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冷めた弱い雨が降る夜。
後部座席の窓から見える、はばたき市の街並み。
タクシーを呼んでくれた本多を置いて、乗り込んだのは俺だけ。
持ち帰った引き出物が唯一の同乗者だ。
小雨が音もなく窓にあたる。
俺の瞳から涙が一滴も落ちない代わりに
流れ落ちる雨粒をひとつひとつじっと見つめた。
さっきまでの明るい雰囲気の余韻が薄れ始めても、
惨めで情けない今の俺を慰めてくれるものは…人は、もういない。
スマートに着飾った七ツ森の隣でニコニコと笑う美奈子は
もう俺の知らない、違う世界で生きる美奈子だった。
You are no longer the you I know
まどろむまま、瞼を閉じて世界を遮断する。
こういう気持ちのときは思い出したくもない思い出ばかり蘇るから
二次会で飲んだウイスキーの力に頼って、家に着くまでは眠ろうと思った。
――ぼんやりと浮かんでくるのはあの思い出の教会。
高校の卒業式の日、鐘が鳴り続ける教会から出てくるのは
俺が校内のどこを探しても見当たらなかった姿。
温かい風が吹く中で、優しい表情をした美奈子が、俺を見つけて微笑みかける。
その隣に寄り添う男には、なぜか顔がない。俺じゃない。それだけがわかる。
”そこにいるのは俺だったのに”
…そう思った瞬間、途端に込み上げる熱い悲しみに塗れると
目の前にある世界は空から崩れ落ちていく。
そして月も星もない、真っ暗な世界が顔を出す。
――もう、何度も何度も見た夢だ。
「……眠れるわけない、か」
瞼を開ければ、ガラス越しに流れていくのははばたき市の景色。
一緒に歩いた通学路は、街灯がぽつりぽつりと光るだけで誰もいない。
どちらからともなく誘って、帰り道に行き慣れた喫茶店。
閉店時間をとっくに過ぎて真っ暗だ。
よく待ち合わせに使ったはばたき駅は間もなく終電を迎えるんだろう。
まばらだが、人が足早に駅構内へ走っていく。
目の前を駆けていく世界にかつて、俺と美奈子はいた。
その街並みは何も変わらない。何も変わらないんだ、あの日から。
なのにどうして俺は今日、あいつの隣にいなかったんだ?
今夜、美奈子と一緒に家路につくのが七ツ森だったのはなぜなんだ。
なんで、どうして、
うそだ。
七ツ森と付き合うことになったと聞いた時も
婚約したことをいつものメンバーでの飲み会で報告された時も
結婚式の招待状が届いた時も
いつだって『おめでとう』よりも先に浮かんだのは
なんで、だった。
「…なんで、なんだよ」
――小さく小さくつぶやく。
いつも堰き止めて、見ないようにしていた感情が溢れそうで、思わず額に手を当てた。
目に映るものと心に浮かぶものの視界を紛らわせたかった。
入学式の日の朝、再会を果たしたときのおまえは
俺の思い出の中で笑う美奈子そのままだったのに。
季節の移ろいと共に色づいては移り変わる、美奈子が身につけてたアクセサリー。
初めて薄くメイクをしてきた夏休み明けの始業式。
校庭の葉が色づく頃、「限定品なんだ」って、嬉々として通学鞄につけていた虹色のキーホルダー。
冬休み明け、艶のあるグロスの色を褒めたら
「七ツ森くんとたまたま交換したクリスマスプレゼントなんだけど、すごい良い色だよね」って、
花が咲くように笑ってた。
「(……でも、おまえが笑ってくれれば)」
おまえらしくいてくれれば、笑顔でいてくれればそれでいい、って
ずっとそう思い続けてたんだ。
3年間同じクラスで、課外授業も学校行事も、ほとんどのイベントを一緒に過ごした。
それなのに、どんどん俺の知らないおまえになっていく過程で
俺は言い表しようのない寂しさを覚えて。
高校生活を終えるころには、美奈子はどこか遠い世界で生きる女の子になってた。
塗り替えられていく後ろ姿。横顔と、笑顔。
それを止める権利も手段もなかった俺。
卒業式直前、「イギリスに行く」と美奈子へ送ったメッセージさえ何の意味もなさなくて。
俺の想いが美奈子の衝動を突き動かすことはなかった。
そして高校卒業から何年も経った今でも、
往生際の悪い俺がいつまでも問い続ける。
"なんで俺じゃダメだった?"
