bsr超短編
「おばかさん」
にっちもさっちも行かなくなって、つい懐かしい人の口癖を真似てみた。
口から溢れたのは、情けない震えた声だった。
彼のように、穏やかで低い、少しだけ困ったような声は出なかった。
目の前には切り立った崖。背後からは怒気を帯びた郎党の叫び声。なるほど、分かりやすいほどに万事休すだ。
本当に、馬鹿だなあ、私。
絶対こっちには来ちゃいけないって分かってたのに。
なあんで来ちゃうかなあ。
約束だってしたのに。
──あんたは真っ当な人生を送りなよ。
絶対守るって誓ったのに。
──いい男捕まえて、結婚して、そんで子どもは五人くらい産んで。
──産みすぎでしょ、それ。
──俺様の時代ならふつーふつー。そんで百まで生きて孫に囲まれながら大往生すんの。分かった?
──それ現代では超ハードル高いなあ。
──いーから。……約束しろよ。
──うん。分かった。約束するよ。……だから、バイバイ。
……誓ったのに、なあ。
その時、背後から放たれた矢が私のすぐ足元の地面へと突き刺さった。条件反射で思わず足を引っ込める。
ぐらりと、重心が傾いた。
あ、まずい。
頭では分かってるのに、倒れていく体をまるで他人事のように傍観するしかない。頭だけは妙に冴え渡っている。
ああ、そっか、これで最後か。
やっぱり馬鹿だなあ、私。
なんのためにここまで来たのか分かんないじゃん。
あのまま大人しく自分のあるべき時代で、それなりな人と結婚して、それなりに幸せになって──佐助さんの言うとおりの人生を送るべきだったんだ。
足が地面を離れる。
馬鹿な私にかける最後の言葉はやっぱり、大好きな彼のものだった。
「おばかさん」
鮮明な声だった。
それと同時に、浮遊感が消えた。
死の間際に一番大事な記憶が強烈にフラッシュバックしたとか、そういう類いのものかと思った。
「ほんっと……大馬鹿野郎」
そんな、聞いたこともないほど怒りと、哀しみと、──安堵に満ちた声が続かなければ。
おそるおそる目を開けた。
何度も何度も夢に出てきた、あの鷲色の髪が風に揺れていた。
それから──困ったような顔で、叱りつけるように私を見下ろす、佐助さんの顔があった。
「あ、さ、さす、」
「この馬鹿。ほんっと大馬鹿。なにしてんのさオタク、こんなところで。ここはあんたの来るところじゃないだろうに。俺様がたまたま見つけてなかったら、あんた今頃どうなってたと思う?なんでそれくらいのこと想像出来ないかなあ?俺様言ったよね?あんたは真っ当な人生送りなよ──って。何やってんのほんと、もう、あんたってやつはほんと、──ほんと」
矢継ぎ早に捲し立てる佐助さんの言葉が、ふと途切れた。
直後、私の顔は迷彩色の忍装束に押しつけられて視界は真っ暗になった。
それでよかった。
どうせもう視界が滲んで、まともに佐助さんの顔なんて認識できてなかった。
押し当てられた忍装束が、じんわりと目元から湿っていく。
「おばかさん」
頭のすぐ上から降り落ちてきた言葉は、何度も記憶の中でリフレインし続けた声色と少しも変わらず、穏やかな夜のように低く耳に響いた。
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