遊戯王DM(セトモクSS)

放課後の海馬邸は、いつも静かだ。
広すぎる屋敷に、話し声なんてほとんど響かない。

兄サマは忙しい人で、屋敷にいる時間もそう長くはない。
それでも帰ってきている日は、不思議とすぐにわかる。

オレの兄は、ひと目で人を黙らせるような存在感の持ち主で。
どこにいても、何をしていても、気付けば自然と目で追ってしまう。

……だから今日も、足がそっちに向いていた。

高校の課題を片付けた帰りに、温かいものでもと思ってキッチンでコーヒーを淹れてきた。

入室許可は声じゃなく、指紋と認証キー。だからオレは合図もなしに扉を開ける。

地下のワークルームは、昼夜の区別がつかない。
白い壁、青白いモニターの光、機械の駆動音。まるで兄サマのためだけに設計されたような無機質な空間だ。

「……兄サマ、コーヒー」

静かに声をかけると、兄サマはキーボードを打ちながら視線だけこちらに寄越した。

そのまま片手を伸ばしてマグを受け取り、ほんのわずかに顎を引く。

言葉はない。でもそれが兄サマなりの『受け取った』のサインだった。

──こういうのに、オレはずっと慣れている。
けれど今日は、言葉を交わしてみたくなった。
オレはほんの少し迷って、それから言う。

「あのさ。来週、学園祭があるんだ」

数秒だけ間が空いて、兄サマの手が止まる。
けれど目線はモニターのまま「そうか」とだけ帰ってきた。

それだけで、胸の奥が少し温かくなる。

──どうせ忙しいし、来てほしいなんて言えるはずない。
けど。

もしかしたら、なんて。思ってしまうくらいには。
オレはまだ、兄サマのことで心を動かされている。

***

体育館の舞台に、カーテンの代わりに貼った黒い布が波打っていた。スポットライトの試験点灯を繰り返す中、誰かが木製の大道具を運び、別の誰かが衣装ラックから服を引っ張り出している。

「……あれ、あの柱、立ち位置ズレてない?」

「うわ、マジィ?もうちょい左?」

脚立の上から声をかけると、下の生徒たちが慌ててセットを押し直した。手際はいいとは言いがたいが、火がついたようなテンションが全体を回している。

オレは手元のチェックリストを確認しつつ、照明チームの女子に声をかける。

「ごめん、あと一回だけ照明テストお願い。背景の色温度、ちょっとだけ青寄りにしたい」

「あ、了解。光量ちょっと強めでやってみる?」

「うん、それで」

キビキビと返事が返ってくる。
慣れたやりとり。半分以上は顔馴染みのクラスメイトだ。

それでも、気を抜けば誰かが仕事を忘れる。道具がずれれば演技の間も狂う。最後まで集中を切らせるわけにはいかなかった。

「ポスター貼るのは終わった?」

「あー、あと体育館前が残ってる。テープが足りなくなっちゃってさ」

「それなら美術係が持ってると思うから聞いてみて」

「はーい」

……今、自分がやってるのは、責任者っていうより、雑用係のデラックス版だな。
そう思いながら、笑ってリストに丸印をつけた。

準備は順調。でも、自分の役目は舞台に立たないこと。
見えないところで支えるのが、今回の『立ち位置』。

……けれど。
不意に、カーテンの奥、誰もいない観客席を見つめてしまう。

兄サマが、もしここに来たら。
この体育館の片隅に、ひとりで座って、舞台を見てくれるとしたら。

どんな顔をするだろう。

「学園祭なんてくだらん」
そう言って笑いもしないかもしれない。けど──

それでもいいから、来てくれたら。

自分の組んだ舞台の光と音と芝居が、兄サマの目に映ったら。

「……っ、なに考えてんだ、オレ」

気を抜けば、すぐそうなる。

誰よりも見てほしい人がいること。
でも、それを言えない自分がいること。

それをまっすぐに伝えられたら、どんなに楽かって思うのに。

(だったらせめて、舞台くらいちゃんと作らなきゃな)

気持ちを振り切るように、オレは胸元のインカムを押して言った。

「全体、30分で休憩!そのあと通し稽古入ります、衣装着替えと照明位置の確認、忘れないように!」

……週明けには、新しい広告案のフィードバックを返す約束だった。
昨日の夜、しっかり目を通して、メモもまとめてある。

兄サマからのチェックが入る前に、自分の目で確認しておくのがいつものやり方だ。
ちゃんとやってる。手は抜いてない。

だから今は、こっちの『責任』に集中しても、許される気がする。

せわしなくて、やたらうるさくて、でもどこか楽しい空気。

このドタバタした現場の空気の中にいると──
なんだろう、悪くないって、ふと思ってしまう。

自分が普通の高校生みたいに思えてる瞬間があるなら、それはちょっと……悪くないなって。

***

学園祭前日。
体育館の舞台設営が進んでいくのを、オレは入り口近くから見守っていた。
中では衣装や小道具の搬入が終わり、音響担当の子たちが朝から機材のチェックに追われている。
生徒の数も、声の大きさも、昨日とは比べものにならない。