…答えの出ない問いかけを頭の中で繰り返したら
思考が限界ですと言わんばかりに、意図せず涙が溢れてくる。
何が足りない、何が必要だったかなんて
選ばれなかった俺には一生わかるはずのない問いかけを
俺はこれから先、何度繰り返していくんだろう。
――世界に色がなくなっていく。
「……お兄さん。今日は、結婚式の帰りなんですか?」
「…え?」
ふいにドライバーに話しかけられて、思い出の世界から現実に戻る。
咄嗟にシモンのバイトで身につけた余所行きの声を用意して、軽く咳払いをしてから答えた。
「あぁ…はい、そうなんです」
酔った頭でなけなしの体裁を取り繕う。”いつも通りの風真玲太”だ。
タクシーが来てすぐ、
『はーい!じゃあ運転手さん、リョウくんをお願いします!』って
本多に半ば無理やりに乗せられて、ドライバーの顔なんて全然意識してなかった。
何歳くらいなんだろう、バックミラー越しに何本か深い皺が刻まれた目元が見えた。
でもその目が俺と合うことはなく、落ち着いていて渋みのある声の続きを、不思議と待ちたくなった。
――絶望の淵では、救いの手が差し伸べられることもある。
この声は、そうなんだと、思うことにして。
「そうですか。どなたの結婚式だったんです?」
「今日は、幼馴染の結婚式だったんです。小学生のころからの。
危なっかしくてほっとけないやつだったんですけど、信頼できるやつと結婚出来て」
「それはそれは。よかったですね。おめでとうございます」
「はい…よかった。…よかった、です」
自分の口の端が軽く上がって、笑顔になっているのがわかる。
けどそれは心からの溢れ出た笑顔というより、
この言葉を発している俺は笑顔でありたいという願望が、そうさせてくれた表情のようだった。
また込み上げそうな涙を、笑顔で止める。
「あいつら、高校卒業してからずっと付き合ってたから…何年だろ…
……あー、まぁ、結構長かった、かな」
2人が過ごしてきたその月日の長さを考えたら、
俺が美奈子を想いながら過ごしたイギリスでの9年間が、霞のように薄らいでしまいそうで嫌だった。
幼い俺が、知らない土地で自分を保つために育てた、大切な思い出なのに。
今日の2人の笑顔に、その華やかさの全部を持っていかれた気がする。
心の中で大事に育てたとしても、所詮は片思いだよ、って。
…俺の手に残ったのは、咲き切らずに枯れた、可哀そうな俺の初恋の花束。
「ずっと友達同士で見守ってきたんで、ほんと、よかったです」
漏れ出たため息に乗せるように、俺は話す。
あいつらの友だちとして。
"俺は大丈夫です、
ほら、ね
笑ってるでしょ?"
