目的:S

 それから間も無く、男の母は他界した。
 皮肉なもので、男が母という人間の深いところを知ったのは、母の葬式をり行うための準備をしていた時である。
 元々体が強いわけでもなかったので、祖父母と似た時期に同じやまいわずらうだろうと考えていたのか、私物を持たない人であった。
 整理らしい整理など、男がする必要もなかったのだ。
 そんな中、母が日頃丁寧ていねいに扱っていた木箱が目に入る。
 唯一ゆいいつのこされたものとも取れるそれに、男は手を伸ばした。
 細い赤色のひも蝶結ちょうむすびされたそれをほどき、静かに開ける。
 中には、男の名義になっている預金通帳と暗証番号が記された紙切れが入っており、大層立派な印鑑いんかんもあった。
 他に何かあるだろうかとゆっくり木箱をひっくり返すと、通帳の奥から2通の手紙が現れる。
 ひとつは母から我が子である男にてたもので、もうひとつは知らない者へてられたもの。
 男はまず自身へてられた手紙を手に取り、のりの無い封筒を開け、中身を読んだ。
 小さくも整った字で書かれていた内容は、母のい立ちと男の出産秘話。
 男はそれをたっぷり時間をかけて読み終えると、一度頷く。
 国の経済がかたむいている割に苦労の無い、どこか世間せけんとずれていた生活はそういうことだったのかと、納得できたのだ。
 ――……何の変哲へんてつも無く、男の母は金持ちだった。
 あのご時世にせまいいアパートでシングルマザーと聞けば、誰しもが貧しいと思うだろう。
 だが答えは簡単で、ただ貧しく見えるようにしていただけなのだ。
 しかし男の記憶では、母も自身も贅沢ぜいたくはしていない。
 母は己の治療費や入院費すら自らの貯金と保険でおぎなっていたし、男も物欲が特別強いわけではなかった。
 義務教育、高校、大学、起業――男はよくある道筋を歩むことはしたが、遊びほうけたことも嗜好品しこうひんで散財したことも無い。
 では、母が持っていた大金はどこにあるのか。
 答えは明白だった。
 男は手紙を置いて通帳を手に取ると、残高が記載されたページを見るため、表紙をめくる。
 すると中には2千万と少しの数字が記されていた。
 予想より遥かに大きな数字に、男の思考は驚きで一瞬停止する。
 まるでいかずちが落ちたような衝撃をそのままに、男は目だけで支出の数を順に追った。
 すると毎月細々と決まった金額が入金され、たまに大金が引き落とされている。
 だがそれは日付で考えると、男の養育費や学校に関わるものばかりで必要経費だ。
 更に、恐らく母は祖父母から受け取った遺産を引き落としの補填ほてんとして、男の通帳に入れている。
 男はこの時初めて、母は例え望まれずとも、生きていく上で必ず使う物はのこす性分の人だったと知った。
 そして母は母で、息子である男が心優しい人間に育っていると分かっていた。
 手紙の内容を生前から伝えていれば、男は母を想って治療や贅沢ぜいたくにこの金を使うと見抜いていたのだ。
 ならば独断で、未来に生きる我が子へ出来る限りの全てをのこす――そう決めたのだろう。
 やはり男の母は、強い精神力を持った者だった。
 
 数字を追う中で男は落ち着きを取り戻し、通帳に対し「なるほど」と呟く。
 そう思えたのも先に自身へてられた手紙を読んだからだ。
 知ることは無いと考えていた自身の出産秘話は、この通帳が全てである。
 ――母をはらませた者は結婚と育児の責任をえず、しかし世間せけん的に不貞ふてい行為をしたとおおやけにされては困る立場だった。
 平均的な金額の示談金じだんきんを母に渡すには後ろめたかったのか、それとも別に思惑おもわくがあったのか。
 今となっては確かめようもないが、どうあれこの数字が気持ちの表れなのだろう。
 ならば聞き覚えの無い名前が記されたもうひとつの手紙は、母をはらませた者――男の父へてたものになる。
 男は遠慮えんりょ無く手紙の中身を読んだ。
 どんな恨みつらみが書かれていても、それもまた母の一部だと思うつもりだったのだ。
 しかしそこにあったのは、30年変わらず、本当に父を好きだったという母の想いだけであった。
 若気の至りで周りに沢山の迷惑をかけたが、それでも父との間にさずかった子を愛し、父の正体を告げる勇気も無く後ろめたい心を持ちながら、これまで生きてしまったのだとつづられていた想い。
 ――夫として父として、貴方が隣にいないことで世間からの風当たりがつらい時もあったが、恨みはしない。
 ――ただ最期さいご一目ひとめ会えたら良かったけれど、会わない約束だから、せめてずっと好きだったと伝えたかった。
 母から父への手紙は、そんな内容のものだった。

 そんなものだったのだ。


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