bsr短編
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
二日分の食事の作り置き、よし。
宅配便が届いた時の対応、よし。
コンロと電子レンジの使い方、よし。
自然災害等緊急時の対応、──よし。
「それじゃあ小太郎さん、あとはよろしく頼みますね」
一泊二日の荷物が詰まった小型のキャリーバッグを携えて、玄関を振り返る。
小太郎さんはドア枠から少し窮屈そうに頭を屈めて、黙ってこちらを見下ろしていた。
戦国時代の忍である風魔小太郎さんがひょんなことから我が家で同居するようになったのは、今から半年ほど前のこと。あまりに突然の出来事に毎日大慌てしながら過ごしていたら、半年なんて瞬きよりも短くて。
だからすっかり忘れていたのだ。
小太郎さんと出会う数週間前に、大学時代の友人たちと、秋になったら一泊二日の温泉旅に行く計画を立てていたことなど。
今更直前になってやっぱりキャンセルというわけにもいかず、あの手この手を模索したものの、やはりどうしても今回は、小太郎さんを一人残して旅行する羽目になってしまった。
この半年で小太郎さんは驚くほどの吸収スピードで現代のことを覚えていったが、それでも丸一日以上彼を家に一人置いてどこかに出掛けるのはこれが初めてのことである。
寄り道せずにすぐに直帰するとは言え、万が一に備えての料理の作り置きから各種緊急時の指導まで、この数日間は自分の旅行の準備よりもずっとそっちの方が大変だった。
それでも、やはりまだ何か言い残したことはないだろうかとか、本当に一日家を留守にして小太郎さん一人で大丈夫だろうかとか、玄関を出た今になってもなお、不安はどんどん込み上げてくる。
ついでに言うと、私一人だけ温泉で足を伸ばしにいくというのが非常に心苦しい。
私なんかより遥かに、小太郎さんの方が慣れない現代の生活でストレスが溜まっているだろうに。むしろ小太郎さんにこそ温泉にゆっくり浸かってもらいたいくらいだ。
そんな私の心のうちを読んだのか、小太郎さんはいつも通り口を横一文字に結んだまま、いつまで経っても玄関先を離れようとしない私の肩をぐるりと回して、玄関に背を向けさせた。
──いいから、早く行ってこい。
そんな声が聞こえた気がした。大きく一息ついて、覚悟を決める。
「それじゃあ、行ってきます!」
ガラガラとキャリーを引きながら振り返ると、小太郎さんは私が見えなくなるまでずっと玄関先で見守っていてくれた。
* * *
旅立ってしまえば、久々に会う友人たちとの温泉旅行は実に楽しい時間だった。
女三人で露天風呂に浸かりながら学生時代の思い出話に花を咲かせたり、上司や仕事の愚痴を思い切りぶち撒けたり。思う存分、お腹の底から笑うことが出来た。
一泊二日なんて、本当にあっという間で。
気がつけばチェックアウトの時間を迎えていた私たちは、荷物をまとめると、最後にお土産を物色するべく、駅前の温泉街を散策して帰ることにした。
いくつもの土産物店が立ち並ぶ中を、一つ一つ目を通していく。ご当地お菓子の詰め合わせから、テイクアウトの煎餅屋さん、和物雑貨店など、気になるお店がありすぎて、なかなか歩が前に進んでいかない。
大通りから一本入った路地にも、隠れ家のようなおしゃれなアンティーク雑貨のお店やアクセサリー店がひっそりと軒を連ねていて、全部を回っていると、駅に着く頃にはお昼になってしまいそうだ。
どこかキリのいいところで引き上げなければ。まだまだお土産屋さんで盛り上がる友人二人を置いて一歩店の外に出た時、ふと視界の隅に、小さな露店を見つけた。
それは神社の境内で、ごく簡易的に作られた受付台と、少し離れたところには小さな的が一つ、ぽつんと佇んでいた。
