結婚式の朝
お腹の上に、何か乗っている。重苦しさで目が覚めた。なんとかまぶたを持ち上げて薄目で窺うと、白猫のユリが澄ました顔で私のお腹の上に座り込んでいた。
「……ユーリー、重たい……」
寝起きの掠れた声で文句を言いつつ、お腹の上の愛猫を捕まえようと腕を伸ばすが、まだのっそりとしか動けない私に彼女が捕まるわけもなく、するりとベッドから降りて、どこかへ行ってしまった。一体なんだったんだと思いながら、寝返りをうつと、すぐ目の前に世にも美しい寝顔が在って、さっと目が覚めてしまう。
静かに寝息をたてるこの人は、私の夫であるらしい。もう二年以上一緒に暮らしているのに、ふいに、その造形の素晴らしさに驚くことがある。閉じられたまぶたを縁どる睫の長さとか、うっすらひらいたくちびるの形とか。物言わぬ彼からは、いつもののほほんとした雰囲気が漂ってこない分、どこか作り物めいていて、一層うつくしいと思う。
一緒に住み始めた頃は、朝起きて、隣に彼が眠っていることに、ベッドから転がり落ちそうなくらい動揺していたなと思う。それまでも、彼の家に泊まったりして、一緒に寝たことはあったけれど、なんでもない普通の朝に彼が居るということに、なかなか慣れることが出来なかった。
そもそも、ここに住み始めた当初、私たちの寝室は別だった。作家である彼と、会社員である私では、就寝時間が大きく違う。私が寝る時間になっても、彼は仕事をしていることが多いし、私が出かける時間に彼がまだ寝ているなんてこともしょっちゅうだ。生活リズムの違いで仕事の邪魔をするのは申し訳なくて、蔵書が死ぬほどある彼に、二つあるうちの大きい方の部屋を譲り、私はもうひとつの小さい部屋に、前の家から持ってきたベッドを押し込んで、一人で寝起きしていた。
他人から見れば、同棲を始めたのに寝室が別というのはおかしな状態だったかもしれない。けれど私は、突然始まった二人暮らしに慣れるのに必死で、おかしいとか、寂しいとか、感じる余裕も無かった。
いつも通りひとりで床に就いたある朝、目を覚ますと、お腹の上に何かが乗っていることに気が付いた。不思議に思い、ぼうっとしたまま寝返りを打つと、目の前に世にも美しい寝顔が在って、私は殴られたような衝撃を受けた。お腹の上にあるのは彼の腕で、私は抱きこまれるようにして眠っていたことに気付き、急速に意識が覚醒するとともに、絞め殺される鶏のような、妙な悲鳴が口から漏れる。
彼は眉間に皺をよせて唸り、うっすらと目を開けて、どうした? と眠たげな声で私に言った。寝起きの無防備な目線が、妙に色っぽくて、心臓が早鐘を打つ。
「どどうしたじゃないよ、なんでここで寝てるの」
「なんでって……理由がいるのか」
彼は、私の問いに価値を感じなかったのか、そのまままた夢の中へ戻っていく。無意識なのか、私の身体をさらに引き寄せるから、ぎゅうと、抱きしめられた状態になってしまう。なんで気付かなかったのかとか、体温があったかいとか、顔が良すぎるとか。私の寝起きの脳みそは、あまりの衝撃にショートしたのだと思う。結果私は、すべての思考を放棄して、気を失うように二度寝を決め込んだ。
それからも、朝起きると隣に彼が寝ている、ということが度々あったので、それならばと大きなベッドを買った。小さな部屋に、二人で眠れるベッドは大きすぎて、随分狭くなってしまったけれど、そんなことは大して気にならなかった。同じ部屋で、一緒に寝起きするという、そういう当たり前の生活を、彼も望んでくれているのだと思うと、嬉しかった。
彼は、私が動揺しておかしな悲鳴を上げたことを、未だにふと思い出したように口にして、こらえきれないというように笑う。私にとっては、大変不本意なことだ。