少しの、沈黙。
雨粒が大きくなって、車体に当たる音が静けさに響く。
ワイパーが少し早く動いて、フロントガラスを忙しなく行き来する。
ドライバーが言葉を発したのと同時に、信号が黄色くなった。
「…お兄さん。これでよかったと、言い聞かせてはいないですか?」
目の前は赤信号に変わる。
雨の日だからこそなのか、ブレーキの踏み方も柔らかく、ゆっくりと紳士的に車が停まった。
「…え?」
「いや、分を弁えず申し訳ない。この間も…いやぁ何年も前だったかな。
お兄さんみたいにカッコいいお兄さんで、お友達の女の子が結婚したって言って、
2次会の帰りに僕の車乗ってくれた人がいましてね」
…大きく一振り、雨はさらわれて視界が開ける。
「大分酔っぱらってたのかな、しばらく黙っていたんですけど、
目的地に着く直前にやっぱり海に寄って欲しいって言われて、寄ったんですよ。
10分…15分くらいでしたか。夜の真っ暗な海を眺めてましたね。
車に戻られてから、お兄さん、すごくすっきりした顔でね、帰りに色々話を聴かせてくれました。
今日の結婚式は好きだった女の子の結婚式だった、って。親友だったからずっと気持ちを伝えられなかったんだと」
そしてまた、フロントガラスは雨に包まれる。
何度も開けて、何度も雨に包まれた。
「よく彼女からその相手の方の恋愛相談されたそうです、夕方の浜辺でね」
「…そのお兄さん、何回も"これで良かった"って、言ってましたけど」
「泣いてたんじゃないかなぁ…少しだけ、鼻を啜る音が聞こえましたから」
「どうしたかな。あのお兄さん。お会計の時見た瞳が真っ直ぐでね。いい男だったなぁ」
また一振り大きくワイパーが動いて、視界が広がったかと思うと、
信号が青に変わり、車が動き出す。
タクシーのメーターに表示された数字が変わった。
「…話し過ぎましたね。余計なこと言って、すみませんね」
その”お兄さん”が最後にしたこと。
きっと思い出の置き場所を見つけたんだ。
咲かずに枯れてしまった恋を、思い出の海に置いてきた。
大切なものだったから、大切な場所をさよならの場所にしたんだ。
…こういうの、どこかの小説で読んだことがある。
あぁ、そうだ。
恋の弔い。
「今のお兄さんの心の中が、そのお兄さんと似てる気がしちゃってね」
じゃあ――俺は?
この手の中で綺麗に枯れてしまった花束を、俺はどこに手向ければいい?
俺が美奈子の隣に立つことはないと永遠に決まった今日、
この日こそ、俺の澱み続けた『なんで』を
昇華させられるんじゃないのか。
おまえが幸せそうな顔につられて笑った俺は
嘘じゃないから。
…悲しみの衝動の奥で、一筋の救いを得たように
俺は心から湧いた言葉を発した。
「…あのっ、すみません。
教会…はばたき学園の近くまで戻ってもらえますか?行きたいところがあって」
ドライバーが軽く顔を向けかけた。
ドライバーが軽く顔を向けかけた。
タクシーはハザードを点滅させて路肩にゆっくり停まる。
するとドライバーはメーターにあるボタンを押して
バックミラー越しに俺を見てくれた。優しい眼差しの目元には、皺が深く刻まれていた。
「そちらはお兄さんの思い出の場所ですね?
…じゃあ、ここからそこまではおじさんからの餞別。料金はいただきませんよ」
ハザードを消して、タクシーはゆっくりと動き出す。
止まったままのメーターは何も刻まないで
ただ新しい目的地に向かって走り始めた。
「あ……ありがとうございます!」
ささやかな、柔らかい優しさと
どこかの誰かのさよならの決意によって、俺の心に光が差した。
もう美奈子は、俺の知らない美奈子であること。
変えられない現実。
完全に塗り変わってしまった、新しいおまえ。
教会の傍らに手向けたのは、青くさくてカッコつけだった俺の純情。
幼い頃の春の風。教会の思い出が霞む。
鐘の音は遠く遠く、小さくなる。
オレンジ色の空も風車も、
どんどん時の流れに希釈されて
背景に薄められて広がっていく。
そして俺は輪郭のぼやけた淡いおまえの笑顔を思い出しては
きっとこの先何歳になっても、微笑んでいるんだろう。
あの時手向けた花束の残り香だけを胸の奥底にそっとしまって
時々そっと掬い上げては、静かに記憶の川へ流すんだ。
