足を動かすと、きゅっきゅっと軽い音がする。その音に乗ったように、遠くで波が揺れる響きがあった。磯のにおいが強まっていく。海がすぐそこにある筈なのに、一向に見えてこない。まるで虎杖を拒んでいるようだった。それとも、虎杖自身が行くのを躊躇っているのか。どちらにせよ、霧以外の景色を見なければ安心できない。いくら精神が丈夫で堅牢な虎杖でも、このまま歩き続けるのは少々気が滅入る。他に誰もいないという状況も、不安を募らせる要因だった。本当に暖かいのか寒いのかもわからない。温度も空気も作り物のような、異常な空間だ。最早、五感で感じ取っている全てを疑ってしまう。掌が汗ばんだ。足を止めようか、と一瞬悩む。しかし、頭では止まりたい、と思っているのにも関わらず、まるで操られているように足は歩みを進めていた。体が言うことをきかない。意識は確かに自分のものだが、知らない何かに命令されて行動しているようだ。
 虎杖は辛抱堪らなくなって、誰かの名前を呼ぼうとした。だが、何も出てこない。口は息を吸って吐くだけだ。声の出し方はわかっている。だが肝心の、言葉が何一つ溢れない。頭の中のひきだしを、駆けずり回って必死に開け放つ。それなのに、たくさんある筈の名前一覧はどこも空っぽだった。助けは呼べない。助けは来ない。虎杖は一人で砂浜を延々と歩き続ける。足取りは泥に浸かったように、重くなっていた。体が疲れることはなかったが、その代わりに心的疲労が蓄積されていく。いつまで経っても景色が変わらないというのは、想像する以上にストレスが溜まるらしい。どこにも辿りつかないかもしれない、という焦燥もある。白い背景の奥を見通そうとしても、まっさらな闇が広がっているだけだ。
 もうどこにも行きたくない。
砂の鳴く音と近づいてくる波音が、虎杖を支配し始めていた。潮風のにおいが強まる。同時に、周りはずしんと曇りが濃くなった。目の前は全て遮られて、濃霧に閉じ込められる。虎杖が出口を求め、腕をがむしゃらに振った。すると、腕の動きと連動するように、モヤが掻き分けられる。白い闇は消えた。虎杖の薄めた目に映っていたのは、少年だった。顔がぼやけて不明瞭なのに、虎杖には誰なのかすぐに理解できた。嫌になるほど、鮮明に再生される。背後には、暗い色をした海が囁いていた。眼前の風景は見通しがよくなったというのに、空は落ちてきそうなほど鈍く固まっている。虎杖の足がようやく止まった。少年を前にして、心臓が速まる。脈拍は測定不能レベルまで、早打ちを繰り返していた。か細い嗚咽が漏れる。誰のだ。虎杖の口からだった。自分のものとは思えないほど、弱々しく消えそうな声だ。少年が微笑む。輪郭が脆く崩れていく。どろどろに溶けて、跡形もなく消えてしまう。いやだ、と虎杖が少年だった影に近づこうとした。名前も顔もわかるのに、上手く言葉にできない。砂浜の砂が、波に攫われていく。
 「ゆう…じ…な…んで…?」
 どうして。どうして?どうしたら、よかったんだろう。海の向こうに、少年の残骸が連れて行かれる。虎杖は膝から崩れ落ちた。身体中の力が抜けて、何も考えられなくなる。涙の代わりに、空から雫が落ちてきた。冷たい。寒い。痛くて仕方がない。空っぽの中身から、声を振り絞って叫んだ。
 口から音声が飛び出る前に、虎杖は両目をこじ開ける。薄暗い天井は何の変哲もない、日常の一部と化した部屋だ。起き上がると、触らなくてもわかるくらいに汗をかいている。額に浮いた粒を拭い、ベッドから降りた。フラつく足取りで廊下に出る。
