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ランプ

 コーヒーが好き。
 豆を挽いた時の香りとか、フィルターを通って落ちる、優しい音とか。嗜好は年月と共に変わるものなのかもしれないけれど、この気持ちは、もう長いこと変わっていない。
 だけど。ふと思う。
 私は、そもそもいつから、コーヒーが好きなのだろう。落ち着いて、この時間を慈しみながら、コーヒーを入れられるようになったのはいつからだろう。いつから、こんな穏やかな気持ちで、何かを好ましく、思えるようになったのだろう。
「なあ灰原あー。コーヒーまだ?」
「あのねえ、おいしいコーヒーには、この時間が必要なのよ。お忙しい名探偵さんには、わからないかもしれないけど」
「あーはいはい。俺が悪かったよ」
 とりとめのない思考を中断して、カップにコーヒーを注ぐ。
 お気に入りの、白色のマグカップと、彼がここに来る時に使っている、色違いの水色のマグカップ。二つ、トレーに載せて、コーヒーを待つ彼のもとへ届けると、サンキューと、軽い言葉が返ってくるが、その目線は机の上に落とされたまま。現在捜査中の事件のものであろう、机いっぱいに広げられた資料のせいで、マグカップを置くのも一苦労だ。
「久しぶりに顔を見せに来たと思ったら、相変わらず事件三昧みたいね」
 これまで近所の事件に首を突っ込んでいる程度だった彼は、大学に進学したのをきっかけに、本格的に探偵としての活動を初め、あちこち飛び回るようになっていた。一体いつ授業を受けているのか、いつ帰ってきて、いつ眠っているのか、私は知らない。たぶん誰も、知らないのではないかと思う。
 向かい側のソファに座り、コーヒーを口に含む。時間をかけたからこそ味わえる、優しい苦味が口の中に広がる。
「まーな。お忙しい名探偵さんは、あちこちひっぱりだこなもんで」
 皮肉めいたそっけない返答を最後に、会話が途切れる。
 彼の邪魔をするつもりはない。特に話さなければいけないこともない。
 ただ、じと考えこむその表情を、そっと眺めながら、思う。話をしない、というのは、私たちの間では珍しいことだったな、と。ずっと二人で、多くの時間を過ごしてきたけれど、沈黙に満たされるようになったのはここ数年のことで。事件のこと、組織のこと、クラスメイトのこと、映画や文学のこと。ずっとずっと、とりとめのない話をしていた。
 それは、お互いに、話相手がいなかったからなのかもしれない。だから、今のこの状態の方が、きっと普通なのだろう。
 時が巻き戻ってしまったあの日の年齢を超えて、「大人」と呼ばれる部類に入った今、沈黙が気まずいなどということはない。
 でも、あの心地よさ、寄る辺の無い暗闇で、たったひとつ、安心できる明かりを見つけたようなあたたかさは、もう二度と味わえないのだと、たまに胸が鈍く痛む。


