遊戯王GX(十万SS)
「そろそろ起きたらどうだ、十代?」
誰かの声が頭の上から落ちてきた。
鼓膜を揺らすその響きが、よく聞き知っている、どこか硬質で落ち着いた声だと気づくまで、少し時間がかかる。
「んあ……?三沢……?」
ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは夕暮れに染まりかけたいつもの教室だった。窓から差し込むオレンジ色の光が、机の上に長い影を作っている。光の角度からして、午後もだいぶ過ぎているっぽい。
俺はいつも通り机に突っ伏して寝ていたわけだけど、こうして三沢に起こされるのはちょっと珍しいな、と思う。いつもなら、呆れ顔の翔か、明日香か、あるいは――。
「何時まで寝ているのかと、逆に気になってしまってね。声をかけるタイミングを計りかねていたよ」
淡々としつつも、目を少し細めて、呆れたような苦笑いを浮かべている。授業はとっくに終わっているらしく、昼間の喧騒が嘘のように周りはがらんとしていた。風がカーテンを静かに揺らす音だけが、やけに大きく聞こえる。
……寝てる場合じゃない!そういえば三沢に用があるんだった!
俺は忘れていた目的を急に思い出し、慌てて勢いよく顔を上げた。
「あっ、丁度よかった!なぁ三沢、聞きたいことがあんだけどさ!」
「なんだ、十代。俺に分かることならいいが」
三沢は俺の隣の席に腰を下ろした。謙遜しなくても、三沢なら大体のこと答えてくれそうだけどなぁ。俺は身を乗り出して、ずっと胸に引っかかっていた疑問をストレートにぶつけてみた。
「キスで子どもってできないのか?」
「……?」
目の前の三沢が、ピタリと動きを止めた。
頭脳明晰って感じの三沢が、一瞬だけ機能を停止したかのような、完璧な静寂。三沢は不思議そうな顔をしたまま、俺の言葉の意味を頭の中で何度も咀嚼しているようだ。言われたことがピンと来ていない時の、少し抜けた顔をしている。
「ちゃんと授業受けてればわかるらしいからさー、お前に聞こうと思って!」
俺が笑いながら付け足すと、三沢はようやく深い、深いため息をついた。
「……まあ、結論から言えば出来ないな」
「あー、やっぱそうなんだ!」
すっきりしたような、でも、どこか拍子抜けしたような気分だった。
なんか変だなあとは思ってたんだよなあ。
「一体、突然どうしたんだ?」
「だってさー、昔そう聞いたんだぜ?抱き締めてキスするとできたりするって。だから俺、ずっとそういうもんだとばかり思っててさ」
なんで大人はそんな嘘つくんだろうな〜、と俺は頭の後ろで両手を組んで笑った。
「……それを聞いた時、君はよほど幼かったのだろうね」
「おー、よく分かるなぁ!」
三沢はやっぱりすごいなあ。お見通しだもん。
「はぁ……それで、何があってその『勘違い』に気付いたんだ?わざわざ俺に確認しにくるくらいだ、何かきっかけがあったんだろう」
「いやさ、万丈目にめちゃくちゃキレられちゃってさ」
「万丈目に?」
三沢の眉がピクリと跳ねた。空気がわずかに変わる。
「そうそう。俺がその話をしたらさ『このバカ!遊城一桁からやり直してこい!』ってさ〜。顔をリンゴみたいに真っ赤にして、もう怒る怒る」
「ふむ……」
三沢はアゴに手を当てて、視線を斜め下に落とし、考え込み始めた。どうしたんだろう、そんなに難しい話じゃないはずなんだけど。
「それで、三沢。教えてくれるか?」
俺の言葉に、三沢はゆっくりと顔を上げた。その表情には、いつもの学者のような真剣みと、どこか温かい眼差しが混ざり合っている。
「まあいいだろう、恋は理屈じゃないが、性教育は理屈だ。正しい知識を持つことは重要だ」
「おー、よろしく先生!」
「ただ、解せないところがある」
「お?」
三沢の目が、まっすぐこっちを射抜いた。いつになく真剣で、ちょっと怖いぐらいに。
「どうしてそれで、万丈目が怒るんだ?」
「え?」
……三沢、そこに気づくとは。やるな。
「話を聞く限り、君のその突拍子もない勘違いに対して、万丈目が馬鹿にしたり、呆れたりするならよく分かる。いつもの彼なら鼻で笑うところだろう。だが『怒る』理由は、客観的に見てどこにも無いように思える」
「……あー、うーん。オレもまあ……よくわかってないけど……うーん」
俺は思わず視線を窓の外へとそらした。夕日が目に染みる。
適当にごまかすしかなかった。だって、それを言っちゃったら……
(万丈目とキスしたから……なんだろうけど、それ言ったらもっと怒られるよな〜)
唇に残っている、あの時の少し痛いくらいの厚さを思い出して、俺は自分の顔がじわじわと熱くなっていくのを感じた。
「何か、俺には言い辛い事があるんだな?」
三沢の静かな声が、俺の思考を引き戻す。
「言いづらいというか……うーん、なんていうかさ……」
「ははっ、いいさ。聞いて悪かったな」
言葉を濁す俺を見て、三沢は、ふっとほほ笑んで、大げさに肩をすくめた。その動きが、どこか優しくて、なんとなく張り詰めていた俺の心を軽くしてくれた。
「気になる事は突き詰めたくなる性分だが、それで友人の隠し事まで暴く気はないよ」
「三沢……」
やっぱりいいヤツだなあ……
「……藪蛇を突く事になりそうだしね」
「ん?なんか言ったか?」
「いや、独り言だ。それより、ノートはあるか?」
「えっ、そんな本格的にやんの?ちょっと教えてくれるだけでいいんだけど!」
「当たり前だろう、将来困る事になるぞ。冗談抜きでね」
三沢の言葉には、不思議な説得力があった。将来困る、か。
俺は小さくため息をつきながら、カバンをごそごそとあさった。奥の方から、ろくに使われていない折り目のひとつもない綺麗なノートとペンを取り出す。
(まあ、将来っていうか、今まさに困ってるんだけどな……)
万丈目のあの怒った顔と、そのあとに見せた、泣き出しそうにも見えた複雑な目の理由が、このノートを埋める頃にはわかるんだろうか。
俺はノートを開き、三沢の方にしっかりと体を向け直した。
「で、先生。まず何から教えてくれんの?」
三沢は満足そうに頷くと、黒板の前に立つような厳かな態度で、すっと人差し指を立てた。
「そうだな……まずは、人が生まれた歴史から始めようか」
「なんか遠くねえかな!?」
「一見して遠回りに見えるものにこそ、学びの本質があるんだ、十代」
得意げに語る三沢を見て、俺は早くも頭が痛くなってきた。
……これなら、万丈目に怒られてる方が、まだマシだったかなあ?
