ユビの兄

 ユビには一姫(かずき)以外から世話や教育というものを受けた記憶がほぼ無い。
 15歳時点で、田舎(いなか)によくある住宅団地での日々をとてもでないが大切だと思えなかった。
 そもそもユビと一姫(かずき)は6畳程の部屋で毎日を共に過ごしていたので、その狭い一角にプライベートというものは殆(ほとん)ど無かったのだ。
 隣の部屋は両親の領域(りょういき)で、物が散乱し汚かった。
 それはユビが博雪(ひろゆき)の元に行くまで変わらない光景であり、今もそうだろうと決め付けてしまえる。
(どう考えても兄さんって奇跡(きせき)みたいな人なんだよな…マジでとんびが鷹(たか)を生(う)んだっつーか)
 ユビにとって敬愛すべきは兄であり、それは親でも祖父母でも、学校で築かれたものでもない。
 この結論が揺らぐことはこれからも無いだろう。
 だが、ひとつだけ胸につっかえたままの記憶がある。
 それは過ぎていく日々の中で一度、一姫(かずき)が家を出たいと母に告白したことだ。
 フロスト社への就職が決まったから、会社の近くに引っ越したいという申し出だった。
 それをユビは憶(おぼ)えているし、忘れることが出来ない。
 幼いながらに兄との別れが悲しいことだと直感したからだろうか、しかし今なら当然の思考だろうと納得できる。
 しかし一姫(かずき)は何故か、次の日には「やっぱりいい」と意見を変えていた。
 それがどうしてなのか思い出せないが、ユビはあの時、現状が変わらないのなら理由を気に留めなかった。
 ――兄に居なくなられては寂(さみ)しい。
 ユビはただ寂(さみ)しくなるのが嫌だった。
 両親が居ないことで痛む胸は無くとも、兄が居なくなることで軋(きし)む心がユビにはあった。
(…俺も鷹(たか)だったら、兄さんはしんどくなかったのかな)
 
 一姫(かずき)が家を出たいと告白した翌年の梅雨(つゆ)、ユビの想いとは裏腹に、一姫(かずき)はこの世からいなくなってしまう。
 真っ暗闇の中、泥の中で一向に動かず真っ黒に腐っていた一姫(かずき)の体は、殻(から)から落ちたばかりの卵のようだった。
 それは確かに一姫(かずき)なのに、一姫(かずき)と認められない状態は悪夢であってほしかった。
 ユビが兄を探そうと騒(さわ)ぐまで心配のひとつもしなかったくせに、両親は一姫(かずき)が死んでいると分かった途端(とたん)に焦り、慌(あわ)てて泣きだす。
 ――その頃から少しずつ、ユビは父母というものが自身にとって何なのか、分からなくなっていった。
 頼れる兄が居た時、親と意思疎通(いしそつう)できていると思い込んでいたユビに、その疑問が訪れることは遅かったのだ。
 ――環境で人の思考が変わるという説は一般的だが、どれだけの者がそれを自身のことだと考えるだろう。
 ユビは同級生とたまに噛(か)み合わなくなる会話へ疑問を抱き、言葉や価値観の違いは〝親がどれだけ自身に興味を持っているのか〟だと、幼いながらに感じ取り始める。
 ユビにとってそれが確証に変わったのは、高校への進学が叶(かな)わなくなった時だった。
 両親にとって子供は子供なだけで、どうやらそれだけだったらしい。
 一姫(かずき)はこの事実にいつから気付いていたのか――むしろ、一姫(かずき)だけはユビの家族だと教えてくれていたのか。
 だから一姫(かずき)はユビにとって〝優しい兄〟でいてくれたのか。
 思い返しても一姫(かずき)との記憶は、骨壺(こつつぼ)の中身程しか残っていない。
(兄さんって、本当はどんな人だったんだろ)
 ユビは遠くに向けていた視線を、S(エス)の手へ向ける。


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