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尾形
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手記/尾形
~序章~
尾形百之助は第七師団に所属する上等兵である。彼が得意とするのは超遠距離射撃。
故花沢幸次郎氏と妾との間の子供であり、母方の祖父母に育てられた。異母兄弟にあたる正妻との間との子供が第七師団の連隊旗手であったが、尾形は戦争の混乱の中で自分の弟を撃ち抜いた。
尾形がそうした理由は「人を殺すことに罪悪感を抱かない人間などいない」という異母兄弟の言葉を理解できなかったためであった。
~夢主~
私は第七師団27連隊の軍医である。とはいっても外科手術を行うわけではない。私の父親が軍医であることから基礎的なことは教え込まれているので、戦場に出れば並の衛生兵くらいのことは出来るが、私の専門分野は兵士の精神状態の管理だ。
兵士たちは厳しい訓練や親元を離れたことによる辛さを抱え込んでいる。更に戦地に行くことで生きて帰れたとしても深い心の傷を負ってくるのだ。
私はそんな兵士たちが1日でも早く健康な心を取り戻せるように話を聞き、頭の中を整理させることで心の安定を図る。
戦時中にそんな流暢なことを言っていられないという指摘は正しい。だからといって心の病で自ら命を絶ったりまるっきり精神が壊れてしまうような人を無視することはできない。私の存在意義は彼らのような人間を救い出すことだ。
~尾形~
医務室に女がいるらしいという噂を聞きつけてやってきた。案の定、むさ苦しい男たちは理由もないのに医務室に出入りしている。
女に構いたいだけならまだしも、本気で相談しに行っている奴の存在は理解に苦しんだ。戦争が怖い?家族に会いたい?ましてや、人を殺した罪悪感を抱く?そんな奴らは親に愛された人間だ。だったら女なんかに構ってないで故郷に帰ればいい。
だからといって、愛されなかった子供は最初から欠けているんだから女に話して何が変わるというのだろうか。
俺はこの女がどれほどのモノか見極めるために医務室の扉を開けた。
~夢主~
私の診察を受けに来る人間には何種類かいる。
まずは「単純に女とお金をかけずにお喋りしたい人」。こういう人はむしろ精神的には健全だ。身の危険もないと言い切れる。ここは兵舎で、私の父親の存在があるから間違えても手を出そうとするやつなんていない。
次に「本当に弱っている人」。基本的に軍人は揃って女に弱味を打ち明けるなんて日本男児の恥だと考えている。それなのに恥を忍んで相談に来るのは心の限界が近いという印である。
最後が一番厄介だ。「既に限界を超えた精神状態であり自分では気がつけない人」。彼はまさにそういう人だった。
初対面であるにも関わらず部屋に入ると私を品定めするかのようにじいっと見つめた。怯えているわけでもなく、蔑んでいるわけでもない。それなのにその視線には冷たい温度を感じさせた。
私の隣にある椅子を差し出すと、何も言わずに着席する。
あえて私は声をかけずに待った。相当怯えていない限りは、必ず最初に患者側から発言させるのが私の診察のこだわりだ。
~尾形~
部屋に入った俺を女は穏やかな表情で出迎えた。女で医者をやっているからには相当高飛車なのかと想像していたが、なるほどこの物腰の柔らかさは軍の男共が骨抜きにされるのも無理はない。癒しを求めて行く奴がいるのも頷けた。
女に差し出された椅子に腰をかける。女はほんのりと微笑みかけているような表情でこちらを見ている。その視線はまるで「話してごらん」と言っているようだ。
反吐が出る。
こういう視線を俺は知っている。祝福されて育った人間の視線だ。まあ、もう勇作殿はいないから問題はない。問題なのはこの女である。
俺はしばらく女の表情を観察してからたっぷりと嫌みを放った。
「どんな気分だ?男にチヤホヤされるってのは」
女の顔はピクリとも動かなかった。まるで作り物のようだ。俺の言葉が続かないことを確認するような間が空いて、女は笑い声を上げた。
「あは、どうしてそう思うのですか?」
質問に質問で返されることほど不快なものはない。しかし女には嫌がらせの意図がないのだろうとその表情から読み取れた。明らかに好奇心からこちらへ問いかけてきている。女の視線が、声が、態度が「俺に興味がある」と言っている。ああ、ひどく不愉快だ。
俺は前髪をなで上げてため息をついた。
「お前は軍を掌握するつもりか?」
「どういう意味でしょうか」
「軍医の立場を使って兵士たちを骨抜きにしている。影の支配者にでもなるつもりか?」
「まさか。そんな大層なことは考えていませんよ。私は戦争で傷ついた方々の心の回復を手助けしたいだけです」
女は話しながら器用に手元の紙にサラサラとメモをし始めた。アメリカか独語だろうか、ロシア語でないことだけはわかった。
筆を止めた女がパッと顔を上げる。勇作殿にそっくりな光のある瞳が俺を捉える。
「名前を伺っても?」
「……俺の名前を聞いてどうするつもりだ」
女はくすっと笑った。並みの男なら堕ちるやつもいるだろう。
「記録を取るためです。お見せできませんが、他の皆さんのもありますよ」
「いらねえよ。俺はアンタの患者じゃねえ」
俺は立ち上がった。引き止められるかと思ったが、女はただ俺の挙動を見守っている。
そのまま部屋の入り口まで向かうと背中から女が声をかけた。
「またどうぞ」
俺は聞こえないふりをして部屋を出た。
~夢主~
これまで見てきた患者の中で彼は誰よりも闇を抱えているような気がした。
私が気に入らないのだろう。彼は低い声で嫌味な言葉を吐きながら、何度も私を試すような仕草をした。視線、声色、表情、態度すべてが私を否定しようと頑張っていた。
初対面の見ず知らずの女にこんな態度をとるほど、彼は一体何に追い詰められているのだろうか。
私は彼の状態を単語で書き記した。ドイツ語に英語を混ぜてある。両方読める人には意味がないが二か国語出来なければ読めないようになっている。これは私の父から教わったことだった。彼は私の手元をじっと見つめた後、眉間に皺を寄せていた。