外から吹き込んできた、少し冷たい夜一歩手前の風が、白いノートをぱらぱらと捲っていった。
***
「よお、万丈目!いるんだろ!」
コンコン、とノックするのももどかしく、俺はいつも通り鍵の開いていた扉を勢いよく押し開けた。
「万丈目さんだ!……十代、お前な!部屋に泥棒のように押し入るなと何度言えば――」
椅子に腰掛けてお茶を飲んでいた万丈目が、あからさまに嫌そうな顔をしてこっちを睨んできた。けど、そんなのはいつものことだ。
「怒るなって!ほら、昨日の話の続きをしに来たんだぜ!」
「続きだと……っ!?」
「続き」って言った瞬間、万丈目の顔が面白いように凍りついた。昨日、この部屋で……ちょっとしたはずみで重なった唇の感触とか、そのあとの俺の言葉とか、絶対思い出してるよな。万丈目の耳の付け根が、みるみるうちに赤くなっていく。
「き、貴様、まだあのふざけた寝言を言うつもりかっ!キスで、その、な、何ができるだのと言った妄言を……っ!」
「だから、俺だってずっと間違えたままじゃカッコ悪いと思ったからさ。ちゃんと勉強して、教わってきたぜ!」
「教わってきただとぉ!?」
万丈目はガタァッ!と椅子を蹴立てて立ち上がった。手に持っていた湯呑が危うくひっくり返りそうになってる。
「貴様、誰に、何を教わってきたというんだ!?」
「誰って、三沢だよ、三沢!あいつすげーんだぞ。俺が聞いたら、最初は固まってたけど、すっげー丁寧に教えてくれてさ!」
「み、三沢に、それを、聞いた……!?
万丈目の顔から一気に血の気が引いて、白くなったり青くなったりして、見てるこっちが心配になるくらいだ。
「な、なんてことしてくれたんだ貴様はぁー!」
「えっ、なんで怒るんだよ!?俺はちゃんと正しい知識を身につけようと思ってぇ!」
フンス、と胸を張って、俺はカバンから例のノートを引っ張り出した。万丈目の目の前に突きつけて、ページをめくる。
「ほら見ろ!『第一章:生命は海から生まれた』!」
「遠いわ!!なんだその回りくどさは!?」
「三沢が言うにはな、遠回りに見えるものにこそ学びのホンシツがあるんだってさ。でな、キスじゃ子どもはできないんだってさ!」
「知っとるわ!!常識だろうが!!」
「だから、その確認だろ!」と俺は笑った。
「つまりさ、抱きしめてキスしても、何も生まれないんだろ?だったら、万丈目がそんなに怒る必要ねーじゃん。俺と万丈目の間で、何も減るものも、増えるものもねえんだからさ!」
俺としては納得したつもりだったんだけど、万丈目はその場にへなへなと崩れ落ちそうになって、机の端を必死に掴んでいた。
「お前……お前な……知識は増えても、デリカシーはゼロのままか……!」
「え?なんか言ったか?」
「うるさい!大体、三沢は他になんと言っていた!?俺の、その、俺の名前を出した時、あいつはどんな顔をしていた!?どうせ名前を出したんだろう!?」
胸ぐらでも掴まんばかりの勢いで詰め寄る万丈目に、俺は「うーん」と首を傾げた。
「なんかさー『どうして万丈目が怒るんだ?』って、すっげー鋭い目で見られはしたな。でも、キスしたことは内緒にしたぜ?」
「……っ!」
万丈目は、今度は頭のてっぺんまで沸騰しそうなほど真っ赤になった。
「内緒に、した、だと……?貴様、そんなの、逆に『何かありました』って白状しているようなものだろうが!!」
「えっ、そうなの!?隠し通せたって思ってたんだけど!」
「あの男がそれで納得するわけないだろう!あー、もう終わりだ、俺の学生生活が……!」
頭を抱えて激しく机に突っ伏す万丈目。
俺はそれを見て、ぽかんと突っ立っていた。
三沢の講義を聞いて、理屈はわかったはずなんだけど。
でも、目の前で顔を赤くしたり青くしたりして、忙しく感情を爆発させている万丈目を見てると、やっぱり『理屈じゃない何か』が、この部屋の空気の中にたまってるような気がする。
「……なぁ、万丈目」
「なんだ……!もう一歩も近寄るな、この歩く災害め……!」
俺はノートをそっと閉じて、突っ伏している万丈目の背中に、少しだけ声を落として話しかけた。
「三沢がさ『将来困ることになるぞ』って言ってたんだけど、俺、将来じゃなくて、今ちょっと困ってる。万丈目がなんでそんなに怒るのか、三沢のノートを見ても、ちっとものってないんだよな」
「……」
「キスしても何も起きないなら……もう一回、してみようぜ?」
「……は、はぁ!?」
ガタアアアアン!と、今度こそ椅子が派手にひっくり返る音が、夜の寮に響き渡った。
「……っ、お前、何を、馬鹿なことをっ!」
ひっくり返った椅子を直すのも忘れて、万丈目は壁際まで後ずさっていた。顔だけじゃなく、首筋まで真っ赤に染め上げている。その目が、まるで得体の知れないモンスターを見るかのように激しく揺れていた。
「馬鹿なことじゃないって。俺、本当に不思議なんだよ」
俺は手にした三沢のノートを、ベッドの上に向かって放り投げた。
