silent snow
政府主催の会議が終わり、自分の本丸へ帰る人たちで、フロアはごった返していた。広いホール中央に並ぶ十二枚の扉。セキュリティチェックを終えた審神者が、順々にその中に消えていく。順番を待つ人々が列を作り、時計を気にしたり、端末を取り出して、会議の終わりを本丸へ知らせたりしている。
その列からはずれたところにも、小さな人の輪がいくつも出来ていて、情報交換や世間話に花を咲かせていた。夜も遅い時間だというのに、煌々と輝くランプは、ざわざわとした熱気に包まれるホールを眩しいほどに照らしている。
長い長い列に並び、ようやく自分の番が回ってきた。扉に浮かび上がるナンバーキーで指定されたコードを入力し、帰路を確認。そこそこ本丸から距離のある地点に出されることがわかり、げんなりする。現代の空間転移技術の叡智を集めたこの扉は、機密防衛の観点から、多くの人が一度に本丸へ帰る際、本丸の門に直結させてはいけないことになっている。少し離れた地点へ出され、そこから歩いて帰るしかないのだ。
“門が開きます。ご注意ください”
無機質な機械音に送り出されて外に出ると、雪が降り出しそうな、しんと張りつめた空気が頬を刺した。背後で、ばたんと扉が閉まる。先ほどまでの喧噪が嘘のように、沈黙が広がる。
一拍置いて、振り返っても、もうそこに扉は無い。鬱蒼とした森の中。穴の開いたブリキのバケツが、ぽつんと転がっているばかりだ。私はため息をつき、本丸への道を歩き始める。
今日もまた、随分遅くなってしまった。仕事を終えた帰り道は、身体が鉛のように重い。まるで、自分を上からつるして働かせていた糸が、ぷつんと切れてしまったようだ。
のろのろと、足を引きずるように歩いていると、疲労で靄のかかった頭の中を、嫌だったことや、理不尽だったこと、自分の力が足りなかったことなんかが、ぐるぐると巡っていく。何も考えたくないのに、感情の逃げ場がなく、気持ちが真っ黒に塗りつぶされていく。息が出来なくなりそうだ。
ここ最近、会議やら研修やら出張やら、外での仕事が続いている。本丸のみんなと、満足に話も出来ていないなと、ぼんやり思う。きっともうみんな寝ているだろう。起きて待っていてもらうのは申し訳なくて、先に寝ていてと言ったのは自分だけれど。
それでも、玄関の明かりが点いているのは、疑いようもなく自分のためだ。静まり返っていても、自分以外の誰かの気配のある家に帰るのは、やはり少しほっとする。どんなに遅くなっても必ず点いているその光を見ると、まるで真っ黒な胸の中にも明かりが灯ったようで、だいぶ息が楽になる。
寒くて寒くて走り出したいのに、そんな元気は無い。広い庭が若干うらめしい。なるべく早歩きで玄関へ向かう。からりと引き戸を開けながら、誰に言うでもなく、ただいまと小さくつぶやいた。
「あ、おかえり~」
返ってくるはずのない言葉にびっくりして顔をあげると、薄暗い玄関にぼんやりと人影が立っていた。
「安定」
「おかえり、主。遅かったねえ」
はっきりとは見えないが、ふわっと笑った気配が伝わってくる。こわばっていた肩から力が抜けて、つられてほろりと笑顔が漏れた。
「ただいま~。安定がお出迎えなんて、めずらしいね」
「あ、違う、これこれ」
笑いながら、手に持っているものを示す。良く見ると、お湯を入れたカップラーメンを、大事に抱えているようだ。台所で湯を入れて、居間へ運ぶ途中だったのだろう。そんなことだろうと思ったよと、ちょっと笑いながら、仕事用の真っ黒なパンプスを脱ぎ、廊下へ上がる。ストッキングをはいた足の裏から、ひんやりとした冷気が伝わってくる。
「あ、ちょっと、靴そろえなよ!」
さむさむ、と慌てて奥へ引っ込もうとしたところを呼びとめられて、しぶしぶ戻る。膝をつき、遠くへ転がってしまった靴の片一方を、めいっぱい手を伸ばして引き寄せているうちに、安定はさっさと奥へ入ってしまった。