 眠れない。ここ最近、虎杖は毎日のように同じ夢を見ていた。さっきまで見ていたのと全く同じ夢だ。寸分違わず、同じ場面で目が覚める。そのせいで、睡眠が浅い。夜中に起きてしまうと、早朝までほとんど覚醒しっぱなしだった。二度寝が不可能なのだ。あの夢を見るのが恐ろしく、とても寝ようという気にならない。良くない状態だとはわかっているが、他に対処法がわからなかった。夢を見るようになってから、一週間が経とうとしている。三日目の時点で家入に相談をして薬をもらったが、それでも三、四時間すれば起きてしまった。全く寝れないよりは、幾分かマシだ。マシなのだが、健康に支障をきたしているのは、虎杖自身が一番よくわかっていた。成長期で食欲が湧かないのは、非常に問題だ。
 廊下はひっそりと静かだった。蛍光灯も付いていない。外の薄明かりのお陰で真っ暗ではないが、それでも心細くなる程度には闇が強かった。窓を少しだけ開ける。窓のロックの解錠音が小さく廊下に響いた。無音の風は虎杖の頬を通り過ぎる。夢の中で嗅いだ潮のにおいは、どこにもない。外の世界もほぼ暗闇だった。多少の街灯と月光が、主な光源になっている。銀色に照らす光を見上げ、虎杖はゆっくりと目を閉じた。瞼の裏で、順平の姿が克明に形作られる。自分に助けを求めていた。本気で、助けたいと願った。心の底から、そう思っていた。忘れてない。忘れられるわけがない。あの夢は確かに悪夢だったが、あの夢がある限り、虎杖が自分の罪から逃げることはないのだ。そんなことがなくとも目を背けたりなどしないが、虎杖にとっては精神を安定させるものでもある。日常生活で突然、あの時のことがフラッシュバックでもしたら、取り乱すどころではない。任務中なんて尚更だ。迷いが生じれば、呪力が濁る。そんなことになったら、それが原因で他の誰かが死ぬかもしれない。
 しっかりしなければ。そう思っても、頭は勝手にあの日のことを繰り返す。正しい死、というものに自問自答を試み続けていた。そんなもの、本当にあるのだろうか。目を開けて、窓から上半身だけ飛び出させる。夜風の心地よさが、不眠へのわずかな救いだった。ふわぁ、とあくびが出る。そんなに眠いなら寝てくれよ。虎杖は自分の体に訴えるが、ただ、目から涙の筋が流れるだけだ。うつらうつら、と頭が重くなってくる。簡単に眠れる気はしないが、ベッドに横になっておくだけでも楽になるはずだ。虎杖はぐっと背中を伸ばし、名残惜しい静寂な風を浴びて、窓を閉めた。施錠の具合も確かめる。安心して部屋に戻ろうとしたとき、隣の部屋のドアが不意に開いた。闇夜に紛れてしまいそうな黒髪が、部屋から出てくる。伏黒が人影に気づき、眉根を寄せた。不機嫌そうな顔が一層険しくなる。虎杖は仕方なしに、右手を挙げた。
 「おっす」
 「…虎杖?」
 驚いたように目を見開いて、伏黒はドアを後ろ手で閉めた。相手が虎杖だとわかったからか、早々に警戒心が解かれている。
 「ちょっと寝れなくってさ。伏黒も?」
 「まあ、そうだな」
 伏黒が頷く。虎杖をじっと見つめてから、流れるように窓の向こうへ顔を逸らした。淡い月明かりに二人が光っている。今は何時だろうか。虎杖が伏黒の方へ視線を投げた。
 「今何時かわかる?」
 「多分、三時前くらい」
 「そっか、あんがと。俺もう部屋戻るわ」
 虎杖はニッと笑顔を作り、自分の部屋へと歩く。いつも通りだ。伏黒から見ても、虎杖は前に出会った頃と変わらない。しかし、何か違和感があった。明るさの中に、微量な悲哀が混在している。一人で廊下にいた後ろ姿は、もう会えない誰かを待っているように見えた。虎杖がドアノブを握る。
 「虎杖、」
 伏黒は思わず、声をかけていた。暗がりの中で、丸い両目が伏黒を振り返る。
 「ん?」
 虎杖は素直に動きを止めて、伏黒の続きを待っていた。何か言葉を取り繕おうとしても、そこから先、伏黒の喉はつっかえてしまう。言語化できそうにもない、困難な感情だ。心配している。面倒なことを取り除けば、この一点のみなのに、口からは上手に変換できない。虎杖なら、笑って「大丈夫」と流すことを知っているからだ。本当は平気じゃないということも、伏黒は察している。夜も遅い。これ以上引き留めるのは、流石に気が引けた。真っ直ぐな視線から外れ、「いや、なんでもない」とだけ答えた。虎杖は特に気にする様子もない。
