bsr超短編
取引先への発注データを間違えていたことが判明し、かつ、取引先からの電話があるまでそのことに全く気付いていなかった私は、それはもう見事に石田部長に怒られた。
部長室から響く怒号はオフィス全体に響き渡っていたらしく、ようやく長い長いお説教から解放されて部長室を出ると、みんなの憐むような目が一斉にこちらを向いた。
やらかしたことは仕方ない。時間は元には戻らないのだから、これを教訓にして、同じ過ちを犯さないように気をつけるだけ。
今回のことは、まず取引先の所に謝りに行って、それから次の対処を考えよう。
………………なーんて、そんなに簡単に切り替えられるほど器用な人間じゃない私は、デスクに座っても心がどうにも落ち着かず、パソコンに向かう気になれない。
気分転換がしたくて、デスクから逃げるように、私は給湯室へと向かった。
自前のコーヒーカップにインスタントコーヒーを適当に入れてお湯を注げば、辺りにはコーヒーのいい香りが広がる。
その香りに、思わず目を閉じて大きく息を吸い込む。
だけど悲しいかな、吸い込んだ息は全て深いため息となって、口からこぼれ落ちていった。
「見事なまでに落ち込んでるねえ」
不意に背後から声を掛けられて振り向けば、隣の部署の猿飛さんが給湯室の入り口に肩を預けて苦笑いしていた。
「さ、猿飛さん…!」
「はは、石田部長に随分やられてたみたいだな。フロア中に響いてたぜ?」
「ううう……久々に、やらかしました……」
「ん、まー、そういう日もあるって。ほら、これ食べて元気出しな」
そう言って猿飛さんがポケットから金色の包みを取り出し、私の方へと投げ渡す。
突然のことに慌てて両手でキャッチすれば、最近量販店でよく見かける、ちょっと高級なチョコレート菓子が手の中に収まっていた。
実は少し気になっていたものの、ややお高めの値段設定で手が出せずにいたそのチョコレートに、思わず笑みが漏れる。
するとそんな私を見て、猿飛さんが耐えきれなかったように噴き出した。
「あはは、チョコレート一つでそんなに喜んでもらえるとはな。アンタほんとお子ちゃまだね〜」
「し、失礼な! こう見えても今年で25です!」
「うん、知ってるよ。んじゃあ、大人のアンタに敬意を表して、今晩ぱーっと飲みにでもいかない? 石田部長の雷記念だ。俺様が奢ってやるよ」
「えっ、い、いいんですか!? っていうか、そんなの記念にしないでください…!」
むう、と睨みつければ、猿飛さんは悪い悪いと苦笑いを浮かべて、棚から自分のコーヒーカップを取り出した。
それから狭い給湯室で、私の隣に立つと同じようにインスタントコーヒーを入れてお湯を注ぐ。
「駅前のビルの3階、先月オープンしたばっかの小洒落たお店、あるだろ? そこでいい?」
「えっ、あそこ、ちょうど行きたいと思ってたところなんです…! やったあ!」
「はは、じゃあ19時に店集合な? ほら、そろそろデスク戻んな。みんなアンタが泣いてんじゃないかと心配してるぜ?」
「えっ、な、泣いてないし…! じゃあ猿飛さん、また仕事終わりに!」
「はいよ、またねー」
コーヒーカップを抱えて慌てて給湯室を後にする私に、猿飛さんはにっこりと笑みを浮かべながら手を振る。
まさかこんなタイミングで、行きたいと思っていたあのお店に行けるなんて、願ってもない話だ。
19時にお店集合なら、今日は残業は出来ない。
猿飛さんに貰ったちょっと高級なチョコレートを食べながら、さっさと残りの仕事を済ませてしまおう。
デスクに戻る私の足取りは、気がつけば軽くなっていた。
* * *
「……ほーんと、単純だねえ」
チョコレート一つで機嫌良くなって。
おまけにそんなに簡単に、男と飲みに行く約束までしちゃってさ。
「……いい加減手元に置いておかないと、悪い虫がつきそうで、俺様も心配なわけよ」
だから、さ。
悪いけど、今日は多分、帰れないよ。
くるくるとインスタントコーヒーを混ぜながら、その黒い渦を眺めて、猿飛佐助は一人、誰にも知られず口元に大きく弧を描くのだった。