受付台には、えらく達筆な文字で「忍者教室 一回五百円」とだけ書かれている。
いくら路地裏まで観光客で賑わっていると言えど、さすがに地元の小さな神社まで訪れる人はそうそういない。そんないかにも商売に向いていないような場所で、その忍者教室はひっそりと店を構えていた。
たくさんのお土産を見て回るのに、少し疲れていたのかもしれない。自然と、私の足はその忍者教室へと向いていた。
受付台には、一人の男性がこちらに背を向けて佇んでいる。鷲色の髪に、シンプルな黒いTシャツ。インナーに同じく黒の長袖を着ているため、肌は手首から先しか見えない。
近くまで寄ると、男性はこちらを振り返った。ぱちりと目が合う。まるで最初から私の気配に気付いていたかのようだ。驚いて一瞬足を止めると、男性はにこりと人当たりのいい笑みを浮かべた。
「や、どーも。忍者教室にようこそ〜」
ちょいちょいと片手で手招きしながらそう呼び掛けられては、行かないわけにもいかない。男性の人懐っこい笑みに誘われるようにして、露天へと近付いた。
「はい! こちらプロ直伝の忍者教室だよー。お代はポッキリ五百円! たった五百円で、誰でも簡単に手裏剣が投げれるようになっちゃう! 今日からあなたも忍者の仲間入り! ……ってことで、お姉さんもちょいと遊んでかない? 損はさせないからさ」
受付台に肘をつきながら、男性はどこからともなく手裏剣を取り出して見せた。おお、今の動き、本物っぽい。小さく火のついた好奇心が、次第に燃え上がっていく。
「手裏剣……って、あの的に当てるんですか?」
「そーそー。俺様が丁寧に教えるから、誰でも十分あれば簡単に当てられるように──」
突然、それまで流暢に話し続けていた男性の口がぴたりと閉ざされた。
どうしたのかと男性の顔を覗き込むと、真顔でこちらを凝視している。先ほどまで浮かべていたにこやかな笑顔も消え失せ、わずかに目を丸くさせながら、食い入るようにしてこちらの顔を眺めていた。
先ほどまでと急に雰囲気が変わった男性にたじろぐと、男性は何事もなかったかのように再び人当たりのいい笑みを浮かべた。
「あー! いたいた。もー、勝手に一人で行かないでよー」
「あ、ごめんごめん」
明るい声が背後から響き慌てて振り返ると、お土産を買い終えた友人たちが買い物袋を手に提げながらこちらへと小走りで駆け寄ってくるところだった。
男性との間に流れていた気まずい空気も、それと同時にどこかへと消し飛んでしまった。
「なになに、忍者教室?」
「どーも、お姉さんがた。旅の思い出に、せっかくだから三人まとめて今日から忍者になっちゃわない?」
手裏剣を構えながら男性が器用にウインクしてみせると、友人たちはすぐに盛り上がった。
実に商売が上手い。
というより、口がべらぼうに上手い人だ。
結局、あっという間に三人まとめて忍者教室にお世話になることが決定した。
男性から一つずつ金属製の手裏剣を渡されて、横一列に並ぶ。視線の先には、丸が三重に描かれた小さな的がある。
的まではゆうに五メーターは離れているだろう。とてもじゃないが、あんな小さな的に初心者が当てられるとは思えない。それでも男性は自信満々に笑って「絶対当てられるようになるから」と断言した。
さすがにあの的に当てられるようになるまでここで遊ぶつもりはないなあと内心思いながらも、男性の指示に従って何度か手裏剣を投げてみる。するとどうだろうか、何故か分からないが、数回投げるうちに的の外枠くらいには手裏剣が刺さるようになった。
これには友人たちも興奮と歓喜の声を上げている。私だってちょっと高揚している。男性は、ここまですべて予定調和なのか、さも驚く素振りもなく、「筋が良くなってきたねえ」なんて逐一誉めてくれるので、ついモチベーションが上がってしまう。