後を追って居間の障子をあけると、こたつで兼さんと堀川が、みかんを食べながらテレビを見ていた。堀川は私に気付くとすぐに「おかえりなさい」と笑顔を見せ、兼さんも、テレビから目は離さないが、一応声をかけてくれる。急に明るくて、あたたかくて、むき出しの頬や手がじんじんした。目が、ちかちかする。ただいまと、声に出すと、一気に気が抜けてしまう。
安定はいそいそとこたつの開いている一角に潜り込み、早速ラーメンのふたをあけている。私もコートを脱ぎ、スーツの上着をその辺に放って、その隣に潜り込む。
「ちょっと主せまいよ、あっち行ってよ」
「やだよ、あっちテレビ見えないじゃん」
安定は不満げながら、ラーメンを食べることに集中すると決めたのか、それ以上は責めてこなかった。冷えた足先が、こたつにあたためられて、心地よい。テレビでは、バラエティ番組をやっていて、見知った顔の芸能人があーだこうだと喋ってはげらげら笑っている。めまぐるしく変わる画面から、疲れた頭にほとんど情報は入ってこないけど、今はそれくらいがちょうどいいなと思う。
「はあ~こたつ最高~。あ、堀川、私にもみかんちょうだい」
「はいはい」
「いいのかよ、そんなことしてて。この間もこたつで寝て前田にどやされてたじゃねえか」
「兼さんに正論言われるとむかつく」
そりゃどーいう意味だ、そのままの意味ですけど?といつもの調子で言い合いを始める私たちを、堀川がまあまあとなだめると、兼さんはため息をついて、またテレビに視線を戻す。
私だって、このままだとスーツがしわになることも、すぐお風呂に入って寝た方がいい時間だということもわかっている。わかっているけど、どうにも身体が重くて、なにもかもめんどうくさくて、みんなでこたつを囲んでるこの空気が心地よくて、動きたくない。
「みんな遅くまで起きてるの、めずらしいねー」
「今日夕食当番だったから、台所片付けてたら遅くなっちゃって、なんとなくそのままテレビを見始めちゃったんですよね」
「和泉守がお皿割るから~」
「さっきから悪かったって言ってんじゃねえか……ていうかお前片付け終わったのに何食ってんだよ!」
「片付けてたらお腹すいちゃったんだもん」
安定は笑って、また麺をすすった。暴力的なまでにおいしそうな匂いが漂ってくる。カップヌードルの、シーフード味。
「安定、いっつもそれ食べてる気がする」
「そうかも。僕、これが一番好き」
「ひとくち食べたい」
「やだよ。台所にまだあるよ?」
心底いやそうに、安定は私から少し距離をとる。
お腹がへっているし、いい匂いだけど、この時間からカップラーメンを食べるのはいかがなものだろうという、自分の良心がうずいた。諦めて、堀川がくれたみかんをむいて食べる。
「お味噌汁くらいしか残ってないけど、食べますか?」
堀川は、かいがいしく兼さん用のみかんの白い筋を取り除いていた手を止めて、言った。私はありがたくその申し出を受けることにした。ちょっと待っててくださいねと、あっさりこたつから抜け出すフットワークの軽さに、感動すら覚える。
「なんだか今日の堀川は私に優しい気がする……」
「あんたがひどい顔してるから、ほっとけねえんだろ」
「ひどい顔っていう言い方がひどい。そんなに?」
「確かにひどいよ。三日くらい寝てないみたいな顔してる」
安定が、私の顔を覗き込みながら言う。自分では自覚がなく、少しショックだった。どんなに忙しくとも、みんなの前では元気な主でいたい気持ちもある。
「そうか……なんかごめん……」
「おいおい、なんで余計暗くなってんだよ」
「和泉守がひどい顔とか言うからでしょ」
「お前も言ったじゃねえか!」
焦る兼さんがおもしろくて、少し元気が出る。へへっと笑うと、なんだよ元気じゃねえか、と、ぶつくさ言いながらそっぽを向いてしまう。でも明らかにほっとしてるのがわかって、安定と顔を見合わせてにやにやしてしまう。にやにやすんな! と怒られてもひっこめられない。ひとしきりにやにやした後、安定はちょっと呆れ気味に、でもいつもの優しい調子で言った。
「主は無理するのとか向いてないんだから、難しいこと考えないで、疲れてる時はひどい顔でいればいいし、にやにやしたい時はにやにやしとけばいいよ」