そんな、懐かしいことをつらつらと思い出してしまうのも、今日と言う日が特別な日だからだろう。今日、私は、この人と結婚式を挙げるのだ。このうつくしい顔の横に並んで、一日中招待客の目に晒されていなければならない。そう思うと、昨日の夜やり過ごしたはずの緊張がまた襲ってきて、お腹がきりきりと痛んだ。
彼は、一体何時ごろ寝たのだろう。私だって、昨日は持ち物の最終チェックをしたり、両親への手紙がまとまらなかったりで、ベッドに入ったのはだいぶ遅い時間だった。
彼は、仕事のスケジューリングが上手くいかなかったとかで(要するに、思ったように執筆が進まなかったのだ)、結婚式前日だというのに仕事部屋にこもりきりだった。おかげで、明日は結婚式だね……などというしみじみとした会話を交わすこともなく、当日の朝を迎えてしまった。まあ、時間があったところで、彼は大して結婚式に思い入れもないようなので、そんな会話になったとは思えないけれど。
さあ、今日は忙しい一日になる、と身体を起こし、伸びをして、ふと枕元の時計に目をやり、さっと、血の気が引いた。私の漏らした変な悲鳴に、彼がいつかのように眠たげに唸った。
こんな大事な日に寝坊なんて、まったく笑えない。一体いつアラームを止めてしまったのだろう。私は隣で寝ぼけている彼を叩き起こし、ベッドから飛び出した。幸い、持ち物などは準備してあるので、身支度さえ整えれば出発できる。
洗面所に飛び込み、歯を磨きながら部屋に戻る。クローゼットを開けて、目についたワンピースと、ストッキング、ハンドバックをベッドの上に放り投げる。振り返ると、彼はまだベッドの上で、寝ぼけ眼のままスマホをいじっていた。私より身支度に時間がかからないとはいえ、あまりにのんきな様子に文句の一つも言いたくなるが、今は怒っている時間も惜しい。もごもごと歯ブラシを加えたまま一応急かすようなことを言いつつ、洗面所に戻る。顔を洗って、化粧水と乳液を雑に叩き込んだ。どうせメイクはプロがやってくれるのだ。すっぴんで出かけても問題ないだろう。
さすがに寝癖のついた前髪をそのままには出来ないので、思い切って洗面台に頭をつっこみ、蛇口から直接水でぬらす。ドライヤーの風を右、左と当てながら、慎重に乾かしていく。
まあこんなものだろうと、適当なところで諦めてスイッチを切った。ドライヤーを棚に戻したところで、やっと彼が洗面所に入ってくる。のんびりした態度にまた苛立ちが募るが、飲み込んで、居間へ移動。今日の持ち物を詰めたバックの再点検をする。結婚指輪や、招待客へのお車代など、大事なものが多いので、忘れては一大事だ。寝る前に必死で書き上げた両親への手紙も、封筒に入れて鞄に突っ込む。本当はちゃんと読み返したいのだけど、今開いたら全て書き直したくなりそうで、出来なかった。
荷物が揃っていることに安心して、寝室へ着替えに行こうとすると、お湯を沸かしている彼が目に入る。寝間着からシャツとスラックスへ着替え、もうほぼ出かける用意が整っているようだが、それにしたってのん気すぎないかと、溜まった不満が噴き出してしまう。
「ねえ、出発時間わかってる? お茶飲んでる暇なんてないでしょ」
「ああ、今タクシーを呼んだ」
車で行くならもう少しゆっくりできるだろう、とさらりと彼は言って、ぽかんと固まる私の様子に気付いているのかいないのか、特にそれ以上何か言うことも無く緑茶のティーバッグをあけてマグカップに入れた。お揃いの、色違いのマグカップ。私の分も、用意してくれているけれど、とてもお礼を言う気にはなれない。私がこんなに焦っているのに、なぜそれを先に言ってくれないのか。なんて、彼の言葉が足りないのはいつものことなのに、今日に限ってもやもやが喉の奥にこみ上げて、息苦しい。
「……私、いらない」
そう、うつむいて言うと、様子がおかしいことに気が付いたのか、彼がマグカップから顔を上げた。私はその気配を感じても、彼の方を見ることが出来なくて、視線は合わない。
