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bsr超短編



 城中が浮き足立っていた。
 男衆はハレの日の正装に身を包み、女中達は夜明け前から慌ただしく動き回っている。
 屋敷前には白木の輿が用意され、白無垢を着た女の乗り入れを静かに待っていた。
 北条家の末の孫娘が、今日、甲斐の若虎のもとへと嫁ぐのだ。
 そしてその輿入れは北条と武田の同盟をより強固なものとする。
 どこをとっても一点の曇りもない、申し分ないほど好条件の縁談であった。誰しもが目尻を下げ、頬を緩ませた。

「なんとめでたい」
「これで北条家は安泰である」
「甲斐の若虎は見目も麗しく、心根も真っ直ぐな男との聞く」
「見よ。氏政様など縁談が決まった日から下がった目尻がもとに戻らぬ始末ぞ」

 誰しもが声高らかに笑い合った。姫の傍に仕える女中たちもまた「こんなに良い縁談も他にございませんでしょう」と自分のことのように誇らしげに語り合った。
 何より、姫自身が実に嬉しそうに笑うのだ。まだ見ぬ己の夫となる男に想いを馳せ、かの男へと挨拶の文を綴るその横顔は、恋を覚えたての柔らかな表情をしていた。
 そして今日、白無垢に身を包んだ今この時でさえ、その表情は変わらない。
 ふらりと庭に降り立った俺へと向ける視線さえも。

「風魔」

俺を見つけると、女は目尻を下げて笑った。

「ありがとう。お別れをしに来てくれたのね。風魔には小さい頃から随分と世話になったから、離れるのは寂しいけど……おじいさまのこと、お願いね」

 白粉をはたいた顔で、紅の引かれた形良い唇が、弧を描く。見慣れぬ化粧に、今日という日が日常の延長線でないことを痛感する。昨日までの日常は、今日、終わりを告げるのだ。そうして女は真っ白な衣装に身を包んで、これよりその身を、武田の色に染めに行く。
 北条の白藍の旗がよく似合う女だった。
 燃えるような赤色よりも、風に揺れる水面のような色が似合う女だった。

「………………」
「最後まで風魔は喋らないのね。あなたの口からおめでとうって、聞いてみたかったなあ」
「………………」
「ううん、大丈夫。ちゃんと分かってるから。たとえ声に出さなくても、あなたもお祝いしてくれてるのよね」
「………………」
「……ありがとう、風魔」

 本当に、ただ一点の曇りもない、見事なハレの日であった。城に吹く風も、女の頬をくすぐる風も、何もかもが穏やかな日であった。
 俺は一人、白無垢を着た女を前にして言祝ぎを述べられぬこの身体を、生まれて初めて──ありがたいと、そう噛み締めていた。
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