理屈は全部、あの紙の上に書いてある。キスをしても新しい命は生まれないし、お互いの何かが物理的に減るわけでもない。
なのに、どうして万丈目はそんなに怯えたように俺を睨むんだろう。
どうして昨日の俺たちは、あんなに息が詰まりそうなくらいドキドキしたんだろう。
「何も起きないって三沢は言ってたけどさ、だったら、もう一回確かめてみりゃいいじゃん」
「な、何を確かめるというんだ!これ以上俺を混乱させるな、十代!」
「だから、本当に『何も起きないのか』ってことだよ」
俺は一歩、万丈目との距離を詰めた。
万丈目は逃げようとしたみたいだけど、背中はすでに壁に当たっている。
いつもの自信満々な『万丈目サンダー』はどこへやら、今のあいつは完全に俺に追いつめられていた。
「っ、来るな……!」
拒絶するような言葉とは裏腹に、万丈目の声は小さく震えていて、ちっとも怖くなかった。
それどころか、あいつの長いまつ毛が細かく震えるのを見ていたら、俺の胸の奥がまた、昨日と同じようにじわじわと熱くなっていく。
「減るもんじゃないんだったらさ、いいじゃん」
気がつけば、俺の片手は万丈目の横の壁を叩いていた。
すぐ目の前に、あいつの端正な顔がある。怒りで尖った唇も、激しく上下する厚い胸板も、全部がやけに生々しく俺の視界を占領していく。
「お前……本当に、どこまで無自覚なら気が済むんだ……!」
万丈目が歯を食いしばり、悔しそうに目を伏せた。
その瞬間を狙うみたいに、俺はそっと顔を近づけて、あいつの唇に自分のそれを重ねた。
「……ん」
昨日は本当に、ただの『はずみ』だった。事故、とも言えるかもしれない。
だけど、今度は違う。ちゃんと確かめるための、二度目のキス。
重ねただけの唇は、思ったよりも柔らかくて、やっぱり少し熱い。
万丈目の身体がビクッと強張るのが伝わってくる。でも、あいつは俺を突き飛ばそうとはしなかった。ただ、きつく目を閉じて、俺のジャケットの袖をぎゅっと掴んできた。
何も起きない。
新しい命が生まれるわけでもないし、世界が滅びるわけでもない。
だけど。
「……ぁ」
唇が離れた瞬間、万丈目の口から、熱い吐息がこぼれた。
その瞳は、さっきまでの怒りとは全く違う、潤んだ熱を帯びて俺を見上げていた。俺を掴むあいつの指先が、小さく震えている。
そして俺自身の心臓も、まるで全力疾走したあとのように、うるさいくらいにドクドクと音を立てていた。
「……なぁ、万丈目」
「……なんだ」
万丈目の声は、かすれていて、消え入りそうだった。
「三沢にも、わからないことってあるんだな」
「え……?」
「何も起きないなんて、全然そんなことなかった」
俺は自分の胸に手を当てて、苦笑いした。
ここがこんなにうるさくて、苦しいくらいに熱い。ノートのどこをめくったって、こんな現象の理由は一言も書いていなかった。
「なぁ、これって何が起きてるんだ?万丈目、お前なら知ってんのか?」
俺が覗き込むと、万丈目は一瞬だけぽかんとした顔をしたあと、すぐにまた顔を真っ赤にして、今度は俺の胸を力いっぱいに突き飛ばした。
「知るか、この大バカ野郎ーーーー!!」
俺の身体は、床の上へと転がっていった。
「ててて……いきなり突き飛ばすことないじゃんか!」
痛むお尻をさすりながら寝転がったまま、俺はあいつを見上げた。
てっきり、いつものようにフンと鼻で笑うか、あるいはもっと烈火のごとく怒鳴り散らしてくるもんだとばかり思っていた。
だけど、万丈目は違った。
「お前は……お前、は、いつも、そうやって……っ」
突き飛ばした両手を胸の前でぎゅっと握りしめたまま、万丈目は立ち尽くしていた。
怒っているはずなのに、その唇は小刻みに震えていて、うまく次の言葉を紡げないでいるみたいだった。
「万丈目……?」
「俺が、なぜ……お前がそんな、何も考えていないような顔で……っ……違う、そうじゃない……クソッ」
あいつの口から、意味を持たない言葉がこぼれ落ちる。
いつもなら立て板に水みたいに俺を詰めてくるあの万丈目が、完全に言葉を見失っていた。
顔は耳の先まで真っ赤なのに、その瞳はひどく動揺して、まるで迷子にでもなった子供みたいに潤んでいる。俺の顔を見て、すぐに視線を床に落として、だけどまた縋るように俺を見て、何かを言いかけようとしては、きつく唇を噛み締めて言葉を飲み込んでしまう。
その、胸の奥を激しく掻き乱されているような万丈目の姿を見ていたら、俺の心臓の音も、ますますうるさくなっていった。
理屈なんて、やっぱりあのノートのどこにも転がっていなかった。
「……なぁ、万丈目」
俺は床に寝そべったまま、あいつの困ったような、泣きそうな顔をじっと見つめる。
「わかんねえなら、さ。わかるまで、また確かめてみようぜ」
「……っ!」
万丈目の息が、一瞬だけ止まったのがわかった。
その瞳が、驚きと、それから言葉にならない熱を帯びて大きく見開かれる。
だけど、俺はもうあいつの返事を待つつもりなんてなかった。
