18.疑似家族の土井家 (前編)
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
左を見れば収穫期を終えた田畑が、右を見れば一筋の川がある。
その二つに挟まれた細々と続く田舎道を一台の牛車がゆっくりと進んでいく。
牛車の中で、空のパニックは続いていた。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……!)
ただ座っているだけなのに、全力疾走したときのように鼓動が鳴り響いている。
顔は赤い。
空は今、極度に緊張していた。
半助の家に行くことに。
乱太郎の家としんべヱの家。
どちらも想像以上に楽しく過ごせた。
もっと長居してもいいと思えるほどに。
けれども、半助に会えるという喜びはその楽しさをやすやすと凌駕した。
(私、土井先生のこと……)
振り返ってみれば、一年は組の授業に参加するようになって以降、空は当たり前のように半助と行動を共にしている。
この二週間、半助の顔を見ていなければ、声も聞いていない。
自分でも気づかないうちに、半助と一緒にいれないことへの寂しさが募っていたらしい。
少し落ち着きを取り戻したものの、胸の鼓動は未だ甘い音を刻み続けている。
半助に抱くこの感情は、恋なのかもしれない。
あんなに素敵な男性が常に自分のことを気にかけてくれて、守ってくれるようにそばにいてくれたら、坂を転がり落ちる石のように、気持ちが傾いていくのを止められない。
だが、そこまで考えて、空はハッと気づく。
半助が自分に類のないやさしさを見せるのは、きっと自分が同情を引くような境遇を持つから、なのだと。
遠い世界からやってきた孤独な自分は、傍から見れば可哀想な存在。
心根のやさしい半助は単に同情心から手を差し伸べているだけだ、と。
(そうよね……土井先生、やさしいもん……でも、あの日……)
がっかりした空はまた別のことを思い出していた。
それは大掃除の日から起算して二日前の夜のことだった。
空は夢を見ていた。
なんてことない、普通の夢だった。
いや、今の空の状況からすれば、もう普通とは呼べないのかもしれない。
かつての日常の夢だった。
自転車と電車を乗り継いで大学に通う自分。
講義が終われば、友達と近くの繁華街まで足を延ばし、買い物と雑談で時間をつぶした日々。
家に帰れば、ソファに寝そべって録りだめした海外ドラマを見たり、ピアノを弾いたり…好きなだけ趣味に没頭できた、優雅な生活。
他にも高校時代の自分が登場し、勉強合宿や体育祭に文化祭、修学旅行……と人生で最も濃密だった青春時代までもがその夢で再現されていた。
起きた瞬間、空の目元は潤んでいた。
が、涙はかろうじて地面にこぼれ落ちていない。
師走の真夜中にもかかわらず、空はパジャマ一枚で外へ飛び出した。
吐く息の白さに構わず、無我夢中で空は走った。
空が向かったのは、教職員長屋からそう遠くない、庭の池のほとり。
池の前にしゃがみこんだ空は、水面に映った自分の顔を覗きこんだ。
ここまで声を上げずに来れた――そのことに安心した瞬間、目の奥でせき止められていた涙が外へとあふれ出してくる。
雨粒のような雫が頬を伝ってぽたりぽたりと池の中へ落ち、波紋をつくっては消えていく。
「うっ…………うぅ……」
かすかな嗚咽が周囲に響く。
もし、この世に神様がいるのだとしたら。
神様はなんて残酷なことをするのだろう。
せっかく前を見て、新しい世界で生きようとしている自分にあんな映像をチラつかせて、郷愁を誘うようなことをするなんて。
あんまりだ。
そもそも、どうしてこの世界に来なければいけなかったのか。
自分が何をしたというのか。
やりきれなさに空は嘆く。
だが、水面に映り込んだもう一つの影を見れば、悲しみを中断せざるを得なかった。
大急ぎで涙を拭い、ゆっくりと振り返った。
「土井先生……」
「どうしたんだ?こんな夜中に」
半助が心配そうに自分を見つめてくる。
泣いていた理由を知られたら気まずい。
空は再び池に向き直し、水面越しに半助に答えた。
「ちょっと、怖い夢を見てしまって、」
