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bsr超短編



 それは、禍つ風だという。
 いくさ場を駆け抜け、見た者に災厄を招く風。
 恐ろしく強く、恐ろしく速く、瞬きの刹那に命を刈り取る悪魔のような風。
 故に、人々はいくさ場に吹く風を恐れる。
 頬をやけに冷ややかな風が撫でたかと思えば、次の瞬間、己の首と胴体が繋がっている確証など何処にも無いからだ。

「……っていうくらい、あの風魔って男はヤバいのよ。姫さん、その辺分かってんの?」
「さっぱり分かりません」
「……あのさぁ」

 目の前の姫君に、猿飛佐助はがっくりと項垂れた。

「あの風魔がそんな怖い人だなんて、想像がつかないわ」
「アイツ、ほんっとおたくの前では猫被ってんのね」

 北条家の掌中の珠。
 その姫君は、当主氏政だけでなく雇われ忍の風魔すら猫のように可愛がる、真の箱入り娘だと風の噂に聞いてはいたが、まさかここまでかと佐助は苦い笑みを顔に貼り付けるしか出来なかった。

「それより猿飛様、あまり長居はせぬ方がよろしいかと」
「あららー、そんなつれないこと言っちゃう?俺様とお姫さん、井戸端会議仲間だと思ってたんだけど」
「私の部屋の縁側は一体いつから井戸端になったのでしょう? 猿飛様とのお話しは楽しいですが、少なくとも武田にとって有益な情報など、私の口からは零れませんよ」
「あっは、参ったねこりゃ。バレてたか」

 まるで動揺した素振りもなく、平然と佐助は笑って返す。釘の一つでも刺してやろうという姫の思惑は、いとも簡単に、飄々と躱されてしまった。
 掴みどころのない真田の忍頭に、姫は諦めたように嘆息する。その時、不意に姫の視線が佐助から、庭に植えられた柳の木へと移された。

「ほうら。そうやって無駄話をしているから──あなたの言う恐ろしい風とやらが、吹き始めましたよ」
「げっ」

 初めて、佐助の余裕の表情がヒクリと引き攣った。
 刹那、庭の柳の枝葉が風に煽られ、大きくうねりを上げる。
 吹きつける風は柳を抜けると、姫の頬を撫で、その髪を靡かせた。まるで指先で優しく触れるようなその風の心地よさに、姫は穏やかに目を閉じる。
 しかしその風は姫をすり抜け佐助の身体へと吹きつけると、それは背筋に悪寒を走らせるような禍々しく冷たい、死の風へと豹変した。

「(そういうとこだぜほんっとに、もう!)」

 もはやそんな軽口を叩く猶予もない。身体中の急所へと向けられたおぞましいほどの殺意から逃げるようにして、佐助は慌てて黒い影となると空気へ霧散し、その場から消え失せた。
 次の瞬間、つい先ほどまで佐助がいたはずの空間に対刀を振り下ろした風魔の姿が突如として顕現した。
 姫は大して驚く素振りもなく、その大きな背を眺め見る。

「こんなに穏やかな風が禍つ風だなんて。ねえ、風魔」

 同意を求められた風魔は答えない。あともう少しといったところで憎き相手の首を掻き損ねた対刀を静かに鞘へ納めると、黙って縁側の姫の方を振り向いた。
 真横一文字に閉ざされた唇の代わりに、もう一度姫の頬を風が撫でる。
 まるで猫の首筋をくすぐるような戯れる風に、姫はやはり、この男の一体どこが禍つ風なのだと、疑問を抱かずにはいられなかった。
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