わたしの軍師さま ~きり丸との確執編・おまけ~
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「天鬼さま、包帯を取り替えてもよろしいですか?」
「ああ、頼む」
天鬼が袖をまくり左腕を差し出せば、空は静かに包帯を剥がし始めた。
きり丸は隣の部屋でとっくに舟を漕いでいる。
先日、かどわかされたきり丸を救った際、天鬼は金貸しの配下だった忍者と一戦を交え、手傷を負った。
あの日は空の感情が最も右往左往した日だった。
なかなか家に帰ってこないきり丸に焦燥したし、天鬼から自分の懸念が現実になったと知らされた時は思わず息を呑んだ。
首を長くしてふたりの帰りを待つ間は、隣のおばちゃんに心配されるほど顔色が悪かったという。
その後、ふたりの帰還が叶った時は狂喜したけれど、天鬼の装束に沁みた赤色を見て動転し、慌てて救急箱を取りに行った。
できれば、もう二度と経験したくないような長い一日だった。
「傷、だいぶ塞がってきましたね」
「ああ」
幸い、敵の忍者から受けた刀傷はそれほど深くなく、骨まで届いていなかった。
あと三日ほどで新学期を迎える。
これなら、半助の業務に支障はないだろうと、空はほっと一息ついた。
通常ならば一週間のごく短い秋休みが、今回は異例の一月 となった。
その一月を天鬼と過ごすこともまた異例の事態だった。
一方的に天鬼を敵視したきり丸には参ったけれど、雨降って地固まるというもので、きり丸はその後天鬼とは良好な関係を築いている。
内職を教えることを口実に、何かと世話を焼く様子を毎日のように見た。
教えながら「天鬼さんってほんと不器用だな」と隣でぼやいているけど、その口調には天鬼を馬鹿にしたような意味合いはない。
親しみがこもっている。
今では半助との違いを純粋に楽しんでいるようだ。
まっさらな包帯を丁寧に巻きつけながら、ふと思い出して空が言った。
「そういえば……このお休み中、天鬼様に合ったバイトが見つかって良かったですね」
天鬼の口から小さく溜息が漏れる。
相も変わらず自身の感情をおくびにも出さないから、何を考えているのか測りかねた。
「きり丸は……どうやったら、あんなバイトを見つけられるんだ?」
「きりちゃんは銭儲けの天才ですからね。どうでしたか?猪の散歩のバイトは?」
「……私だったから成り立ったものの、あれは結構骨が折れるぞ」
「フフッ。でも、半助さんと違って、天鬼様は顔色一つ変えずにやりこなして凄いって、きりちゃん褒めてましたよ」
そう返すと、天鬼は「ふむ」と軽く顎を撫でた。
どことなく得意げになっているようで、空が口に袖をあてて忍び笑いする。
きり丸に太鼓判を押されたのであれば、今後体力任せの仕事は天鬼担当になるだろう。
「包帯、終わりました」
天鬼が取り替えてもらった包帯を黙然と眺めている。
その行為は巻き方が甘いとかケチをつけているのではなく、看護してもらったことに感謝しているのだ。
そんな天鬼に心をくすぐられながら、空は元いた円座に戻った。
時刻はおそらく亥の刻(午後十時)頃だ。
あと半刻ほど針仕事をしてから床に就こう。
近所にある仕立屋のせっかちな旦那の顔が浮かぶと、頼まれた巾着を早く完成させたかった。
天鬼は脇息 にもたれて書物をめくっているが、じきにきり丸の眠る寝所へ入っていくだろう。
そんなことを考えながら、空はせっせと手を動かした。
けれど、小半時経っても、天鬼はその場から離れようとしなかった。
通常なら、とっくに席を立つはずなのに。
奇妙なことに、心なしか自分の方をちらちらと窺ってくる。
「天鬼様」
「ん?」
「もうそろそろお休みになられたほうが良いかと思います」
空は天鬼の身体を気遣ってそう言った。
だが、天鬼は何も返さない。