「哀ちゃんは、最近コナン君と会ってる?」
 流行りのパンケーキがおいしいカフェに行こうなんて、自分を誘うのはこの幼馴染くらいのものだ。肩まで伸ばした髪をゆるく巻いて、薄くメイクをするようになった彼女はとても綺麗で、もう子どもではないのだなと思う。だけど、生クリームの山の向こうからこちらを窺う目は、出会った頃と変わらずきらきらしていた。
「この間、博士に何か頼みごとがあったみたいで顔を合わせたけど、それっきりね。相変わらず忙しいみたいよ、名探偵さんは」
「そっか~。久しぶりにみんなで集まろうと思ったのに、コナン君ちっとも連絡返してくれないんだもん。つまんない」
 いじけたように口を尖らせる姿がかわいらしく、思わず笑みがもれた。それに気づくと、眉をしかめるから、すっと笑みを引っ込めて目をそらす。
「もう! 哀ちゃんって、いっつも私のこと子ども扱いする……」
 むくれながら、大きく切ったパンケーキを口に詰め込む姿は、確かに年相応とは言い難かったが、それだけではない。彼女と私の間には、10年以上の年の差があり、どんなに一緒に時を過ごしても、それが埋まることは無い。
 けれど、私の見た目の年齢よりは長い人生の中で、彼女と出会い、過ごしてきた時間が、とても濃密で、大切なものであることは確かだ。
 そういう気持ちを伝えるには、どうしたらいいのだろう。
 いつか何もかも、伝えられるのだろうか。
 彼女の手が下がり、かちゃんとフォークが皿にぶつかった。
「ずっと、大人になったら変わるのかなって思ってたけど、変わらないね。私はこんなだし、哀ちゃんはいつもしっかりしてて……」
 その、少し悲しげな表情に、苦しくなる。笑ってほしくて、本当のことなど言えないのに、口を開かずにはいられない。
「変わらないのは、悪いことかしら。何ひとつ確かなことなんてないこの世界で、こうやって会って、昔と変わらず話ができる。まるで永遠みたいで素敵じゃない? 私は、変わらない吉田さんが好きよ」
 しゅんと下がっていた顔が上がり、頬にぱっとバラが咲く。ずっと大切な、私の世界を照らすひかりが瞬く。
「私も、哀ちゃんのことだいすきだよ」
「あら、ありがとう」
 眩しくて、目を細める。私はいつから、こんなに明るいところにいるんだろう。ああ、まただ。ふとした瞬間に、そんなことを考えてしまう。だって、気付いたらこんなところにいたのだ。最初は、拒絶し、背中を向けていたはずなのに。温かくて、きれいで、近づけば消えてしまいそうで。何もかも怖くてたまらなかったのに。そんな頃が、確かに合ったのに。

 自分の運命から、逃げるんじゃねーぞ

 ふいに、懐かしい記憶が蘇る。あの日、彼が私に言った言葉。私を抱えた小さな腕の温度。その表情と、真剣な声。
 なんだか、くらくらと、眩暈がするようで、思わず目を閉じる。まぶたの裏に浮かんで消える、小さいけれど、一番最初から、「灰原哀」を導き続けたひかり。
 ああそうか。そうだった。
 どれもこれも、ぜんぶ、あなたがくれたのね。


 夕方、家に帰ると、彼が来ていた。
 リビングで、博士と何やら話し込んでいる。机の上には、彼の相棒とも言える腕時計が置かれているので、大方メンテナンスにでも来たのだろう。
「おお、哀くんおかえり」
「ただいま博士。遅くなってごめんなさい。すぐに晩ごはん用意するから」
「あ、灰原、俺の分もよろしく」
「まったく。来るなら来るって言ってよね」
 呆れつつ、いっしょに食事をするのは、とても久しぶりのような気がして、少しうれしい。買い物袋から食材を取り出しながら、その横顔を盗み見る。
 新しい発明に対して、あれこれ勝手な要望を出しては、博士に却下されて少しむくれる表情など、昔からちっとも変ってない。
 昔、そう、彼が見た目は小学一年生で、実際は高校生だった時から。


 ずっと前からそうだったけれど、私にできることはいくらもなかった。
 彼のそばで、彼の秘密を守り、彼の身体をもとに戻す解毒剤を作ること。
 でも、その役割は、果たせなかった。
 彼は、私を責めなかった。恨まなかった。悲しみも、苦しみも、何も見せてはくれなかった。
 「江戸川コナン」として生きていくと告げられた時、辛くて、悲しくて、みじめで。でも少し、ほっとして、涙があふれて 何も言えなかった。
 彼は強い人だから、一から人生を歩み始めるだろう。
 江戸川コナンとして。 
 でも、あなたが工藤新一でなくなってしまったら、私は、灰原哀は、どうしたらいいのだろう。
 傍にいる理由が無くなること、彼の人生に、自分の存在が必要ではなくなること。
 怖かった。恨まれるより、憎まれるより、ずっとずっと怖くて。何も言えなくて、何も聞けなくて、どうしたらいいかわからなくて、いろんなこと見ないようにして。
 いつの間にか、こんなに遠くまで、来てしまっていた。もう、彼の姿は良く見えない。彼の気持ちも、考えも、手に取るようにわかったあの頃が、ひどく懐かしい。
 このまま、失ってしまうわけにはいかないのだ。心の中で、何度も自分に言い聞かせる。だって、私はこれからも、「灰原哀」でいたいと、心から思っているのだから。