どこもかしこも慌ただしくて、でも、祭りの前のこの浮ついた空気が、オレは嫌いじゃなかった。

「……モクバくん!」

衣装係のひとりがこちらに駆け寄ってきて、次の確認事項を告げてくる。
オレは手元の進行チェックリストを確認して、軽く頷く。

「OK。スピーカーは明日の朝に運び込むんだよね?」

「うん、今日は雨だし、濡らせないからって。体育館裏のテントに置いてあるけど、明日朝イチで持ってくるって言ってたよ」

「了解。明日の導線だけ確認しとく」

ガラス越しに見える外は、しとしとと雨が降り続けていた。
地面はじっとり濡れていて、体育館に出入りするたびに足元の泥を気にしながら動くことになる。

晴れてくれればいいな……と、心の中でつぶやく。

──このときはまだ、明日が『特別な日』になるなんて思ってもいなかった。

***

そして翌日、学園祭当日の朝。
雨は明け方に上がったらしいけれど、空はまだ灰色で、どこかじっとりとした空気が残っている。校庭の道はところどころぬかるんでいた。

そのせいで、予定より早めに登校した生徒たちは、みんな入り口で靴を履き替え、泥を落としながら準備に追われていた。

オレもそのひとりだったけど、ステージ脇で聞いた声に、思わず足を止める。

「……マジかよ、救急車とかじゃなかったの?」

「いや、そこまでじゃないらしいけど、脚が結構腫れてるって。今日一日は動けないってさ……」

周囲に聞こえないよう、でも焦りを隠せない声だった。

視線を向けると、スピーカーを運んでいた演劇部の子たちが、小さく輪を作ってざわついている。
その輪の中心で名前が挙がっていたのは──主演を務めるはずだった、あの子だった。

……一瞬、時間が止まったような気がした。

「さっきさ、機材を運んでるときに滑って……スピーカーが脚に直撃しちゃったんだって。渡り廊下、まだ濡れてたし……」

「うわ……でも、それって……」

「うん……出られないって。本人は出たがってたけど……」

言葉がぐるぐる頭の中を回って、うまく整理ができない。

本番どうする?代役は?でも当日だぞ?
──そんなことが一気に押し寄せてくる。

責任者として、何ができるか考えなきゃって気持ちはあるのに、足が妙に冷えて、うまく動かない。

高い天井の向こうの窓からは曇り空が見え、開け放たれた扉からは時折、濡れたアスファルトの匂いが漂ってきた。

「え……じゃあ、誰が代役やるの?」

ざわつく声に、周囲の空気がみるみる硬くなるのがわかった。
演劇部の誰かがため息混じりに言う。

「もう、今から他のクラスに頼む時間もないし……通しで最後まで台詞入ってるの、主役のあいつ以外だと……」

「……台詞量的に、僕はちょっと……」

「私も無理。練習してないし……」

そうだ。主演は、ずっと前から彼女がやるって決まってた。
稽古の中心はいつも彼女で、演出の修正も、他の演者とのテンポも、全部彼女ありきで組まれていた。

いまさら、誰かが代わりになれるはずなんて──

「………………」

オレは、何も言わずにその場から少し離れた。
体育館の端、照明や道具の影になった場所で、背中を壁に預ける。

いっきに胸が詰まるような感じがした。
考えなきゃいけないことが山ほどあるのに、頭が回らない。手も足も、どこか遠くのものみたいだ。

「どうすんだよ、これ……」

小さく息を吐いた瞬間、胸に浮かんだのは。
練習を重ねてきたクラスメイトたちの顔。大道具を必死で作っていた美術係。照明や音響、裏方の全員。

──この舞台、止めたくない。

自分が組んだ照明と音が、仲間の演技を照らすはずだった。
「成功させたい」と思って、準備してきた。
それが全部、なくなってしまうなんて。

オレは両手で顔を覆い、ぐっと目を閉じた。
心臓の音が耳の奥でうるさいほど響いている。
逃げ出したい。でも、誰かが「こうすればいい」って言ってくれるのを待っているだけでは、何も動かない。

──もし、兄サマだったら?

ふっと思い浮かんだその姿は、どうしようもなく冷静で、どこまでも決断力に満ちていた。

兄サマだったら……こんなとき、どうする?

まず状況を整理して、誰が動けるか、どうすれば舞台を止めずに済むかを考える。
演出の変更、段取りの調整、最悪のリスクとそれを回避する手立て。
考えうる限りの手を尽くして、それでもだめなら──

「……自分がやる、って言うだろうな」

つぶやいて、口の中に苦い味が広がる。

そうだ。
兄サマは、他人に媚びない。共感もしない。
大抵の人間の困りごとには、ひとつまみの興味も示さない。

──けど、それでも。

「オレのためなら、無茶だってする」

何度も見てきた。
傷だらけで、無理を押して、最後には全てを背負って立つ姿。
誰にも頼らず、絶対に「できません」とは言わない人。

そんな兄サマなら、今この場にいたら……

「……やってると思う」

それも、顔色ひとつ変えずに。
周囲の期待なんて意に介さず、ただ目的のためだけに動く。

でも、オレは……?
自分に、そんなことができるのか?