ううむ、やはり商売が上手いな、この人。
男性に促されるまま、さらに何度か手裏剣を投げる。するとついに的のほぼ中心へと突き刺さった。これには思わず、笑みが零れてしまう。
「おー、上手いねお姉さん」
「ありがとうございます。ほんとにこんな短時間で投げられるようになるなんて……」
「な? 俺様の言ったとおりだろ? ……ところでさ、ちょいとあんたに一つ聞きたいことがあるんだけど」
「はい? なんでしょう」
ここまで的に綺麗に当たるようになると、手裏剣を投げるのが楽しくて仕方ない。隣に立つ男性と会話しながらも、手元に残った手裏剣を次々と的へ命中させた。
「おたくさ、家に忍とか飼ってない?」
思わず、投げた手裏剣があらぬ方向へと飛んでいった。
「あららー、だめだよこんくらいで動揺しちゃ。忍の道はまだまだ遠いねえ」
「え……あ……」
「忍ってさ、基本的に匂いはしないんだわ。人に気配を悟られちゃ仕事になんないからね。だけどまったくの無臭ってわけじゃない。同業者にだけ分かる匂いってのがあんのよ」
呆然とその場に立ち尽くす私を置いて、男性は相変わらず口元ににこやかな笑みを浮かべたまま、飛んでいった手裏剣を回収する。それから、こちらを振り返らないまま、手先で器用にくるくると回転させた。
「こいつは、特に珍しい部類のやつだ。伊賀でも甲賀でもない。日ノ本に数多ある忍の流派のどれともまったく異なる、風が逆巻くような匂い」
指先で手裏剣を弄びながら、男が振り向く。
「──風魔」
心臓を直接鷲掴みにされたかのような衝撃が体を駆け巡った。
薄く、弧を描くような微笑。
なのにその目はまっすぐに私を射抜いていた。
言葉が、上手く喉から出てこない。沈黙は肯定になってしまう。
はやく否定しなくては。そう焦るほど、唇が上下くっついてしまったように、何も言い返すことが出来ない。
心臓が早鐘を打つ。嫌な汗が首筋を伝う。
なんで、どうして、この人はそれを知って──
「なーんちゃって! どーぉ? 今の俺様、すんげー忍っぽくなかった?」
「へ、あ、え……」
「いやー、これ忍者教室参加してくれたお客さんみんなにやってるんだけどさー、お姉さん、今までで一番リアクションよかったよ。あ! なになに〜? もしかして本当に家で待っててくれる人がいるとか〜⁉︎」
男性の聞き捨てならないセリフに、周りの友人たちも一斉にこちらを振り返る。
「え! そうなの⁉︎ なにそれ聞いてないよ私たち!」
「い、いや、誤解! 誤解だから!」
もはや手裏剣どころではない。友人二人にぐいぐいと詰め寄られては、そっちの火消しに大忙しで、先ほどまでの緊張感はすっかりどこかに消し飛んでしまった。
しかしすごい演技力だった。一瞬本気で焦ってしまった。まさかこんなところでこんな嫌な汗をかくことになろうとは予想外だった。
その後、男性はもとの気さくな雰囲気に戻ると、私たち三人全員が的の真ん中に手裏剣を当てられるようになるまで指導してくれて(それすらものの数分で出来てしまったのだけれど)、ついでに気がついたら私も友人もみんな、おもちゃの手裏剣を嬉しそうに買っていた。
本当に商売上手な人だ。
男性に別れを告げてようやく駅についた時には、やはり正午前になっていた。
慌てて帰りの電車に駆け込んで、座席に腰を下ろすと、一気に旅の疲れが出たのか、そのまま三人とも寝落ちしてしまった。
* * *
ようやく自宅の最寄駅についたのは、夕方近くになってからだった。
予定よりも随分と遅くなってしまった。いい気分転換にはなったけれど、やはり知らない土地を旅するというのはいささか疲れる。