「そうか」
つくづく嘘をつくのが下手だなと、自分でも呆れる。
しかし、半助がその嘘をあっさりと受け入れるものだから、面食らった空であった。
「意外と怖がりなんだな」
「そう……ですね……」
怖い夢、とお化けの類と解釈しているが、それならそれでいいと空は訂正しない。
「……」
会話が途切れる。
空はその場から一歩も動こうとしない。
が、突如腕を取られ、半助の方を向くことを余儀なくされた。
「でも、こんな夜中に外に居たら風邪ひくよ。さ、部屋に戻ろう」
半助がグイっと腕を引っ張る。
もう少し腕を引く力が強ければ、自分の身体は半助の腕の中へとおさまっていたかもしれない――そんなことを空は思う。
二人の身体は手以外触れることはなかったが。
「さ、戻ろう」
「はい」
半助に手を引かれるがまま、長屋へ向かって歩き出す。
自分の手を包み込んだ半助の手は温かい。
その熱が手の皮膚から沁み込んで身体の芯まで届きそうであった。
急に外気の冷たさを実感した空は、その温かさを身体に閉じ込めるように、強く握り返した。
思い出していくうちに、半助に掴まれた方の手に温もりが甦ってくる。
頬に熱がこもった。
(土井先生はいつだって、私を見守ってくれて……いくら私の世話役を任されていると言っても、単なる同情でも、ああいう風にやさしくできるものなの……?)
もし半助が自分のことをただの憐れな女だと思うのなら、今芽生えている感情を根元から引っこ抜いて、なかったことにできるのに。
自意識過剰だったのだ、と自分を叱咤して、今まで通りの関係を保ってそれで終わりだ。
だが、もし半助の過剰なまでのあのやさしさが、特別な感情のもとにあるものだとしたら。
そして、自分の気持ちは――
「ふぅ……」
空は溜息をついた。
本当はわかっているのに、あれこれ考えて自分の気持ちを認めることを躊躇する自分自身に。
それでも、空は困惑し、戸惑っていた。
自分の中で芽吹き、成長して、今にも花を咲かせようとするような勢いを持つ新しい感情――恋というものに。
空は悩ましげに物見から流れる景色に目をやる。
陽はやわらかく降り注ぎ、外の緑を鮮やかに照らしていた。
その二つに挟まれた細々と続く田舎道を一台の牛車がゆっくりと進んでいく。
牛車の中で、空のパニックは続いていた。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……!)
ただ座っているだけなのに、全力疾走したときのように鼓動が鳴り響いている。
顔は赤い。
空は今、極度に緊張していた。
半助の家に行くことに。
乱太郎の家としんべヱの家。
どちらも想像以上に楽しく過ごせた。
もっと長居してもいいと思えるほどに。
けれども、半助に会えるという喜びはその楽しさをやすやすと凌駕した。
(私、土井先生のこと……)
振り返ってみれば、一年は組の授業に参加するようになって以降、空は当たり前のように半助と行動を共にしている。
この二週間、半助の顔を見ていなければ、声も聞いていない。
自分でも気づかないうちに、半助と一緒にいれないことへの寂しさが募っていたらしい。
少し落ち着きを取り戻したものの、胸の鼓動は未だ甘い音を刻み続けている。
半助に抱くこの感情は、恋なのかもしれない。
あんなに素敵な男性が常に自分のことを気にかけてくれて、守ってくれるようにそばにいてくれたら、坂を転がり落ちる石のように、気持ちが傾いていくのを止められない。
だが、そこまで考えて、空はハッと気づく。
半助が自分に類のないやさしさを見せるのは、きっと自分が同情を引くような境遇を持つから、なのだと。
遠い世界からやってきた孤独な自分は、傍から見れば可哀想な存在。
心根のやさしい半助は単に同情心から手を差し伸べているだけだ、と。
(そうよね……土井先生、やさしいもん……でも、あの日……)
がっかりした空はまた別のことを思い出していた。
それは大掃除の日から起算して二日前の夜のことだった。
空は夢を見ていた。
なんてことない、普通の夢だった。
いや、今の空の状況からすれば、もう普通とは呼べないのかもしれない。