名前すら教えてもらえなかった。でも袖口の線から上等兵であると分かった。決して将来が約束されるような高い階級ではないが、それでも優秀でなければ上等兵にはなれないだろう。
とても興味深い人物だ。第七師団には変わった人が多いが、その中でも彼は特別異質な物を感じる。
また来てくれるだろうか。私は彼の訪問を楽しみにしながら患者たちとの面会を続けた。
~尾形~
あの女の元を興味本位で訪れたが、全く持って楽しいことなどなかった。本来の自分だったら医務室の扉を開くことすらしないだろうに、何故踏み出してしまったのか。俺は後悔していた。
他の兵士たちは相変わらずあの女を中心に浮足立っている。確かに観察力のある女のようだから、きっと男たちの欲しい言葉を的確に与えているのだと思う。
あいにく、俺は女に救ってもらおうなんて考えちゃいない。父に愛されなかった母親も、俺を愛さなかった父親も、俺のことを欠けた人間ではないと口にしつつ自分は綺麗なままでいようとした勇作殿も、もう誰もいないのだから。
そうなると、俺は女にとっては厄介な存在になるのではないか?俺はこれまで自分自身の判断で生きてきた。そのことに何の未練もない。だから女が俺を「救う」などという必要がないはずだ。この間は女と対面した際の不愉快さに惑わされて深入りする前に撤退してしまったが、やはり確かめてみる必要があるようだ。俺は再度医務室へと足を運んだ。
「あら、こんにちは」
女はちょうど花瓶に花を活けていた。花の名前など知らんが、薬品臭い部屋の中でどこか甘い香りがしたのはそのせいだろう。
俺は何も言わずに医務室のベッドに腰かけた。女は俺の行動をたしなめることなく、自分は前と同じように机の前に座る。背筋を伸ばして膝を揃えて座り、両手を膝の上に置いて身体ごとこちらに振り向く。
「もう来てくださらないかと思いました」
「……アンタは俺を患者だと思うか?」
そう問いかければ女は少しだけ面食らったような表情を浮かべる。それだけで胸がすっとしたのだから、相当俺は女の存在が気に入らないのだろう。
「まだわかりませんが、貴方がどんな人生を歩んできたのか、お話を聞かせていただきたいです」
「いいだろう」
患者かどうかという質問に対して答えを避けられた気がするが、まあいい。女が俺の半生を聞いても尚、まだ俺を観察するつもりかどうか知りたかった。
俺は一息つくと、静かに語り始めた。
父親のこと、母親のこと、異母兄弟のこと。ここだけの話、と言って勇作殿を手にかけたこともしっかりと話してやる。そうしないと意味がない。不幸な出来事が立て続けに起こって病んだ可哀想な人間だと思われるのは心外だ。俺の意思で、俺の手で親兄弟を殺したことを説明してやった。
~夢主~
彼はやってきて早々に私を見るとどこか挑戦的な目を向けた。何か狙いがあるのだろう。大方、私とやり合う覚悟を決めてきたといったところだろうか。
他に誰もいないのをいいことに彼はベッドに腰かける。足を開いて座り、自分の両膝に肘をついてそのまま手を組んだ。何か込み入った話をしようとしているようだ。やはり表情は乏しいが、私からすれば感情が駄々洩れである。前回は全く話をしてもらえなかった私からすればこの挑発に乗らない手はない。この間はメモを取ったことで警戒されてしまったようなので、身体ごと彼に向き合って話を聞くことにした。
低く暗い瞳が虚空を眺めている。ふっと息を吐いてから静かに彼は話し始める。
愛のない両親の間に生まれた自分は何かが欠けた人間であること。祝福された人間は罪悪感を抱くらしいこと。祝福されていた異母兄弟が自分と同じ地獄に落ちてくれるのを望んだこと。異母兄弟は人殺しをしてほしいという彼の気持ちに答えず、清いままであろうとしたから始末したこと。
なるほど。戦争の恐怖におびえ切った人間とは違う雰囲気がしたのはこのためか。母を殺し、異母兄弟を殺し、父親も殺した。今更なんと言おうと取り返しがつかないことをしてきたのは自明だ。花沢師団長の自死については先の戦争での不手際が原因だと私も聞かされていた。これまでほとんど誰にも話してこなかったことなのだろう。それを私に話す意味は恐らく「救い」を求めているわけではない。言い負かしたいのだ、私を。兵士たちを救う手助けをする私を、異母兄弟のように清い存在だと考えているのではないだろうか。異母兄弟に求めたように、私に地獄に堕ちろと彼は暗に言っている。
話し終えた彼は私をじっと暗い瞳で見つめる。「どうだ?俺のことを救うのは無理だろう?」と聞こえるようだ。
私は何も言わずに立ち上がると、お茶を淹れる準備をした。私の返事が言葉もしくは態度で出てくるまではきっと彼は退散しないだろうから。
お茶を淹れている間も彼の視線を感じるが、一切無視した。ゆっくりともったいぶるような時間を取っても彼はイライラした様子を見せることなく、辛抱強く私を待っていた。
お茶をベッドの横にある小さな机の上に置く。湯呑から湯気がふわりと揺れた。私はそのまま自分の机に戻ると、淹れたての熱いお茶をずず、とすする。警戒心が強いのだろうか、私が口をつけるまで彼は全く湯呑を触ろうとしなかった。私が飲み込んだことを確認してから彼は湯呑を手に取り、一口飲む。私も彼が飲み込んだのを確認してから、口を開いた。
「愛されることが、怖いの?」
彼の目が大きく開いた。もともと大きい目元だが、驚愕の気持ちが瞳に表れている。
「語弊がありましたね、訂正します。正しくは母親に愛されていたことを認めるのはお辛いですか?と聞きたかったのです」
私の言葉を聞いて彼は目を伏せた。思い返しているのだろう、母親に愛されなかった日々を。
「……その質問は間違えている。両親は愛し合っていなかったんだから、俺も愛されていないはずだ」
「それで、母親から愛されなかった自分が他人に愛されるはずがない、と」
「そうだ」
「もし愛してくれる存在がいるとしたら、その人は自分と同じく愛されなかった者のはず。愛されなかったも者の印として貴方と同じく「罪悪感」が欠けているはずだ、と」