怖い。
失敗したら、恥をかくどころじゃない。
舞台が壊れる。みんなの努力が、水の泡になるかもしれない。

だけど、誰もやらないなら?

無理だ、と思った。
なのに、心の奥にぽつりと声が湧く。

「兄サマなら、そうする」

誰よりも完璧を求める兄サマが、それでも未経験の舞台に飛び込むとしたら。
それは「これしか道がない」と覚悟を決めたときだ。

だったら、自分も。
怖くても、震えてても。
誰かの「できません」の後ろに隠れてちゃ、だめだ。

「……やるしかない、か」

その言葉は、震えた。
けれど、確かにオレの中で何かが動いた音がした。

壁から背を離し、舞台の中心へ向かって歩き出す。
足元はふらついていたけれど、目はまっすぐに前を見据えて。

薄暗い舞台の上で、まるで自分が小さな一歩を踏み出しただけでも、全ての目が集中してくるような気がした。

振り返ると、他のメンバーたちの視線が絡み合う。
誰もが言葉を呑み込み、オレの動きに注目していた。
その中には、驚きや不安、期待が混じった表情があったが、何よりも目立つのは、全員が次の言葉を待つように沈黙を守っていることだった。

オレはその目線を受けながら、ひとりひとりの顔を順に見つめた。
そして、ついにその言葉を口にする覚悟を決める。

「オレがやる」

怖いままでもいい。震えててもいい。
それでも、進むと決めた。

***

緞帳の裏、暗がりの中に張りつめた空気が満ちていた。
舞台袖でスタンバイするクラスメイトたちは、衣装を着込み、台本の最終確認をしたり、深呼吸を繰り返したりと、それぞれの緊張のほぐし方に没頭している。

オレは衣装の袖をいじりながら、ただ静かに目を伏せていた。
毛量のあるウィッグが、昔を思い起こさせて、なんだか懐かしい。
心臓はさっきよりも静かになった。決意を固めてから、心が不思議と落ち着いている。

「オレがやる」と言ってから、時間は容赦なく流れた。
代役としての台詞は詰め込み、動きは先生たちに修正してもらい、ギリギリで間に合わせた。けど、それでも本当に間に合っているのか、不安は拭いきれない。

そのとき──

「ねえ、ちょっと!観客席……ヤバいかも……!」

舞台袖のカーテンを少しめくった女子が、息を呑んだ声を上げる。

「えっ、なに?誰か有名人来たの?」

「ていうか、あれって──モクバの、兄ちゃん……?」

ざわっ、と狭い袖口にいる数人の空気が揺れた。

「えっ!?ってことは、あの人……」

「うわ……ほんとだ……海馬瀬人じゃん!ていうかスーツで来るんだ!?」

「うちの学校来たの初めてじゃない!?てかなんで!?なんで今!?」

一気に高まるざわめき。
オレは思わず顔を上げた。

「……兄サマが?」

そうつぶやいた瞬間、頭が真っ白になる。

──まさか。

思いがけず走り出しそうになる足を抑えながら、オレは袖の隙間にそっと目を向けた。

そこにいた。

少し遅れて着席したらしい白いスーツの姿。
姿勢を崩さず、冷ややかな目で前方の舞台を見据えている。
その存在感は、遠目でもはっきりとわかった。

「……ほんとに、来てる……」

誰よりも見てほしい人だった。
けど、来るとは思っていなかった。忙しいはずだし、学校の行事なんて……
「そんなことに時間を割く人じゃない」──そう思っていたのに。

なのに、来てくれている。

胸の奥に、不意に熱いものがこみ上げる。

(見られる……兄サマに……)

緊張、羞恥、誇り、期待。
あらゆる感情が一気にせり上がり、頭が追いつかない。

「お、お兄さん……来てくれたんだね……」

誰かが言う。少し羨ましそうに。

オレは、それには答えられなかった。
ただ、自分の中でぐらつきそうな気持ちを、両手でぐっと押し込む。

──大丈夫。オレは、決めたんだ。
「やる」って、自分で言った。
だから今さら、足を止めるわけにはいかない。

「……見ててよ、兄サマ」

小さな声で、誰にも聞かれないように言った。

──演目『光芒』の幕が開ける。

***

緞帳の向こうから、光が差し込んでくる。

まぶしい。でも、目を細めたりはしない。そう決めていた。舞台の上で瞬きが多いと、観客には緊張してるのがバレるって、演出の子が言ってたから。

でも、今、そんなことより。

(兄サマ、ちゃんと見てる)

客席のざわめきが落ち着いた頃、一瞬だけ視線を巡らせて、その姿を見つけた。中央より少し後ろ、けれど視界のど真ん中にいる。あの目は、間違いなくこちらを見ていた。

その視線を感じた瞬間、緊張よりも、胸の奥がぽっと熱くなる。

(もう大丈夫。やるよ、兄サマ)

