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マリーゴールド


飲み会の中の、よくある、けれど確実にこちらを加害してくるような会話が耐えられなくて、曖昧に笑って席を立った。トイレの鏡に写った自分の顔があんまりにも酷くて、今日はもうダメだと悟って、仲の良い同僚にだけ体調が良くないと言い置いて、やかましい居酒屋を逃げ出した。

金曜23時の繁華街は、ひどくごった返していた。ぎらぎらと、昼間のように眩しい飲み屋の明かり。客を呼び込む声。酔ってテンションの高い喧騒のさざ波の中を、俯き気味に黙々と歩く。
時代遅れの男尊女卑を振りかざす上司と、それを取り巻く嫌味な同僚たちを交えた飲み会なんて、行かなければいいってわかっているのに、周りの目を気にして断りきれず、いつも心がぐしゃぐしゃになる。
それでも普段は最後までいて、お疲れ様でした〜なんて笑顔を貼り付けて帰れるのに、なんだか今日はそれが出来なくて。きっと飲めないのに飲まされたお酒のせいだ。気持ち悪い。早く帰って寝てしまいたい。
「何線で帰る?」
ふいに、声をかけられて、驚いて顔を上げた。いつの間にか、隣を同期の桑名くんが歩いていた。
「び、っくりした〜。え、いつから?」
「今追いついた。周り、もうちょっと気にした方がいいよ」
一応、変な人に絡まれないように気を張っていたつもりだったのだけど、いつの間にか思考の海に沈んでいたらしい。少し肩を竦めて、前を向く。ちょうど、酔ってよろけたサラリーマンを避けようとしたら、ぐいと桑名くんに肩を引き寄せられて、びっくりした。
「……ありがと……」
とりあえずお礼を言う。手はすぐに離れて、私たちは何事も無かったように歩き出す。本当に、私は大丈夫なのに、言外にほらね、という雰囲気を滲ませてくる桑名くんに、ちょっと悔しい気持ちになる。肩を掴んだ大きな手に、どきどきしてしまったことも、絶対に、気付かれたくないなと思う。
「桑名くんも、抜けてきたんだ」
「うん。つまらなかったし」
そういえば、桑名くんがこういう場に顔を出すのはめずらしい。理由を聞けば、今日の会場だった居酒屋が、自社農園を持っている会社の系列店だったから、興味があったのだとか。相変わらず、ぶれないなあと思っていたら、今馬鹿にしたでしょ?と聞かれたので、感心してたんです、と返す。
他愛もないやりとりに、ぐしゃぐしゃになった心が息を吹き返していくのを感じた。あまり馴染めているとは言い難い職場の中で、桑名くんは数少ない心を許せる存在だった。
「結構飲まされてなかった? 大丈夫?」
「うーん、ちょっと気持ち悪いけど、大丈夫。気持ち的に、なんかあの場にいたくなくて、出てきちゃっだけだから」
あぁ、と桑名くんは鷹揚にうなずいた。
「……嫌なら嫌って、ハッキリ言わなきゃダメだよね」
自嘲気味に言う。桑名くんはきっと、そう思ってるだろうと、思ったから。ついつい先回りするようなことを言ってしまう自分に嫌気がさしたけど、彼に言われたら、とても傷つきそうで、言わずにはいられなかった。
だって、言われたって、私にはどうせできっこないんだ。できないから、こんなに苦しい。
「別に、ダメではないと思うけど」
桑名くんは、いつものゆったりした口調で、そう言った。
「僕だったら、ハッキリ言うよ。でも、それはそうしたいってだけで、それが正しいとか、間違ってるとか、そういう風には思わないよ。君が空気を読んで、明日からの仕事を大事にして、何も言わないって決めたのなら、それはそれで良いと思う」
彼の言葉には、少しも責めたり、論破したり、なぐさめるような響きはなくて、本当に、ただそう思っているんだなとわかる。
でも、私のひねくれた心は、彼が穏やかに、私を受け入れてくれることさえ苦しくて、素直にうなずくことは出来なかった。
「でも、でも私は、私のそういうとこ好きじゃないんだ」
本当は、もっと自分が思うままに、生きていきたい。無理を通すのではなく、揺らがないでいられるくらいの自信がほしい。
桑名くんを見ていると、いつもそう思う。大地に根を張る大きな木のように、1本筋の通った生き方をしている彼のこと、何度羨ましく思ったか。眩しくて、憧れて。私にはないその強さに、いつの間にか惹かれていた。
「……桑名くんみたいに、なれたらよかったのにな」
彼のこと、好きだと思えば思うほど、自分の情けなさが嫌になる。彼にふさわしいのは私のような奴じゃないと、もう何度も考えたことなのに、今夜はなぜかそれがとても辛くて、切なくて、涙が出そうになって、慌てて眉間に力を入れる。
昼間みたいに明るい繁華街では、滲んだ涙を隠すことも出来ない。桑名くんが、わかりやすく動揺するのがわかったので、諦めて足を止める。
「ごめんね、ちょっと酔ってテンションおかしいわ。落ち着いたら、帰るから」
言外に、先に行ってという意味を込めて、努めて明るく告げる。途端、彼の口がへの字になった。
「それじゃぁ、なんのために抜けてきたかわからんやん」
そう、不満げに桑名くんが言う。
え? と、聞き返した私の返答に対して、わざとらしく、深々とため息を吐いた。なんなんだろう、さっきから。まるで、物分りの悪い子どもにするような扱いに、むっとしてしまう。私の口も、彼に負けず劣らずへの字になっていることだろう。
「なんなの、そのため息は。意味わかんないんだけど」
「はぁ〜。なんでわからんかなぁ……」
心底呆れた、という調子で桑名くんは言って、がしがしと乱暴に頭を搔くと、意を決したように、こちらを向く。彼の瞳は、いつものように分厚い前髪で隠されているけれど、きっと見えていたなら、私のことを真っ直ぐに見つめていたのだろうと思う。そんな、熱を感じた。
「僕は、君のことが心配で、後を追って抜けてきたんだけど」
その一言に、何も言い返せず、固まってしまった。思考が、酔って鈍っているのだろうか。いや、それほど飲んではいないはずだ。
「……家まで送るから」
有無を言わせぬその態度に、混乱から抜け出せないまま、おずおずとうなずく。桑名くんは二、三歩、歩き出すけど、フリーズしたままの私の足は動いてくれなくて。振り返った桑名くんは、はぁ、ともう一度ため息を吐くと、戻ってきて、私の手を取って歩き出す。
引きずられるように歩き出してから、え、あの、ともごもご言ったけど、何ひとつうまく言葉にできなくて、頬がどんどん熱くなっていく。
少し前を行く桑名くんを見上げたら、耳も首も真っ赤だったから、なんだか余計に恥ずかしくなってしまう。
「そ、そんな照れるならこんなことしないでよ……!」
「照れてない、全然照れてないから」
不機嫌そうな桑名くんは珍しくって、その余裕の無さそうな態度にどきどきが止まらない。私はなすすべもなく引きずられながら、熱い手に包まれた、自分の手を眺めていた。




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