彼は黙って頷いた。その視線は俺が正しいはずだと言い聞かせているようだった。
「なるほど、貴方の考えはわかりました」
私がそう言った瞬間、彼は湯呑を置いて立ち上がった。
「わかってくれたならもう結構です。それ以上はいらない」
私は立ち去ろうとする彼の背中を見送って、控えめに声をかけた。
「そうですか……また来てくださいね」
彼が立ち去って一人残された私は、窓から外の景色を眺める。遠くを見て心を鎮めようとしていた。
なんて可哀想な人だろうか。
彼は両親に愛されなかった自分が、誰かに愛されることを許容できない。仮に愛してくれる人を受け入れるには、自分が愛される資格のある人間だと認めなければいけない。そうすると、母親の命を奪ったことが無意味だったと向き合わなくてはいけなくなる。母親を殺してしまったからには、それは受け入れられない。だから愛してくれる人は自分と同じ罪を背負った「罪悪感の欠けた人間」だとする必要が出てきた。しかし自分を愛してくれた異母兄弟は、何も欠けていなかった。それで異母兄弟を殺すしかなかったのだ。自分の論理の正当性を保つためだけに。せっかく愛してくれる人が見つかったというのに。
基本的に私の仕事は患者とは精神的に一定の距離を保たなくてはいけない。そうじゃないと患者の意識に引っ張られて正常な判断ができなくなるからだ。でも今回ばかりは同情してしまいそうになる。態度に出すことは避けたが、心が苦しくなっていた。
もう何もかもが遅い。せめて母親殺しの直後に出会っていたら違っただろうか。すべてを始末してからの話は取り返しがつかない。今更ながら彼を救う方法はあるのだろうか、私はぼんやりと考え込んで一日を過ごした。
~尾形~
女にすべてを話した後、妙にスッキリとした気持ちを抱いた。これが皆が足しげく女の元に通う理由だろうか。
女は俺の話を正しく理解したようだ。聡明な女なのだろう。同情も哀れみも表情に出さなかった。しかし話の内容に気を取られているのか、俺を観察するような視線が少し薄くなったのを感じ取った。そこで俺は満足して立ち去った。見送るときの背中越しに聞こえた声が、寂し気だった。
それだけで満足していたはずだった。
なのにこの日は宇佐美に無理矢理俺は医務室に連れてこられていた。どうやら宇佐美もあの女と話し込んでいたらしい。 されるがままに強引に俺の肩を組んで医務室に入る。
「夢主先生~」
「あら、こんにちは」
夢主というのか、今更ながら名前を知った。この女に似合う良い響きの名前だ。俺はうんざりした表情を保ちながら、こっそりと心の中でそう呟いた。
心なしかいつもよりも夢主が驚いているような気がする。俺に知り合いがいることがそんなに珍しかったか?
「先生はこいつのこと知ってるんでしょ?なのに名乗ってすらいないって言うから紹介しに来たよ」
宇佐美がニヤニヤと笑いながら言う。俺は思わず眉間に皺を寄せて呟いた。
「やめろ宇佐美」
「名前はね、百之助。尾形百之助、こいつは甘えん坊のハナタレ小僧なの」
「尾形さん……そうですか」
夢主は俺に近づくと目を逸らしているというのにわざわざ顔を近づけてくる。じっと見つめられて居心地が悪かった。
「尾形さん、いつ来てくださるのかとお待ちしていましたよ」
「……」
俺が何も言えないでいると、夢主はフッと寂しそうに笑った。つい視線を絡ませると、夢主の瞳が俺をじっと見つめてくる。いつかのすべてを見透かすような観察する視線ではないことになんとなく気が付いた。宇佐美は空気が読めないのか見つめ合っている俺たちに無遠慮に声をかける。
「じゃ、先生忙しいだろうから、帰ろ~。百之助がそっち行ったらよろしくね」
「じゃあな」
「またどうぞ」
夢主がにこりと微笑んだ。明らかに作った笑顔に違和感を覚えたが、俺は指摘せずに自分の前髪を撫で上げながら宇佐美に続いて部屋を出た。
~夢主~
まずいまずいまずい。
数日間彼の姿を見ないと思ったら、まずいことになっていた。
いつものように仕事の準備をしていると、部屋の扉が開いた。
「あら、こんにちは」
彼がいた。一人だった。
なのに、彼は口を開くと妙に明るい声色で話し始めた。
「先生はこいつのこと知ってるんでしょ?なのに名乗ってすらいないって言うから紹介しに来たよ」
声の音程がいつもより高い。いつもの彼とは違い、くだけた言葉遣いをする。しかし彼の顔はその口調に似合わず目には深いクマができて、表情が前より死んでいる。
「やめろ宇佐美」
その言葉を聞いて、「宇佐美」という人間を思い出す。以前に話したことがある。確か両頬に左右対称の黒子があった。全く持って健康な人間だった。強いて言うならば鶴見中尉を熱狂的に慕っている点がやや不健全だったが第七師団には他にも信者はいたから珍しくはない。悩みらしい悩みはなく人並みの葛藤を抱えているようであったが、生き生きとしている様子から宇佐美さんは治療の対象外と判断した。そういえば確か彼も上等兵だった。同じ階級の人間なら知り合いなのかもしれない。
「名前はね、百之助。尾形百之助、こいつは甘えん坊のハナタレ小僧なの」
宇佐美さんのフリをしているというよりは、彼はもう一つの人格を作り出してしまっている。声色が全然違う。時折本人の人格の声なのだろう低い声が間に「やめろ」とか「おい」とか挟まる。
奇妙なやり取りは続いたが、私が尾形さんの名前を呼び顔を近づけて見つめると虚ろだった焦点が定まって、暗い瞳の中に私が写った。尾形さん本人がどこか遠くに行ってしまったような気がして、寂しくなってつい笑みがこぼれた。これは自嘲だ。医者の立場で何をそんなに必死になっているのだろうと自分を嘲笑った。
宇佐美さんの人格が自己紹介を終えて帰ろうと言い出したので、私は見送ることにした。いつも通り微笑んでいるつもりだったが、頬が突っ張ったような感覚があった。
さて、どうしたものか。
私は尾形さんの独白を聞いたあの日、聞き取りしかしていないつもりだったが確かに「母親に愛されていることを認めるのは辛いか」と問いかけた。彼の罪に向き合わせてしまうような指摘をしてしまったのかもしれない。
これは一刻も早く彼を救わなくてはならない。でも、どうやって?