幕が完全に上がった舞台の上は、まるで別世界のようで、オレはそこに溶け込んでいく。

照明が当たる。足元から顔へ、ゆっくりと光が昇ってくる感覚。

舞台のセットは、木の窓枠と、古びた家具が置かれた『灯台の部屋』。窓の向こうに、港町の朝焼けを思わせる淡い光が流れている。潮騒のSEが流れ、潮の香りがするような気さえした。

舞台袖から、誰かが小さく息を呑んだ音が聞こえる。

オレは──いや、『わたし』は、ゆっくりと口を開く。

「……朝の匂いがする。潮と、炭と……それから、パン屋の煙突の匂い」

自然に、少女の声になった。気取らない日常の始まり。それだけの台詞に、気持ちを込めた。静かな港町の、静かな朝。守られた場所のぬくもり。──そんなものを、全部。

(言えた……うん、ちゃんと始まった)

心の中で、ひとつ頷く。

「今日も、あの船が出るんだな。あの帆の、白いやつ。きっと遠くまで行くんだろうなあ……」

静かなモノローグ。客席は息をひそめたように耳を傾けている。

ふと、後ろの扉が軋む音がして、振り返る。
そこに立っていたのは。

「……起きていたのか」

低く、少しだけしわがれた声。彼、灯台守の独特な存在感が、舞台の空気を変える。

広い肩、厚手のコート、風に焼けた顔。あれだけ台詞を合わせたのに、灯台守の登場は、ちょっぴりこわい。

でも、それも『わたし』なら言える。

「うん、眠れなかった」

ほんの少しの間を置いて、台詞を返した。

「夢でも見たのか?」

「ううん、今日は違う……なんていうか、胸の辺りがそわそわするの。何かが始まるような気がして」

淡い光が舞台を照らし、朝の気配が濃くなる。灯台守が静かに近づいてきて、『わたし』の頭に手を置く。

──兄サマも、昔、こうやって、オレの頭に触れたことがあった。

黙って、優しく。

(兄サマ……)

少しだけ、視界が滲みそうになる。だめだ、泣く芝居じゃない。

「この町は、静かすぎるかな」

ぽつりと言う。
灯台守は、答えない。ただ、窓の外の港を見ている。

「でも、あの光があるから、みんな帰って来られるんだって思うの……」

わずかに震えた声。でもそれは、演技じゃなくて。
ほんの少し、オレ自身の気持ちだった。

朝の光が、だんだん強くなっていく。

『わたし』は、ぽつぽつとつぶやく。

「いつも、黙ってるんだね……背中ばっかり、見てた気がする」

少しだけ、間を置いて。

「灯台みたいに、動かなくて。そこにいるってことに、安心して……でも、なんだか……」

言いよどむ。でも、その先の気持ちを続ける。

「近すぎて、ちょっと……苦しくなるの……変だよね」

……『わたし』は、そっとドアノブに手をかける。

「……ごめんね、変なこと言って。町に、行ってくるね。パン屋さんの匂いに誘われたから……買ってくる」

灯台守は何も言わない。ただ、一度だけ、小さくうなずいた。

***

舞台が静かに切り替わり、潮騒と鳥の声。朝の町の音が流れる。

セットの背景が灯台から港の広場へと変わり『わたし』が足早に舞台中央へ出ると、若者たちの笑い声が響いた。

「おーい!灯台の子じゃないか。こんな朝からどうした?」

「聞いてくれよ、明日の明朝、船が出るんだ!」

たくさんの若者が、楽しげに『わたし』を囲む。みんな顔を日焼けさせて、希望に満ちた目をしている。脚本上では、ただのモブ。でも、その無邪気なまっすぐさに、心が揺れた。

彼らはこの港町を出て行く。帆を広げ、風を受けて、知らない世界へ。

「船……遠くまで行くの?」

「もちろんさ!灯りのおかげで帰ってこれるって信じてるよ。だから、まずは出なきゃな!」

「なあ、お前も来るか?別に女だからって構いやしないぞ!」

笑いながら言われたその言葉に『わたし』は言葉を詰まらせる。

行く?『わたし』が──この町を?灯台を?

でも、そんなの、だって。

(ここには、灯りがあるのに)