大量のお土産で行きより遥かに重くなった荷物をキャリーに乗せて改札を出る。すると駅の入り口付近に、一際目立つ赤い髪が見えた。
まさかと思って視線を向ければ、案の定、小太郎さんが駅まで迎えに来てくれていたのだった。
「小太郎さん、え、一体いつから待ってたんですか⁉︎」
「………………」
「ごめんなさい、かなり遅くなってしまって……相当待っていたでしょう?」
小太郎さんは相変わらず何も答えない。ただ黙って腕組みをしたまま、私のことをまっすぐに見下ろすばかりだ。すると小太郎さんは組んでいた腕を解くと、キャリーバッグとお土産の袋たちを軽々と持ち上げ、黙って先を歩き始めた。早く帰るぞと言いたいのだろう。
身軽になった体で、慌てて小太郎さんの後を追いかける。隣に並ぶと、すぐに歩調を合わせてくれた。その気遣いが、胸の奥をじんわりと熱くする。
「すみません、荷物まで持っていただいて……」
「………………」
「おかげさまで、ゆっくり羽を伸ばすことが出来ました。久々に友人たちと語り合えて、とても楽しい二日間でした」
「………………」
「お土産、たくさん買ってきましたから、帰ったら一緒に食べましょうね」
「………………」
「あと……あ、そうだ。そういえば──」
ふと忍者教室のことを思い出して、ショルダーバックの中を漁る。目当てのものはすぐに見つかった。
「あった! ほらこれ、手裏剣です! まあ勿論おもちゃですけど──」
小太郎さんに向けて、買ったばかりの手裏剣を翳す。すると、手裏剣を目にした途端、突如として小太郎さんの周りの空気が一変した。
空気がチリチリと震える。
全身の産毛が逆立つほどの、おそらく殺気というものが、小太郎さんの全身からびしびしと立ち昇っていた。
突然の豹変っぷりに、肩がびくりと震える。
まるで初めて会った時のような反応に、初対面で殺されかけた時の恐怖がフラッシュバックする。
しばらく手裏剣を睨みつけていた小太郎さんだったが、私の様子に気がつくと、我に返ったように再び穏やかな気に戻った。それから、謝罪のつもりなのか軽く頭をぽんぽんと叩かれる。
よかった、いつもの小太郎さんだ。
「えっ……と、あ、あの! 私、手裏剣投げられるようになったんですよ! ちょっとだけですけど……」
折しも公園に差し掛かったところだったため、せっかくなので覚えたての手裏剣の腕を小太郎さんに披露することにした。
手頃な木に向かって、買ったばかりの手裏剣を何枚か投げてみる。すると見事にすべての手裏剣が木の幹に突き刺さった。
本当だ。
本当に手裏剣が投げられるようになってる。
あの時あの場所で男性に教わっていたから投げられていただけじゃなかった。これならきっと、普段無表情の小太郎さんだって驚くはずだ。なんせ、つい昨日まで何も出来ない現代人だった私が、旅行から帰ってきた途端手裏剣を投げられるようになっているのだ。
どうですか、と視線だけで小太郎さんに訴えかけてみる。ところが予想に反して、小太郎さんはやっぱり無表情のまま、木の幹に突き刺さった手裏剣たちを静かに眺めていた。
その横顔は穏やかである。先ほど突如湧き出た殺気のようなものは微塵も感じられない。
ただ──あまりにも穏やかすぎる。
まるで、そう、何かを必死に押さえ込んでいるゆえの静寂というか──
なんだろう? と首を傾げながらも、手元に残った手裏剣をさらにもう一つ投げようかと振りかぶったところで、突然小太郎さんが私の腕を掴んだ。
何事かと顔を上げると、小太郎さんは私の顔を覗き込みながら突然どこからともなく本物の手裏剣を取り出し、木に向かって投げて見せた。当然の如く、手裏剣は木に突き刺さる。すると小太郎さんは私の顔を見たまま腕を離した。
えっ、何これどういうこと? 俺の方が上手いだろうっていう、そういうアピール?