二人で見たあの日の夕日と一緒に
朧げに、静かに溶けて沈みゆくまで。
***
カメレオン
King Gnu
後部座席の窓から見える、はばたき市の街並み。
タクシーを呼んでくれた本多を置いて、乗り込んだのは俺だけ。
持ち帰った引き出物が唯一の同乗者だ。
小雨が音もなく窓にあたる。
俺の瞳から涙が一滴も落ちない代わりに
流れ落ちる雨粒をひとつひとつじっと見つめた。
さっきまでの明るい雰囲気の余韻が薄れ始めても、
惨めで情けない今の俺を慰めてくれるものは…人は、もういない。
スマートに着飾った七ツ森の隣でニコニコと笑う美奈子は
もう俺の知らない、違う世界で生きる美奈子だった。
You are no longer the you I know
まどろむまま、瞼を閉じて世界を遮断する。
こういう気持ちのときは思い出したくもない思い出ばかり蘇るから
二次会で飲んだウイスキーの力に頼って、家に着くまでは眠ろうと思った。
――ぼんやりと浮かんでくるのはあの思い出の教会。
高校の卒業式の日、鐘が鳴り続ける教会から出てくるのは
俺が校内のどこを探しても見当たらなかった姿。
温かい風が吹く中で、優しい表情をした美奈子が、俺を見つけて微笑みかける。
その隣に寄り添う男には、なぜか顔がない。俺じゃない。それだけがわかる。
”そこにいるのは俺だったのに”
…そう思った瞬間、途端に込み上げる熱い悲しみに塗れると
目の前にある世界は空から崩れ落ちていく。
そして月も星もない、真っ暗な世界が顔を出す。
――もう、何度も何度も見た夢だ。
「……眠れるわけない、か」
瞼を開ければ、ガラス越しに流れていくのははばたき市の景色。
一緒に歩いた通学路は、街灯がぽつりぽつりと光るだけで誰もいない。
どちらからともなく誘って、帰り道に行き慣れた喫茶店。
閉店時間をとっくに過ぎて真っ暗だ。
よく待ち合わせに使ったはばたき駅は間もなく終電を迎えるんだろう。
まばらだが、人が足早に駅構内へ走っていく。
目の前を駆けていく世界にかつて、俺と美奈子はいた。
その街並みは何も変わらない。何も変わらないんだ、あの日から。
なのにどうして俺は今日、あいつの隣にいなかったんだ?
今夜、美奈子と一緒に家路につくのが七ツ森だったのはなぜなんだ。
なんで、どうして、
うそだ。
七ツ森と付き合うことになったと聞いた時も
婚約したことをいつものメンバーでの飲み会で報告された時も
結婚式の招待状が届いた時も
いつだって『おめでとう』よりも先に浮かんだのは
なんで、だった。
「…なんで、なんだよ」
――小さく小さくつぶやく。
いつも堰き止めて、見ないようにしていた感情が溢れそうで、思わず額に手を当てた。
目に映るものと心に浮かぶものの視界を紛らわせたかった。
入学式の日の朝、再会を果たしたときのおまえは
俺の思い出の中で笑う美奈子そのままだったのに。
季節の移ろいと共に色づいては移り変わる、美奈子が身につけてたアクセサリー。
初めて薄くメイクをしてきた夏休み明けの始業式。
校庭の葉が色づく頃、「限定品なんだ」って、嬉々として通学鞄につけていた虹色のキーホルダー。
冬休み明け、艶のあるグロスの色を褒めたら
「七ツ森くんとたまたま交換したクリスマスプレゼントなんだけど、すごい良い色だよね」って、
花が咲くように笑ってた。
「(……でも、おまえが笑ってくれれば)」
おまえらしくいてくれれば、笑顔でいてくれればそれでいい、って
ずっとそう思い続けてたんだ。
3年間同じクラスで、課外授業も学校行事も、ほとんどのイベントを一緒に過ごした。
それなのに、どんどん俺の知らないおまえになっていく過程で
俺は言い表しようのない寂しさを覚えて。
高校生活を終えるころには、美奈子はどこか遠い世界で生きる女の子になってた。
塗り替えられていく後ろ姿。横顔と、笑顔。
それを止める権利も手段もなかった俺。
卒業式直前、「イギリスに行く」と美奈子へ送ったメッセージさえ何の意味もなさなくて。
俺の想いが美奈子の衝動を突き動かすことはなかった。
そして高校卒業から何年も経った今でも、
往生際の悪い俺がいつまでも問い続ける。
"なんで俺じゃダメだった?"