 「おやすみー」
 「…ああ」
 バタン。ドアが二人を断絶した。伏黒は光のささない影の隅で、虎杖の横顔を何度もなぞる。寂しげに見えた表情が、いつまで経っても脳内で揺れていた。


 少しばかりの肌寒さを感じながら、虎杖は上体を起こした。携帯に目をやる。朝の六時ちょっと過ぎだ。今日は早朝から任務だと言われている。寝過ごすより、間に合う方がいい。満足できるほどではなかったが、ほんの少しだけ疲れはとれた。伏黒と別れ後、吸い込まれるようにベッドで寝たらしい。食欲は、相変わらずない。素早く制服に着替えて、軽くでも何かを口にしようと、部屋から出た。虎杖が大きなあくびをした数秒後、廊下の奥の方から伏黒と釘崎が姿を現す。二人も制服を身に纏って準備万端、という状態だった。
 「おはよ」
 「おはよ。これからアンタを起こしに行くとこだったの。なんか食べる?」
 「でも、もう出るんだろ?朝早いって聞いてたし、途中でなんか食えばいいや」
 「終わった後になるかもしれないぞ。本当に大丈夫か?」
 「俺のこと、食いしん坊かなんかだと思ってんの?大丈夫だって。あんま食欲ねえし」
 虎杖は快活に笑ってみせた。「さっさと行こうぜ!」と二人を促す。虎杖に置いていかれた伏黒と釘崎は、顔を見合わせた。明らかに、虎杖は無理をしている。普通のようでいて、顔色も万全の雰囲気ではなかった。そもそも、目の下の隈が酷すぎる。少なくとも、数日はしっかりと睡眠をとれていないのではないか、というのが二人の見解だ。伏黒は昨夜の虎杖を思い出す。暗色の世界で、迷子のように立ち尽くす虎杖が、ぼんやりと浮かんだ。
 ズンズン前を進んでいく背中の後ろで、釘崎が声を小さくする。
 「…ねえ、アイツ大丈夫じゃないでしょ。休ませた方がいいんじゃない?」
 「かもな。だけど、是が非でも出て行くだろ。虎杖は」
 「大人しくしてるようなバカじゃないしね。でも、それで何かあったら今度こそ、」
 釘崎は自分で続きを飲み込んだ。言ってしまえば、本当のことになってしまう気がした。黙りこんで、「ウンザリする、」とだけ口をへの字に曲げた。伏黒も、完全に同意だった。虎杖のことになると、何故だか冷静さが欠け始める。勝手にいなくなって、勝手に戻ってきたどうしようもない奴だ。しかし、再会の喜びはどんな言葉にも代えられない。もう陽の当たらないだろうと思っていた日陰に、再び太陽が当たったのだ。また、失ってしまったら、と考えてしまうと頭の中が曇り出す。伏黒の中であの日のことが、スローモーションで再生された。前のめりにゆっくりと、虎杖の体が倒れていく。晴天のように笑う顔はもう見れない。周りを照らす声も、聞こえてこない。虎杖悠二は死んだ。伏黒の目の前で、死んでしまった。雨曝しにされた遺体が、鮮明に蘇る。もう動かない体にぽっかり空いた穴は、伏黒にも風穴を空けていった。あの日からずっと、伏黒は虎杖の死を抱いて生きていた。自分の罪だと、責任だと、認識して歩いていた。
 虎杖が帰ってきたことは奇跡でしかない。何度も起きるような出来事ではないのだ。奇跡か偶然か。どちらにせよ、次はないだろう。だから、伏黒も釘崎も強くなると誓った。置いていかれないように、虎杖の隣で一緒に歩いていくと決めたのだ。
 「なるべく俺達で片付けるぞ。虎杖がへばる前に終わらせる」
 「誰に言ってんのよ。わかってるっつーの」
 伏黒と釘崎は、アイコンタクトで意思疎通を交わす。二人は二人で、虎杖がいない間に育まれた友情があった。信頼に事足りる相手だ。いつまでもゆっくりとついてくる二人に、先頭で待っていた虎杖が振り向く。
 「オーイ!早く行こうぜー!」