小太郎さんが何を伝えたいのかいまいち分からなくてポカンとしていると、また小太郎さんが手裏剣を投げた。そして私の顔を凝視してくる。
うーん、うーん、これは、えーっと……もしかして、遊んでくれてるとか?
試しに、私も手裏剣を振りかぶる。が、やはりまた腕を掴んで止められてしまった。訳も分からず小太郎さんを見上げると、今度は私の腕を動かしながら、同じ動きで手裏剣を投げて見せた。
……あー、やっと分かった気がする。
多分これは、投球(球じゃないけど)フォームを直してくれてるんだ。
そうか。なんせ小太郎さんは本物の忍。
現代の露店のお兄さんが教えてくれたデタラメなフォームが気に入らないんだ。それで、私に正しい手裏剣の投げ方を教えてくれてるわけだ。
なるほど、意図は分かった。……が、いかんせん、小太郎さんの手裏剣を投げる動作があまりに早すぎて、どう投げているのかさっぱり分からない。
おまけに小太郎さんは一切喋らないから、どこに注意すればいいのか、なにが間違っているのか、本当に何も分からない。
困った。
その速度の投げ方を「見て覚えろ」というのは、現代人にはいささか難易度が高すぎますよ、小太郎さん……。
そう思うと、あの出店のお兄さんは本当に教えるのが上手かったんだなあと痛感する。本物の忍の投げ方ではないのかもしれないけれど、まったくの初心者をここまで投げられるようにするんだから、すごい指導者だ。
あんな路地裏の小さな露店じゃなく、もっと大通りにお店を構えたって繁盛すると思うんだけどなあ。
そんなことをつらつら考えている間も、小太郎さんは私の顔をじっと覗き込みながら、次々手裏剣を投げていく。段々と木が可哀想になってきた。
そして相変わらず小太郎さんの投球フォームはまったく目で追えない。
さて、どうしたものか。早すぎて何も見えないので参考になりそうにないです、と素直に言ったらやっぱりショックを受けるだろうか。
途方に暮れる私を置いて、手裏剣が空を斬る音と、木の幹に突き刺さる軽快な音だけが延々と住宅街に鳴り響いている。
うーん、この状況、なかなかにシュールだ。
* * *
この世界での居候先として世話になっている女が、たった一晩外泊しただけで、どこの馬の骨とも分からん忍の技を会得して帰ってきた。
当然、まだまだ技と言うにはまだまだ拙いものでしかない。
だとしても、つい昨日まで戦乱の世も、戦い方も、何も知らずに生きてきた女が、一つ、人を殺める武器の扱い方を身につけて帰ってきたのだ。
それだけで、まるで純白の絹織物を土足で踏みつけられたかのような苦々しい感情が腹の底から込み上げてくる。
女は得意げに、覚えたての技を俺に見せつけてくる。俺の反応を期待して爛々と目を輝かせるそのさまは、犬が尻尾を振って懐いてくるようで、悪い気はしない。
が、それにも勝って、先ほどから溢れ出す殺意を抑え込むだけでこちらは精一杯なのだ。
言いたいことは山ほどある。
その持ち帰った玩具の処分も考えねばならぬ。
が、なによりも腹立たしいのは──その投げ方は、甲賀流だ。
よりにもよって、風魔の頭たる俺のもとにいる女に、甲賀流を教え込んだ男がいる。
その事実だけで腑が煮えくり返る。
諸々のことは後でもいい。そこらを飛んでいる偵察と思わしき烏も、数里離れた先でそれを操っているであろう男も、後からいくらでも始末すればよい。俺が気付いていないとでも思っているあたりが更に癪に障るが。
それよりも何よりも、今優先すべきは──彼女を風魔流に染め直すことだ。
