目的:S

 ――男にとって尊敬できる母は、最も身近なヒーローの姿だったのだ。
 明るいが落ち込みやすく、時に倒れることも泣くこともあったが、それでも優しく笑っていたことが多い。
 母は強くもはかないひとりの女性でもあったと、男はおぼえている。
 しかし魅力みりょくあふれる母は、息子である男に、自身のことを多くは語らない人であった。
 それもあり、男は母の誕生日と好きな食べ物、仕事をしている会社の場所しか知らなかった。
 興味が無かった訳ではない。
 だが聞いたところで、はぐらかされることを何度もり返し経験した男は、折り合いをつけるしかなかったのだ。
 毎年母の誕生日はアルバイト終わりに職場まで迎えに行き、その時母が食べたいと言った店で御馳走ごちそうし、母の気持ちの深いところまでは探らない。
 心残りになるかもしれないが、父のことは生涯しょうがい分からずとも、母が幸せであるならそれで良いと、納得して日々を過ごしていた。
 そして時代はいつの間にか、見合い結婚よりも自由恋愛を重視するようになる。
 ならば母もいつか、再婚する未来が訪れるかもしれない。
 男自身にも、結婚を考えたくなるような相手が見つかるかもしれない。
 学生企業をするかたわらで、そう考える時期もあった。
 「それは明るい未来に違いないのだから、想像するだけで楽しいではないか」
 男はそう思うことにして、母がさみしくないのなら良い――と、うつつで夢をみた。
 
 しかし現実は厳しい。
 母も男も、祖父母の血を濃く受け継いだ。
 祖父母が死んだやまいの名はがん
 元々早くに発症する家系同士の間に生まれた母もがんわずらい、気付けば痛みだけでなく血糖値にも異常が出ていた。
 医者に駆け込んだ時には既に余命宣告を受けていてもおかしくない状態だったので、母は観念して男へ延命治療をしないむねを話す。
 ――薄々だが、父母のことを思えばそろそろ病気になるだろうと思っていたことと、長生きは出来ないだろうと諦めていたこと。
 ――そして何より、長生きをするつもりが無いこと。
 ――痛いことも死ぬことも怖いが、多くの人を傷付けた過去を持つ自分に、長生きを望むことができないこと。
 母からの申し出に、男と医者は言葉を詰まらせる。
 空気が重くなる中、母は「あぁでも、痛みの緩和かんわはしてほしいな」とだけ言い、そら笑いを見せた。
 それから男の日々は一般病棟びょうとうに入院する母に代わって職場への挨拶をしたり、保険の手続きなどに走ることで、それなりに多忙となる。
 男は時間があれば、出来る限り母へ会いに病院へおもむいた。
 入院している間の母は元気な様子こそ取りつくろうが、みるみるうちに痩せこけていく。
 ふと、男は母へたずねた。
「俺が25になった時にさ、人間ドッグ受けろってしつこかったの、がん家系だからだった?」
「…まぁね。私は膵臓すいぞう、父さんと母さんは大腸で3人揃って骨にも転移してる。痛みが出る頃にはアウトな臓器ばっかだし…でもアンタが私の歳になる頃には医学ももっと進歩してるだろうから、健康診断は願掛け」
「早期発見の?」
「まさか。アンタが無病息災むびょうそくさいでありますように…って願掛けに決まってんでしょ。これからもちゃんと毎年受けなさいよ」
「…うん」
「約束ね」
 男の持つへーゼルブラウンの瞳とは違う、スカイグレーの瞳をした母が微笑む。
 顔も髪の色も似ているのに、目の色だけが違う。
 男はこの時初めて、強い違和感を抱くのだった。


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