私はしばらく緊急性の高い患者以外は面会を遠慮してもらって、尾形さんのために時間を費やすことにした。
~尾形~
宇佐美に名前を暴露されてから、時折夢主に呼びつけられることが増えた。ある時は患者である他の兵士を使って、ある時は直接手招きされて。
俺は毎回嫌な顔を浮かべていたが、本当は嬉しかった。やっと俺の話が分かるやつが現れた、と感じていた。鶴見中尉殿は俺を担ぎ上げて花沢師団長を処理したに過ぎず、俺の考えを深く理解していたとは思えない。宇佐美にしても、頷きこそすれ俺の言葉に鼻から興味などなさそうだ。
話の分かるやつに話す方がよほど有意義だ。だから、俺は招かれるまま医務室に入り浸ることとなった。
「お話をしましょう、尾形さん」
夢主はいつもそうやって始める。内容はいつだか話した俺の考えを反芻するようなことばかりだ。
愛し合っていない両親から生まれた、何かの欠けた愛されていない子供という点。それを何度も何度もなぞってくる。最初は不快だった。でも話していくうちに俺は夢主が俺に何かに気付かせようとしていることを察した。でも気付きたくなくて、俺は頑なに夢主の言葉を否定していた。
今日の夢主は俺のことをいつもよりじっとのぞき込んできた。
「本当は、気付いているんでしょう」
それを言われた瞬間、俺は腰にあった銃剣を握り締めていた。たぶんその先の言葉を言ってほしくなかったからだ。夢主は俺が剣を手にしても、さして動揺した様子を見せなかった。
「だ……黙れ!」
上擦った声でそう叫び、夢主に銃剣を向ける。
夢主が俺に向かって手を伸ばした。咄嗟に振り払おうと腕を動かしてしまった。
「……っ」
夢主の顔が歪む。手元を見ると銃剣には少量の血液がついていた。どうやら剣先が夢主の手のひらを掠めたようだ。 自分でやっておいて、心底戸惑った。こんなただの兵士ですらない話を聞くだけの丸腰の女が、怖かったんだ。
夢主はぽたぽたと垂れる血を気にすることなく、ケガしていない方の手で俺の頭を撫でた。優しく、大事な大事な宝物を愛でるように何度も頭を撫でる。そして柔らかく、歌うような声色で俺に語り掛ける。
「尾形さんは愛されて良い存在です」
夢主の言葉に、急に視界が開けたような不思議な感覚がした。
俺が間違っていたというのか?両親から愛されていないとする前提が違うというのならば、じゃあ、俺が母親を殺したことの意味は?
「俺は……間違っていたのか」
銃剣をその場に落とし俺が小さく呟くと、夢主が負傷した手のひらを布で縛り上げながら心配そうに俺を見つめた。最初の頃だったらこんな表情を向けられたら拒絶していたと思う。でも今は夢主の視線を独り占めしているという事実だけで少し満たされるものがあるのだから驚いた。
そんなこととは裏腹に、今まで必死に目を背けてきた事実にバクバクと心拍数が上がるのを感じる。冷や汗が泊まらない。俺が今までしてきたことは何だったんだ?俺はおっかあを……勇作殿を……。
「……それじゃあ、俺は母親を殺した意味がない。勇作殿もだ」
俺の声が情けないほどに震えていた。同時に視界が揺れるような感覚があったが、自分の身体がブルブルと震えていることに気が付いた。今までしてきたことすべてが間違えていたという事実に耐え切れなくて、動揺が全身を支配する。
叫び出しそうになるのを必死に抑えていると、今度は吐き気がこみあげてきた。うぷっと声を上げると夢主が桶を持ってきてくれて、そこにそのまま吐き出した。しばらく食欲がなかったので胃液しか出てこなかったが、夢主はその間ずっと俺の背中を優しく撫でていた。
桶を足元に置いて頭を抱えながらはあはあと荒い呼吸を繰り返していると、夢主の細い手が俺の両手を捕らえる。温度感は冷たいひんやりとした手なのに、どこか妙な温かさがあった。そっと優しい力で手を握られ、そのまま夢主の方へと引かれる。腕を頭の後ろに回されて夢主の胸にぎゅうと顔を押し付けられた。温かい。夢主の体温と、トクントクンと規則正しい脈拍を感じていると自然と苦しくなくなってきた。いつぞやに医務室で嗅いだ花の香りが、夢主から漂っているような気がする。俺は静かに目を閉じて身を任せた。
その日は、それ以上俺の過去についての話はしなかった。
いつもは俺の話を聞くことの方が多い夢主だったが今日の夢主は医者としてではなく、昔からの友人のように俺に接してきた。好きな本の話、この間見つけた綺麗な花の話、素敵な着物を着た女性の話、これまで見てきた強くしたたかな人間たちの話。そんな話を俺はほとんど黙って聞いていた。時々思い出したように相槌を打つ。俺が質問すると楽しそうに笑いながら、夢主の柔らかい表情が俺のすべてを肯定してくれていた。
両親が愛し合っていてもいなくても、俺は幸せになって良かったんだ。父親の愛を試すために母親を殺さなくても、自分で好きに生きる選択ができるはずだったんだ。取り返しのつかないことをしてしまったが、夢主を見ているとそんな過去も含めて俺を祝福してくれるような気がした。
穏やかな時間が流れていた。
俺は、やっと自分の過去と向き合うことができたような気がした。俺はふいに夢主にお礼を言った。
「ありがとう、先生」
夢主は驚いた様子を見せたが、くすぐったそうに微笑んでみせた。
「自分の力ですよ。私は手助けをしたにすぎません」
「……これからどうするべきか、考えなくてはな」
俺が前髪を撫でつけながら呟くと、夢主は今までで強く言い切った。
「はい。生まれよりも、どう生きるかが大切です」
その言葉に俺は一回だけしっかりと頷いた。
「じゃあ先生、今度はアンタに愛される方法を教えてくれよ」
おわり
【あとがき:尾形を救いたいです(作者の癖】
~序章~
尾形百之助は第七師団に所属する上等兵である。彼が得意とするのは超遠距離射撃。
故花沢幸次郎氏と妾との間の子供であり、母方の祖父母に育てられた。異母兄弟にあたる正妻との間との子供が第七師団の連隊旗手であったが、尾形は戦争の混乱の中で自分の弟を撃ち抜いた。