■■■


 熱に浮かされて、夢を見た。自分が、工藤新一だった頃の。
 久しぶりだなと思う。黒の組織を追っていた頃は、頻繁に見ていた夢だ。いつも、目を覚ますと、自分はまだ江戸川コナンのままだということに気付いて、心底ガッカリする。そして、このまま一生、元の生活には戻れないのではないかという、まとわりつくような不安を押しのけて、また、変わらない一日を始める。そんな朝が、幾度もあった。
 でも、江戸川コナンとして生きると決めてからは、そんな夢を見ることもなくなった。それは、自分の意志で、新しい人生を選ぶことができた証拠だと思っていた。
 もう忘れると、誓ったはずなのに。事件は、終わったのだと。新しい人生を、まっさらな気持ちで生きていくのだと。
 なのに、まるで、忘れるなんて許さないとでも言うかのように、こんなタイミングで、また夢はやってきた。もう手に入らない、失われた未来が、瞼の裏に鮮やかに広がる。
 なあ、あんた、恨んでんのか? 工藤新一。
 江戸川コナンという人間に、全て奪われてしまったこと。
 幻だと、わかっているのに、手を伸ばさずにはいられない。手は空を切り、何も触れず、温度も感じない。やがて、はっきりと見えていた光景は霞みはじめ、段々と、辺りは闇に覆われていく。息の詰まるような不安が、心を支配していく。
 そして、何も見えなくなった。
 暗闇で、目印を探すかのように、もがく。
 怖い。
 まっくらで、何も見えない。
 自分の姿さえも、わからなくなっていく。
 どうしようもなく、なすすべもなく
 ひとり、沈んでいく、みたいな。

 ぎゅっと、手のひらを握る感触がして、急速に意識が引き上げられる。
「江戸川君」
 瞼の裏に、光を感じて、ゆっくりと開く。
 滲んだ世界に、たったひとり。いつもちいさく、それでも道しるべのようにひかり続ける、彼女がいた。
「灰原……?」
「随分うなされていたわ。熱があるのね」
 すっと伸びた、もう片方の手が、額に触れる。冷たくて、気持ちがいい。自然と目を閉じると、呆れたような彼女の声が、ぼんやりとした頭に響く。
「あなた、時計を預けたまま、いつまでたっても取りに来なかったでしょ。博士が心配だって言うから、探しに来たのよ。忙しいのは分かるけど、もう子どもじゃないんだから、体調管理くらい気をつけなさい」
「なんで、ここが……」
 身じろぎをして、周りを確認する。記憶通りの、小さな民宿の一室。事件の調査のため、他県の安宿に泊まり込んでいる間に、風邪をこじらせてしまったのだ。気になる事件を追って家を空けることなど日常茶飯事のため、誰にも行先は知らせていない。それなのに、当たり前のような顔をして居る彼女に、まだ夢を見ているのかと、戸惑う。
「高木さんに聞いたの。最近うちの名探偵が首をつっこんでる事件は無いかしらって。それで大体の場所はわかったし、あとは捜査がしやすくて、目立たなくて、金銭的にあなたが泊まれそうなところなんて、そう何件も無かったわよ」
「おまえ、すげーな……」
 悔しさ半分、尊敬半分で呟くと、ため息まじりに笑ったような気配が伝わってくる。
「残念ね、あなたの考えていることなら、大抵わかってしまうのよ。なにせ、小学校1年生の頃からの付き合いだもの」
「はは、そーだな」
 無理矢理身体を起こすと、キャップをはずしたペットボトルが差し出される。ありがたく受け取って熱い喉に流し込む。ただの冷たい水なのに、それだけで少し体が楽になった気がする。
「あなた、出ていくつもりなんでしょ」
 その一言で、口に含んだ水のほとんどをこぼしてしまう。
「げほ……は、なんでそれ……」
「死ぬほど忙しいはずの名探偵さんの姿を、最近良く見るなあと思ったのよ。博士に会いに来るのはついでで、本当はこそこそ実家で身辺整理していたんじゃない?」
 灰原は、腕を組んで、じっと自分を見下ろしている。その瞳は探るようにこちらを覗き込み、休みなく頭を働かせいるのが分かる。
 ああ、きっと、引き留めようとしてくれている。
「どうしてあなたが出ていくの。出ていくべき私の方が、何食わぬ顔で暮らしてるっていうのに」
 そういうことを、言うと思っていた。だから、なにも言わず、出ていきたかった。どう言えば伝わるのか、熱で揺れる思考では、うまく考えられない。言葉を尽くさなければ、彼女に敵うわけはないのに。分が悪いなと、ため息をつき、ペットボトルをぞんざいに突き返すと、視線ははずさないまま、でもすぐに受け取って、キャップをしめる。
「俺が出ていくことは俺の問題だろ。おまえには関係ねーよ」
「そうね。確かに、関係ないわ」
 それは、悲鳴のように聞こえた。明確に、傷つけたとわかった。でも、情けないことに、どうしていいかわからない。頭がぐらぐらして、ベッドに倒れこむ。
「……俺は、江戸川コナンになりたいだけなんだ」
 ぽつりと、零れた言葉に、灰原がびくりと身体を震わせたのが伝わってくる。
 怯えながら、ここにいるのだ。もう、ずっと前からそうだった。たぶん、解毒剤の精製が不可能だと、わかったころから。