「……行かないよ。わたしは、行かない」

強く言ったつもりだったのに、声は震えていた。

若者たちは顔を見合わせて、少しだけ寂しそうに、それでも明るく笑った。

「そうか……なら、また帰ってくるときは、灯り、頼んだぜ!」

「気が変わったらいつでも来いよな〜」

帆の白が、風を孕むように舞台に描かれる。潮風が吹き抜けたような気がした。

若者たちが去り、舞台には再び『わたし』だけが残る。にぎやかだった音も静まり、港の朝の音だけが残る。

『わたし』はその場に立ち尽くし、少し顔を伏せる。

「……パン、買いに来たんだったのに」

ぽつりとこぼして、苦笑い。

でも、歩き出せない。胸の中に、ざわざわと波のようなものが広がっていた。

「なんでかな。船の話を聞いてから、こんなに心がぐらぐらするの。潮の香りが、いつもの違って感じるの……こんな気持ち、知らなかったのに」

少しだけ間があり、港の方へ視線を向ける。

「わたし……ずっと、この町にいて、灯台を継いで、あの灯りを守っていくって、思ってた」

でも──と、言いかけて、言葉を飲み込む。

風が吹いて、どこからか小さな鐘の音が響く。

「……すぐ帰るのもなんだし、時間つぶしてから帰ろっと」

静かに舞台袖へと戻っていく。幕が一度、ゆっくりと下りる。

***

オレは袖に戻ると、無意識に背中を壁に預けて、息をついた。少しだけ指が震えていた。

……おかしいな。練習じゃ何度もやったのに。
あの台詞も、あの感情も、全部ちゃんと分かってるはずだった。

「わたしは、行かない」──そう言ったとき、少しホッとしたのも事実だ。
でも、港の向こうを見つめる少女の気持ちが、胸にじんわり残って、離れなかった。

「モクバ先輩、お疲れさまです!」

後輩のひとりが、スカーフを手に駆け寄ってきた。
緊張と感動が混ざった顔。オレを見る目が、ちょっと熱っぽい。

「すっごくよかったです!『行かないよ』のところ、あそこ……ほんと、胸がきゅっとなりました」

「……ありがと」

声に出すと、自分の喉が思ったより乾いていたことに気づいた。
脇に置いてある水を飲む。冷たさが心地いい。

「ねえ、モクバ先輩って、港に残る『彼女』と、似てるところあるなって思ったんです」

唐突にそんなことを言われて、オレは思わず目を丸くする。

「似てる……?」
「うん。誰かのそばにいるっていうの、すごく自然に感じてるっていうか……自分の場所が、そこにあるって疑ってないみたいな」

そんなつもりはなかった。というか、考えたこともなかった。
兄サマのそばにいるのは、当たり前だ。
小さい頃からそうだったし、それ以外の生き方なんて思いつかない。オレは兄サマの助けになりたくて、それがずっと自分の『役目』だと思ってる。

「でも『彼女』は、それを手放すんですね。自分の足で歩くって、決める……ちょっと、泣きそうになっちゃいます」

オレは、返す言葉を見つけられなかった。
ただ、胸の奥で何かがざわついている。
劇の中で選ぶあの決断が、自分にとって『遠い話』に思えなくなってきているのが、怖かった。

……兄サマは、今、客席で見てる。
何を思ってるんだろう。ちゃんと届いてるんだろうか。オレの演技。オレの気持ち。

「モクバ先輩……最後のシーン、楽しみにしてます」

「……うん」

小さくうなずいて、立ち上がる。
灯台の灯りが見えない舞台へと、オレはもう一度歩き出した。

***

灯台の上は、夕日に染まっていた。海も空も、赤く溶けていくみたいだった。
『わたし』はそっと扉を開けて、あの人の背中を見る。灯火の調整を終えたところだったのか、肩が少しだけゆるんで見えた。

「……ただいま」

振り向いた灯台守は、いつもの無口な顔で、ただ一度だけ頷いた。

舞台の上に立っているはずなのに、今、どこか違う感覚だった。

脚本も、段取りも、全部頭の中に入ってる。
だけど、それじゃない何かが、胸の奥でとっくに始まってた。

『わたし』は、灯台守の背中に声をかけた。
その瞬間、モクバとしての自分と、役の境界線が、すっとほどけた気がした。

「……今まで、この町で暮らしてきた。」

せきを切ったように、灯台守の背中に語りかける。

「毎日、灯台の灯りを見て、海の匂いのする風の中で。あの光があれば、船は帰ってこれるって、そんなふうに信じてた。
だから、わたしも──自然に思ってたの。いずれは、この灯りを継ぐんだろうって。それが当然の未来だって、疑いもしなかった」

