たった一言が言えなくて
懐かしい夢を見た。入学して数日、初めて屋上へ行った日の事。扉を開けると目の前に広がったのは、自前の工具箱に使い古した工具、それらを辺り一面に散りばめて置かれていた。俺に気付いて作業を止めて、こちらに振り向いた。髪をなびかせたその人はまるで、春風に乗って来た桜のようだった。
暖かい夢から覚めると、見覚えのある天井が見えた。あれからどれだけ経ったのかは分からないが、外は夕暮れ時のようで天井には茜色の光が差し込んでいた。それだけ寝ていたのかと思っていると、近くから小さな寝息が聞こえてきた。誰かいるのかと左右を見渡すと、左側に椅子に腰掛けた浅桐が眠りについていた。
「–––––––っ!?」
思わず出そうになった声を抑え、浅桐を起こさないようにゆっくりと体を起こした。…あの時と同じ感覚がする。鼓動の音が体全体に響き、だんだんと
「…あー……寝ちまってたか…」
と
「浅桐、大丈夫か?」
「大丈夫か、ってお前の方だろォ?サッカーボールを顔面キャッチして、ブッ倒れてるのによ」
そう言いながらも、浅桐はそれなりに心配してくれているのだろう。
「確かに顔面キャッチだったな」
と言った。そうだな、とかそういう
「な、んだ…?」
さっきのことを思い出して、心臓が飛び上がりそうになった。
「大分赤みは治ったみてェだな」
そう言って浅桐は、再び椅子に腰掛けた。てっきりさっきのがバレたのかと思い、正直ホッとしている。
「じゃあオレ帰るわ…あ、荷物は椅子のとこに置いてるから」
浅桐は椅子から立ち上がり、自分の荷物を持ってドアの方へ向かった。そういえばまだお礼の言葉すら言っていないことに気付き、
「 ありがとう、来てくれて。嬉しかった」
「…どーいたしまして」
言い終えた後、浅桐の手首を離し、部屋から出て行く浅桐を見送った。見間違いかもしれないが、僅かに耳が赤かった気がした。
浅桐がいなくなってから、ベッドにある枕に顔を押し付けた。素直に思ったままの感謝を伝えたはずなのに、後悔だけが心に残った。その理由は分かる。ただ、これだけが言えなかった。たった、2文字の言葉。