 突然小さくなってしまった自分にとって、事情を知る灰原哀は信頼できる味方で、相棒で、大切な存在だった。それは、江戸川コナンとして生きると決めてからも変わらなくて、この関係はいつまでも続くのだと、心のどこかで楽観視していた。
 でも、違った。何がと言われても答えるのが難しいほどの、些細な何かが、今までとは確実に違ってしまっていた。小さなひずみは段々と大きくなる。細い糸のようにこんがらがった関係を、修復することも出来ず、断ち切ることもできず、今日までずっと、見ないようにして来た。
 
 最後にちゃんと、話をしなければ。このまま別れることは出来ないのだろう。そんなこと、させてくれる相手では無かった。そんなことも、忘れていた。
「もう何年も、ずーっと、江戸川コナンで通してきたんだ。もうなんの違和感もねえし、これが俺の人生なんだって、納得してる。なのに……それでも、どっかに工藤新一として生きようとする俺がいて、中々、消えてくれねーんだ」
 情けないことを言っている自覚はある。それでも、彼女と正面から話をするのなら、言葉を選んでいては駄目なのだ。重い瞼をこじあけて、自分を見下ろす彼女の目を見る。緊張で潤んだ、真剣な瞳。今にも逃げ出したいという気持ちを、じっとこらえているのだろう。
 彼女は何も、悪くないのに。言葉を探しながら、言い知れぬ無力感で、胸がいっぱいになる。もう、何もしてやれない。終わりにしよう。このこんがらがった糸を断ち切って。最初から、そうしていればよかった。
「工藤新一の記憶が残ってる街にいたら、俺は一生江戸川コナンにはなれない。だから出ていく。それだけだよ。だから、俺の問題なんだ、これは」
 なんとか、言葉を絞り出して、目線を天井にうつした。この期に及んで、彼女の口から、別れの言葉が紡がれる瞬間を、見つめているのは怖かった。
 離れがたく思っていることに、戸惑う。ひとりになれば、きっと一からやり直せると思った。その気持ちに嘘は無い。
 なのに、さっき見た夢がちらついて、胸がざわつくのだ。
 ひとりで、この人生を、抱えきれるだろうか。
 目印もなく、歩いていけるのだろうか。本当に。