 ブンブン手を振って、伏黒と釘崎を待っていた。二人の心配をよそに、虎杖は無邪気だ。ふぅ、っとため息をつく。三人は並んで、伊知地の乗った車へ乗り込んだ。


 場所は都内の私立高校だった。しかも、都内の中心地に構えられた進学校らしい。巨大なビル群を通り抜け、車が停車する。車から降り、到着して三人から出た感想は、「デカイ」の一言だった。どこかの有名な銀行かと思うほど、立派な建物に映る。クリーム色を基調とした校舎の前に、使い道が不明の噴水が取り付けられていた。建物のど真ん中に設置されている時計盤は、どこかの外国を連想させる厳格さがある。つい最近リフォームが終わったばかりで、新築同然の清潔感を感じさせた。
 伊知地に見送られ、三人は帳の降りた学校へ入っていく。虎杖と釘崎は終始興奮しっぱなしで、二人して校舎のあちこちに目を光らせていた。教室の備品に指さして、はしゃいでいる。イマイチ緊張感がない。伏黒は一人息をついて、玉犬に偵察を任せた。中で呪霊が見つかれば、知らせに来るようにしている。三人が校内を見て回っている間は、まだ呪霊らしきものに遭遇しなかった。至って平穏なものだ。静けさが廊下を浸している。本当に呪いがあるのかさえ、疑わしい。それは虎杖と釘崎も感じているようだった。二人はそれぞれ首を傾げている。
 「なーんか、全然出てこないわね。気配も感じないし」
 「隠れてるとかじゃねえの?」
 「だとしても、残穢が弱すぎる。隠れてるってよりは、もういないって見たほうがいい」
 どれだけ巧妙に姿を隠したとしても、呪術師が気づかないことは、ほとんどないだろう。それもそうか、と虎杖と釘崎は納得する。では、なぜ認知できないのだろう。まさか、本当に存在しないのだろうか。任務の話によれば、校内の至る所で被害が出ている、という話だったのだ。これでは、拍子抜けである。呪霊がいないなら、それに越したことはない。しかし、呪術師が来たその日にピタリと呪霊がいなくなるのは、どこか違和感があった。何か仕組まれている。三人は二階を見回り中だった。校舎は五階まである。エレベーターが常設されているのを知った時は、伏黒も驚いた。都会の私立は金のかけ方が違う。とは言え、階段を使った方が、途中で呪霊を発見できる可能性がある。虎杖と釘崎はエレベーターを気にしていたが、結局階段の上り下りを繰り返した。
 三人が四階に登っている途中、伏黒の出した玉犬が上の階から駆け下りてきた。どうやら、五階に呪霊の気配があるらしい。三人は大急ぎで階段を上っていく。玉犬の案内に付いていくと、そこは音楽室だった。「第一音楽室」のプレートが壁にある。扉は分厚く、頑丈だった。音漏れしないように、防音が徹底されている。虎杖がドアを開けようとしても、ガチャガチャと鍵に阻まれた。三人は顔を見合わせる。索敵しやすいように、学校側へ教室の鍵は開けておく依頼をしてある筈だ。つまり、中に誰かいる。閉じ込められているか、もしくは。
 「どうするよ」
 虎杖が真面目な表情で、二人を交互に見る。
 「式神に内側から鍵を開けさせる」
 「アンタの術式便利よね」
 伏黒が玉犬に命じ、扉の奥へ影が通り過ぎた。すぐにガチャッと音がし、三人は音楽室へ飛び込む。入ってすぐに虎杖たちを迎えたのは、ピアノの音色だった。一度は聴いたことがあるような曲調だが、題名は出てこない。音の方へ顔を向ける。黒いピアノの前で、少女が泣きながら必死に指を動かしていた。すぐ隣で、スーツの男が腕を組んで立っている。緊張感の中で旋律が微妙にブレた。
 「あ、今間違えただろ。はい、やり直しー」
 「ううぅ、ごめんなさ、いたいっ、痛いよぉ!ごめんなさい!ゆるしてくださ、」
 少女の背後を、芋虫のような呪霊が這いずり回っている。後ろから抱きしめるように、ギュウッと細い指へ絡みついた。ギギッ、と骨が鳴るような嫌な音がする。少女の甲高い悲鳴は壁に吸収された。三人の殺気が底から湧き上がる。