言いながら、胸の奥が静かに揺れていく。
言葉を吐き出すたびに『当然』だと思っていたものが、一枚ずつはがれていくようだった。

「……でも」

そこでいったん、息を吸う。

「……出ていこうと思うの」

──これまで何度も、この場面を見てきた。

責任者として、演出として、台本の確認、動線の修正、照明のタイミング。何度だって稽古に付き合ったし「この台詞の前に一拍置いた方がいい」なんて口を出すこともあった。

でも──そのときには、一度も感じたことがなかった。

今、舞台の上に立って、あの人の背中を見る。
夕暮れの灯台。ずっと自分を照らしてくれた存在。
ただそれだけの構図が、どうしようもなく胸に迫った。

静かに、でも確かに。

「灯りは絶やさないでおいてやる」

その一言が、心の奥にじんわりと染みてくる。

たったそれだけなのに、喉が詰まった。視界がぼやけた。

演技じゃない。本当に、涙がにじんできた。

こんなはずじゃなかった。台本どおり、動けるはずだったのに。

兄サマのことが、頭をよぎる。
オレにとっての『灯り』。自然と浮かぶ、たったひとつの輪郭。

ずっとそばにいた。守られてきた。
その安心に、いつの間にか甘えていたのかもしれない。

あの人のそばにいることを『自分の役目』だと思ってたけど、それは同時に『自分の意思』で進むことから逃げていたのかもしれない。

「……だから、お前は行け」

灯台守の最後の台詞が、決定的だった。

脚本には「目を伏せて、一礼」とあったけど、そんな余裕はなかった。

ただ、目元を拭うこともできずに、涙がすっと頬を伝った。

「……ありがとう」

涙声のまま、しぼり出すように言った言葉。
それはモクバとしてじゃなく『わたし』としてじゃなく──いま、ここに立っている、自分自身の声だった。

目の前の灯りが、そっと揺れた気がした。

──幕が、静かに下りる。

***

しん、と静まりかえった一瞬のあと、客席から拍手が湧いた。

ああ、終わったんだ──。

拍手の音に、ようやくゆっくりと息を吐けた。
さっきまで舞台の中にいた自分が、少しずつ戻ってくる。
でも、胸の奥はまだじんと熱くて、涙の痕が頬に残っていた。

目元をぬぐいながら、ふど、視線が客席の向こうに向く。

──兄サマ、見てくれていたんだろうか。

最後まで。
あの台詞を、ちゃんと聞いてくれていたんだろうか。

閉じきった緞帳からは、観客の顔は見えない。
けれど、その向こうにいるであろう姿を、思い描いてしまう自分がいた。

兄サマは、どう感じたんだろう。
この劇を、オレを──。

「お疲れ〜!やっば、モクバめっちゃ泣いてたじゃん。ガチで入り込んでたな〜!」

声をかけてきたのは、灯台守役の部員だった。
その風体から、寡黙で落ち着いた芝居の似合う人だったが、舞台を降りた今はそのイメージを軽々と裏切る快活さで、オレの背をぺちぺちと叩いてきた。

「いや〜、スゲェよかったよ。照明もバッチリだったし、後半マジでグッときた。」

「……あ、ありがとう。ちょっと、入りすぎたかも……」

演技としてではなく人前で泣いてしまったことが、今になって照れくさかった。

「うっし、じゃ撤収作業入るか〜」

灯台守役はニッと笑って、すでに袖に置かれていた衣装の上着を肩にひっかけながら立ち去っていく。

オレも着替えに行こうかと思ったそのとき、別の部員が手にメモを持ったまま、ぱたぱたと駆け寄ってきた。

「モクバー、撤収メンバー割り振るから、これ見といて!あ、でもさ、兄ちゃん来てたんでしょ?まだホールにいるかもよ?」

「……え?」

一瞬、頭が追いつかない。

「いやさ、あの人って忙しいでしょ?すぐ帰っちゃうかもしんないからさ、行くなら今じゃね?」

それを聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっとなる。

さっきの台詞。あの背中。

──ちゃんと、届いてほしかった。

気づいたときには、自然に足が動いていた。

「ごめん、ちょっとだけ!」

メモを受け取りきれないまま、オレは軽く会釈してホールの方へ駆け出した。

衣装の裾がふわっと揺れて、舞台袖を抜ける。

まだ、いるんだろうか。
あの人は、どう感じたんだろう。

それを、どうしても、確かめたかった。

***

舞台袖を抜けると、廊下はちょっとしたざわめきに包まれていた。

次の出し物の準備か、出入りする人の気配も多くて、さっきまでの緊張感とはまた違った空気が流れている。

なんだか妙に視線を集めている気がするけど、今はそんなことより。

──どこだ。

目を凝らして探す。すれ違う顔の中に、あの人の姿はないかと。

ふと、ホールの出入り口、わずかに開いた扉の向こうに、背の高い人影が見えた。

「……兄サマ!」

声が出ると同時に、その背中が止まった。

振り向いたのは──やっぱり、兄サマだった。

混雑の中でもひときわ目を引くその存在は、視線が合った瞬間、ほんの一瞬、目が動いた気がした。けれど、その意図は読み取れなかった。

「………………」

何を言えばいいかは、まだ決まっていなかった。

けれど今、この瞬間だけは、行ってしまってほしくなかった。

だから、オレは人の流れをかき分けて、兄サマのもとへと歩き出した。

近づくにつれて、兄サマの顔がはっきりする。
でも、その表情は思っていたよりもずっと静かで──
何を感じているのか、いつもならわかるはずなのに、今日はうまく掴めない。