僕も疲れて眠い時とか、すっごい顔になってるしさ、と、安定が言うので、なんだかいろいろとほっとしてしまって、ため息とともに机に突っ伏してしまう。
「安定、ありがとう。今日は、ものすごく疲れてるんだよ」
「はいはい。おつかれさま」
いつも自然体で、素直な安定らしい言葉があたたかい。
そういえば、素直じゃない方の相棒の姿が見えないことに気付いて、顔だけ安定の方を向けて尋ねる。
「そういえば、清光は? いっしょに当番だったんじゃないの?」
「あー。寝不足は肌に悪いから寝るって言って部屋に引っ込んだよ。たぶん起きてるけど」
なんでもなさそうに安定は言って、カップラーメンの残りを食べ始める。
「どーいうこと? 寝てないの?」
「主が遅い日は、大体寝ないで待ってるみたいだよ」
「うそ、でも私一回も出迎えてもらったことないよ」
「主が先に寝ててって言ったじゃない。だから主が帰ってくるのだけ確認してから寝てるみたい」
「なにそれかわいすぎかよ。サプライズで待っててくれてありがとう! って部屋に飛び込んだら驚くかな」
「それは絶対おもしろいことになるけど、僕にもばれてないって思ってるから、気付かないふりしてあげるべきかも。それに……」
安定が、少し言いよどみ、やっぱり何でもない、と笑う。少し不思議に思ったが、そうこうしているうちに、堀川が戻ってきて、続きを聞くタイミングを逃してしまった。おいしそうな匂いで、飛び起きる。はい、どーぞと、小さなお盆が目の前に置かれる。
ほかほかと湯気のたつ、油揚げと大根の味噌汁。控えめに盛られた白いごはん。花の形をした、オレンジ色の豆皿の上には、白菜と大根のお漬物がちょこんとのせられている。お盆の上の器がつくる三角形のうつくしさに、ほうっとため息が漏れた。
「ありがとう堀川! 最高! だいすき! いただきます!」
「あはは。召し上がれ」
ごはんを前にしてテンションが上がる私に、呆れたように堀川は笑ったけど、それも気にならないくらいに、うきうきしてきた。お腹がきゅうきゅうと、急に空腹を訴え始める。そっとお椀を両手で持ち上げ、お味噌汁をすする。空っぽだった胃袋に、だしの風味が優しい。ほっと息をついて、お箸を取り上げた。夢中で食事を胃におさめながら、見覚えのない豆皿を見つめる。
「こんなかわいいお皿、うちにあったっけ?」
「この間歌仙さんが買って来たんですよ」
この本丸で、食器にこだわりを見せる人物なんて、歌仙くらいしかいないだろう。特別目立つわけでもないのに、ぱっとお盆の上が明るくなるような存在感で、優しい色味がかわいらしい。
「ほんと、歌仙のチョイス間違いない。わかってる。この漬物もおいしい~」
「大根は今が旬ですから。今日は小夜と宗三さんがものすごく大きいのを掘り当てましたよ。あと最近、粟田口が揃って漬物作りにはまってて、味も日に日によくなってますね」
「うそ、これ家で作ってんの? 買って来たのかと思った」
泥だらけになっている二人の姿や、粟田口の子らが額を突き合わせて漬物の研究に没頭しているところを想像すると、それだけでさらにおいしいもののように感じる。しみじみと、漬物を噛みしめながら、みんなで顔をつきあわせてごはんを食べたのは、もうずっと昔のことのようだなと思った。急に寂しさがこみ上げる。
買い出しをしたり、ごはんの準備をしたり、それも労働には変わりないけれど。そういう時間を共有することが、一緒に生活するということではないのだろうか。
「主さんが忙しいから、せめてごはんの時くらい、楽しい気持ちになれるようにって」
ぽつりと、堀川が言う。また暗い顔になっていたような気がして、はっと顔を上げた。優しい、浅葱色の目が細められる。
「みんな、そう思って、野菜をとって、お皿を選んで、ごはんの支度をしてますよ。食事の時間は、ひとりだったかもしれないけど」
もちろん僕も、と、笑う。瞬間、身勝手な自分が情けなくて、頬が熱くなる。