…答えの出ない問いかけを頭の中で繰り返したら
思考が限界ですと言わんばかりに、意図せず涙が溢れてくる。
何が足りない、何が必要だったかなんて
選ばれなかった俺には一生わかるはずのない問いかけを
俺はこれから先、何度繰り返していくんだろう。
――世界に色がなくなっていく。
「……お兄さん。今日は、結婚式の帰りなんですか?」
「…え?」
ふいにドライバーに話しかけられて、思い出の世界から現実に戻る。
咄嗟にシモンのバイトで身につけた余所行きの声を用意して、軽く咳払いをしてから答えた。
「あぁ…はい、そうなんです」
酔った頭でなけなしの体裁を取り繕う。”いつも通りの風真玲太”だ。
タクシーが来てすぐ、
『はーい!じゃあ運転手さん、リョウくんをお願いします!』って
本多に半ば無理やりに乗せられて、ドライバーの顔なんて全然意識してなかった。
何歳くらいなんだろう、バックミラー越しに何本か深い皺が刻まれた目元が見えた。
でもその目が俺と合うことはなく、落ち着いていて渋みのある声の続きを、不思議と待ちたくなった。
――絶望の淵では、救いの手が差し伸べられることもある。
この声は、そうなんだと、思うことにして。
「そうですか。どなたの結婚式だったんです?」
「今日は、幼馴染の結婚式だったんです。小学生のころからの。
危なっかしくてほっとけないやつだったんですけど、信頼できるやつと結婚出来て」
「それはそれは。よかったですね。おめでとうございます」
「はい…よかった。…よかった、です」
自分の口の端が軽く上がって、笑顔になっているのがわかる。
けどそれは心からの溢れ出た笑顔というより、
この言葉を発している俺は笑顔でありたいという願望が、そうさせてくれた表情のようだった。
また込み上げそうな涙を、笑顔で止める。
「あいつら、高校卒業してからずっと付き合ってたから…何年だろ…
……あー、まぁ、結構長かった、かな」
2人が過ごしてきたその月日の長さを考えたら、
俺が美奈子を想いながら過ごしたイギリスでの9年間が、霞のように薄らいでしまいそうで嫌だった。
幼い俺が、知らない土地で自分を保つために育てた、大切な思い出なのに。
今日の2人の笑顔に、その華やかさの全部を持っていかれた気がする。
心の中で大事に育てたとしても、所詮は片思いだよ、って。
…俺の手に残ったのは、咲き切らずに枯れた、可哀そうな俺の初恋の花束。
「ずっと友達同士で見守ってきたんで、ほんと、よかったです」
漏れ出たため息に乗せるように、俺は話す。
あいつらの友だちとして。
"俺は大丈夫です、
ほら、ね
笑ってるでしょ?"