尾形がそうした理由は「人を殺すことに罪悪感を抱かない人間などいない」という異母兄弟の言葉を理解できなかったためであった。
~夢主~
私は第七師団27連隊の軍医である。とはいっても外科手術を行うわけではない。私の父親が軍医であることから基礎的なことは教え込まれているので、戦場に出れば並の衛生兵くらいのことは出来るが、私の専門分野は兵士の精神状態の管理だ。
兵士たちは厳しい訓練や親元を離れたことによる辛さを抱え込んでいる。更に戦地に行くことで生きて帰れたとしても深い心の傷を負ってくるのだ。
私はそんな兵士たちが1日でも早く健康な心を取り戻せるように話を聞き、頭の中を整理させることで心の安定を図る。
戦時中にそんな流暢なことを言っていられないという指摘は正しい。だからといって心の病で自ら命を絶ったりまるっきり精神が壊れてしまうような人を無視することはできない。私の存在意義は彼らのような人間を救い出すことだ。
~尾形~
医務室に女がいるらしいという噂を聞きつけてやってきた。案の定、むさ苦しい男たちは理由もないのに医務室に出入りしている。
女に構いたいだけならまだしも、本気で相談しに行っている奴の存在は理解に苦しんだ。戦争が怖い?家族に会いたい?ましてや、人を殺した罪悪感を抱く?そんな奴らは親に愛された人間だ。だったら女なんかに構ってないで故郷に帰ればいい。
だからといって、愛されなかった子供は最初から欠けているんだから女に話して何が変わるというのだろうか。
俺はこの女がどれほどのモノか見極めるために医務室の扉を開けた。
~夢主~
私の診察を受けに来る人間には何種類かいる。
まずは「単純に女とお金をかけずにお喋りしたい人」。こういう人はむしろ精神的には健全だ。身の危険もないと言い切れる。ここは兵舎で、私の父親の存在があるから間違えても手を出そうとするやつなんていない。
次に「本当に弱っている人」。基本的に軍人は揃って女に弱味を打ち明けるなんて日本男児の恥だと考えている。それなのに恥を忍んで相談に来るのは心の限界が近いという印である。
最後が一番厄介だ。「既に限界を超えた精神状態であり自分では気がつけない人」。彼はまさにそういう人だった。
初対面であるにも関わらず部屋に入ると私を品定めするかのようにじいっと見つめた。怯えているわけでもなく、蔑んでいるわけでもない。それなのにその視線には冷たい温度を感じさせた。
私の隣にある椅子を差し出すと、何も言わずに着席する。
あえて私は声をかけずに待った。相当怯えていない限りは、必ず最初に患者側から発言させるのが私の診察のこだわりだ。
~尾形~
部屋に入った俺を女は穏やかな表情で出迎えた。女で医者をやっているからには相当高飛車なのかと想像していたが、なるほどこの物腰の柔らかさは軍の男共が骨抜きにされるのも無理はない。癒しを求めて行く奴がいるのも頷けた。
女に差し出された椅子に腰をかける。女はほんのりと微笑みかけているような表情でこちらを見ている。その視線はまるで「話してごらん」と言っているようだ。
反吐が出る。
こういう視線を俺は知っている。祝福されて育った人間の視線だ。まあ、もう勇作殿はいないから問題はない。問題なのはこの女である。
俺はしばらく女の表情を観察してからたっぷりと嫌みを放った。
「どんな気分だ?男にチヤホヤされるってのは」
女の顔はピクリとも動かなかった。まるで作り物のようだ。俺の言葉が続かないことを確認するような間が空いて、女は笑い声を上げた。
「あは、どうしてそう思うのですか?」
質問に質問で返されることほど不快なものはない。しかし女には嫌がらせの意図がないのだろうとその表情から読み取れた。明らかに好奇心からこちらへ問いかけてきている。女の視線が、声が、態度が「俺に興味がある」と言っている。ああ、ひどく不愉快だ。
俺は前髪をなで上げてため息をついた。
「お前は軍を掌握するつもりか?」
「どういう意味でしょうか」
「軍医の立場を使って兵士たちを骨抜きにしている。影の支配者にでもなるつもりか?」
「まさか。そんな大層なことは考えていませんよ。私は戦争で傷ついた方々の心の回復を手助けしたいだけです」
女は話しながら器用に手元の紙にサラサラとメモをし始めた。アメリカか独語だろうか、ロシア語でないことだけはわかった。
筆を止めた女がパッと顔を上げる。勇作殿にそっくりな光のある瞳が俺を捉える。
「名前を伺っても?」
「……俺の名前を聞いてどうするつもりだ」
女はくすっと笑った。並みの男なら堕ちるやつもいるだろう。
「記録を取るためです。お見せできませんが、他の皆さんのもありますよ」
「いらねえよ。俺はアンタの患者じゃねえ」
俺は立ち上がった。引き止められるかと思ったが、女はただ俺の挙動を見守っている。
そのまま部屋の入り口まで向かうと背中から女が声をかけた。
「またどうぞ」
俺は聞こえないふりをして部屋を出た。
~夢主~
これまで見てきた患者の中で彼は誰よりも闇を抱えているような気がした。
私が気に入らないのだろう。彼は低い声で嫌味な言葉を吐きながら、何度も私を試すような仕草をした。視線、声色、表情、態度すべてが私を否定しようと頑張っていた。
初対面の見ず知らずの女にこんな態度をとるほど、彼は一体何に追い詰められているのだろうか。
私は彼の状態を単語で書き記した。ドイツ語に英語を混ぜてある。両方読める人には意味がないが二か国語出来なければ読めないようになっている。これは私の父から教わったことだった。彼は私の手元をじっと見つめた後、眉間に皺を寄せていた。
名前すら教えてもらえなかった。でも袖口の線から上等兵であると分かった。決して将来が約束されるような高い階級ではないが、それでも優秀でなければ上等兵にはなれないだろう。
とても興味深い人物だ。第七師団には変わった人が多いが、その中でも彼は特別異質な物を感じる。