彼の表情にどことなく困惑したものが見え隠れするのは気のせいだろうか。
「空の縫い物が終わるまで、ここで待つ」
「え?待つ……?」
空はきょとんとしたが、ふいに「あ」と短い声を発した。
もしかして天鬼は、針仕事に励む人間を残して先に寝ることを、日々申し訳なく思っていたのかもしれない。
そんなこと全然気にしてないのに。
「あ、あの、気を遣われなくて大丈夫ですよ!針仕事なんて日課みたいなものなので……作るの楽しいですし。だから、遠慮せずお休みになられて結構です」
そう言って、きり丸の寝ている隣の部屋に促そうとした。
だが、珍しく天鬼は苦い顔になっている。
「気を遣ったわけではない。その……」
「その?」
空が首を傾げる。
しばらく言い淀んでいた天鬼だったが、やがて覚悟が決まったようで目をしっかりと合わせてきた。
「今日はこの部屋で空と夜を明かしたい」
ほんの少しの時間、ポカンと口が開いた空だったが、その言葉に隠された意味を理解すれば、瞬時に身体が熱くなった。
天鬼が言った「この部屋」とは居間を指している。
その居間と板戸で仕切られた隣の寝所に行かないということは、言い換えれば、きり丸と一緒では都合が悪いということになる。
情を交わしたいと暗に仄めかされていた。
「あ、あの、その……それって……」
不意に訪れた甘い空気に空はしどろもどろになった。
休暇中に身体を合わせたのは初日に半助と過ごした夜だけ。
天鬼が現れてからはきり丸が不機嫌だったため、家の中は常にギクシャクし、なまめかしい雰囲気など皆無だった。
その後ふたりが和解してからも、一向に肌を合わせていない。
天鬼は腕に怪我を負っている。
その腕についたむごたらしい傷を見たら、傷の回復が最優先だと考えるのは当然である。
だから、甘い時間を過ごしたいと望むことも自然と憚られた。
熟した林檎のような顔で空が言う。
「で、でも……天鬼様の腕の傷が癒えてません。お身体に障りますよ」
「こんな傷など大したことない。私としては、このまま好いた女を抱けない方が身体に障る」
渋面をつくり、あけすけもなく断言する天鬼に、空はまたまた赤面した。
部屋に沈黙が落ちる。
求められて嬉しいはずなのに、極度に緊張してどう返せばいいのかわからない。
ここしばらくは家族同然の温かい雰囲気が家中に満ちていた。
だから、性交直前の男女が醸し出す、ねっとりとした空気に包まれると、身体から湯気を吹き出すほどに恥ずかしい。
「え、えっと……その……」
しばらくその場でまごついていると、天鬼が静かに立ち上がった。
「……やはり今言ったことは忘れてくれ。夜なべ中に要らぬことを言って失礼した」
空の踏ん切りのつかない態度は、天鬼の眼には仕事を邪魔されて困るというように映ったらしい。
面目ないと書いてある天鬼の顔を見ると、空の胸がズキリと痛んだ。
――駄目。ちゃんと言わないと。
空は弾かれたように叫んだ。
「待ってください、天鬼様!わ、私はただ……本当に天鬼様の怪我が心配だったし……急だったから、びっくりしてしまって……」
「……」
「天鬼様が嫌じゃなければ……私だってその……」
蚊の鳴くような声で続きを口にしてみると、恥ずかしさがこみ上げてくる。
堪らず火照った顔をおさえた。
「空」
柔らかい声音で名を呼ばれた。
間近に迫った天鬼の気配を感じ、空は顔から手を離した。
天鬼と視線を合わせれば、示し合わせたように厚い胸にもたれかかっていく。
「天鬼様……」
若葉のように爽やかな香りが鼻先を掠めた。
全身に逞しい男の身体を感じ、鼓動が甘やかな音色を刻み出す。
久しぶりに愛しい男の温もりに触れれば、空は今日まで知らず知らずのうちに天鬼との色事を我慢していたのだと悟った。
空の髪を撫でながら、天鬼が大きく息を吐く。
安堵とも呆れともとれる溜息だった。
