5.軋轢
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是故始如處女、敵人開戸、後如脱兎、敵不及拒
(是の故に始めは処女の如く、敵人戸を開き、後には脱兎の如くにして、敵拒ぐに及ばず――)
傍にある本を一瞥もせず、男は流暢に読み上げていく。
空はまるで地肌に沁み込ませるかの如く、男の声に熱心に耳を傾けていた。
博覧強記。
目の前にいる男を形容するにあたって、これほど相応しい言葉はないだろう。
日を重ねるごとに、空の天鬼を見る瞳には憧れを宿していた。
それはもう心酔の域に達しているかもしれない。
空が天鬼に兵法を師事して、早一週間。
学園長が拘束されている前代未聞の状況下において、空は不謹慎にも充実した日々を送っていた。
天鬼との座学を通じて、空は兵法の面白さに虜になっていた。
絶えることなく時を刻む中、色褪せることなく、寧ろ輝きを増す先人の知恵に。
兵法――中でも、最も著名な「孫子の兵法」には主に戦に勝つための考え方や戦い方を記しているが、参考にすべき対象は何も戦だけにとどまらない。
勉強、政治、ビジネス、処世術――兵法という枠組みを超えて、その理論は様々なことへと応用がきく。
発祥となる中国だけでなく、世界中の偉人たちからも愛読される最古で最高の本。
それは知っていたが、こんなに面白い内容だったとは。
空は知れば知るほどのめりこんだ。
そして、自分に兵法を教授してくれる天鬼に尊敬の念を抱かずにはいられない。
天鬼と向かい合っている時間は幸せだった。
このときだけは、敵味方など互いの立場を忘れることができる。
けれど、忍術学園でかつて天鬼と対峙した者はこう思っているだろう。
半助は善で、天鬼は悪、と。
空の脳裏に先日の夜のことがよぎった。
練習用の表畳の束を薙刀一振りで真っ二つにした、見事な一撃――まさに神業だった。
今まで発揮されることはなかったが、これが本来の半助の実力なのだろう。
そんな恐るべき力を持った半助が、天鬼として二度も忍術学園の前に立ちはだかり、学園長を人質にとってしまった。
忍術学園側の人間たちが敵対視するのも無理はない。
しかし、空の中ではその単純な善悪二元論で簡単に片づけられないほど、天鬼の存在が大きくなっていた。
(私には、天鬼様が一概に悪い人だなんて思えない……)
いつしか顔がこわばっていたらしい。
天鬼が突如語るのを止めた。
「空。顔色が優れないようだが」
「え?」
天鬼がじっと見つめてくる。
一緒に過ごすうちに、天鬼は口元を覆う頭巾をとるようになった。
それは単に面倒くさくなっただけなのか、ただの気まぐれなのか、はたまた空への警戒心をといた故なのかはわからない。
「ご心配かけて申し訳ありません。でも大丈夫です」
そう笑顔でかわしながら、心の中で悪態をつく。
能面のような無の表情で自分の心は読ませないのに、他人の心の機微にはすぐに気づくんだから、と。
天鬼が気遣いを見せるのは、今日だけではなかった。
座学の最中、ややとっつきにくい理論に遭遇した場合、眉間に皺を寄せたり、口をへの字にしたり、無意識に顔に出てしまっているらしい。
そんな空の様子を察して、天鬼は例を交えたり、言葉をかみ砕いたりして、わかりやすく説明してくれるのだ。
相手の様子を注意深く観察し、困っていたら手を差し伸べる。
その姿にはかの人の面影がある。
「土井先生……」
思わずその名が零れる。
宙に舞ったその言葉は天鬼には聞こえなかった。
いや、聞こえないふりをしたのかもしれない。
いずれにせよ、彼が空の言葉を引き継ぐことはなかった。
(是の故に始めは処女の如く、敵人戸を開き、後には脱兎の如くにして、敵拒ぐに及ばず――)
傍にある本を一瞥もせず、男は流暢に読み上げていく。
空はまるで地肌に沁み込ませるかの如く、男の声に熱心に耳を傾けていた。
博覧強記。
目の前にいる男を形容するにあたって、これほど相応しい言葉はないだろう。
日を重ねるごとに、空の天鬼を見る瞳には憧れを宿していた。
それはもう心酔の域に達しているかもしれない。
空が天鬼に兵法を師事して、早一週間。
学園長が拘束されている前代未聞の状況下において、空は不謹慎にも充実した日々を送っていた。
天鬼との座学を通じて、空は兵法の面白さに虜になっていた。
絶えることなく時を刻む中、色褪せることなく、寧ろ輝きを増す先人の知恵に。
兵法――中でも、最も著名な「孫子の兵法」には主に戦に勝つための考え方や戦い方を記しているが、参考にすべき対象は何も戦だけにとどまらない。
勉強、政治、ビジネス、処世術――兵法という枠組みを超えて、その理論は様々なことへと応用がきく。
発祥となる中国だけでなく、世界中の偉人たちからも愛読される最古で最高の本。
それは知っていたが、こんなに面白い内容だったとは。
空は知れば知るほどのめりこんだ。
そして、自分に兵法を教授してくれる天鬼に尊敬の念を抱かずにはいられない。
天鬼と向かい合っている時間は幸せだった。
このときだけは、敵味方など互いの立場を忘れることができる。
けれど、忍術学園でかつて天鬼と対峙した者はこう思っているだろう。
半助は善で、天鬼は悪、と。
空の脳裏に先日の夜のことがよぎった。
練習用の表畳の束を薙刀一振りで真っ二つにした、見事な一撃――まさに神業だった。
今まで発揮されることはなかったが、これが本来の半助の実力なのだろう。
そんな恐るべき力を持った半助が、天鬼として二度も忍術学園の前に立ちはだかり、学園長を人質にとってしまった。
忍術学園側の人間たちが敵対視するのも無理はない。
しかし、空の中ではその単純な善悪二元論で簡単に片づけられないほど、天鬼の存在が大きくなっていた。
(私には、天鬼様が一概に悪い人だなんて思えない……)
いつしか顔がこわばっていたらしい。
天鬼が突如語るのを止めた。
「空。顔色が優れないようだが」
「え?」
天鬼がじっと見つめてくる。
一緒に過ごすうちに、天鬼は口元を覆う頭巾をとるようになった。
それは単に面倒くさくなっただけなのか、ただの気まぐれなのか、はたまた空への警戒心をといた故なのかはわからない。
「ご心配かけて申し訳ありません。でも大丈夫です」
そう笑顔でかわしながら、心の中で悪態をつく。
能面のような無の表情で自分の心は読ませないのに、他人の心の機微にはすぐに気づくんだから、と。
天鬼が気遣いを見せるのは、今日だけではなかった。
座学の最中、ややとっつきにくい理論に遭遇した場合、眉間に皺を寄せたり、口をへの字にしたり、無意識に顔に出てしまっているらしい。
そんな空の様子を察して、天鬼は例を交えたり、言葉をかみ砕いたりして、わかりやすく説明してくれるのだ。
相手の様子を注意深く観察し、困っていたら手を差し伸べる。
その姿にはかの人の面影がある。
「土井先生……」
思わずその名が零れる。
宙に舞ったその言葉は天鬼には聞こえなかった。
いや、聞こえないふりをしたのかもしれない。
いずれにせよ、彼が空の言葉を引き継ぐことはなかった。