大般若長光
現世では既に梅雨に差し掛かったそう。この季節になると本丸でも、しとしとと静かな雨が続く日々。今日はいつもより冷えるな、なんて声がちらほら聞こえているが、かく言う私も普段の装いに薄墨色の羽織を1枚追加して、執務室の障子の向こうの細い水の糸を眺めていた。
こうも雨が続くと、洗濯物や布団が干せないだとか髪が広がって嫌だとか、とにかく憂鬱になる事もあるが、今日この日に限ってはそんな気持ちも吹き飛んでしまうような、そんなめでたい一日なのだ。
現世における国宝指定記念日。
この国が数々の美術品等を、これこそがこの国の宝と定めた、初めの日である。この本丸に顕現している男士の中にも、もちろん国宝指定されているモノ達がいる。最近この本丸に来たばかりの名物稲葉江もその一つだ。他にも三日月宗近や厚藤四郎、亀甲貞宗など、その名を連ねるとなると、かなりの数になるだろう。そして先程から執務室に居座っている大般若長光もまた、国の定めた宝なのである。
「大般若、今年は何をご所望なの?」
国宝指定記念日は、毎年飲めや歌えやのお祭り騒ぎになる。厨番長こと燭台切光忠と歌仙兼定が腕を存分に振るい、酒豪一派の日本号や次郎太刀も秘蔵の酒を持ち寄るのだ。今年はいい酒が手に入ったと次郎太刀が言っていたし、てっきり昼から飲み始めると思っていたが、彼は少し前に執務室にやって来た。
彼と恋仲となってからは毎年この日に一つ、ささやかな贈り物をしていた──と言っても彼の口から不意に出た物なんかを万事屋なり通販なりで購入している──のだが、それを渡すのはいつも夜、宴の席を少しの間二人で抜け出して手渡している。毎年一週間程前に、何処そこで見たあれが良かったとか、あの通販サイトで見たこれが素晴らしいといった言を零すのだが、しかして今年はそれが無かった。
大般若は執務室に入るや否や、私をその長い脚の間に挟み込み、背側から抱き込んで、しなやかな指先で私の髪を弄る。時折彼の銀糸が顔のすぐ横に垂れて来て、閉じ込められたような感覚に陥る。…段々恥ずかしくなってくるんですけど。
いつまで経っても彼の甘いマスクや落ち着いた声、その言動に慣れなくて、私ばかりドキドキしっぱなしなのだ。それを紛らわそうと先程の質問を投げかけたのだが、彼は「んー?」なんて言いながら、湿気で僅かに柔らかくなった私の髪をくるくるといじくっている。
「いやぁ、毎年別嬪さんを手に出来るのは嬉しいんだが……飛び切りのがここにも居たと思ってな。」
耳元で低く囁かれ、私はその耳どころか首まで赤くなっているだろう。本当に、この刀の口説き文句はある意味で身体に毒だ。美しい物を愛でて口説いてモノにする、とは彼の言葉だが、その言葉通り物の見事に口説き落とされた私もまた、彼を構成する一つとなっているのだろう。しばらく髪を弄んでいた彼の手は、いつの間にか私の頬をさらりと撫でている。此方を向けと言うかのように、そのまま顎を緩く持ち上げられると、彼の紅玉と視線がぶつかる。
嗚呼、矢張りこの刀は美しい…。
「今年は、主、あんたを愛でさせてくれ。」
「…ん、仰せのままに。」
私の返事を聞くと満足そうに目を細めて、そのまま彼の薄い唇が降ってくる。
「大般若。」
「ん?」
「記念日おめでとう。」
「ははっ、ありがとう。」
六月九日、静かな雨が降る緩やかな午後の事だ。
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