「全く空ときたら……毎晩一緒にいても私を空気扱いして夜なべに耽るし……少し焦ったぞ」
「焦ったって……」
空がぷっと吹き出す。
下心があって、毎晩読む気のない本をパラパラと捲っていたのかと思うと、可笑しくてならない。
「だってそれは、天鬼様が怪我をされたからですよ。そうじゃなければ、もっと早く……」
そう言い返せば、むくれていた天鬼の顔から険がとれた。
意地悪めいた顔で言葉を継ぐ。
「もっと早く、どうしたかった?」
「そ、それは……」
空が一転してドギマギする。
恥ずかしがって口を噤む自分から、意地でも言葉を引き出そうとするのだ。
こうして意地悪を仕掛けてくるのは、天鬼の無言の誘いに気づこうともしなかったことに対しての意趣返しなのかもしれない。
「もう……」
「散々待たされたのだからこれくらいの意地悪はいいだろう。さぁ、今一度聞かせてくれ」
指と指が絡み合って、視線が交錯する。
中々見せてくれない、甘えたな瞳でせがまれると、胸がきゅっと締め付けられた。
絡めた手の力を強めて言う。
「天鬼様に、抱いて欲しいです……」
言い終わると、恋人たちの甘いムードが一際濃くなった。
天鬼の顔が徐々に近づき、重なる。
柔らかいが、少しかさついた唇だった。
表面がしっとりと触れ合う口付けが眩暈を覚えるほど心地良くて、渇いていた肌に潤いが行き渡っていく。
心は満足していても、身体は相当に淋しかったのだと痛感した。
「はぁ……ん…………ぁっ……」
舌を絡め合えば淫らな雰囲気が高まる。
艶めいた声が部屋に響く度に天鬼の舌使いが激しくなって、口の端から涎が零れるほど、熱い舌で口内をまさぐられた。
半開きの口から荒ぶる息を漏らす天鬼は、いつになく余裕がないようだ。
火照りを冷ますように、性急に自身の襟をはだけさせる。
艶やかな仕草に鼓動が跳ねた。
「空。悪いが、今日はもう……歯止めがきかぬ」
獰猛な瞳に貫かれて、下腹が甘く疼く。
腰に手を回され、天鬼がゆっくりと傾いてきたとき、空はこれからの展開に胸がときめいた。
――今から天鬼様と……
けれど、完全に押し倒された瞬間、残念なことに隣室の仕切り戸がガタリと開いた。
「ん……小便」
寝ぼけ眼を擦るきり丸が、ふらふらと外へ出て行く。
幸いなことに、居間に転がる男女の存在には気づいていないようだ。
「……」
良い雰囲気に水を差されてしまったふたりの間を、気まずい時間が通り過ぎていく。
「きりちゃん、起きちゃいましたね……」
「……」
そのときの天鬼のしかめっ面といったら、隣のおばちゃんに冷やかされたときの十倍は酷い。
双方落ち着かない気分で居直すと、用を足したきり丸が戻ってきた。
半分は寝ているような顔でも、二つの眼はしっかりと大人たちを捉えている。
「まだ起きてたんですか?いい加減、寝ましょうよ」
「あ、あのね、きりちゃん。私はもう少し縫い物を……」
「でも、それって明日期限じゃないんでしょ。なら、早く寝ましょうよ。さぁ、天鬼さんも。こっち、こっち」
と、半ば強引に袖を引っ張られてしまい、恋人たちのひとときは強制終了となった。
(せっかくいい雰囲気だったのに……もう、きりちゃんったら……)
大人二人に挟まれて安眠するきり丸を恨めしく思いながら、空は天鬼を見た。
こちらには背を向けていて、微動だにしない。
あのタイミングできり丸に邪魔をされれば腹が立つのも当然だし、体面が保てなくて顔を合わせられない気持ちもわかる。
後ろ姿に凄まじいほどの羞恥と怨念を漂わせていて、空は布団の下で笑いを堪えた。
がっかりしたのは空も同じだが、それは一時的なこと。
明日の朝、きり丸は新聞配達の後、朝市のバイトへ直行するから、天鬼との時間はいくらでもつくれる。
不貞腐れた背中に向かって、空は胸内で語り掛けた。
――もう少しだから、我慢してくださいね。
明日きり丸がいなくなれば、こちらからすぐに誘ってみよう。
