人に贈った遊戯王SS

図書室の午後は、いつも風の音が近い。
大きな窓の向こうで木々が揺れて、光の粒が机の上を静かに流れていく。

わたしはその日、借りた本を返すだけのつもりだった。
けれど、奥の席に座る人の姿を見た瞬間、足が止まった。

上級生の制服。背筋を伸ばして、ページをめくる指の動きまで整っている。
その姿を見ただけで、空気が少し違うように感じた。

アモン・ガラム。
我らがイースト校の代表で、誰もが名を知る人。
けれど、わたしは名前しか知らなかった。

その背中を見ているだけで、胸の奥がざわめいた。
静けさの中に、何かを押し殺すような緊張がある。
どうしてか、それがとても綺麗に見えた。

本を返すことも忘れて、立ち尽くしていた。
その間に、アモンさんは一度だけ顔を上げた。
目が合ったような気がして、心臓が跳ねた。

でも彼は、すぐに視線を本に戻した。
まるで、世界の続きを読み解く方が大事だと言うように。

そのとき、ふと胸の奥で思った。
きっと、この人の世界は、わたしの知らないところにある――と。

ページの音が、また静かに重なっていく。
わたしはそっと息を吐いて、返却カウンターへ向かおうとした。
そのとき、手にしていた本が指から滑り落ちた。

乾いた音が、静寂の中に落ちる。
一瞬、図書室の空気が止まったように感じた。

「……大丈夫か?」

振り向くと、アモンさんが席を立っていた。
彼は静かに歩み寄り、落ちた本を拾い上げる。

「ありがとう、ございます……!」

反射的に声が上ずる。
手渡された本を見て、さらに顔が熱くなった。

『星の小さなおくりもの――こどもに語る夢の童話集』
高等部にもなって、こんな本を読んでるところを見られるなんて。

「へえ、童話か」

アモンさんは表紙を一瞥して、少しだけ笑った。
馬鹿にされたかと思って、言い訳を探す。

「あの、偶然手に取っただけで……こういうの、落ち着くというか……」

「いいと思うよ」

「……え?」

「理屈よりも想像のほうが、世界を正しく描くときもある」

彼はそう言って、本を軽く撫で叩き、返してくれた。

「僕も、そういう物語は嫌いじゃない」

その声音は、思っていたよりずっと穏やかで。
胸の奥が、不意に柔らかくなった。

「あ、ありがとうございます……!」

「気にしなくていい――それじゃ」

彼はまた席に戻り、何事もなかったようにページを開いた。
わたしは本を胸に抱えたまま、しばらくその背中を見つめていた。

それから、彼ときちんと話すことはなかった。
図書室で本を拾ってもらったあの日が、最初で最後の会話になった。

アモン・ガラム。
その名前を聞くたび、胸の奥が少しだけ熱くなる。
もう二度と会えない人だとわかっていても、あの午後の光景だけは鮮やかに思い出せる。

彼が差し出した本の重み。
柔らかく響いた声。
本を閉じるたびに、その瞬間がよみがえる。

きっと、あの人は今もどこかで世界を見ている。
わたしの知らない言葉で、知らない世界を語りながら。

ページの向こうにいる誰かのように――わたしの世界にはもういないのに、その静かな背中だけが、今も心の中で動かずにいる。
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