 「何してんだ。その子から離れろ」
 虎杖が温厚な顔を消し去り、地鳴りの如く声を低めた。横にいた二人も、それぞれ臨戦態勢に入る。体全体に呪力が篭っていくのがわかった。スーツの男はやっと三人の方に気がいったようで、驚きつつも、柔和に笑みを浮かべる。見覚えがある顔だ。教員一覧の中にいた、教師の一人だった。五条よりもいくらか若く見える。男は歯を見せて笑い、女生徒の肩に手を置いた。少女は怯えで唇を震わせる。
 「珍しいだろ?教師と呪術師を掛け持ちしてる奴なんて、早々いないからね。どっちも人手不足だから、俺みたいな奴に付け込まれるんだよ。あ、俺は呪詛師ってヤツだっけ?どっちでもいいか」
 「…今までのも、アンタがやったのか」
 虎杖の質問に、男はニコニコと答える。
 「うん、そう。俺はガキが嫌いだった。だから、ガキ共を甚振れる仕事をしよう、って思ったんだ。面白いよ。俺が犯人だって知らずに、『センセー怖いよーたすけてー』って泣いて縋ってくるバカなガキを見るのは」
 「ペラペラうるせぇよ。中身も薄っぺらい男が教師だ?笑わせんな。オマエには反面教師って言葉も勿体ねぇよ、クソ野郎」
 釘崎が釘と金槌を構える。ピキ、と顔が強張っていた。伏黒は努めて冷静さを装い、状況を整理する。男は呪霊を操っていた。今までの被害の原因も、この男の手持ちの呪霊だろう。重く息を吐いて、伏黒は二人に囁いた。
 「相手は呪霊使いだ。殺さずに拘束するぞ」
 「オッケー、三分の二殺しね」
 「とりあえずぶん殴る」
 頼もしいのか、物騒なのか判断がつかない返事だったが、それ以上は突っ込まない。三人のやり取りを愉快そうに眺めていた男は、女子を突然椅子から立ち上がらせる。背中に回っていた呪霊が、少女を縛り付けていた。男と少女が窓際まで歩く。すぐそばには、出入り口とは別のドアがあった。音楽準備室のようだ。少女は涙を落としながら、目だけで虎杖たちに助けを求める。声にならない声が掠れていた。人質をとられてしまっている以上、下手には動けない。奥歯を噛み締めて、男を見逃すまいと踏ん張っている。
 開け放たれた窓から、涼しい風が吹き込んできた。薄緑色のカーテンが広がる。男は笑って、呪霊ごと生徒を窓から突き落とした。ゆっくりと、地面へ細い体が投げられていく。時が進むよりも早く、虎杖の足が動いていた。なんの躊躇いもなしに、自分も窓の外へ放り出る。
 「虎杖!」
伏黒と釘崎が虎杖の背を追いかけようとしたが、男はその隙に準備室のドアを開けて、場から離れた。二人は大きく舌打ちをし、伏黒が影絵で鵺を呼び出す。
 「虎杖と学生を捕まえろ」
 伏黒の命令を聞き、鵺は真っ直ぐ飛び去った。間に合え、と強く念じながらもう一つ式神を呼ぶ。玉犬に男を追跡させた。釘崎も男を追いかけて、走り出している。伏黒も遅れて後に続いた。準備室の中は、男が出した呪霊がぞろぞろと蠢いている。玉犬が有象無象を食い散らし、釘崎は男の通る横の棚に向かって、釘を投げ飛ばした。綺麗に棚へ的中した釘が、呪力を帯びる。流れ込んだ釘崎の怒りは、男へ向かって勢いよく倒れた。驚きで顔を上げたときにはもう遅い。
 「下敷きにでもなってろ」
 釘崎の言葉を聞かないまま、棚が男の上に乗っかっている。伏黒は呪霊を片付け、ぐちゃぐちゃになった部屋を見回した。もう呪力は感じない。ひとまずは安心だろう。男の方へ視線を落とした。指先一つ、ピクリとも動かない。釘崎も恐る恐る、という様子で棚の隙間から男を眺めていた。
 「…加減はしたんだよな?」
 「当たり前でしょ。こんな雑魚相手に、本気なんか出さないっての…ていうか、虎杖は大丈夫なのアイツ」
 二人は、準備室の小さな窓から校庭を見下ろした。人影が二つ、鵺の隣にいる。虎杖が五階を見上げ、大声で伏黒と釘崎を呼んだ。