ああ、そのとおりだと、深く頷いた。薄暗い台所で、ラップがかけられたおかずをあたため直して食べた時も、朝食当番の子たちが急いで握ってくれたおにぎりを、移動中にほおばっていた時も。みんなが用意してくれたごはんを食べるとき、私は当たり前のように、みんなに思われていて、愛されていて。当然に、なんでもないことのように、みんなの思いは目の前にあったのだ。いっしょにいられなくても、ずっと。
自分のことだけでいっぱいいっぱいで、周りのことなんてすぐに見えなくなってしまう。こんな情けない主のことを、いつも思いやってくれているみんながいる。
お盆の上の三角形を見下ろすと、胸が温かくて、涙がこぼれそうになって、慌ててごはんをかきこんだ。
あっという間にお皿は空になった。お腹がいっぱいになったところで温かいお茶など差し出されてみれば、心まで満たされたようで、ため息がもれてしまう。
「ごちそう様でした。おいしかった~」
「お粗末様でした。あ、主さんそのまま寝ないでよ!」
あ~と幸せのうめき声を上げながらごろんと横になった私は、堀川の忠告を無視して目を閉じる。ずるずると、こたつに胸の辺りまで入るととても温かい。少しだけ、ほんのちょっとだけ、このまま眠ってしまいたい欲にあらがえない。
「おい、寝るなら自分の部屋行け」
がくがくと、かなり強い力で揺さぶられ、仕方なく目を開ける。一瞬、覗き込む兼さんと目が合い、私がまだ寝ていないのを確認すると、ぴしゃりと額を叩かれた。中々痛かったので、眠気が吹っ飛ぶ。額を抑えて見上げると、兼さんは私の食べ終わった食器の載った盆を持って立ち上がる。
「ほんと、うちの主はだらしねえなあ。片付けといてやるから、部屋戻れよ」
めずらしく、面倒見のいい兼さんに驚く。堀川は少し微笑んで、さっとそのあとに続いて立ち上がった。
「兼さん、僕も手伝うよ!」
「兼さんめずらしく優しいね! カッコイイヨ兼さん!」
「兼さんついでに僕の箸も洗って」
「てめえは自分でやれ!」
ええーと、不満そうにしながら、どっこいしょ、と言って安定も立ち上がる。こたつ布団がめくれて、少し寒い。
私も仕方なく、のそのそと起き上がった。えいやっと気合を入れてこたつから抜け出て、ジャケットとコートを拾い上げる。
廊下に出ると、あまりの寒さに一瞬足が止まった。案外平気そうな三人の後ろを、縮こまって歩く。
「じゃあ主、おやすみー」
「髪乾かしてから寝てくださいね!」
「マンガ読んで夜更かしするんじゃねーぞ」
「わかってるよ! おやすみ!」
三人は台所へ、私は自分の部屋へ向かう。おやすみを言ってから、少しの間だけ、三人の後ろ姿を見送った。
さむさむ、と無意識に口から零れ落ちる。冷たい廊下をつま先で進みながら、ふと清光の部屋の前で足を止めた。明かりがうっすら漏れている。さっきの話を思い出し、好奇心に勝てず、ちょこっと障子を開けてみる。
清光は、布団から半分はみ出すようにして寝ていた。枕元の明かりがついていて、雑誌が広げられたままになっている。読みながら待っていたけれど、途中で寝てしまったというところだろうか。
「かわいいとこあるじゃない」
小声でつぶやきながら、そっと近づき、はみ出していた腕を布団の中に入れてやっていると、清光が少し身じろぎして、ゆっくりと目を開けた。
「起こしちゃった? ごめんね」
「ん、主……いつ帰ってきたの?」
「ちょっと前」
清光は目をこすりながら、ゆっくりと身体を起こす。眠そうな目が私を見て、不満げに眉間にしわがよる。
「なんかひどい顔してるよ」
「き、清光まで!そんなひどいかな。だいぶ元気出てきたと思ったんだけど……」
なんだか情けなくなって、ちょっと顔をそむける。さっさとお風呂に入って寝た方がよさそうだ。立ち上がりかけた私の袖を、しかし清光が引っ張るので、また膝をついてしまう。清光は不満げなまま、私から視線をはずそうとしない。
「……明日も早いの?」
「うん。また一日いないかも。ごめんね」
「あやまんなくていーの。それも仕事のうちでしょ」
「まあそうなんだけど……でもやっぱり、悪いことしてるって思う。ごめんね」