早く夜が明ければいいのに。
天鬼の反応を楽しみにしながら、空はそっと瞼を閉じた。
「ああ、頼む」
天鬼が袖をまくり左腕を差し出せば、空は静かに包帯を剥がし始めた。
きり丸は隣の部屋でとっくに舟を漕いでいる。
先日、かどわかされたきり丸を救った際、天鬼は金貸しの配下だった忍者と一戦を交え、手傷を負った。
あの日は空の感情が最も右往左往した日だった。
なかなか家に帰ってこないきり丸に焦燥したし、天鬼から自分の懸念が現実になったと知らされた時は思わず息を呑んだ。
首を長くしてふたりの帰りを待つ間は、隣のおばちゃんに心配されるほど顔色が悪かったという。
その後、ふたりの帰還が叶った時は狂喜したけれど、天鬼の装束に沁みた赤色を見て動転し、慌てて救急箱を取りに行った。
できれば、もう二度と経験したくないような長い一日だった。
「傷、だいぶ塞がってきましたね」
「ああ」
幸い、敵の忍者から受けた刀傷はそれほど深くなく、骨まで届いていなかった。
あと三日ほどで新学期を迎える。
これなら、半助の業務に支障はないだろうと、空はほっと一息ついた。
通常ならば一週間のごく短い秋休みが、今回は異例の
その一月を天鬼と過ごすこともまた異例の事態だった。
一方的に天鬼を敵視したきり丸には参ったけれど、雨降って地固まるというもので、きり丸はその後天鬼とは良好な関係を築いている。
内職を教えることを口実に、何かと世話を焼く様子を毎日のように見た。
教えながら「天鬼さんってほんと不器用だな」と隣でぼやいているけど、その口調には天鬼を馬鹿にしたような意味合いはない。
親しみがこもっている。
今では半助との違いを純粋に楽しんでいるようだ。
まっさらな包帯を丁寧に巻きつけながら、ふと思い出して空が言った。
「そういえば……このお休み中、天鬼様に合ったバイトが見つかって良かったですね」
天鬼の口から小さく溜息が漏れる。
相も変わらず自身の感情をおくびにも出さないから、何を考えているのか測りかねた。
「きり丸は……どうやったら、あんなバイトを見つけられるんだ?」
「きりちゃんは銭儲けの天才ですからね。どうでしたか?猪の散歩のバイトは?」
「……私だったから成り立ったものの、あれは結構骨が折れるぞ」
「フフッ。でも、半助さんと違って、天鬼様は顔色一つ変えずにやりこなして凄いって、きりちゃん褒めてましたよ」
そう返すと、天鬼は「ふむ」と軽く顎を撫でた。
どことなく得意げになっているようで、空が口に袖をあてて忍び笑いする。
きり丸に太鼓判を押されたのであれば、今後体力任せの仕事は天鬼担当になるだろう。
「包帯、終わりました」
天鬼が取り替えてもらった包帯を黙然と眺めている。
その行為は巻き方が甘いとかケチをつけているのではなく、看護してもらったことに感謝しているのだ。
そんな天鬼に心をくすぐられながら、空は元いた円座に戻った。
時刻はおそらく亥の刻(午後十時)頃だ。
あと半刻ほど針仕事をしてから床に就こう。
近所にある仕立屋のせっかちな旦那の顔が浮かぶと、頼まれた巾着を早く完成させたかった。
天鬼は
そんなことを考えながら、空はせっせと手を動かした。
けれど、小半時経っても、天鬼はその場から離れようとしなかった。
通常なら、とっくに席を立つはずなのに。
奇妙なことに、心なしか自分の方をちらちらと窺ってくる。
「天鬼様」
「ん?」
「もうそろそろお休みになられたほうが良いかと思います」
空は天鬼の身体を気遣ってそう言った。
だが、天鬼は何も返さない。
彼の表情にどことなく困惑したものが見え隠れするのは気のせいだろうか。
「空の縫い物が終わるまで、ここで待つ」
「え?待つ……?」
空はきょとんとしたが、ふいに「あ」と短い声を発した。
もしかして天鬼は、針仕事に励む人間を残して先に寝ることを、日々申し訳なく思っていたのかもしれない。