床から勢いよく起き上がると、まだ動揺して固まっている万丈目の身体を、今度は俺から引き寄せる。お互いの制服が擦れる音が、やけにこの静かな部屋に響いた。
「十代、お前……っ」
言いかけた万丈目の唇を、俺は自分の唇で塞いだ。
先ほどよりも、もう少しだけ強く。
さっき離れたばかりなのに、あいつの唇はやっぱり驚くほど柔らかくて、さっきよりもずっと熱い。
「ん……っ、ん、あ……」
万丈目の口から、小さく、戸惑うような吐息がこぼれる。俺の肩を掴んだあいつの指先に、ぎゅっと力がこもるのがわかった。
一度目を離して、万丈目の顔を見る。
長いまつ毛が細かく震えていて、その奥にある瞳は、完全に潤んでとろけそうになっていた。その顔を見ていたら、胸の奥のドクドクとした高鳴りがさらに速くなって、どうしても我慢できなくなる。
「何も起きないんだろ……?」
言葉を紡ぐ俺の声も、自分でもびっくりするくらい低く、少しだけかすれていた。
「だったら……いいじゃん、もう一回」
「ま、待て、十代、お前――」
拒絶の言葉を全部飲み込むみたいに、俺はまた万丈目の唇に嚙みついた。
今度は少しだけ角度を変えて、あいつの熱に深く触れるように。
万丈目の身体から力が抜けて、俺の胸にじわじわと体重が預けられていく。あいつの細い腰が、壁に小さい音を立てて押し付けられた。
理屈なんて、やっぱりどこにもない。
でも、キスを重ねるたびに、俺の頭の中の霧がどんどん晴れていくみたいだった。
五度目、六度目。
短く触れては離し、あいつが呼吸を整える暇も与えないくらい、何度も何度も唇を重ねる。
「は……っ、ん、う……あ……」
万丈目の口からこぼれる息が、だんだん熱を帯びた甘い音に変わっていく。
いつもはあれだけプライドが高くて、俺をバカだの何だのと威張り散らす万丈目が、今は俺の手の中で、ただ熱い息を吐きながら翻弄されている。
その事実が、俺の心をどうしようもないくらい満たしていく。
「……ん」
何度目かわからないキスを少しだけ深く交わして、ゆっくりと顔を離した。
万丈目は、壁に背を預けたまま、ずるずると崩れ落ちそうになっていた。それを俺が支えるように、あいつの細い腰をしっかりと抱きしめる。
万丈目の顔は、もう真っ赤を通り越して、耳も、首筋も、鎖骨のあたりまでじっとりと熱を帯びて染まっていた。
「……はぁ、はぁ……っ、お前、は……本当に、容赦を、知らん……」
視線を泳がせながら、肩を激しく上下させて息をつく万丈目。
俺のシャツの胸元をぎゅっと掴んだあいつの指先は、さっきよりももっと激しく震えていた。
俺は、自分の胸の奥で暴れ回る心臓の音を聞きながら、あいつの濡れた唇を指先でそっと拭った。
「なぁ、万丈目」
「……なんだ……」
俺は笑って、あいつの額に自分の額をこつんとぶつけた。
「子どもは生まれないかもしれないけどさ……俺、万丈目とこうしてるの、すげー気持ちいい。これって、なんていうか……」
「言うな、バカ……」
万丈目は力なく呟くと、今度は自分から、俺の肩口にそっと顔を埋めてきた。あいつの熱い吐息が、俺の首筋に直接当たって、ゾクッとするような刺激が背中を駆け抜ける。
「言うな、十代……お前がそれを言ったら……俺は、本当に、どうにかなっちまいそうだ……」
耳元で聞こえた万丈目の声は、いつものツンとした強がりなんてどこにもなくて、ただただ甘くて、切なかった。
***
数日後。
「なぁ万丈目!俺また新しい知識仕入れてきたぜ!」
またしても鍵の開いてた部屋に突撃して、俺はカバンをひっくり返しながら胸を張った。
「今度は三沢じゃなくて、職員室の机の上にあった本で見たんだけどさ!なんか『でぃーぷきす』っていう、お互いの舌をこう、レロレロって絡ませる凄いキスがあるらしくて――」
「……っ!?!?!?」
万丈目は持っていたお茶を盛大に吹きこぼし、部屋から俺を叩き出した。
誰かの声が頭の上から落ちてきた。
鼓膜を揺らすその響きが、よく聞き知っている、どこか硬質で落ち着いた声だと気づくまで、少し時間がかかる。
「んあ……?三沢……?」
ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは夕暮れに染まりかけたいつもの教室だった。窓から差し込むオレンジ色の光が、机の上に長い影を作っている。光の角度からして、午後もだいぶ過ぎているっぽい。
俺はいつも通り机に突っ伏して寝ていたわけだけど、こうして三沢に起こされるのはちょっと珍しいな、と思う。いつもなら、呆れ顔の翔か、明日香か、あるいは――。
「何時まで寝ているのかと、逆に気になってしまってね。声をかけるタイミングを計りかねていたよ」
淡々としつつも、目を少し細めて、呆れたような苦笑いを浮かべている。授業はとっくに終わっているらしく、昼間の喧騒が嘘のように周りはがらんとしていた。風がカーテンを静かに揺らす音だけが、やけに大きく聞こえる。
……寝てる場合じゃない!そういえば三沢に用があるんだった!