何度か投げ方を見せてやったが、どうにも女に伝わっている気配がない。先ほどから呆けたように口を開けたまま、俺の顔と木に突き刺さる手裏剣とを見比べて、時折困ったように眉を八の字に下げている。相当丁寧に教えてやっているはずだが、女が手裏剣を構えると、やはり甲賀流になってしまう。
違う、そうではない。
仕方なく女の手を上から握り、無理やり構え方を変え、さらに上体を密着させて腕の振り方と手首の返し方を一つ一つ教え込んでいく。女は最初驚いたように情けない声を上げていたが、体を密着させたところでついに声も上げなくなり、ひたすら小刻みに震えながら縮こまって固まってしまった。
微かに見える耳と頬は、黄昏時でもはっきり分かるほど真っ赤に染まっている。何に耐えているのか分からないが、そんなに全身に力が入ったままでは、上手く誘導が出来ぬ。
それならばと空いたもう片方の手で女の弱点である脇腹を撫で上げると、これまでで一番情けない声を上げつつも、全身からくたりと力が抜けた。
「わ、わ、分かりました! 分かりましたから! ちゃんと覚えますから!」
だからもう許してください、と女は叫ぶ。
許すとしたら、この体から甲賀流が完全に抜け落ちてからだ。
大人しくこちらに身を任せるようになった女の体を何度も何度も操り、女が完全に風魔流で獲物を投げられるようになった頃には、傾いていた日はほとんど地平線に姿を隠していた。
ぐったりとした様子で帰路に着いた女は、家に着くや否やそふぁに腰掛けると、そのままばたりと横に倒れ込んだ。
「あーー……つっかれたぁ……」
荷解きをしなくていいのかとか、色々と言いたいことはあったが、この様子ではしばらく起き上がって来そうにない。
それならば──と、目を閉じて横になる女をその場に残し、静かに女の家を後にした。
やや離れた建物の屋上に、一匹の烏が、何食わぬ顔で羽根を休めている。
さて、──後始末をせねば。
一瞬で女の家の前から姿を消し、こちらをじっと監視し続ける烏の首と目玉を掻き斬る。案の定、烏は一瞬断末魔の声を上げたが、全身が細切れに切り刻まれると、すぐに体は闇色に霧散して消えた。
霧散する寸前、烏の体から漂う仄かな気配を追う。
実に上手く隠したものだ。
操り主がどこにいるのか、明確に居場所まで追跡は出来なかった。すぐに危険を察知し、気配を遮断したのだろう。
実に冷静な判断能力だ。そして手際もいい。
それだけで相手が並の忍でないことが伝わってくる。
だが──甘い。
気配がした方角までは、ある程度絞り込める。さらにこの手の術を操作し、かつ視界共有出来るだけの限界の距離、そしてたった今烏が消されたことで、身の危険を察知して逃亡を図ったと想定するならば、おそらくは──
腕の立つ良い忍だ。
しかし──地の利はこちらにある。
音もなく跳躍し、風に乗り、器用にその身を夜闇に溶け込ませていた男の懐へと一瞬で入り込む。
男が目を見開くのと、刃がぶつかり合う激しい金属音が鳴り響いたのは、ほぼ同時の出来事だった。
「あっっぶね……! うそだろこの距離で普通気付くかよ⁉︎」
素早く距離を取ろうとする男目掛けて、暗器を飛ばす。しかし命中する寸前にすべて弾き飛ばされると、お返しとばかりにこちらにも暗器が飛んできた。
眼前に迫ったそれをこちらも弾き返す。男は挑発的な笑みを浮かべた。
「やっぱりおたくもこっちに飛ばされて来てたんだな、──風魔」
「………………」
「いつ頃こっちに来たんだ? 一月前か? 半年? それとももう一年くらい経ってるとか?」
「………………」