「ばかね」
 不安で沈みそうになっていた思考が断ち切るように、ため息交じりの彼女の声が響いた。自分なりに素直に紡いだ言葉が、たった三文字で一蹴される。さすがに反論したくて、あのなあと、視線を向けるが、その顔を見て、何も言えなくなる。
 呆れたような、顔をしているのだろうと思った。いつものように、俺がホームズの話を延々と聞かせている時みたいに。
 でも、違ったから。どうしてかわからないけれど。
 明かりを見失った、迷子のような顔をしているから。
 まるで、自分の心を映したみたいだと、思ってしまって、反論のひとつも、出てこない。
「私は、灰原哀だけど、でも、やっぱり、宮野志保でもあるのよ。愚かな科学者で、黒の組織の一員、シェリー。私の作った薬が、工藤新一の人生を奪った」
「灰原、俺は……」
「私はただ、事実を言っているの」
 思わず、身を起こした自分を制するように、彼女は言葉を重ねる。
 違う、こんな顔を、させたかったわけじゃない。こんなことを、言わせたかったわけじゃないんだ。だって、お前はもう、灰原哀なんだから。誰がなんと言おうと、事件は終わったのだから。
 どうか、もう解放されてくれ。責める気持ちも、恨む気持ちも、本当に無いんだ。お前は、わかってくれないけれど。
 俺が、工藤新一を捨てるから。江戸川コナンになってみせるから。
「だから、工藤新一がいてくれないと困るの」
「は?」
 間抜けな声が出た。熱のせいだろうか。彼女が、何を言おうとしているのか、まったく予想がつかず、理解が追い付かない。彼女はそっと膝を付き、目線が合う。強い目だと、思った。覚悟と、意志を持った、美しい目だった。
「だって、灰原哀は、工藤新一がいないと存在できない。工藤新一がいたから、私がいるの。頼りない、まやかしのような、しあわせな存在」
 ひんやりとした手が、自分の熱を持った手に重なる。
「だってそうでしょう。無条件に優しくしてくれる保護者がいて、こんなにひねくれた性格と10年以上付き合ってくれる友達がいて。誰かに利用されたり、奪われたり、裏切られたりすることもなく大人になった。全部、あなたのおかげ。私は、あなたから全てを奪ったのに、あなたは、私にすべてをくれたの」
 静かで、でもとても必死で、懸命なその声が、少し震えて、掠れる。美しい瞳に涙が滲んで、それでも、目線は逸らされないままだ。
「お願い。あなたがこの先、江戸川コナンとして生きるとしても、工藤新一を消さないで。どんなに苦しくても、全部持って行って。私に出来ることは、なんでもするから。私が渡せるものなら、なんでもあげるから。工藤新一が消えるなら、灰原哀は存在できない。あなたが消えるなら、私も消える」
 彼女が瞬きをした瞬間、たまった涙がぽろぽろと零れて、堰を切ったように溢れだす。彼女は、焦ったように、ぐいっとその涙をぬぐったけど、止めるのを諦めたように、濡れた瞳のまま、こちらを見た。まるで、目をそらしたら、逃げられてしまうとでも、思っているかのように、決して、目を離そうとしなかった。
 為す術もなく、固まっていた俺は、大きくため息を吐いて、重い腕を上げて、そっと彼女の頬を滑る涙をぬぐった。
「……そういう言い方は、ずりぃだろ」
 絞り出せたのは、そんな、情けない言葉だけだった。だって、本当にずるい。そんな言い方をされたら、自分には選択肢が無いことくらい、きっと彼女にはわかっているはずだ。
「……いいのかよ、お前はそれで」
「……ええ。私、思い出したのよ」
 頬に沿えた手に、彼女の手が重なる。ほっそりとして、小さくて、なのに困難に直面した時には、誰よりも自分を助けてくれた手だ。
「自分の運命から逃げなかったから、今があるんだって。だから、辛くても、怖くても、もう逃げたくないの」