呼吸が浅くなる。何か言わなきゃ。でも、何を──

「……兄サマ、あの──」

言葉を探して立ち止まったとき、すぐ脇を通り過ぎた生徒たちの声が耳に入った。

「なあ、今の子誰?」

「さっきの劇の主役の子でしょ?」

「うちにあんな可愛い子いたっけ?」

一瞬で、耳の裏まで熱くなった。

そうだった。まだこの格好のままだ。
リボンに、スカートに、花柄のストッキング。

観客席からじゃわからなかった顔も、今は至近距離で、しかも照明もなくて、はっきり見える。

兄サマの視線がこちらに落ちるのを感じて、見られているとわかるのに、顔を上げられなかった。

そのとき、不意に手首を掴まれる。

「……こっちだ」

低く静かな声とともに、手首を引かれた。

兄サマの手は、驚くほどあたたかかった。

人の流れをかき分けて歩くその背中を、ただ追いかける。

生徒たちのざわめきも視線も、遠ざかっていく。

***

そして、気づけば人けのない中庭のベンチに並んで座っていた。

風に揺れる木の葉の音だけが聞こえる。
さっきの喧騒も、高揚も、遠い舞台の中の出来事みたいだった。

それでも、まだ胸の奥に、ほんの少しだけ熱が残っている。

少しの間、風の音だけが、オレたちふたりの間を行き来していた。

「……その、劇……どうだった?」

やっとの思いで口を開いた声は、自分でも情けないくらい小さかった。
けれど兄サマは、ほんのわずかだけ顔をこちらに向けた。

「……おまえが、役者として出るとは聞いていなかった」

声色はいつもと変わらない。淡々として、けれどそれが返って重く感じる。

「うん……あの、今朝ちょっとトラブルがあって……本当は別の子が出るはずだったんだけど、その子が出られなくなって……」

語尾に向かって言葉がしぼんでいく。
兄サマの前で、言い訳じみた説明をするのは、少しだけ居心地が悪かった。

それでも、話しておきたかった。
ちゃんと、自分の意思でやったことだって、伝えたかった。

「……でも、脚本も読んでたし、稽古も見てたから、オレが出たほうが、うまくいくって思ったんだ」

思い返せば、それだけじゃない。

冷静で、決断力に満ちていて──オレのためならなんだってする、兄サマの姿に勇気をもらったから。
……だから、今度はオレが。
誰かのために動く番だと思った。

「……兄サマみたいになりたかったんだ」

ぽつりと、独り言のようにこぼれた言葉だった。
けれど、それを聞いた兄サマが、わずかに眉を動かしたのを、オレは見逃さなかった。

「………………」

その沈黙の意味は、やっぱりまだ読めない。
ただ、兄サマの視線が、まっすぐこちらを見ているのを感じる。
どこか、探るように、確かめるように。

──なにか、違うことを考えてる?
胸の奥に、ふと小さなざらつきが生まれる。

「……兄サマ?」

問いかけるように目を向けると、兄サマは視線をそらすことなく、静かに言った。

「……おまえは、もうオレがいなくてもやっていけると言いたいのか」

静かな声だった。
けれど、それはまるで、どこか遠くから響いてきたような──そんな風に聞こえた。

「そ、それは違うよ……!」

咄嗟に否定していた。

「オレは……兄サマがいなきゃ、こんなこと、できなかった」

焦るように並べた言葉の裏に、自分でも気づいていた。

兄サマは、オレのことを、ちゃんと見ていてくれた。
そして、見ていたからこそ、ほんのわずかな不安が生まれたのだということも。

オレが、遠くへ行ってしまうんじゃないかと。
その予感に、兄サマが揺れていることに。

……気づいているのは、きっと、オレだけだ。

兄サマは、何も言わない。
ただ、視線だけを、まっすぐこちらに向けたまま。
少しの間、沈黙が落ちる。

けれど、やがて。

「……そんな顔をさせるつもりはなかった」

ぽつりと、兄サマが言った。

「だが……」

そこで少しだけ言葉を切る。
その目が、ほんのわずかだけ、遠くを見るように揺れた。

「……オレの知らないところで、おまえが何かを決めて、動いていたことが……少し意外だった」

その声には、怒りも、咎めも、ない。
けれど──ほんの少し滲んでいたのは『寂しさ』だったのかもしれない。

「兄サマ……」

何か言いかけて、言葉が止まった。
言い訳も、慰めも、ここではきっと違う。

兄サマは、そんなものを求めているわけじゃない。
それでも、何かを伝えなきゃ、と思った。

──オレは、兄サマのことを置いていったわけじゃない。
どこにいても、どんな時も、兄サマのことを想っている。

そう伝えるには、どうしたらいいんだろう。

オレは、そっと手を伸ばして、兄サマのジャケットの裾を掴んだ。
ほんの少しだけ。

目が合うかどうかの距離で、見上げながら、言った。

「これからもオレは、自分の決めたことをやっていきたい。でも、それは兄サマと離れたいわけじゃない」

難しいけれど、懸命に言葉を探す。この想いを伝えるために。

「……オレが動けたのは、兄サマがいてくれたからだよ。今でも、ずっと、兄サマが一番なんだ」

言葉を終えて、オレはそっと息を吐いた。

兄サマは何も言わず、ただオレの顔を見つめている。
少しだけ睫毛が揺れたように見えたけど、それ以上、表情は変わらなかった。

けれど、それでいいと思った。

兄サマに何かを強いるつもりなんてない。
ただ、ずっとオレの心の中にあったこの気持ちを、知ってほしかった。

沈黙が、また少しだけ続く。
風が、木の葉を揺らす音だけが耳を満たしていた。