そんなこと全然気にしてないのに。
「あ、あの、気を遣われなくて大丈夫ですよ!針仕事なんて日課みたいなものなので……作るの楽しいですし。だから、遠慮せずお休みになられて結構です」
そう言って、きり丸の寝ている隣の部屋に促そうとした。
だが、珍しく天鬼は苦い顔になっている。
「気を遣ったわけではない。その……」
「その?」
空が首を傾げる。
しばらく言い淀んでいた天鬼だったが、やがて覚悟が決まったようで目をしっかりと合わせてきた。
「今日はこの部屋で空と夜を明かしたい」
ほんの少しの時間、ポカンと口が開いた空だったが、その言葉に隠された意味を理解すれば、瞬時に身体が熱くなった。
天鬼が言った「この部屋」とは居間を指している。
その居間と板戸で仕切られた隣の寝所に行かないということは、言い換えれば、きり丸と一緒では都合が悪いということになる。
情を交わしたいと暗に仄めかされていた。
「あ、あの、その……それって……」
不意に訪れた甘い空気に空はしどろもどろになった。
休暇中に身体を合わせたのは初日に半助と過ごした夜だけ。
天鬼が現れてからはきり丸が不機嫌だったため、家の中は常にギクシャクし、なまめかしい雰囲気など皆無だった。
その後ふたりが和解してからも、一向に肌を合わせていない。
天鬼は腕に怪我を負っている。
その腕についたむごたらしい傷を見たら、傷の回復が最優先だと考えるのは当然である。
だから、甘い時間を過ごしたいと望むことも自然と憚られた。
熟した林檎のような顔で空が言う。
「で、でも……天鬼様の腕の傷が癒えてません。お身体に障りますよ」
「こんな傷など大したことない。私としては、このまま好いた女を抱けない方が身体に障る」
渋面をつくり、あけすけもなく断言する天鬼に、空はまたまた赤面した。
部屋に沈黙が落ちる。
求められて嬉しいはずなのに、極度に緊張してどう返せばいいのかわからない。
ここしばらくは家族同然の温かい雰囲気が家中に満ちていた。
だから、性交直前の男女が醸し出す、ねっとりとした空気に包まれると、身体から湯気を吹き出すほどに恥ずかしい。
「え、えっと……その……」
しばらくその場でまごついていると、天鬼が静かに立ち上がった。
「……やはり今言ったことは忘れてくれ。夜なべ中に要らぬことを言って失礼した」
空の踏ん切りのつかない態度は、天鬼の眼には仕事を邪魔されて困るというように映ったらしい。
面目ないと書いてある天鬼の顔を見ると、空の胸がズキリと痛んだ。
――駄目。ちゃんと言わないと。
空は弾かれたように叫んだ。
「待ってください、天鬼様!わ、私はただ……本当に天鬼様の怪我が心配だったし……急だったから、びっくりしてしまって……」
「……」
「天鬼様が嫌じゃなければ……私だってその……」
蚊の鳴くような声で続きを口にしてみると、恥ずかしさがこみ上げてくる。
堪らず火照った顔をおさえた。
「空」
柔らかい声音で名を呼ばれた。
間近に迫った天鬼の気配を感じ、空は顔から手を離した。
天鬼と視線を合わせれば、示し合わせたように厚い胸にもたれかかっていく。
「天鬼様……」
若葉のように爽やかな香りが鼻先を掠めた。
全身に逞しい男の身体を感じ、鼓動が甘やかな音色を刻み出す。
久しぶりに愛しい男の温もりに触れれば、空は今日まで知らず知らずのうちに天鬼との色事を我慢していたのだと悟った。
空の髪を撫でながら、天鬼が大きく息を吐く。
安堵とも呆れともとれる溜息だった。
「全く空ときたら……毎晩一緒にいても私を空気扱いして夜なべに耽るし……少し焦ったぞ」
「焦ったって……」
空がぷっと吹き出す。
下心があって、毎晩読む気のない本をパラパラと捲っていたのかと思うと、可笑しくてならない。