 「こっちはなんとかなったー!」
 手をガシガシ振って、無事を報告していた。ぴょんぴょん跳ねているが、五階から落ちてあんなに元気な方が心配になる。少女の方は意識を失っているようだったが、伊知地さんに報告して保護してもらうことにした。伏黒と釘崎は、男を乱暴に棚から引っ張り出す。未だにぐったりと気絶したままだ。暴れられても困るので、適当にロープで縛り上げる。連絡を受けた伊知地は、補助監督を何人か連れてくる、とのことだった。


 伏黒と釘崎は、援助が来るまでの間、音楽室で待つことにした。釘崎がピアノ用の椅子に腰掛ける。伏黒の方は、壁にもたれ掛かっていた。怒涛の一連だったが、任務が問題なく終わったことに二人は安堵する。虎杖と少女に何かあったら、と生きた心地ではなかったが、杞憂で終わった。
 相変わらず無茶をする。伏黒の頭の中に、躊躇なく落ちていった虎杖が蘇った。初めて会った時から、虎杖は疑う余地のない善人だった。自分が死ぬとわかっていても、他人を助けるために戻ってくる。一度は恐怖に呑み込まれたはずだ。いや、本来、普通でいられる方が珍しい。イかれている、という評を虎杖は五条から貰っていたが、伏黒もそこには同意せざるを得ない。確かに、ネジが外れているところがあるのだろう。呪術師なら、例外なく皆そうだ。それでも、と願ってしまう。虎杖の屈託のない善良さが翳るのが、伏黒には恐ろしかった。死の淵から戻ってきた虎杖は、時折酷く悲しそうな顔をする。どうしてなのか、伏黒にはわからない。だが、推測することはいくらでもできた。誰かの死を目の当たりにするたび、呪術師の笑顔は曇りが強くなる。心の底が抜けていくのを理解する。普通に笑ってるようで、誰かの喪失を感じてしまう。虎杖が、背負わなくても良かったはずの命を背負いこむのが、あまりにも残酷なことのように思えた。それを選んだのは他でもない虎杖自身なので、周囲が言えることは何もないのだが。
 音楽室のドアが開き、スーツの人間が何人か入ってきた。任務内容を報告して、男を引き渡す。伏黒と釘崎は階段を下り、外で待つ虎杖へ合流することにした。階段には大きな窓が取り付けられている。暖かな光が踊り場に差し込み、釘崎の明るい茶髪を艶めかせた。
 「アイツ、必死よね」
 釘崎が零した。
 「そうだな」
 「前からバカ正直に誰彼助けようとしてたけど、もっと躍起になってるように見えるっていうか。なんか危なっかしくて、ヒヤヒヤする」
 「虎杖が危なっかしいのは、今に始まったことじゃないだろ。それにアイツは、強くなってる」
 伏黒が語尾を強める。
 「だから、大丈夫だ」
 釘崎は横にいる伏黒の顔を見つめ、ニヤニヤと表情を崩した。
 「そういえばアンタ、虎杖にすぐに追い抜くぞ、とか言ってたっけ?澄ましてる割には意外と負けず嫌いなとこあるわよね」
 伏黒は交流戦後のことを回想する。そんなことも言ったか、と自分の発言を新鮮に感じた。傷だらけで食べた、病室のピザの味が懐かしい。今まで誰かに追いつこうなど、強く思ったことはなかった。五条に拾われた際、置いていかれるな、と言われたことはあったが、伏黒が自発的にそうしたい、とは思わなかった。虎杖はいつの間にか、伏黒の数歩先にいる存在になっている。悔しいが、それだけじゃない。手の届かない距離にいるわけではないのだ。追いつけば、追い越せば、もっと強くなれば、虎杖を道半ばで死なせずに済む。自分の助けたい善人を、選んで助けられる。
 一階に着き、二人は校庭で待っていた虎杖と落ち合った。助けた少女は高専の補助係に保護されたようで、家入に治療をしてもらうらしい。伏黒が鵺を解除すると、虎杖は少々残念そうな顔を浮かべた。それから、ハッとした顔で二人のことを見比べる。
 「そっちは大丈夫?アイツどうなった?」
 「こっちは楽勝よ。アンタの分もかましてやったから。ふん縛って引き渡してやったわ」