俺は忘れていた目的を急に思い出し、慌てて勢いよく顔を上げた。
「あっ、丁度よかった!なぁ三沢、聞きたいことがあんだけどさ!」
「なんだ、十代。俺に分かることならいいが」
三沢は俺の隣の席に腰を下ろした。謙遜しなくても、三沢なら大体のこと答えてくれそうだけどなぁ。俺は身を乗り出して、ずっと胸に引っかかっていた疑問をストレートにぶつけてみた。
「キスで子どもってできないのか?」
「……?」
目の前の三沢が、ピタリと動きを止めた。
頭脳明晰って感じの三沢が、一瞬だけ機能を停止したかのような、完璧な静寂。三沢は不思議そうな顔をしたまま、俺の言葉の意味を頭の中で何度も咀嚼しているようだ。言われたことがピンと来ていない時の、少し抜けた顔をしている。
「ちゃんと授業受けてればわかるらしいからさー、お前に聞こうと思って!」
俺が笑いながら付け足すと、三沢はようやく深い、深いため息をついた。
「……まあ、結論から言えば出来ないな」
「あー、やっぱそうなんだ!」
すっきりしたような、でも、どこか拍子抜けしたような気分だった。
なんか変だなあとは思ってたんだよなあ。
「一体、突然どうしたんだ?」
「だってさー、昔そう聞いたんだぜ?抱き締めてキスするとできたりするって。だから俺、ずっとそういうもんだとばかり思っててさ」
なんで大人はそんな嘘つくんだろうな〜、と俺は頭の後ろで両手を組んで笑った。
「……それを聞いた時、君はよほど幼かったのだろうね」
「おー、よく分かるなぁ!」
三沢はやっぱりすごいなあ。お見通しだもん。
「はぁ……それで、何があってその『勘違い』に気付いたんだ?わざわざ俺に確認しにくるくらいだ、何かきっかけがあったんだろう」
「いやさ、万丈目にめちゃくちゃキレられちゃってさ」
「万丈目に?」
三沢の眉がピクリと跳ねた。空気がわずかに変わる。
「そうそう。俺がその話をしたらさ『このバカ!遊城一桁からやり直してこい!』ってさ〜。顔をリンゴみたいに真っ赤にして、もう怒る怒る」
「ふむ……」
三沢はアゴに手を当てて、視線を斜め下に落とし、考え込み始めた。どうしたんだろう、そんなに難しい話じゃないはずなんだけど。
「それで、三沢。教えてくれるか?」
俺の言葉に、三沢はゆっくりと顔を上げた。その表情には、いつもの学者のような真剣みと、どこか温かい眼差しが混ざり合っている。
「まあいいだろう、恋は理屈じゃないが、性教育は理屈だ。正しい知識を持つことは重要だ」
「おー、よろしく先生!」
「ただ、解せないところがある」
「お?」
三沢の目が、まっすぐこっちを射抜いた。いつになく真剣で、ちょっと怖いぐらいに。
「どうしてそれで、万丈目が怒るんだ?」
「え?」
……三沢、そこに気づくとは。やるな。
「話を聞く限り、君のその突拍子もない勘違いに対して、万丈目が馬鹿にしたり、呆れたりするならよく分かる。いつもの彼なら鼻で笑うところだろう。だが『怒る』理由は、客観的に見てどこにも無いように思える」
「……あー、うーん。オレもまあ……よくわかってないけど……うーん」
俺は思わず視線を窓の外へとそらした。夕日が目に染みる。
適当にごまかすしかなかった。だって、それを言っちゃったら……
(万丈目とキスしたから……なんだろうけど、それ言ったらもっと怒られるよな〜)
唇に残っている、あの時の少し痛いくらいの厚さを思い出して、俺は自分の顔がじわじわと熱くなっていくのを感じた。
「何か、俺には言い辛い事があるんだな?」
三沢の静かな声が、俺の思考を引き戻す。
「言いづらいというか……うーん、なんていうかさ……」
「ははっ、いいさ。聞いて悪かったな」
言葉を濁す俺を見て、三沢は、ふっとほほ笑んで、大げさに肩をすくめた。その動きが、どこか優しくて、なんとなく張り詰めていた俺の心を軽くしてくれた。
「気になる事は突き詰めたくなる性分だが、それで友人の隠し事まで暴く気はないよ」
「三沢……」
やっぱりいいヤツだなあ……
「……藪蛇を突く事になりそうだしね」
「ん?なんか言ったか?」
「いや、独り言だ。それより、ノートはあるか?」
「えっ、そんな本格的にやんの?ちょっと教えてくれるだけでいいんだけど!」
「当たり前だろう、将来困る事になるぞ。冗談抜きでね」
三沢の言葉には、不思議な説得力があった。将来困る、か。
俺は小さくため息をつきながら、カバンをごそごそとあさった。奥の方から、ろくに使われていない折り目のひとつもない綺麗なノートとペンを取り出す。
(まあ、将来っていうか、今まさに困ってるんだけどな……)
万丈目のあの怒った顔と、そのあとに見せた、泣き出しそうにも見えた複雑な目の理由が、このノートを埋める頃にはわかるんだろうか。
俺はノートを開き、三沢の方にしっかりと体を向け直した。
「で、先生。まず何から教えてくれんの?」
三沢は満足そうに頷くと、黒板の前に立つような厳かな態度で、すっと人差し指を立てた。
「そうだな……まずは、人が生まれた歴史から始めようか」
「なんか遠くねえかな!?」
「一見して遠回りに見えるものにこそ、学びの本質があるんだ、十代」
得意げに語る三沢を見て、俺は早くも頭が痛くなってきた。
……これなら、万丈目に怒られてる方が、まだマシだったかなあ?