少しの、沈黙。
雨粒が大きくなって、車体に当たる音が静けさに響く。
ワイパーが少し早く動いて、フロントガラスを忙しなく行き来する。
ドライバーが言葉を発したのと同時に、信号が黄色くなった。
「…お兄さん。これでよかったと、言い聞かせてはいないですか?」
目の前は赤信号に変わる。
雨の日だからこそなのか、ブレーキの踏み方も柔らかく、ゆっくりと紳士的に車が停まった。
「…え?」
「いや、分を弁えず申し訳ない。この間も…いやぁ何年も前だったかな。
お兄さんみたいにカッコいいお兄さんで、お友達の女の子が結婚したって言って、
2次会の帰りに僕の車乗ってくれた人がいましてね」
…大きく一振り、雨はさらわれて視界が開ける。
「大分酔っぱらってたのかな、しばらく黙っていたんですけど、
目的地に着く直前にやっぱり海に寄って欲しいって言われて、寄ったんですよ。
10分…15分くらいでしたか。夜の真っ暗な海を眺めてましたね。
車に戻られてから、お兄さん、すごくすっきりした顔でね、帰りに色々話を聴かせてくれました。
今日の結婚式は好きだった女の子の結婚式だった、って。親友だったからずっと気持ちを伝えられなかったんだと」
そしてまた、フロントガラスは雨に包まれる。
何度も開けて、何度も雨に包まれた。
「よく彼女からその相手の方の恋愛相談されたそうです、夕方の浜辺でね」
「…そのお兄さん、何回も"これで良かった"って、言ってましたけど」
「泣いてたんじゃないかなぁ…少しだけ、鼻を啜る音が聞こえましたから」
「どうしたかな。あのお兄さん。お会計の時見た瞳が真っ直ぐでね。いい男だったなぁ」
また一振り大きくワイパーが動いて、視界が広がったかと思うと、
信号が青に変わり、車が動き出す。
タクシーのメーターに表示された数字が変わった。
「…話し過ぎましたね。余計なこと言って、すみませんね」
その”お兄さん”が最後にしたこと。
きっと思い出の置き場所を見つけたんだ。
咲かずに枯れてしまった恋を、思い出の海に置いてきた。
大切なものだったから、大切な場所をさよならの場所にしたんだ。
…こういうの、どこかの小説で読んだことがある。
あぁ、そうだ。
恋の弔い。
「今のお兄さんの心の中が、そのお兄さんと似てる気がしちゃってね」
じゃあ――俺は?
この手の中で綺麗に枯れてしまった花束を、俺はどこに手向ければいい?
俺が美奈子の隣に立つことはないと永遠に決まった今日、
この日こそ、俺の澱み続けた『なんで』を
昇華させられるんじゃないのか。
おまえが幸せそうな顔につられて笑った俺は
嘘じゃないから。
…悲しみの衝動の奥で、一筋の救いを得たように
俺は心から湧いた言葉を発した。
「…あのっ、すみません。
教会…はばたき学園の近くまで戻ってもらえますか?行きたいところがあって」
ドライバーが軽く顔を向けかけた。
ドライバーが軽く顔を向けかけた。
タクシーはハザードを点滅させて路肩にゆっくり停まる。
するとドライバーはメーターにあるボタンを押して
バックミラー越しに俺を見てくれた。優しい眼差しの目元には、皺が深く刻まれていた。
「そちらはお兄さんの思い出の場所ですね?
…じゃあ、ここからそこまではおじさんからの餞別。料金はいただきませんよ」
ハザードを消して、タクシーはゆっくりと動き出す。
止まったままのメーターは何も刻まないで
ただ新しい目的地に向かって走り始めた。
「あ……ありがとうございます!」
ささやかな、柔らかい優しさと
どこかの誰かのさよならの決意によって、俺の心に光が差した。
もう美奈子は、俺の知らない美奈子であること。
変えられない現実。
完全に塗り変わってしまった、新しいおまえ。
教会の傍らに手向けたのは、青くさくてカッコつけだった俺の純情。
幼い頃の春の風。教会の思い出が霞む。
鐘の音は遠く遠く、小さくなる。
オレンジ色の空も風車も、
どんどん時の流れに希釈されて
背景に薄められて広がっていく。
そして俺は輪郭のぼやけた淡いおまえの笑顔を思い出しては
きっとこの先何歳になっても、微笑んでいるんだろう。
あの時手向けた花束の残り香だけを胸の奥底にそっとしまって
時々そっと掬い上げては、静かに記憶の川へ流すんだ。
二人で見たあの日の夕日と一緒に
朧げに、静かに溶けて沈みゆくまで。
***
カメレオン
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