遊戯王DM(キー城SS)

息がまだ整わねぇ。
部屋の空気が、焦げたみてぇに重い。
風が少しだけカーテンを揺らして、灰皿の煙を動かした。
その向こう、キースの背中。
無言でタバコに火をつけて、肩をすくめる仕草まで、ぜんぶ遠くに見える。

乱暴だった。
痛かったし、怖かったはずなのに――どうしてだろうな。
終わってみりゃ、心臓の音だけが妙に静かで。
いまさら手首の痕を見つめながら、安心してる自分に腹が立つ。

シーツが擦れる音。
キースが振り返って、視線を落とす。
タバコをくわえたまま、低い声で言った。

「……痛ぇか」

「別に」

喉が乾いてるせいで、声が掠れる。
ほんとは、痛いのは身体じゃねぇ。
何も言わずにその手を伸ばしてくるのが、ずるいだけだ。

大きな手が、髪に触れた。
指先が汗をぬぐって、額を押さえる。
その仕草が――
いつだったかの夜、酔って帰ってきた親父が、転んだ俺の頭を雑に撫でたのを思い出させた。
あのときも、怒鳴られると思ってたのに。
笑って「大丈夫か」なんて言いやがって。
そんなことは、それが最後だった。

キースの手のひらは、荒れてて、温かい。
指先が喉元をなぞって、そこに止まる。
苦しくもねぇのに、息が詰まる。

――違う。
こいつは親父じゃねぇ。
けど、同じ匂いがした。
タバコと、酒と、どうしようもない夜の匂い。
嗅ぎ慣れたはずなのに、今夜はやけに優しく感じる。

手のひらが喉から離れて、代わりに肩を軽く叩かれる。
それだけの動作なのに、呼吸がふっと楽になる。
まるで、もう終わったと言われたみたいで。
子どものころ、親父がふと機嫌のいい夜にそうやって俺の肩を叩いた記憶が、どうしても離れねぇ。

何で、いま思い出すんだよ。
あんなの、とうの昔に終わった話だろ。
それでも、体の奥に残ってる。
怒鳴られた声も、殴られた手も、同じくらい覚えてる。
それを確かめるみてぇに、今、キースの手の重さを数えてる。

「もう寝ろ」

タバコの灰を落とす音といっしょに、低い声が落ちた。
何の気なしに言ったんだろうけど、その響きが妙に優しい。
命令でも慰めでもなく、ただ静かに置かれた声。
そういうの、久しぶりに聞いた。

寝返りを打つと、シーツのしわが肌に当たる。
さっきまでそこにあった暴力の跡を、やわらげるみたいな手触りだ。
キースが振り向かないまま、煙を吐く音だけが続いてる。
その背中が、ひどく大きく見えた。

俺はあの頃、親父にこうしてほしかったのかもしれねぇ。
叩かれる代わりに、黙ってそばにいてほしかっただけなのかもしれねぇ。
そんな当たり前のことが、ずっと手に入らなかったんだ。

目を閉じても眠れない。
煙の匂いと、まだ残ってる体温が混ざって頭がぼんやりする。
ああ、俺、たぶんいま――
間違ってることくらい分かってんのに。
それでも、間違ったままの方が少しだけ楽なんだ。

***

どれくらい経ったのか、もうわからねぇ。
気づけば、部屋の空気が少し冷たくなっていた。
カーテンのすき間から、白い光が少しずつ伸びてきて、床に散った煙を淡く照らしてる。
いつの間にか、少しだけ眠ってたらしい。
浅くて、夢も見ねぇ眠りだった。
けど、あの静けさの中では、それだけで救われた気がした。

シーツを引き寄せて起き上がると、キースはまだそこにいた。
キースは、灰皿の煙を見つめたまま動かない。ちょうど吸い終わったところだろうか。
もう一本タバコに火をつけようとして、結局やめた。

代わりに、立ち上がる。
革のジャケットを手に取り、腕を通す仕草がやけに静かだ。
誰にも聞こえないように扉へ向かうその背中を、俺はシーツの上でぼんやりと目で追った。

「……もう行くのかよ」

言葉が出たのは、自分でも意外だった。驚くほど、掠れた声。
キースは振り返らない。

「起きたか」

低く、それだけ言った。
そして続ける。

「もう少し寝とけ。外はまだ冷てぇ」

それだけで、胸の奥が少し痛くなる。
父親でもないのに、そんな言葉をかけてくるのが、ずるい。
命令みたいな響きなのに、不思議とやさしかった。

あんたに言われたら、どんなことでも聞いちまいそうだ。
そんなの、馬鹿みたいだろ。

「……あんたは?」

問いかけると、キースは「行くさ」とだけ言った。
その声が、静かに部屋に沈む。

肩にかけられたあの手の温度が、まだ残ってる気がした。
熱くもねぇのに、離れない。

「……また会いに来てもいいか」

そう言いかけて、声が喉の奥で止まった。
答えを聞いたら、何もかも壊れる気がした。

代わりに、キースが片手を上げた。
顔は見えねぇ。
でも、あの大きな手が『好きにしろ』って言ってるのはわかった。
それだけで、涙が出そうになる。

光が広がって、部屋が少しずつ色を取り戻していく。
夜の匂いが薄れて、代わりにタバコと酒の残り香だけが残っていた。

――きっと、俺はあの人がくれなかったもんを、あんたに探してんだ。
わかってる。
それが間違いでも、もう止められねぇ。

光がまぶしくて、目を閉じた。
まぶたの裏に浮かぶのは、キースの手。
父のでも、恋人のでもない。
ただ、俺を撫でた『誰かの手』だった。

***

外の空気はひんやりしていて、胸の奥に刺さる。
タバコと酒の匂いがまだ肌にまとわりついているのに、風が吹くたび、それが少しずつ薄れていく。

東の空が、ほのかに朱を帯びていた。
あの部屋の中では、時間が止まってたみたいだったのに。
世界はちゃんと動いてる。
誰も、俺のことなんか気にしちゃいねぇ。
……家に帰れば、あの親父がいる。
けど、あの人のいる部屋を「帰る場所」って呼ぶのは、どうしても違う気がした。

手首の痕をさすりながら歩く。
痛みはもうねぇ。
けど、触れられたときの温度だけが、まだ残ってる。
まるでそこだけ、別の時間の中に置き去りにされたみたいに。

ビルの影が長く伸びて、鳥の声が混じる。
朝の音が増えるたび、胸の奥が少しずつ冷えていく。
それでも、歩く足は止まらなかった。
あの人の寝息を聞く前に、今日が始まる場所まで戻らなきゃならない。
それがどんなに空っぽでも、俺の『日常』なんだから。

――俺は、たぶん今日も間違ったまま生きる。
けど、それでもいい。
あの夜の静けさを、少しでも覚えていられるなら。

朝の光が顔に当たる。
目を細めて、空を見上げた。
白い雲が、ゆっくり流れていく。
息を吸い込むと、肺の奥が少しだけ痛い。
その痛みすら、どこか懐かしかった。
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