カンオケダンス陽関三畳

 モリアーティがまだかろうじて正常であった先日の廊下での会話。
 ホームズはもう観劇したものだとモリアーティは思っていたが、ただの話題の一環だったと今はわかる。
 そして試験的な宝具の使用ということは、必ずシェイクスピアにとって美味いか不味いかが在ることも、巻き込んだことがあるモリアーティとしてはすぐに察しがついた。
 だが、今の彼にとって、思考するというのは難しい。
 しようとすれば頭痛が起き、どこかまだ朦朧とする視界に、服すら具現化が出来ない魔力量の少なさときたら情けない心境だ。
 本当はホームズの血を分けて欲しい…が、今は肌が触れているだけでも有難い。
 そしてそれはホームズにも見抜かれている様で、彼は渋々腕を広げてモリアーティを自分の懐に誘う。

「…我慢が利かなくなったら腕でも指でも噛めばいい。今は回復を優先してもらいたいのでね」
 そう言ってモリアーティを後ろから包み込むと、ホームズは彼の口の前に己の腕を差し出した。
「……ッハ…赤ん坊じゃ、ないんだ…今だって…電力で…」
「電力はフランケンシュタインのメンバーに大半を回してるんだ。君が思う様な回復速度なんて無いし、そもそも赤ん坊に負けている生命力で強がらないでくれ」
 ホームズにしっかりとホールドされた形で正論を叩きつけられると、流石のモリアーティも口を噤んだ。

 憎まれ口に、売り言葉に買い言葉。
 いつもなら強がってそのまま流せるが、飢餓というのは恐ろしいものだ。
 モリアーティの空腹を満たせるものが目の前にあり、しかもどうぞと言っている。
 己を優先しても良いと言っている。
 色んな想いがこんがらがって、脳内をぐるぐると回る言い訳が尽きる手前。

 ――痩せ我慢も限界だった。

 ブツン。
 まるでトマトが弾けるような音を立てて、モリアーティはホームズの腕を食い破った。

 ホームズも…腹を括っていたとは云え、それでも痛いものは痛い。
 痛みに唸り、反射的に背を丸めてしまったことで、モリアーティの頭を絞めてしまう。
 突然の締め付けに苦しむモリアーティの声が聞こえたそのすぐ後、じゅるりと血を啜る音と、少しも垂らしてたまるかという舌遣いが、ホームズの視界と聴覚と感触を麻痺させた。
 己の血を吸っているモリアーティの後ろ姿は、それはそれは生き生きとして見えるのだ。
 それこそ、先程までのつらそうな姿が嘘だったかの様に。
 ……だが、吸われすぎては元も子もない。
「少しは加減してくれ…!」
 吸い尽くされそうな勢いに困り、ホームズは少々強引にモリアーティの頭部と自らの腕を引きはがす。
 その際に見えた腕の傷は深く、本気で噛んだなと悪態を吐いた。
「っは、あ、シャーロック!」
 だがそんなホームズの気持ちなどお構いなしで、モリアーティは取り上げられたご馳走に上擦った声を上げて縋った。
 吸ったからすぐ回復というわけにもいかないのだから、惜しい気持ちも分からないでもない。
 しかしホームズにも、まだモリアーティの後にシェイクスピアを問いただす仕事がある以上、共倒れとはいかないのだ。
 まだ足りないと伸ばされたモリアーティの手は、今度こそホームズの手に掴まれる。
「シャーロック…!」
「いくら何でも加減してくれっ」
「か、噛んでもいいと――」
「誰が食い破れと言った…!」
 ここにきて怒気が含まれるホームズの声色に、モリアーティは少し後ろめたくなった。
 それもそうだろう。
 モリアーティが噛んだ箇所は、見事に肉が見えていた。
 いくら瞬間的に治せるからと甘えても、痛みはあるし魔力の残量で治る速度も度合いも変わる。
(……やってしまった…)
 落ち込む…かと思いきや。
 ホームズの血を吸ったことで多少の気力が戻ったモリアーティは、先程とは比べられないほど頭を働かせることに意欲を見せる。
「…痛くしたのは悪かったよ」
「吸いすぎたことには悪びれないんだな」
「サービスしたまえ」
「思い上がらないでくれ。こちらが供給側で君はまだ重傷者なんだ」
 だが、ホームズの怒りの方がモリアーティの意欲よりも強かった。

「…分かった。私が悪かったとも。今は医務室に放りこまれないだけマシだ」
「そうだろうな。血に関しては一定時間置いてもらう」
 そう言うと、ホームズはわざとモリアーティに見せつける様、傷を塞ぐ。
 流石に意図が読み取れてしまうその行動に、モリアーティは顔をしかめた。
 そして先程から掴み、掴まれっぱなしの互いの手を2人同時に見つめ、不機嫌に相手へ向き直る。
「……そうなると、肌を合わせて寝るのがメインなのかね」
「……私だって嫌なんだからそんな顔しないでくれ」

 解決策は結局のところ、変わらなかった。





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