「……無口なところは、相変わらずみたいだな」
忍のくせにベラベラと口がよく回るところは、お前こそ相変わらずだろうと腹の底で悪態をつく。
黄昏時に鷲色の髪を靡かせながら、男──猿飛佐助は目を細めた。
烏が影となって霧散した時点で目星はついていたが、まさかこんなところで因縁の相手と鉢合わせるとは、どういう因果か。それも、先にこの男に遭遇したのが俺ではなく彼女というのが非常に部が悪い。
此奴に出会ってしまった時点で、彼女の家も素性も何もかも、すでに情報が一方的にあちらへと渡っている。もはや彼女の身が絶対安全であるとは言い切れなくなった。それを自覚しているのだろう、猿飛は口元に薄く弧を描くように底意地の悪い笑みを浮かべた。
「まさか、あの子がお前に繋がってるとは思わなかったよ。なるほど、いい居候先を見つけたわけだ」
「………………」
「それで──お前にとってあの子は、害されるとまずい存在になっちまったわけだ?」
殺そう。
即座に答えが出た。この男の狐のような笑みをこれ以上眺めているだけでも、怒りで全身の血が沸騰しそうだ。
この先この男が彼女の身の安全を盾に何かを要求してくるであろうことは明らかだった。
殺す。
今、ここで確実に殺す。
二度とこの男の顔をあの女の前に晒してはならぬ。
対刀こそ無いが、本命の武器が無いのはあちらも同じである。服の下に忍ばせた暗器を次々と繰り出し、体術を掛け、次第に奴を追い詰めていく。
「そう怒るなって! 普段無感情なやつが怒ると──手元が狂うぜ!」
「…………!」
右手で振り翳した苦無が、腕ごと弾き飛ばされる。上体を大きく広げる形となり、目の前に訪れた千載一遇の好機に猿飛がにやりと口角を上げる。
──その油断を誘うための罠とも知らずに。
体勢が後方へ傾く勢いを利用し、右足を軸にして左足を素早く振りかぶる。靴先に仕込んだ暗器が飛び出し、異変に気付いた猿飛の首を掻き切るその瞬間。
──絶対! 人は殺しちゃダメ! です!
小刻みに震えながら差し出された小指と、涙目で叫ぶ彼女の顔が突如として脳裏をよぎり、目を見開いた。
すんでのところで足の回転を止める。
目の前でぴたりと静止した刃に、猿飛の喉がごくりと鳴った。
俺がこちらへ飛ばされて間もない日の記憶が、次々と脳内に甦る。
──いいですか、この世界では人を殺すのは絶対ダメです。なにがあっても! 絶対! この家で暮らすからには、それだけは守ってください! いいですね!
珍しく鼻息を荒くしながら、小さな小指をずいと差し出す彼女に、渋々己の小指を絡めたのは、もう半年も前になるのか。
ゆっくりと体勢を起こすと、猿飛は観念したように両の手を顔の横まで上げた。
「やれやれ、分かった。俺様の負けでいーよ。伝説の忍を怒らせるとろくなことになんないね、ほんと。……ま、俺様も別にあの子に何かしようなんざ考えてないさ。ただ、さっさともとの世界に帰るためにも、俺たちは手を組むべきだ。……そうだろ?」
「………………」
「……その沈黙は肯定と受け取るぜ。じゃ、今日はひとまずご挨拶までってことで。仲良くやろうぜ、風魔」
一方的にへらへらと軽い笑みを浮かべると、猿飛は後方へと跳躍し、街を覆い始めた夜闇の中へと溶け消えていった。
ふと西の空を眺めると、いつの間にか黄昏は完全に夜の帷に飲み込まれてしまった。
間もなく、東の空からは月が昇るだろう。
そろそろ彼女を起こして風呂に入れねばなるまい。
秋の気配を感じさせるほの冷たい夜風が、頬を撫でて通り過ぎていった。
12/12ページ