また来てくれるだろうか。私は彼の訪問を楽しみにしながら患者たちとの面会を続けた。
~尾形~
あの女の元を興味本位で訪れたが、全く持って楽しいことなどなかった。本来の自分だったら医務室の扉を開くことすらしないだろうに、何故踏み出してしまったのか。俺は後悔していた。
他の兵士たちは相変わらずあの女を中心に浮足立っている。確かに観察力のある女のようだから、きっと男たちの欲しい言葉を的確に与えているのだと思う。
あいにく、俺は女に救ってもらおうなんて考えちゃいない。父に愛されなかった母親も、俺を愛さなかった父親も、俺のことを欠けた人間ではないと口にしつつ自分は綺麗なままでいようとした勇作殿も、もう誰もいないのだから。
そうなると、俺は女にとっては厄介な存在になるのではないか?俺はこれまで自分自身の判断で生きてきた。そのことに何の未練もない。だから女が俺を「救う」などという必要がないはずだ。この間は女と対面した際の不愉快さに惑わされて深入りする前に撤退してしまったが、やはり確かめてみる必要があるようだ。俺は再度医務室へと足を運んだ。
「あら、こんにちは」
女はちょうど花瓶に花を活けていた。花の名前など知らんが、薬品臭い部屋の中でどこか甘い香りがしたのはそのせいだろう。
俺は何も言わずに医務室のベッドに腰かけた。女は俺の行動をたしなめることなく、自分は前と同じように机の前に座る。背筋を伸ばして膝を揃えて座り、両手を膝の上に置いて身体ごとこちらに振り向く。
「もう来てくださらないかと思いました」
「……アンタは俺を患者だと思うか?」
そう問いかければ女は少しだけ面食らったような表情を浮かべる。それだけで胸がすっとしたのだから、相当俺は女の存在が気に入らないのだろう。
「まだわかりませんが、貴方がどんな人生を歩んできたのか、お話を聞かせていただきたいです」
「いいだろう」
患者かどうかという質問に対して答えを避けられた気がするが、まあいい。女が俺の半生を聞いても尚、まだ俺を観察するつもりかどうか知りたかった。
俺は一息つくと、静かに語り始めた。
父親のこと、母親のこと、異母兄弟のこと。ここだけの話、と言って勇作殿を手にかけたこともしっかりと話してやる。そうしないと意味がない。不幸な出来事が立て続けに起こって病んだ可哀想な人間だと思われるのは心外だ。俺の意思で、俺の手で親兄弟を殺したことを説明してやった。
~夢主~
彼はやってきて早々に私を見るとどこか挑戦的な目を向けた。何か狙いがあるのだろう。大方、私とやり合う覚悟を決めてきたといったところだろうか。
他に誰もいないのをいいことに彼はベッドに腰かける。足を開いて座り、自分の両膝に肘をついてそのまま手を組んだ。何か込み入った話をしようとしているようだ。やはり表情は乏しいが、私からすれば感情が駄々洩れである。前回は全く話をしてもらえなかった私からすればこの挑発に乗らない手はない。この間はメモを取ったことで警戒されてしまったようなので、身体ごと彼に向き合って話を聞くことにした。
低く暗い瞳が虚空を眺めている。ふっと息を吐いてから静かに彼は話し始める。
愛のない両親の間に生まれた自分は何かが欠けた人間であること。祝福された人間は罪悪感を抱くらしいこと。祝福されていた異母兄弟が自分と同じ地獄に落ちてくれるのを望んだこと。異母兄弟は人殺しをしてほしいという彼の気持ちに答えず、清いままであろうとしたから始末したこと。
なるほど。戦争の恐怖におびえ切った人間とは違う雰囲気がしたのはこのためか。母を殺し、異母兄弟を殺し、父親も殺した。今更なんと言おうと取り返しがつかないことをしてきたのは自明だ。花沢師団長の自死については先の戦争での不手際が原因だと私も聞かされていた。これまでほとんど誰にも話してこなかったことなのだろう。それを私に話す意味は恐らく「救い」を求めているわけではない。言い負かしたいのだ、私を。兵士たちを救う手助けをする私を、異母兄弟のように清い存在だと考えているのではないだろうか。異母兄弟に求めたように、私に地獄に堕ちろと彼は暗に言っている。
話し終えた彼は私をじっと暗い瞳で見つめる。「どうだ?俺のことを救うのは無理だろう?」と聞こえるようだ。
私は何も言わずに立ち上がると、お茶を淹れる準備をした。私の返事が言葉もしくは態度で出てくるまではきっと彼は退散しないだろうから。
お茶を淹れている間も彼の視線を感じるが、一切無視した。ゆっくりともったいぶるような時間を取っても彼はイライラした様子を見せることなく、辛抱強く私を待っていた。
お茶をベッドの横にある小さな机の上に置く。湯呑から湯気がふわりと揺れた。私はそのまま自分の机に戻ると、淹れたての熱いお茶をずず、とすする。警戒心が強いのだろうか、私が口をつけるまで彼は全く湯呑を触ろうとしなかった。私が飲み込んだことを確認してから彼は湯呑を手に取り、一口飲む。私も彼が飲み込んだのを確認してから、口を開いた。
「愛されることが、怖いの?」
彼の目が大きく開いた。もともと大きい目元だが、驚愕の気持ちが瞳に表れている。
「語弊がありましたね、訂正します。正しくは母親に愛されていたことを認めるのはお辛いですか?と聞きたかったのです」
私の言葉を聞いて彼は目を伏せた。思い返しているのだろう、母親に愛されなかった日々を。
「……その質問は間違えている。両親は愛し合っていなかったんだから、俺も愛されていないはずだ」
「それで、母親から愛されなかった自分が他人に愛されるはずがない、と」
「そうだ」
「もし愛してくれる存在がいるとしたら、その人は自分と同じく愛されなかった者のはず。愛されなかったも者の印として貴方と同じく「罪悪感」が欠けているはずだ、と」
彼は黙って頷いた。その視線は俺が正しいはずだと言い聞かせているようだった。
「なるほど、貴方の考えはわかりました」
私がそう言った瞬間、彼は湯呑を置いて立ち上がった。