外から吹き込んできた、少し冷たい夜一歩手前の風が、白いノートをぱらぱらと捲っていった。
***
「よお、万丈目!いるんだろ!」
コンコン、とノックするのももどかしく、俺はいつも通り鍵の開いていた扉を勢いよく押し開けた。
「万丈目さんだ!……十代、お前な!部屋に泥棒のように押し入るなと何度言えば――」
椅子に腰掛けてお茶を飲んでいた万丈目が、あからさまに嫌そうな顔をしてこっちを睨んできた。けど、そんなのはいつものことだ。
「怒るなって!ほら、昨日の話の続きをしに来たんだぜ!」
「続きだと……っ!?」
「続き」って言った瞬間、万丈目の顔が面白いように凍りついた。昨日、この部屋で……ちょっとしたはずみで重なった唇の感触とか、そのあとの俺の言葉とか、絶対思い出してるよな。万丈目の耳の付け根が、みるみるうちに赤くなっていく。
「き、貴様、まだあのふざけた寝言を言うつもりかっ!キスで、その、な、何ができるだのと言った妄言を……っ!」
「だから、俺だってずっと間違えたままじゃカッコ悪いと思ったからさ。ちゃんと勉強して、教わってきたぜ!」
「教わってきただとぉ!?」
万丈目はガタァッ!と椅子を蹴立てて立ち上がった。手に持っていた湯呑が危うくひっくり返りそうになってる。
「貴様、誰に、何を教わってきたというんだ!?」
「誰って、三沢だよ、三沢!あいつすげーんだぞ。俺が聞いたら、最初は固まってたけど、すっげー丁寧に教えてくれてさ!」
「み、三沢に、それを、聞いた……!?
万丈目の顔から一気に血の気が引いて、白くなったり青くなったりして、見てるこっちが心配になるくらいだ。
「な、なんてことしてくれたんだ貴様はぁー!」
「えっ、なんで怒るんだよ!?俺はちゃんと正しい知識を身につけようと思ってぇ!」
フンス、と胸を張って、俺はカバンから例のノートを引っ張り出した。万丈目の目の前に突きつけて、ページをめくる。
「ほら見ろ!『第一章:生命は海から生まれた』!」
「遠いわ!!なんだその回りくどさは!?」
「三沢が言うにはな、遠回りに見えるものにこそ学びのホンシツがあるんだってさ。でな、キスじゃ子どもはできないんだってさ!」
「知っとるわ!!常識だろうが!!」
「だから、その確認だろ!」と俺は笑った。
「つまりさ、抱きしめてキスしても、何も生まれないんだろ?だったら、万丈目がそんなに怒る必要ねーじゃん。俺と万丈目の間で、何も減るものも、増えるものもねえんだからさ!」
俺としては納得したつもりだったんだけど、万丈目はその場にへなへなと崩れ落ちそうになって、机の端を必死に掴んでいた。
「お前……お前な……知識は増えても、デリカシーはゼロのままか……!」
「え?なんか言ったか?」
「うるさい!大体、三沢は他になんと言っていた!?俺の、その、俺の名前を出した時、あいつはどんな顔をしていた!?どうせ名前を出したんだろう!?」
胸ぐらでも掴まんばかりの勢いで詰め寄る万丈目に、俺は「うーん」と首を傾げた。
「なんかさー『どうして万丈目が怒るんだ?』って、すっげー鋭い目で見られはしたな。でも、キスしたことは内緒にしたぜ?」
「……っ!」
万丈目は、今度は頭のてっぺんまで沸騰しそうなほど真っ赤になった。
「内緒に、した、だと……?貴様、そんなの、逆に『何かありました』って白状しているようなものだろうが!!」
「えっ、そうなの!?隠し通せたって思ってたんだけど!」
「あの男がそれで納得するわけないだろう!あー、もう終わりだ、俺の学生生活が……!」
頭を抱えて激しく机に突っ伏す万丈目。
俺はそれを見て、ぽかんと突っ立っていた。
三沢の講義を聞いて、理屈はわかったはずなんだけど。
でも、目の前で顔を赤くしたり青くしたりして、忙しく感情を爆発させている万丈目を見てると、やっぱり『理屈じゃない何か』が、この部屋の空気の中にたまってるような気がする。
「……なぁ、万丈目」
「なんだ……!もう一歩も近寄るな、この歩く災害め……!」
俺はノートをそっと閉じて、突っ伏している万丈目の背中に、少しだけ声を落として話しかけた。
「三沢がさ『将来困ることになるぞ』って言ってたんだけど、俺、将来じゃなくて、今ちょっと困ってる。万丈目がなんでそんなに怒るのか、三沢のノートを見ても、ちっとものってないんだよな」
「……」
「キスしても何も起きないなら……もう一回、してみようぜ?」
「……は、はぁ!?」
ガタアアアアン!と、今度こそ椅子が派手にひっくり返る音が、夜の寮に響き渡った。
「……っ、お前、何を、馬鹿なことをっ!」