「どうした?」
「なんでもない」
「なんでもなくないだろう」
彼が、ダイニングテーブルを回り込んで、私に近付く。私は逃げるように、着替えるからと背を向けようとするが、すぐに手首を掴まれてしまう。どうして、こういう時に限ってしつこいんだろう。いつもみたいに、どうでもいいって顔で、受け流してくれればいいのに。そうしたら、勝手に怒っている醜い自分を、こっそりなだめることが出来るのに。
「ごめん、ちょっといらいらしてるから、頭冷やしてくる」
「何か気に障ったのか」
「違うの。ちょっと疲れてるだけ。準備大変だったし、昨日も緊張して眠れなかったし」
そう、言葉にすると、今日までのことが次々と頭を過る。スケジュールが中々合わず、式の打ち合わせのほとんどに一人で行ったこと。楽しみにしていたドレス選びも、一緒に行けなかったこと。相談しても、好きなようにすればいいと言われたこと。
そんな、些細な引っ掛かりの積み重ねが、今になって限界を迎えたみたいに、ぽろりと一粒、涙が落ちた。慌てて、彼に気付かれないように俯くが、強く手を引かれて、向かい合う形にされてしまう。びっくりして、抵抗できなくて、真正面から彼と目が合う。彼は、いつもと同じような穏やかな顔で、真っ直ぐ私を見ていた。その目に見つめられたら、なんだか余計に泣きたくなって、胸に渦巻く色々が、溶けて溢れて流れ落ちるみたいに、ぼろぼろと目から零れた。
「……私、結婚式、本当に楽しみにしてたの。あなたにとっては、大したことじゃなくて、全部、私のための式なんだって、わかってるよ。でも、ちょっとだけでも、大切な日だって思ってほしかった……いっしょに考えたり、悩んだりしてほしかったの」
ああ、こんなの、ただのワガママじゃないかと、心の中でもう一人の自分がため息をついた。
彼が、呼べるような家族は居ないんだと言ったこと。それでも、私の家族のためにも、式を挙げようと言ってくれたこと、嬉しかったのは本当なのに。彼の態度で、今日という日への思い入れが、全然違うことを実感するたびに、寂しくてたまらなくなってしまうのだ。いつからこんなに贅沢な人間になってしまったのかと、自己嫌悪で余計に涙が出る。
彼の、綺麗な目を見ていられなくて、俯く。ぐっと、唇をかんで、目に力を入れて、涙が止まるように努力する。けれど、一度決壊した感情の波は、そう簡単に治まってくれない。
ふいに、俯いていた顔を包むように、彼の両手が頬に添えられて、ぐいと上を向かされる。彼の親指がそっと、零れる涙をぬぐった。
「……お前が、こんな風に泣くのを見るのは、初めてだな」
そう、彼がぽつりとつぶやいて、私はびっくりしてしまった。
付き合い始めたころは、彼の勝手気ままな態度に振り回されて、不安に押しつぶされそうで、感情のままに泣いたことも何度もある。でも、思い返してみれば、彼の前でそんな醜態をさらしたことは、一度もなかった。だって私は、そんな自分を、絶対に彼に知られたくなかった。めんどうだと、思われたくなかった。彼の前では、良い女でいたかった。そうでなければ、彼はあっという間に、私の前から消えてしまうと、思っていたから。
だけど、どうだろう。今となっては、そんな悲壮感は、もう私の中には無い。それどころか、彼の静かな目を見ていたら、隠しておくつもりだった本音が、ぽろぽろ零れ落ちてしまった。一体、いつからだろう。いつの間に、彼の前で、こんなに素直に自分の感情を出せるようになっていたんだろう。考えても、わからない。大きなきっかけなんて無い気がして、それがとても不思議だった。
ふと気付くと、涙は止まっていた。じっと、彼の目を見つめていると、彼はふいに、ふわりと笑った。目を細めて、心底、愛おし気な表情で。不意を突かれて、胸がどきりと鳴る。瞬きをした拍子に、睫にたまった涙が、頬を滑り落ちた。