けれどその音さえ、どこか優しく聞こえた。

オレは、掴んでいたジャケットの裾を、ぎゅっともう一度握り直して──言った。

「……兄サマのこと、好きだよ」

この気持ちが何なのか、全部を言葉にするのは、まだ難しい。
でも、これだけはちゃんと伝えたかった。

「すごく、すごく……大好きだよ」

そう言ってしまってから、少しだけ不安になる。
この言葉は、兄弟としての「好き」とは違うことに、気づいてしまったから。

──でも、それでもいい。もう、隠したくなかった。

そう思った瞬間だった。
突然、肩を引き寄せられて──

「……っ!」

気づいたときには、兄サマの腕の中だった。

強くはない。
けれど、はっきりとした力で。
オレを抱き寄せて、そっとその手が背中に回される。

鼓動が聞こえる。
静かで、落ち着いたリズムだったけれど、なんだかオレの方がドキドキしていた。

驚いて顔を上げようとしたら──

「……モクバ」

耳元で、兄サマがオレの名前を呼ぶ。

その声は、誰にも聞かせたくないような、低くて、優しい声だった。

そして──

その次の言葉は……オレにしか聞こえなかった。

はっきりと、耳に落ちたその言葉を、オレは一生、忘れないと思う。

胸の奥に、ふわりと光が灯る。
少し泣きそうになって、それをぐっと堪えた。

兄サマの肩に、そっと額を預ける。

今はまだ、この腕の中にいたかった。

***

(モクバ、どこまで行ったんだー?)

演劇部の男子部員は、やや焦った様子で中庭に出てきた。
モクバが「ごめん、ちょっとだけ!」と言って離れていったのを見送ったが、それからなかなか戻ってこない。

(衣装そのまんまで出て行くとはなあ……焚き付けたのは俺だけど……)

内心でぼやきつつ、植え込みの向こう──
普段は人が少ない中庭の奥に目を向けた瞬間、ふと足が止まった。

(あっ、いたいた……!)

見覚えのある衣装をまとった後ろ姿が、ベンチに座っている。
けれど──

(……ん?あれ、なんか、抱き合って……?)

兄弟だし、感動の再会的な……?海馬社長って、意外とスキンシップ激しめ……?

でも、なんか……なんか……なんだ、この雰囲気……?

思わず木の陰に隠れて、覗き込んだところ──

ばちん、と目が合った。

(……っ!)

兄、海馬瀬人の、鋭すぎる眼光が飛んできた。
まるで「邪魔するな」と、言葉より明確な威圧で。

(……は、はい、後にします……)

無言で頷き、そっとその場を離れる演劇男子部員。

──な、なんだ、あれ……
何を見てしまったのか、よくわからないけど。

少なくとも、あの空気に割って入れる人間は、この学園にはいない。

(あとでモクバに何話すかなあ……まあ、聞かないでおくかあ)

──とりあえず、モクバは見つからなかったことにしておこう。

演劇男子部員は、結構柔軟なタイプだった。

***

後日、演劇部の部室にて。

「……えっ、こんなに?」

オレは、目の前のノートをぱらぱらとめくりながら、思わず声を上げた。
机の上に置かれたそれは、学園祭での演劇の感想ノート。
客席近くに置いておいたやつだ。確か後輩の部員が言い出したんだっけ。やってみてよかったのかもしれない。

ページをめくるごとに、手書きの文字が並んでいる。

「ヒロインの表情が自然でよかった」

「ラストの声が震えてたところ、泣きそうになった」

「主役変更って聞いてびっくりしたけど、全然そんな風に見えなかった!」

手書きの感想のひとつひとつが、まっすぐで、温かい。

「……うう、照れる……」

思わず、ノートの前に腕を置いて、うつむいた。
そのとき、後ろから声がした。

「わぁ〜、感想ノート読んで照れてる〜!やっぱり褒められると嬉しいよね!」

顔を上げると、そこには、ヒロイン役をやるはずだった女子部員が立っていた。
当日は酷く落ち込んでいたらしいが、振り切れたんだろうか。無理して明るく振る舞っているのかもしれない。

「そりゃ照れるよね〜、見てこれ!『本物のヒロインだと思った』だって!」

彼女は勝手にノートを覗き込んで、にやにや笑っていた。

「ち、ちが……!いや、そういうわけじゃ……」

──言いかけて、ふと、思い出してしまった。

あのとき、中庭のベンチで、兄サマの腕にいたとき。
耳元にふっと落ちた、あの言葉。

──────。

(……や、やめろ思い出すな!)

急に頬がふわっと熱くなる。
やばい、照れる。いや、さっきから照れてはいたけど、これとは違う……!

「えっ、なに!?そんな照れる!?『ヒロイン可愛すぎる』ってとこ!?」

「ち、ちがっ……!ちがうから……!」

「なんだよ〜、教えろよ〜!」

笑いながら、彼女はオレの背中を軽く叩いてくる。

(ちがうんだってば……!)

──ちょっとだけ、胸がきゅうってしてる。
感想が嬉しいのも本当だけど、それよりも──

思い出してしまった。

兄サマが、あのとき、誰にも聞かれないように囁いてくれた言葉。

あの声、あの距離、あの体温。

「……もう、ずるいよ、兄サマ」

小さな声が、自然とこぼれてしまった。
聞かれてはないと思うけど、ちょっとだけ慌てて、そっとノートを閉じた。

感想ノートの最後のページだけは、なぜか見れないまま。
でも、それでいいと思った。

胸の奥に灯った光は、今もまだ、そっと消えずに灯っている。
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