「わかってくれたならもう結構です。それ以上はいらない」
私は立ち去ろうとする彼の背中を見送って、控えめに声をかけた。
「そうですか……また来てくださいね」
彼が立ち去って一人残された私は、窓から外の景色を眺める。遠くを見て心を鎮めようとしていた。
なんて可哀想な人だろうか。
彼は両親に愛されなかった自分が、誰かに愛されることを許容できない。仮に愛してくれる人を受け入れるには、自分が愛される資格のある人間だと認めなければいけない。そうすると、母親の命を奪ったことが無意味だったと向き合わなくてはいけなくなる。母親を殺してしまったからには、それは受け入れられない。だから愛してくれる人は自分と同じ罪を背負った「罪悪感の欠けた人間」だとする必要が出てきた。しかし自分を愛してくれた異母兄弟は、何も欠けていなかった。それで異母兄弟を殺すしかなかったのだ。自分の論理の正当性を保つためだけに。せっかく愛してくれる人が見つかったというのに。
基本的に私の仕事は患者とは精神的に一定の距離を保たなくてはいけない。そうじゃないと患者の意識に引っ張られて正常な判断ができなくなるからだ。でも今回ばかりは同情してしまいそうになる。態度に出すことは避けたが、心が苦しくなっていた。
もう何もかもが遅い。せめて母親殺しの直後に出会っていたら違っただろうか。すべてを始末してからの話は取り返しがつかない。今更ながら彼を救う方法はあるのだろうか、私はぼんやりと考え込んで一日を過ごした。
~尾形~
女にすべてを話した後、妙にスッキリとした気持ちを抱いた。これが皆が足しげく女の元に通う理由だろうか。
女は俺の話を正しく理解したようだ。聡明な女なのだろう。同情も哀れみも表情に出さなかった。しかし話の内容に気を取られているのか、俺を観察するような視線が少し薄くなったのを感じ取った。そこで俺は満足して立ち去った。見送るときの背中越しに聞こえた声が、寂し気だった。
それだけで満足していたはずだった。
なのにこの日は宇佐美に無理矢理俺は医務室に連れてこられていた。どうやら宇佐美もあの女と話し込んでいたらしい。 されるがままに強引に俺の肩を組んで医務室に入る。
「夢主先生~」
「あら、こんにちは」
夢主というのか、今更ながら名前を知った。この女に似合う良い響きの名前だ。俺はうんざりした表情を保ちながら、こっそりと心の中でそう呟いた。
心なしかいつもよりも夢主が驚いているような気がする。俺に知り合いがいることがそんなに珍しかったか?
「先生はこいつのこと知ってるんでしょ?なのに名乗ってすらいないって言うから紹介しに来たよ」
宇佐美がニヤニヤと笑いながら言う。俺は思わず眉間に皺を寄せて呟いた。
「やめろ宇佐美」
「名前はね、百之助。尾形百之助、こいつは甘えん坊のハナタレ小僧なの」
「尾形さん……そうですか」
夢主は俺に近づくと目を逸らしているというのにわざわざ顔を近づけてくる。じっと見つめられて居心地が悪かった。
「尾形さん、いつ来てくださるのかとお待ちしていましたよ」
「……」
俺が何も言えないでいると、夢主はフッと寂しそうに笑った。つい視線を絡ませると、夢主の瞳が俺をじっと見つめてくる。いつかのすべてを見透かすような観察する視線ではないことになんとなく気が付いた。宇佐美は空気が読めないのか見つめ合っている俺たちに無遠慮に声をかける。
「じゃ、先生忙しいだろうから、帰ろ~。百之助がそっち行ったらよろしくね」
「じゃあな」
「またどうぞ」
夢主がにこりと微笑んだ。明らかに作った笑顔に違和感を覚えたが、俺は指摘せずに自分の前髪を撫で上げながら宇佐美に続いて部屋を出た。
~夢主~
まずいまずいまずい。
数日間彼の姿を見ないと思ったら、まずいことになっていた。
いつものように仕事の準備をしていると、部屋の扉が開いた。
「あら、こんにちは」
彼がいた。一人だった。
なのに、彼は口を開くと妙に明るい声色で話し始めた。
「先生はこいつのこと知ってるんでしょ?なのに名乗ってすらいないって言うから紹介しに来たよ」
声の音程がいつもより高い。いつもの彼とは違い、くだけた言葉遣いをする。しかし彼の顔はその口調に似合わず目には深いクマができて、表情が前より死んでいる。
「やめろ宇佐美」
その言葉を聞いて、「宇佐美」という人間を思い出す。以前に話したことがある。確か両頬に左右対称の黒子があった。全く持って健康な人間だった。強いて言うならば鶴見中尉を熱狂的に慕っている点がやや不健全だったが第七師団には他にも信者はいたから珍しくはない。悩みらしい悩みはなく人並みの葛藤を抱えているようであったが、生き生きとしている様子から宇佐美さんは治療の対象外と判断した。そういえば確か彼も上等兵だった。同じ階級の人間なら知り合いなのかもしれない。
「名前はね、百之助。尾形百之助、こいつは甘えん坊のハナタレ小僧なの」
宇佐美さんのフリをしているというよりは、彼はもう一つの人格を作り出してしまっている。声色が全然違う。時折本人の人格の声なのだろう低い声が間に「やめろ」とか「おい」とか挟まる。
奇妙なやり取りは続いたが、私が尾形さんの名前を呼び顔を近づけて見つめると虚ろだった焦点が定まって、暗い瞳の中に私が写った。尾形さん本人がどこか遠くに行ってしまったような気がして、寂しくなってつい笑みがこぼれた。これは自嘲だ。医者の立場で何をそんなに必死になっているのだろうと自分を嘲笑った。
宇佐美さんの人格が自己紹介を終えて帰ろうと言い出したので、私は見送ることにした。いつも通り微笑んでいるつもりだったが、頬が突っ張ったような感覚があった。
さて、どうしたものか。
私は尾形さんの独白を聞いたあの日、聞き取りしかしていないつもりだったが確かに「母親に愛されていることを認めるのは辛いか」と問いかけた。彼の罪に向き合わせてしまうような指摘をしてしまったのかもしれない。
これは一刻も早く彼を救わなくてはならない。でも、どうやって?