 そう言って、彼女が泣きながら微笑むから、懐かしい記憶が、頭の中に溢れかえる。胸がぎゅっとして、涙が出そうになってしまう。
 自分の人生の選択への疑問も、もう戻れない時への執着も、えらくこんがらがってどうすればいいのかわからないこの関係性も、抱えて行くにはあまりに重くて。名探偵が、聞いてあきれる。何も解決できないまま、逃げようとしていただけじゃないか。
 あの頃の自分は、なんて怖い物知らずだったのだろう。ただ、自分に起こる全てと向き合うことが、こんなにも恐ろしいなんて、知らなかった。
 そして、その言葉を受け止めてくれた彼女はこれからも、全部抱えて生きていく覚悟を決めているのだ。
「今、そういうこと言うのかよ……ほんとずりー」
「そうね、私はずるい女だから」
「泣きながら言うセリフか。かわいくねえな」
 呆れて言えば、彼女が不満げに眉間にしわをよせ、ぱっと、頬に添えた手を払い、そっぽを向いた。鼻声で、かわいくなくて、悪かったわね、なんて言うから、なんだかどうしようもなく意地になってしまって、両手をのばし、赤みのさした頬に触れ、ぐっとその顔をこちらへ向かせる。勢いあまって、鼻先が触れそうになった。きれいな瞳が、大きく見開かれる。近すぎる距離のまま言葉を紡ぐ。
「正直、どうしたらいいかわかんねえよ。なんにも解決してねーし、気持ちもぜんっぜん追いついてこねえ。でも……」
 自分の運命から、逃げない。遠い昔、彼女に自分が言った言葉だ。それが今、時を経て、彼女から俺に向けられている。それなら、もう答えはひとつしかない。
「もう逃げねーよ。今関わってる事件が解決したら、ちゃんと帰る」
 真っ直ぐ目を見てそう言うと、こらえきれない、というように彼女の表情がくしゃりと歪んで、また涙があふれ出した。当たり前じゃない、と苦しそうに言う、その顔も、ずっと見ていたかったけど、彼女は本気で恥ずかしかったのか、自分の手を振りほどいて、顔をそむけられてしまう。
「解決なんて言っても、その体調じゃ、いつまでかかるかわからないわね。ここに来る前に、高木さんを捕まえて見せてもらった資料、1時間もらえるなら全部確認してあげるけど」
 照れているのかやや早口だし、酷い鼻声だったが、いつもの調子を取り戻しつつある言い方だった。彼女は大きなバックからタオルを取り出して眼元をぬぐうと、続けてノートPCを引っ張り出す。ずびずびと泣いていた余韻を引きずりながらも、手際よくPCを立ち上げ、操作していく。
「わりーな。頼む。ついでにいくつか調べてほしいことが……」
「わかったから、後で聞くから、1時間は寝てなさい」
 ぐいっと、ベッドに押し戻されて、仕方なく布団をかぶりなおす。まったく、さっきまで悩んでたくせに、事件となるとすぐ元気になるんだから、とぶつぶつ呟きながら、画面に目を走らせる姿を、ぼーっと眺める。この会話、この空気。なんだか懐かしくて、嬉しくて、思わず声をかける。
「なあ、灰原」
「なによ。寝てなさいって言ってるでしょう」
 さっきまで泣いてたくせに、じとりと睨み付けるようにこちらを見る彼女に、思わず笑って言った。
「いや、俺の相棒は頼りになるなって思ってさ」
 彼女はびっくりしたように目を見開いて、また泣きそうな顔で笑う。調子いいんだからと、呆れたように言いながら、PCに視線を戻す彼女の横顔に安堵して、今度こそ本当に眠るために目を閉じる。


 夢の中で、もう二度と戻れない光景は、やっぱり遠く霞んでいた。
 何もない闇が静かに広がる。
 途方に暮れて立っていると、ふと、ランプを持っていることに気が付いた。本当に小さな、微かなひかり。
 だけど、自分は知っている。どんなに暗い闇の中でも、このひかりは、自分の傍にいてくれること。そして、いつも明るい場所へ、導き続けてくれることを。