ひっくり返った椅子を直すのも忘れて、万丈目は壁際まで後ずさっていた。顔だけじゃなく、首筋まで真っ赤に染め上げている。その目が、まるで得体の知れないモンスターを見るかのように激しく揺れていた。
「馬鹿なことじゃないって。俺、本当に不思議なんだよ」
俺は手にした三沢のノートを、ベッドの上に向かって放り投げた。
理屈は全部、あの紙の上に書いてある。キスをしても新しい命は生まれないし、お互いの何かが物理的に減るわけでもない。
なのに、どうして万丈目はそんなに怯えたように俺を睨むんだろう。
どうして昨日の俺たちは、あんなに息が詰まりそうなくらいドキドキしたんだろう。
「何も起きないって三沢は言ってたけどさ、だったら、もう一回確かめてみりゃいいじゃん」
「な、何を確かめるというんだ!これ以上俺を混乱させるな、十代!」
「だから、本当に『何も起きないのか』ってことだよ」
俺は一歩、万丈目との距離を詰めた。
万丈目は逃げようとしたみたいだけど、背中はすでに壁に当たっている。
いつもの自信満々な『万丈目サンダー』はどこへやら、今のあいつは完全に俺に追いつめられていた。
「っ、来るな……!」
拒絶するような言葉とは裏腹に、万丈目の声は小さく震えていて、ちっとも怖くなかった。
それどころか、あいつの長いまつ毛が細かく震えるのを見ていたら、俺の胸の奥がまた、昨日と同じようにじわじわと熱くなっていく。
「減るもんじゃないんだったらさ、いいじゃん」
気がつけば、俺の片手は万丈目の横の壁を叩いていた。
すぐ目の前に、あいつの端正な顔がある。怒りで尖った唇も、激しく上下する厚い胸板も、全部がやけに生々しく俺の視界を占領していく。
「お前……本当に、どこまで無自覚なら気が済むんだ……!」
万丈目が歯を食いしばり、悔しそうに目を伏せた。
その瞬間を狙うみたいに、俺はそっと顔を近づけて、あいつの唇に自分のそれを重ねた。
「……ん」
昨日は本当に、ただの『はずみ』だった。事故、とも言えるかもしれない。
だけど、今度は違う。ちゃんと確かめるための、二度目のキス。
重ねただけの唇は、思ったよりも柔らかくて、やっぱり少し熱い。
万丈目の身体がビクッと強張るのが伝わってくる。でも、あいつは俺を突き飛ばそうとはしなかった。ただ、きつく目を閉じて、俺のジャケットの袖をぎゅっと掴んできた。
何も起きない。
新しい命が生まれるわけでもないし、世界が滅びるわけでもない。
だけど。
「……ぁ」
唇が離れた瞬間、万丈目の口から、熱い吐息がこぼれた。
その瞳は、さっきまでの怒りとは全く違う、潤んだ熱を帯びて俺を見上げていた。俺を掴むあいつの指先が、小さく震えている。
そして俺自身の心臓も、まるで全力疾走したあとのように、うるさいくらいにドクドクと音を立てていた。
「……なぁ、万丈目」
「……なんだ」
万丈目の声は、かすれていて、消え入りそうだった。
「三沢にも、わからないことってあるんだな」
「え……?」
「何も起きないなんて、全然そんなことなかった」
俺は自分の胸に手を当てて、苦笑いした。
ここがこんなにうるさくて、苦しいくらいに熱い。ノートのどこをめくったって、こんな現象の理由は一言も書いていなかった。
「なぁ、これって何が起きてるんだ?万丈目、お前なら知ってんのか?」
俺が覗き込むと、万丈目は一瞬だけぽかんとした顔をしたあと、すぐにまた顔を真っ赤にして、今度は俺の胸を力いっぱいに突き飛ばした。
「知るか、この大バカ野郎ーーーー!!」
俺の身体は、床の上へと転がっていった。
「ててて……いきなり突き飛ばすことないじゃんか!」
痛むお尻をさすりながら寝転がったまま、俺はあいつを見上げた。
てっきり、いつものようにフンと鼻で笑うか、あるいはもっと烈火のごとく怒鳴り散らしてくるもんだとばかり思っていた。
だけど、万丈目は違った。
「お前は……お前、は、いつも、そうやって……っ」
突き飛ばした両手を胸の前でぎゅっと握りしめたまま、万丈目は立ち尽くしていた。
怒っているはずなのに、その唇は小刻みに震えていて、うまく次の言葉を紡げないでいるみたいだった。
「万丈目……?」
「俺が、なぜ……お前がそんな、何も考えていないような顔で……っ……違う、そうじゃない……クソッ」
あいつの口から、意味を持たない言葉がこぼれ落ちる。
いつもなら立て板に水みたいに俺を詰めてくるあの万丈目が、完全に言葉を見失っていた。
顔は耳の先まで真っ赤なのに、その瞳はひどく動揺して、まるで迷子にでもなった子供みたいに潤んでいる。俺の顔を見て、すぐに視線を床に落として、だけどまた縋るように俺を見て、何かを言いかけようとしては、きつく唇を噛み締めて言葉を飲み込んでしまう。
