届かず距離スメル

 剪定事象で奮闘した若いモリアーティの人生は、随分と薄いものであった。
 書籍は手のひら程の大きさを有するというのに、背幅は小指の幅程も無い。
 それは全盛期の肉体を有している側面での召喚であったにも関わらず、死という記憶を持ち合わせていないだろうにも関わらず、年頃の割に酷く冷淡で乾いていて、全てを知っているかのような傲慢な悟りさえ感じさせる……つまらないものであった。
 独り善がりで視野が狭く、己が信じたものが正しいという盲目さに、座に在るモリアーティは読んでいて頭痛がした。
 誰もがこういった時期を持つとはわかっていても、第三者の目で見ることになるのはなかなか心が疲れるものだ。
 そんな若き彼の記録は老いたモリアーティ自身に繋がらないわけもなく、上を向くにも下を向くにも挫折の経験が足りてなさすぎた……故に苦しいものである。
 繋がるから残すべきだと人理が判断したのか、繋げるために残すべきだと若き彼が記したのかでは結果が異なるのだ。

 ――どうでもいいことだ。
 そう切り捨てるには至れない。

 いっそのことだと芝生に背を預け、モリアーティとホームズは太陽の居ない青い空を見る。
 風なんて吹いていないだろうに、自転なんてしていないだろうに、それでも流れていく雲がどこか作り物でおかしい。
 生きていないのに生きている錯覚をさせるこの空間に在る自分が、どこかで魔術師に側面として召喚され目的を有し動いているなんて、酷い話だ。
 そんな得難い経験を、オリジナルは物語のようにしか知れないのだから。

 そう物思いに耽っていると、ホームズは記録の一部を思い出した。
 確かに剪定事象でライヘンバッハに落ちた自分は空に手を添えたのだろう。
 だがそれは、空の方向に添えたい対象が居たからではないのかと思い至る。
 しかし「シャーロック・ホームズ」という人間は、世界にそういった情を抱く者だと思われているのだろうか。
「教授……突然だが、私はろくでなしではあるが、人でなしではないと思っているんだ」
「おまえは人でなしのろくでなしだヨ」
「間髪入れないな」
「その分厚い本の中でおまえが情を優先した行動を取った場面があるなら訂正しよう」
 顔を向けず、さも渡せと伸ばされたモリアーティの腕からホームズは己の記録である書籍を遠避ける。
「読ませないよ」
「じゃあ進まないから無駄話やめなさい」
 モリアーティのまるで教鞭を執る時のようなあしらいに、ホームズは薄い唇を不機嫌に歪めた。
「あぁでもそうだネ、おまえの最期も気になったヨ」
「自然な流れだと思ったが?」
「いやぁ……おまえ、本当に死ぬしか選択肢が無かったのかな〜って」
 不機嫌だったものはどこへやら。
 ホームズはモリアーティのその一言で、無機質に見えていた青空が輝いて見えた。
「別におまえが選んだことに疑問はないヨ。最善解だと私も思う。それでも…おまえの剪定事象での行動は必ず誰かの為だった。なら、おまえは自分本位になってさえいれば…ライヘンバッハに落ちきらなければ異星の使徒として人理の役割をまだ担えたんじゃないのか」
「……それではそもそもカルデアが勝てなかった」
「だから疑問はない。ただ、おまえは可能性の男だと、私が評価してるんだ」
 ポツリとでたモリアーティからの賛辞に、今度はホームズが目を丸くする。
「そんな男が空に手を添える程度で終わるのか…とか、それこそ今こうやって座に在る私達に暇潰し程度の謎でも与えようとしたのか……とかネ。謎を作る側なのに提供されてちゃ面目丸潰れだけど」
「それだと私は自分に振り回されているだけの滑稽な男だな」
「私にも刺さるなー、それ」
 くくく…と声を殺すように笑い、ふたりは寝返りをうち向かい合うと、互いの青空を反射した瞳をじっと観察した。
 老いた男が何をしているのだろうと思えど、それが些細なことであると知らしめる広大な草原に香りは無い。
 ただ輝く青空を反射する瞳も、吹きもしない風も、手放さない書籍も、答えがあるのかも分からない記録も、全て全て意味が無い。
 それでも。

「若い私は、おまえと戦えて良かったと…私は思うヨ」
「――……何故?」
「少なくとも、手を伸ばしたおまえに何かをたとわかる記録だった……感情の何たるかを見出していた。それは成長だ。もう、私には無いものだ」
「……」
「幼く、未熟であり、結論を急く…だから正しくはなかったろう。それでも、この記録は薄いながらにきざしを見せてくれた」
「…どんな内容か気になるじゃないか」
「読ませないヨ」
「そうかい」


   ◆
 

 座の彼らが手を伸ばせば届くこの距離に、記録の彼らは届かなかった。
 役目を果たし勝つことを叶えた若き彼の生きた証は、この時を過ぎれば思い出されることなく消えてゆく。
 これから更新されていく、新たな召喚先での出来事で本棚は埋まっていき、いつかは端に追いやられる。
 読み返せと、思い出せと、用意周到な彼がオリジナルにそれを記録で伝えないことがせめてもの気持ちだろう。

 彼はただ、滝に落ちていく宿敵が何に手を伸ばしたのかが知りたかった。
 だが伸ばしているというには不自然で、まるで何かに添えるような手付きにも見えたそれが気になった。
 カルデアに負けた後のことまで考えて準備をしていたモリアーティでも辿り着けないその答えは、座に在るオリジナルにしか託せない。
 ひとりで十分じゅうぶん仕事はこなせると思っていたその最後で、爽やかさも晴れやかさも時間も無い生きた時間との別れ。
 最期に思い出すのは、滝底へ落ちながら伸ばされた手と浮かばせた笑顔。

(――あなたは確かに、カルデアのシャーロック・ホームズだった)

 負けた理由は、それだけで充分なのだろう。

(楽しかったヨ。短い……短い時間ではあったがネ)

 思い返せば美化される時間があることを、若きモリアーティはカルデアのマスターに繋げることで、いつかは忘れてもいい別れなのだと己に残す。
 知らなくてもいいのだ。
 この場で感じた情はどうせ引き継げない。
 世界に「ジェームズ・モリアーティらしからぬ」と言われてしまえばそもそもそこまでなのだから。
 いつかは悪になる己へ、記録を。
 カルデアで、この記録を。
 その時、もし……老いた己も宿敵もいたら。

「また、勝ってみせるとも。その時、この日の話をしよう」


   ―終―





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