たった一言が言えなくて


懐かしい夢を見た。入学して数日、初めて屋上へ行った日の事。扉を開けると目の前に広がったのは、自前の工具箱に使い古した工具、それらを辺り一面に散りばめて置かれていた。俺に気付いて作業を止めて、こちらに振り向いた。髪をなびかせたその人はまるで、春風に乗って来た桜のようだった。

暖かい夢から覚めると、見覚えのある天井が見えた。あれからどれだけ経ったのかは分からないが、外は夕暮れ時のようで天井には茜色の光が差し込んでいた。それだけ寝ていたのかと思っていると、近くから小さな寝息が聞こえてきた。誰かいるのかと左右を見渡すと、左側に椅子に腰掛けた浅桐が眠りについていた。
「–––––––っ!?」
思わず出そうになった声を抑え、浅桐を起こさないようにゆっくりと体を起こした。…あの時と同じ感覚がする。鼓動の音が体全体に響き、だんだんと火照ほてり始める感覚を。少し荒くなった呼吸を整え、浅桐の近くへ移動した。浅桐の寝顔は何度か見たことがある。以前は疲れているのかとか、頑張っているんだなとしか思っていなかった。改めて見ると、とても綺麗だと思った。絵から飛び出してきたかのような、それくらい綺麗に見えた。俺は浅桐の頬へと手を伸ばし、そっと触れた。浅桐の頬は思っていたよりも柔らかく、触り心地が良かった。普段あまり見ない部分にも目が行き、なんだか楽しく思えてきた。髪、眉、まつ毛、唇––––––……それまでの平常心がき乱され、一気に体が熱くなった。流石に駄目だろうと思う反面、もしかしたら2度とないチャンスかもしれないと思えてきた。数十秒の格闘の末に俺は、俺自身の欲に溺れることにした。
うるさく鳴る鼓動、少しずつ近くなる浅桐の顔、今だけは起きないで欲しいと強く願った。息がかかりそうな距離になると、鼓動がより一層煩くなる。あと一息で触れそうだ、そう思った時だった。浅桐がぴくりと動いた。俺は慌ててベッドへと戻り、平常心を取り戻そうとした。数秒後、浅桐は目を覚ました。そしてこちらを見ては、
「…あー……寝ちまってたか…」
かすかに聞こえる声で言った。心配になった俺は声をかけずにはいられなかった。
「浅桐、大丈夫か?」
「大丈夫か、ってお前の方だろォ?サッカーボールを顔面キャッチして、ブッ倒れてるのによ」
そう言いながらも、浅桐はそれなりに心配してくれているのだろう。
「確かに顔面キャッチだったな」
と言った。そうだな、とかそういう相槌あいずちよりもこちらの方が良いのかと思い、そう言ったのだ。合っているかは分からない。欲しい答えなのなどうかも、知る手立てがない。それでも良い。この感情をもった以上、優しく接したいと思った。すると突然、浅桐が俺の顔に近付いて来た。磁石にでもなったかのようなくらいだった。
「な、んだ…?」
さっきのことを思い出して、心臓が飛び上がりそうになった。
「大分赤みは治ったみてェだな」
そう言って浅桐は、再び椅子に腰掛けた。てっきりさっきのがバレたのかと思い、正直ホッとしている。
「じゃあオレ帰るわ…あ、荷物は椅子のとこに置いてるから」
浅桐は椅子から立ち上がり、自分の荷物を持ってドアの方へ向かった。そういえばまだお礼の言葉すら言っていないことに気付き、咄嗟とっさに浅桐の手首を掴んだ。そして何も考えずに今の気持ちを伝えた。
「 ありがとう、来てくれて。嬉しかった」
「…どーいたしまして」
言い終えた後、浅桐の手首を離し、部屋から出て行く浅桐を見送った。見間違いかもしれないが、僅かに耳が赤かった気がした。
浅桐がいなくなってから、ベッドにある枕に顔を押し付けた。素直に思ったままの感謝を伝えたはずなのに、後悔だけが心に残った。その理由は分かる。ただ、これだけが言えなかった。たった、2文字の言葉。
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