初期刀である清光は、元来かまわれたがりで、寂しがり屋だった。私が外の仕事で本丸を空けると、色々とワガママを言われたこともある。でも、それをいなし、なだめすかしていたのはもう昔の話で、段々とこの本丸がにぎやかになって、戦いも激しさを増していく中で、清光はいつの間にか、みんなをまとめる頼もしい刀に成長していった。
だから、私が本丸を空ける分、彼には一番負担をかけているだろうということは、容易に想像できて、つい謝罪の言葉が出てしまう。
ふいに清光が、両手を伸ばして、わしゃわしゃと私の髪の毛をかき乱す。思いのほか力が強くて、うつむきがちになって、清光の顔が見えなくなる。
「え、ちょ、となにすんの」
「主は、俺の顔みたら絶対そーいうこと言うと思った」
だから会わないようにしてたのに、という小さなつぶやきが、悲壮な決意に聞こえて、何と言っていいのかわからない。私の髪をぐしゃぐしゃにした手が止まる。
「そんなこと言わせたいんじゃなくてさ。もっと、俺に出来ること、ない? 主のために出来ることって、ないのかな」
そっと、髪をぐしゃぐしゃにしていた手が、今度はそれをなおすように頭をなでて、離れていった。顔を上げると、悲しげな顔と目があって、胸が鈍く痛んだ。
もういやだと、この胸に飛び込んで、泣けばいいのだろうか。そんなことできるわけないと、お互いよくわかっている。わかっているからこそ、この優しい付喪神は、私のためにもがいているんだろう。
それだけで、十分だ。その優しさだけで、私がどんなに救われているか。どんなに、力をもらっているか。それを、どうやって伝えればいいのか、もうずっとわからずにいる。
でも、言葉にできなくても、うまく形にならなくても、思いはずっと、あふれていたのだと思う。縁側の温かさのような、他愛のない軽口のような、毎日の自分のために用意される食事のような、そんなごくありふれた形で。きっと、私と同じように、清光には見えていないのだ。お互い、こういうところだけよく似ているんだなと、自嘲的な気分になる。
何度か口を開きかけて、でもやっぱり言葉は出なくて、うつむく。視界に映る右手をとって、両手でそっと握りしめた。爪先の赤を眺めながら、伝われ、伝われと、心の中で小さく祈る。そんなことしか出来なくて、嫌になるけれど。
「……明日の朝、いっしょに朝ごはんを食べてほしい」
「は?」
顔を上げて窺うと、清光の顔から暗い色が消えて、代わりに疑問の色が浮かぶ。
「別にいいけど……そんなの」
「朝ごはんがいい。それが今、一番してほしい」
じっとその目を見つめ、強く重ねて言う。清光は、数秒押し黙った後ため息をつき、あきれたような、諦めたような顔で言った。
「わかった。いいよ。約束ね」
「へへ、やった、ありがとう」
握りしめていた手をほどいて、小指を絡ませ指切りをする。
「ちょっとはいい顔になったじゃん」
心底、ほっとしたような清光の様子に、胸がじんとした。立ち上がると、清光がふあっとあくびをこぼし、なんだか長居してしまったなと思った。
「おやすみ、清光」
「おやすみ。また明日ね」
そっと障子を閉めるまで、眠そうなのにひらひらと、手を振ってくれる様子がかわいい。また明日ねという響きが嬉しくて、さっきほど、廊下の寒さは気にならなかった。
私にとっては、そんなこと、じゃないんだよ。伝わればいいなと思う。いっしょに朝ごはんを食べる、そういう当たり前が嬉しくて、そういう当たり前の繰り返しが、とても、大切なんだということ。そんな当たり前の中に、当たり前のように、そっと息をひそめる、私の思いも。全部。
ふと、庭を見ると、いつの間にか雪が降り出していた。本丸から漏れる少ない明かりが、ちらちらと舞う雪を照らす。足を止めて、少しの間それを眺めていた。しんしんと、少しずつ降り積もる。ゆっくりと、白く染まっていく。
寝て、起きて、働いて、淡々と繰り返すだけの日々の上に、気付かないほど優しく、静かに。
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