 釘崎が勝ち誇ったように口角を上げる。虎杖は「ならよかった」とホッとして、笑った。その後、視線を伏黒に飛ばす。
 「さっきはありがとな。伏黒のが間に合わなかったら、あの子助けられなかった」
 太陽の真下でよく笑う虎杖は、どこにでもいる学生にしか見えなかった。
 「オマエは何も考えずに突っ込む癖をやめろ。無事なら、それでいい」
 伏黒の言葉を耳にして、虎杖が目を細める。目の下の黒い線が幾重にも重なっていた。
 グラリ、と虎杖の体が横に傾く。あ、と思うよりも早く、重心はブレて地面へと吸い寄せられた。伏黒と釘崎が手を伸ばす。閉じる前の視界にいた二人は、今までに見たことがないくらい、不安と驚きに満ちた顔をしていた。


 自室のベッドで寝かされている虎杖は、寝息すら聞こえないくらい静かだった。遠目で見れば、生きているのか死んでいるのか、判別できない。任務後、緊張から解放されて疲れがドッと押し寄せたのだろう。というのが、家入の見解だった。「今はとにかく絶対安静で睡眠をとらせろ」、と伏黒と釘崎は念押しをされる。二人は頷き、虎杖はそのまま部屋のベッドへ連れて行かれた。車の中でも一度も起きず、高専に着いてからも虎杖は全く目を覚まさなかった。しばらく虎杖に任務は回されないらしい。少しでも忙しくなれば、虎杖は勝手に出て行ってしまうだろう。今日のように倒れられたら、本当に命に関わる。虎杖自身が一番よくわかっている筈だ。大丈夫じゃないのに大丈夫だ、と笑う顔が、伏黒の胸を締め付ける。そんな風に笑って欲しかったわけではない。呪いと関わる前の虎杖がどんな生活をしていたのか、何も知らないが、本当に普通の日常を生きていた筈だ。学校にいた様子を思い出しても、仲のいい先輩らしき人間もいた。その虎杖の平穏な日々を奪ったのは、あの日の伏黒だった。一人で呪霊を払えていれば、もっと早くに対処できていれば。様々な後悔が伏黒を苛む。善人に平等な幸福を享受してほしい。結局のところ、これは伏黒のエゴでしかなかった。身勝手でも我儘でも、虎杖に生きてほしい、という感情に嘘は一つもない。


 瞼を持ち上げても、薄暗闇が目の前を支配している。虎杖が首をズラして、今いる場所を確認した。自分の部屋だと気づくまでに、少しだけ時間がかかった。もう眠気はない。頭痛が少しだけ残っているが、体を動かすのに支障はないだろう。本当に大丈夫なのかは、虎杖にはわかっていない。携帯の時刻に目を向けた。二十時四十分。いつもの夕食には遅い時間だ。立ち上がり、窓を覗く。外はすっかり夜に切り替わっていた。一体、どのくらい寝ていたのだろう。今日一日の出来事を、脳内から引っ張り出した。朝早くから任務をこなし、無事に終わった後、確か校庭で倒れたのだ。あまりにも突然のことだったので、最後に見た伏黒と釘崎の顔は困惑していた。そして、倒れた後の記憶が一つもない。「後でちゃんと謝らねぇとな」と、虎杖は頭を掻く。大きく背伸びをして、廊下に出た。伏黒の部屋の前に立ち、ノックを二、三回してみる。
 「伏黒いるー?俺だけど」
 ガチャリ。ドアが開いた。隙間を開けて、伏黒が顔だけ見せる。片手には小説を持っていた。
 「やっと起きたのか」
 「あー、うん。今起きた。俺どんくらい寝てた?」
 虎杖の質問に伏黒が真顔になる。
 「オマエ丸二日は寝てたぞ」
 「…マジで?」
 伏黒のため息が答えだった。まさか、二日間も眠りっぱなしだったとは、予想外だ。その間の任務がどうだったかなど、恐ろしくて訊けない。もう二度と負けないくらい強くなると決めたのに、これでは幸先が悪すぎる。いつも通りのコンディションではないにしても、二人に迷惑をかけてしまった事実が、虎杖をちくちくと刺した。この上なく申し訳なさそうな顔で、「ごめん」と呟く。伏黒は黙っていた。半開きだった部屋のドアを大きく開ける。中の照明が、虎杖の沈んだ表情を照らした。