「……何笑ってるの」
「笑ってたか?」
「笑ってるよ」
なんだか力が抜けてしまって、ため息まじりに言うと、彼はさらに笑みを深くして、そっと、私の頭を撫でた。優しい手つきで、髪を梳く。
「そうだな、またひとつ、知らないことを知れたのが嬉しいのかもしれないな」
まるで、他人のことみたいに、彼は言った。髪を梳いていた手が、一房、髪を拾って、そっとそこに口付けが落ちる。慈しむようなその仕草が気恥ずかしい。だけど、彼は特に気にした様子も無く、ごく自然に続ける。
「お前がそんな風に悩んでいるなんて、少しも思わなかった」
髪が、離されてほどけて、下に落ちる。そっと肩を引き寄せられて、その腕の中に納まった。
「どうでもいいつもりは無かったんだが、同じように感じろというのは難しいな。俺にとっては、お前が楽しいなら、本当にそれで十分なんだ」
悪かった、と素直に零す彼の声が優しくて、歩み寄ってくれているような言葉選びが嬉しくて、とげとげしていた心がゆるんでいく。私も、おずおずと、彼の背に腕を回した。
「私の方こそ、ごめんなさい」
本当はちゃんとわかっているのだ。彼の言葉に、嘘が無いこと。それでも寂しさに負けた自分の態度が恥ずかしくて、必死で絞り出した謝罪の言葉は、小さく掠れていた。彼はまた少し笑って、あやすみたいに、私の頭をぽんぽんと叩いた。
温かくて、離れ難くて、しばらくそうしていたけれど、ふしゃん、というユリのくしゃみで、はっと我に返った。見れば、足元にすり寄るように、ユリがぐるぐると私たちの周りを歩き回っている。
「そういえば、ユリのごはん忘れてた」
私が慌てて動き出そうとするのを、彼が制す。
「俺がやっておくから、着替えてくるといい」
私はありがたくその申し出を受け入れて、寝室で先ほど適当に選んだワンピースに袖を通した。ついでに、顔に涙の跡が残っていないか、鏡でこっそり確認する。
大丈夫そうだと判断して、居間に戻ると、彼は餌皿にキャットフードを多めに入れながら、まとわりつくユリをあやしていた。とびかからんばかりに元気の良い愛猫を抱き上げて、微笑む彼の横顔は、髪に隠れて良く見えなかったけれど、きっと、うっとりするくらい優しいのだろうなと思う。
彼にプロポーズをした日も、私はこんな光景を見ていた。
あの日、あの瞬間、こんな時がいつまでも続いてほしいと思ったのだ。やさしくて、穏やかで、温かい日常。
彼と出会ってからずっと、彼のことが何もわからなくて、失うのが怖くて、二人でいるのにいつも一人でいるみたいに張りつめていた。なのに、いつの間にか、こんなに優しい場所にいたんだなと、なんだかまた、涙が零れそうになった。
名前を呼ぶと、彼が振り返った。あの日見ることの叶わなかった彼の表情は、やっぱりとても優しくて、胸がぎゅっとなる。どうした? と首を傾げる彼に、この気持ちを伝えたくて、でもやっぱり言葉にはならなくて、私はただ笑って、なんでもない、と首を振った。
今日私は、彼と結婚式を挙げる。一生懸命準備した特別な日だ。きっと、一生忘れられない大事な思い出になるだろう。
だけど、私が本当に欲しいと願ったものは、永遠にしたいと思ったものは、煌びやかな式場や、華やかなブーケや、繊細なウェディングドレスが生み出してくれるわけじゃない。もっとありふれていて、どこにでもあるようで、だけど彼と出会わなければ、決して見つけられなかったもの。きっとこの先も、こんな風に、何気ない瞬間にきらりとひかる。
その度に私は何度でも、泣きそうなくらいに、幸せだなと思うのだろう。
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