その、胸の奥を激しく掻き乱されているような万丈目の姿を見ていたら、俺の心臓の音も、ますますうるさくなっていった。
理屈なんて、やっぱりあのノートのどこにも転がっていなかった。
「……なぁ、万丈目」
俺は床に寝そべったまま、あいつの困ったような、泣きそうな顔をじっと見つめる。
「わかんねえなら、さ。わかるまで、また確かめてみようぜ」
「……っ!」
万丈目の息が、一瞬だけ止まったのがわかった。
その瞳が、驚きと、それから言葉にならない熱を帯びて大きく見開かれる。
だけど、俺はもうあいつの返事を待つつもりなんてなかった。
床から勢いよく起き上がると、まだ動揺して固まっている万丈目の身体を、今度は俺から引き寄せる。お互いの制服が擦れる音が、やけにこの静かな部屋に響いた。
「十代、お前……っ」
言いかけた万丈目の唇を、俺は自分の唇で塞いだ。
先ほどよりも、もう少しだけ強く。
さっき離れたばかりなのに、あいつの唇はやっぱり驚くほど柔らかくて、さっきよりもずっと熱い。
「ん……っ、ん、あ……」
万丈目の口から、小さく、戸惑うような吐息がこぼれる。俺の肩を掴んだあいつの指先に、ぎゅっと力がこもるのがわかった。
一度目を離して、万丈目の顔を見る。
長いまつ毛が細かく震えていて、その奥にある瞳は、完全に潤んでとろけそうになっていた。その顔を見ていたら、胸の奥のドクドクとした高鳴りがさらに速くなって、どうしても我慢できなくなる。
「何も起きないんだろ……?」
言葉を紡ぐ俺の声も、自分でもびっくりするくらい低く、少しだけかすれていた。
「だったら……いいじゃん、もう一回」
「ま、待て、十代、お前――」
拒絶の言葉を全部飲み込むみたいに、俺はまた万丈目の唇に嚙みついた。
今度は少しだけ角度を変えて、あいつの熱に深く触れるように。
万丈目の身体から力が抜けて、俺の胸にじわじわと体重が預けられていく。あいつの細い腰が、壁に小さい音を立てて押し付けられた。
理屈なんて、やっぱりどこにもない。
でも、キスを重ねるたびに、俺の頭の中の霧がどんどん晴れていくみたいだった。
五度目、六度目。
短く触れては離し、あいつが呼吸を整える暇も与えないくらい、何度も何度も唇を重ねる。
「は……っ、ん、う……あ……」
万丈目の口からこぼれる息が、だんだん熱を帯びた甘い音に変わっていく。
いつもはあれだけプライドが高くて、俺をバカだの何だのと威張り散らす万丈目が、今は俺の手の中で、ただ熱い息を吐きながら翻弄されている。
その事実が、俺の心をどうしようもないくらい満たしていく。
「……ん」
何度目かわからないキスを少しだけ深く交わして、ゆっくりと顔を離した。
万丈目は、壁に背を預けたまま、ずるずると崩れ落ちそうになっていた。それを俺が支えるように、あいつの細い腰をしっかりと抱きしめる。
万丈目の顔は、もう真っ赤を通り越して、耳も、首筋も、鎖骨のあたりまでじっとりと熱を帯びて染まっていた。
「……はぁ、はぁ……っ、お前、は……本当に、容赦を、知らん……」
視線を泳がせながら、肩を激しく上下させて息をつく万丈目。
俺のシャツの胸元をぎゅっと掴んだあいつの指先は、さっきよりももっと激しく震えていた。
俺は、自分の胸の奥で暴れ回る心臓の音を聞きながら、あいつの濡れた唇を指先でそっと拭った。
「なぁ、万丈目」
「……なんだ……」
俺は笑って、あいつの額に自分の額をこつんとぶつけた。
「子どもは生まれないかもしれないけどさ……俺、万丈目とこうしてるの、すげー気持ちいい。これって、なんていうか……」
「言うな、バカ……」
万丈目は力なく呟くと、今度は自分から、俺の肩口にそっと顔を埋めてきた。あいつの熱い吐息が、俺の首筋に直接当たって、ゾクッとするような刺激が背中を駆け抜ける。
「言うな、十代……お前がそれを言ったら……俺は、本当に、どうにかなっちまいそうだ……」
耳元で聞こえた万丈目の声は、いつものツンとした強がりなんてどこにもなくて、ただただ甘くて、切なかった。
***
数日後。
「なぁ万丈目!俺また新しい知識仕入れてきたぜ!」
またしても鍵の開いてた部屋に突撃して、俺はカバンをひっくり返しながら胸を張った。
「今度は三沢じゃなくて、職員室の机の上にあった本で見たんだけどさ!なんか『でぃーぷきす』っていう、お互いの舌をこう、レロレロって絡ませる凄いキスがあるらしくて――」
「……っ!?!?!?」
万丈目は持っていたお茶を盛大に吹きこぼし、部屋から俺を叩き出した。
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