かつての日常の夢だった。
自転車と電車を乗り継いで大学に通う自分。
講義が終われば、友達と近くの繁華街まで足を延ばし、買い物と雑談で時間をつぶした日々。
家に帰れば、ソファに寝そべって録りだめした海外ドラマを見たり、ピアノを弾いたり…好きなだけ趣味に没頭できた、優雅な生活。
他にも高校時代の自分が登場し、勉強合宿や体育祭に文化祭、修学旅行……と人生で最も濃密だった青春時代までもがその夢で再現されていた。
起きた瞬間、空の目元は潤んでいた。
が、涙はかろうじて地面にこぼれ落ちていない。
師走の真夜中にもかかわらず、空はパジャマ一枚で外へ飛び出した。
吐く息の白さに構わず、無我夢中で空は走った。
空が向かったのは、教職員長屋からそう遠くない、庭の池のほとり。
池の前にしゃがみこんだ空は、水面に映った自分の顔を覗きこんだ。
ここまで声を上げずに来れた――そのことに安心した瞬間、目の奥でせき止められていた涙が外へとあふれ出してくる。
雨粒のような雫が頬を伝ってぽたりぽたりと池の中へ落ち、波紋をつくっては消えていく。
「うっ…………うぅ……」
かすかな嗚咽が周囲に響く。
もし、この世に神様がいるのだとしたら。
神様はなんて残酷なことをするのだろう。
せっかく前を見て、新しい世界で生きようとしている自分にあんな映像をチラつかせて、郷愁を誘うようなことをするなんて。
あんまりだ。
そもそも、どうしてこの世界に来なければいけなかったのか。
自分が何をしたというのか。
やりきれなさに空は嘆く。
だが、水面に映り込んだもう一つの影を見れば、悲しみを中断せざるを得なかった。
大急ぎで涙を拭い、ゆっくりと振り返った。
「土井先生……」
「どうしたんだ?こんな夜中に」
半助が心配そうに自分を見つめてくる。
泣いていた理由を知られたら気まずい。
空は再び池に向き直し、水面越しに半助に答えた。
「ちょっと、怖い夢を見てしまって、」
「そうか」
つくづく嘘をつくのが下手だなと、自分でも呆れる。
しかし、半助がその嘘をあっさりと受け入れるものだから、面食らった空であった。
「意外と怖がりなんだな」
「そう……ですね……」
怖い夢、とお化けの類と解釈しているが、それならそれでいいと空は訂正しない。
「……」
会話が途切れる。
空はその場から一歩も動こうとしない。
が、突如腕を取られ、半助の方を向くことを余儀なくされた。
「でも、こんな夜中に外に居たら風邪ひくよ。さ、部屋に戻ろう」
半助がグイっと腕を引っ張る。
もう少し腕を引く力が強ければ、自分の身体は半助の腕の中へとおさまっていたかもしれない――そんなことを空は思う。
二人の身体は手以外触れることはなかったが。
「さ、戻ろう」
「はい」
半助に手を引かれるがまま、長屋へ向かって歩き出す。
自分の手を包み込んだ半助の手は温かい。
その熱が手の皮膚から沁み込んで身体の芯まで届きそうであった。
急に外気の冷たさを実感した空は、その温かさを身体に閉じ込めるように、強く握り返した。
思い出していくうちに、半助に掴まれた方の手に温もりが甦ってくる。
頬に熱がこもった。
(土井先生はいつだって、私を見守ってくれて……いくら私の世話役を任されていると言っても、単なる同情でも、ああいう風にやさしくできるものなの……?)
もし半助が自分のことをただの憐れな女だと思うのなら、今芽生えている感情を根元から引っこ抜いて、なかったことにできるのに。
自意識過剰だったのだ、と自分を叱咤して、今まで通りの関係を保ってそれで終わりだ。
だが、もし半助の過剰なまでのあのやさしさが、特別な感情のもとにあるものだとしたら。
そして、自分の気持ちは――
「ふぅ……」
空は溜息をついた。
本当はわかっているのに、あれこれ考えて自分の気持ちを認めることを躊躇する自分自身に。
それでも、空は困惑し、戸惑っていた。
自分の中で芽吹き、成長して、今にも花を咲かせようとするような勢いを持つ新しい感情――恋というものに。
空は悩ましげに物見から流れる景色に目をやる。
陽はやわらかく降り注ぎ、外の緑を鮮やかに照らしていた。