「だってそれは、天鬼様が怪我をされたからですよ。そうじゃなければ、もっと早く……」
そう言い返せば、むくれていた天鬼の顔から険がとれた。
意地悪めいた顔で言葉を継ぐ。
「もっと早く、どうしたかった?」
「そ、それは……」
空が一転してドギマギする。
恥ずかしがって口を噤む自分から、意地でも言葉を引き出そうとするのだ。
こうして意地悪を仕掛けてくるのは、天鬼の無言の誘いに気づこうともしなかったことに対しての意趣返しなのかもしれない。
「もう……」
「散々待たされたのだからこれくらいの意地悪はいいだろう。さぁ、今一度聞かせてくれ」
指と指が絡み合って、視線が交錯する。
中々見せてくれない、甘えたな瞳でせがまれると、胸がきゅっと締め付けられた。
絡めた手の力を強めて言う。
「天鬼様に、抱いて欲しいです……」
言い終わると、恋人たちの甘いムードが一際濃くなった。
天鬼の顔が徐々に近づき、重なる。
柔らかいが、少しかさついた唇だった。
表面がしっとりと触れ合う口付けが眩暈を覚えるほど心地良くて、渇いていた肌に潤いが行き渡っていく。
心は満足していても、身体は相当に淋しかったのだと痛感した。
「はぁ……ん…………ぁっ……」
舌を絡め合えば淫らな雰囲気が高まる。
艶めいた声が部屋に響く度に天鬼の舌使いが激しくなって、口の端から涎が零れるほど、熱い舌で口内をまさぐられた。
半開きの口から荒ぶる息を漏らす天鬼は、いつになく余裕がないようだ。
火照りを冷ますように、性急に自身の襟をはだけさせる。
艶やかな仕草に鼓動が跳ねた。
「空。悪いが、今日はもう……歯止めがきかぬ」
獰猛な瞳に貫かれて、下腹が甘く疼く。
腰に手を回され、天鬼がゆっくりと傾いてきたとき、空はこれからの展開に胸がときめいた。
――今から天鬼様と……
けれど、完全に押し倒された瞬間、残念なことに隣室の仕切り戸がガタリと開いた。
「ん……小便」
寝ぼけ眼を擦るきり丸が、ふらふらと外へ出て行く。
幸いなことに、居間に転がる男女の存在には気づいていないようだ。
「……」
良い雰囲気に水を差されてしまったふたりの間を、気まずい時間が通り過ぎていく。
「きりちゃん、起きちゃいましたね……」
「……」
そのときの天鬼のしかめっ面といったら、隣のおばちゃんに冷やかされたときの十倍は酷い。
双方落ち着かない気分で居直すと、用を足したきり丸が戻ってきた。
半分は寝ているような顔でも、二つの眼はしっかりと大人たちを捉えている。
「まだ起きてたんですか?いい加減、寝ましょうよ」
「あ、あのね、きりちゃん。私はもう少し縫い物を……」
「でも、それって明日期限じゃないんでしょ。なら、早く寝ましょうよ。さぁ、天鬼さんも。こっち、こっち」
と、半ば強引に袖を引っ張られてしまい、恋人たちのひとときは強制終了となった。
(せっかくいい雰囲気だったのに……もう、きりちゃんったら……)
大人二人に挟まれて安眠するきり丸を恨めしく思いながら、空は天鬼を見た。
こちらには背を向けていて、微動だにしない。
あのタイミングできり丸に邪魔をされれば腹が立つのも当然だし、体面が保てなくて顔を合わせられない気持ちもわかる。
後ろ姿に凄まじいほどの羞恥と怨念を漂わせていて、空は布団の下で笑いを堪えた。
がっかりしたのは空も同じだが、それは一時的なこと。
明日の朝、きり丸は新聞配達の後、朝市のバイトへ直行するから、天鬼との時間はいくらでもつくれる。
不貞腐れた背中に向かって、空は胸内で語り掛けた。
――もう少しだから、我慢してくださいね。
明日きり丸がいなくなれば、こちらからすぐに誘ってみよう。
早く夜が明ければいいのに。
天鬼の反応を楽しみにしながら、空はそっと瞼を閉じた。
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