 「入れよ」
 「え、いいの?」
 「話したいこともあるからな」
 伏黒の硬い声が虎杖を緊張させる。説教かな、と思いつつ、虎杖は伏黒の部屋に入った。見た目通りの、さっぱりとした部屋だ。必要最低限のものしか置かれていない。なんとなく想定していたものと同じだったので、虎杖はふふっと笑う。伏黒は虎杖の笑顔には気づいていない。ベッドに腰掛け、虎杖を見上げた。
 「オマエも座っていいぞ」
 「伏黒って人にベッド触られんの嫌そう」
 「潔癖症って訳じゃねぇよ。虎杖なら別にいい」
 そう言うなら、と虎杖は言葉に甘えてベッドに座った。虎杖の部屋のベッドと特に変わらない。伏黒は指を組みかえ、話題を慎重に選んでいるようだった。やがて覚悟を決めたように、口を開く。
 「最近寝れてないだろ」
 「…うん。薬も貰ったんだけどさ、あんま寝れなくて」
 参った、と笑う虎杖が、空回りしているようで苦しい。きっと理由があるのだろう。だが、それを直接訊くのは躊躇われた。言いたくないことなんて、生きていればいくらでもある。眠れなくなるほどのことなら、尚更だろう。何も言わない伏黒に、どこか安心したように、虎杖が弱々しく微笑んだ。
 「夢、見るんだよ」
 「夢?」
 「目の前で、助けを求めてる奴がいて、俺も助けたかったんだけど、ダメだった…いつも助けられないところで、目が覚める」
 凪いだ海のような静寂を纏いながら、虎杖が夢の内容を話す。あの夜に見た、寂しそうな横顔だった。
 「…今でも思うんだよ。あそこにいたのが、俺じゃなかったら、って。五条先生だったら、ナナミンだったら、伏黒だったら、助けられたかもしれない、って、さ、」
 虎杖が声を絞り出す。今にも雨が降りそうだった。
 「ずっと、そんなことばっか考えてる」
 下がった眉も、濡れた瞳も、いつもの虎杖から遠く離れた顔だった。虎杖は一人で、苦しみ続けている。この先も、何年経っても、どれだけの時間が流れても、抱え続けるのだろう。そして、手離す気なんて微塵もない。伏黒が、釘崎が、虎杖の死に触れた時と同じだ。背負ったまま、強くならなければいけない。そうすることでしか、自分たちの行く道を肯定することはできないのだ。それがどれだけ辛く、苦しい道だったとしても、だ。伏黒は息を飲み込む。
 「俺がオマエを助けたのは、ただの俺の我儘でしかない。オマエが何かを背負うなら、俺も一緒に背負う」
 虎杖の瞳が揺れる。翳ってしまった光を、もう一度光らせたい。伏黒はただその一心だった。
 「だから、一人で苦しまなくていいんだ」
 「…伏黒カッケーなあ、」
 困ったように虎杖が笑った。我慢していた涙がポロリ、と零れ落ちる。もう耐えられなくなったダムが壊れ、虎杖は声を殺して泣いた。伏黒は少しばかり焦る。こういうとき、どうすればいいのか、全く考えが追いつかなかった。虎杖が泣いているのを見るのは、初めてだったのだ。おずおずと、丸まった虎杖の背中をさする。慣れない手つきだったが、何度か続けてみると、泣きじゃくる虎杖の呼吸が次第に落ち着き始めた。
 それから、ガクンと虎杖の体が伏黒に寄りかかる。
 「虎杖?」
 伏黒が慌てて受け止めれば、スゥスゥと寝息が響いた。安心しきった重みを、伏黒はそっとベッドに横たえる。虎杖の目尻に浮かんだ雫を、優しく拭き取ってやった。呪術師は報われないことの方が多い。苦しくて、痛くて、嫌になることばかりだ。だがせめて、この暖かな日向が、穢されないようにいてほしい。そう願ってしまうことは、身勝手だろうか。伏黒は部屋の電気を消した。真っ暗な部屋の床で、仕方なく寝そべる。
 今夜くらいは、虎杖に良い夢を見て欲しかった。
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