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沈まない陽はない

隣の部屋では、一日の家事を終えた津美紀がすやすやと眠っていた。布団は二人分引かれている。片方の余白はまだ埋まらない。明かりの点いた部屋で、甚爾は缶ビールを開けた。プシュッと軽快な音が鳴る。電球の無機質な眩しさの下で喉を動かし、体内を潤した。冷蔵庫の中にはもう一本も酒がない。甚爾の手の中にあるのが、最後の一本だ。恵が帰ってきたら、買わせに行かせるつもりだったのだが、当の息子はまだ帰らない。テレビも消された家は嫌に静かで、知らない空間のような異様さがあった。
三口目を含んだ直後、家の鍵がガチャガチャと音を立てる。入ってきた恵は、月光を直で浴びたかのように真っ青だった。肌が不健康に青白い。朝出て行ったときは、もう少し色味があったように思う。辛気臭い制服を纏ったまま、恵が部屋に上がった。お互いに言葉は交わさない。甚爾の横を通った恵から、ふわりと線香の匂いが漂う。どんよりとした空間で浮かぶ、別れの匂いだ。永遠に消えてくれない、寂しい煙が見えた気がした。甚爾が鼻に皺を作る。
「葬式にでも行ってたのかよ」
恵は甚爾を振り向かなかった。重くのしかかった影を下ろすように、畳にぐったりと横たわる。今にも魂が抜け落ちそうだった。
「同級生が死んだ」
独り言のように、虚ろな声で恵が口を動かす。抑揚のない、機械的な言葉だった。
「あっそ。どっちだ?あの釘崎って奴か、両面宿儺の器の坊主か」
甚爾の脳内で、二人ほど少年少女の姿が再生される。昔から男の名前を覚える気がなかったので、恵と一緒にいた短髪の少年の方は、名前が思い出せない。しかし、あの悪名高い両面宿儺の器だと知らされたときは、流石の甚爾も驚いた。少年自体は、どこにでもいるような学生にしか見えなかったからだ。何度か話をしたような気もするが、記憶に残すほどのものでもなかった。よく笑っていたような覚えだけはある。
「虎杖、今日が死刑日だった」
恵が、コンクリートのように固まった息を吐き出した。
「…あー、坊主の方か。まぁ、二十本指回収したら殺す予定だったんだろ?長生きした方じゃねぇか。普通だったら即死刑だろうしな」
あの保守的な呪術界が、両面宿儺の器を今まで生かしていた方が、不思議で仕方がない。なんでもあの五条悟が一枚噛んでいたらしいが、それでも防ぎようのない事態だろう。呪術全盛期に暴れ回った最悪の呪術師が復活などすれば、現代の術師では誰も相手にならない。甚爾は他人事のように酒を飲む。実際、息子の同級生が死んだくらいで、心の在り方が変わるわけではなかった。人間はいつか死ぬ。自分も他人も、大事だった人間も、誰であろうと死んでいく。遅いか早いかだけの違いだ。
恵は天井を見つめ、唇を歪めた。笑おうとしても、表情筋が上手く動かない。葬儀場で封印の術を掛けられ、笑っていた虎杖を思い出す。「やっぱこれ、縄キツイ」なんて、はにかんでいた。呪物を取り込んだ人間に、尊厳のある死など望めるはずもない。誰も彼もがわかっていた。だけど、何も言わない。言えなかった。怖くて仕方がないであろう虎杖が、笑っているのが、ただ辛かった。虎杖を知る人間が集まり、最後の別れを済ませていく。普段の調子で振舞っていた釘崎が、部屋を出た直後に泣き出したのを、恵はずっと忘れられないだろう。五条だけがあの部屋に残り、虎杖を殺す手立てだった。追い出された生徒は皆、葬儀場の部屋の前で、呆然と立ち尽くす。生前の虎杖を、それぞれの頭の中で思い描いていた。恵の記憶にある虎杖が、様々な場面で繰り返される。虎杖悠仁は、疑いようもない善人だった。恵にとっては姉と同じくらい、幸せになってほしい人間だったのだ。あの時助けたのは、生きて欲しかったからに他ならない。こんなことのために、助けたかったわけではなかった。
甚爾が最後の一口を飲み干した。
「諦めろ。世の中は平等じゃねぇんだよ」
空き缶がぐしゃりと潰される。恵は両手で顔を覆った。
「…わかってたんだ、」
何もかもどうしようもない世界だと、痛いほど理解している。消えた光を探して彷徨うには、恵は聡すぎた。
置いていかれてばかりだな。甚爾は自分に流れる血を、目で追っていた。
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