私はしばらく緊急性の高い患者以外は面会を遠慮してもらって、尾形さんのために時間を費やすことにした。
~尾形~
宇佐美に名前を暴露されてから、時折夢主に呼びつけられることが増えた。ある時は患者である他の兵士を使って、ある時は直接手招きされて。
俺は毎回嫌な顔を浮かべていたが、本当は嬉しかった。やっと俺の話が分かるやつが現れた、と感じていた。鶴見中尉殿は俺を担ぎ上げて花沢師団長を処理したに過ぎず、俺の考えを深く理解していたとは思えない。宇佐美にしても、頷きこそすれ俺の言葉に鼻から興味などなさそうだ。
話の分かるやつに話す方がよほど有意義だ。だから、俺は招かれるまま医務室に入り浸ることとなった。
「お話をしましょう、尾形さん」
夢主はいつもそうやって始める。内容はいつだか話した俺の考えを反芻するようなことばかりだ。
愛し合っていない両親から生まれた、何かの欠けた愛されていない子供という点。それを何度も何度もなぞってくる。最初は不快だった。でも話していくうちに俺は夢主が俺に何かに気付かせようとしていることを察した。でも気付きたくなくて、俺は頑なに夢主の言葉を否定していた。
今日の夢主は俺のことをいつもよりじっとのぞき込んできた。
「本当は、気付いているんでしょう」
それを言われた瞬間、俺は腰にあった銃剣を握り締めていた。たぶんその先の言葉を言ってほしくなかったからだ。夢主は俺が剣を手にしても、さして動揺した様子を見せなかった。
「だ……黙れ!」
上擦った声でそう叫び、夢主に銃剣を向ける。
夢主が俺に向かって手を伸ばした。咄嗟に振り払おうと腕を動かしてしまった。
「……っ」
夢主の顔が歪む。手元を見ると銃剣には少量の血液がついていた。どうやら剣先が夢主の手のひらを掠めたようだ。 自分でやっておいて、心底戸惑った。こんなただの兵士ですらない話を聞くだけの丸腰の女が、怖かったんだ。
夢主はぽたぽたと垂れる血を気にすることなく、ケガしていない方の手で俺の頭を撫でた。優しく、大事な大事な宝物を愛でるように何度も頭を撫でる。そして柔らかく、歌うような声色で俺に語り掛ける。
「尾形さんは愛されて良い存在です」
夢主の言葉に、急に視界が開けたような不思議な感覚がした。
俺が間違っていたというのか?両親から愛されていないとする前提が違うというのならば、じゃあ、俺が母親を殺したことの意味は?
「俺は……間違っていたのか」
銃剣をその場に落とし俺が小さく呟くと、夢主が負傷した手のひらを布で縛り上げながら心配そうに俺を見つめた。最初の頃だったらこんな表情を向けられたら拒絶していたと思う。でも今は夢主の視線を独り占めしているという事実だけで少し満たされるものがあるのだから驚いた。
そんなこととは裏腹に、今まで必死に目を背けてきた事実にバクバクと心拍数が上がるのを感じる。冷や汗が泊まらない。俺が今までしてきたことは何だったんだ?俺はおっかあを……勇作殿を……。
「……それじゃあ、俺は母親を殺した意味がない。勇作殿もだ」
俺の声が情けないほどに震えていた。同時に視界が揺れるような感覚があったが、自分の身体がブルブルと震えていることに気が付いた。今までしてきたことすべてが間違えていたという事実に耐え切れなくて、動揺が全身を支配する。
叫び出しそうになるのを必死に抑えていると、今度は吐き気がこみあげてきた。うぷっと声を上げると夢主が桶を持ってきてくれて、そこにそのまま吐き出した。しばらく食欲がなかったので胃液しか出てこなかったが、夢主はその間ずっと俺の背中を優しく撫でていた。
桶を足元に置いて頭を抱えながらはあはあと荒い呼吸を繰り返していると、夢主の細い手が俺の両手を捕らえる。温度感は冷たいひんやりとした手なのに、どこか妙な温かさがあった。そっと優しい力で手を握られ、そのまま夢主の方へと引かれる。腕を頭の後ろに回されて夢主の胸にぎゅうと顔を押し付けられた。温かい。夢主の体温と、トクントクンと規則正しい脈拍を感じていると自然と苦しくなくなってきた。いつぞやに医務室で嗅いだ花の香りが、夢主から漂っているような気がする。俺は静かに目を閉じて身を任せた。
その日は、それ以上俺の過去についての話はしなかった。
いつもは俺の話を聞くことの方が多い夢主だったが今日の夢主は医者としてではなく、昔からの友人のように俺に接してきた。好きな本の話、この間見つけた綺麗な花の話、素敵な着物を着た女性の話、これまで見てきた強くしたたかな人間たちの話。そんな話を俺はほとんど黙って聞いていた。時々思い出したように相槌を打つ。俺が質問すると楽しそうに笑いながら、夢主の柔らかい表情が俺のすべてを肯定してくれていた。
両親が愛し合っていてもいなくても、俺は幸せになって良かったんだ。父親の愛を試すために母親を殺さなくても、自分で好きに生きる選択ができるはずだったんだ。取り返しのつかないことをしてしまったが、夢主を見ているとそんな過去も含めて俺を祝福してくれるような気がした。
穏やかな時間が流れていた。
俺は、やっと自分の過去と向き合うことができたような気がした。俺はふいに夢主にお礼を言った。
「ありがとう、先生」
夢主は驚いた様子を見せたが、くすぐったそうに微笑んでみせた。
「自分の力ですよ。私は手助けをしたにすぎません」
「……これからどうするべきか、考えなくてはな」
俺が前髪を撫でつけながら呟くと、夢主は今までで強く言い切った。
「はい。生まれよりも、どう生きるかが大切です」
その言葉に俺は一回だけしっかりと頷いた。
「じゃあ先生、今度はアンタに愛される方法を教えてくれよ」
おわり
【あとがき:尾形を救いたいです(作者の癖】