bsr短編
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ある日、忍を拾った。
その忍は、ベランダの手すりに両足を揃えて、器用に頬杖をつきながら、暮れゆく街を眺めていた。
夕焼け色に染まる空と、狐色の髪をビル風に靡かせる後ろ姿が、まるで大きな野良猫のようで。
気がつけば──声を掛けていた。
「ただいまあ」
「おかえりー」
それから、なんやかんやと殺されそうになったり、和解したり、腹の探り合いがあったりと色んなことがあって、あっという間に彼──戦国時代からやってきたという忍、猿飛佐助は、私の同居人になった。
最初こそ、知らない男との同居生活に気まずさを感じたものの、仕事から帰れば美味しいご飯が待っているし、お風呂も沸いてるし、部屋の中はいつだって掃除が行き届いて気持ちがいい。
何より、誰かが待っている家に帰るというのは、素直に嬉しいものだった。長い一人暮らしの中で忘れていた温かさで、私の心は束の間満たされた。
たとえそれが仮初で満たされているだけだと分かっていても、私は喜んで家族もどきを演じ続けたし、察しのいい彼はそんな私の我儘を受け入れ、同じく仮初の家族を演じてくれた。
あっという間に現代に馴染んだ忍は、お風呂に向かう私にいつものように食器を洗いながら声を掛ける。
「冷凍庫にあのカップのお高いアイス買ってあるから、風呂上がったら食べな」
「わーい! え、なにどうしたの? なんかいいことあった?」
返事は無かった。ただ食器を洗う音だけがリビングに響いていた。
私は、水音がうるさくて聞こえなかったのだろうと勝手に解釈して、特にそのことを気にも止めず、脱衣所に向かった。
そしてそれが、佐助の最後の言葉だった。
最初は、きっとコンビニにでも出掛けたのだろうと思っていた。だけど日付を超える頃、さすがに何かがおかしいと気がついて、寝巻きにコートを羽織って家を飛び出した。そのままサンダル履きで夜の街を何時間も探し歩いて、寒さで足先の感覚が無くなって家に帰った頃には、外はもう、東の空がうっすらと明るくなり始めていた。
野良猫のようにある日ふらりと現れた男は、やはり野良猫のように気ままにふらりと家を飛び出して、もう二度とベランダに戻ってくることはなかった。
あれから、三年が経った。
忍というのは恐ろしいものだ。佐助は、あの部屋に自分の痕跡を一つたりとも残さなかった。
彼のためにと買ったマグカップも、歯ブラシも、男物の衣類も何もかも、いつの間にか跡形もなく処分されれていた。彼がこの部屋にいたことすら、幻だったのではないかと錯覚してしまう。それほど鮮やかなまでに佐助は、自分の残り香というものを完全に消し去っていった。
ただ唯一、彼が最後にくれたカップアイスだけは、今でも食べずに取ってある。
未練がましいのかもしれない。
ただ別に、彼となにか深い関係にあったわけでもない。
たった半年限りの、仮初の家族ごっこ。
恋慕を抱くほどの時間もなかった。
一つも傷付かなかったと言えば嘘になるが、致命傷になるほどの大きな傷を負ったわけでもない。
行き場のない野良猫のような忍を一匹拾って、それがふらりとまた気まぐれに出ていっただけ。
なのに。
冷凍庫の片隅に置かれた食べられないアイスを眺める度に、ささくれを指で引き裂いたような小さな痛みを覚える。
それが、三年経っても消えないのだ。
その痛みが何なのか、私は名前を付けられずにいた。
もう一度、もう掠れ掠れになった記憶の中の佐助の顔を思い出してみる。声はとうの昔に忘れてしまった。困ったように八の字に下がる眉毛や、呆れたように笑う口元とか、断片的なものは思い出せるのに、全体を思い出そうとすると、ぼんやりと像がぼやけてしまう。
人が記憶から消えていくというのはこういうことなのだろう。そうして、いつか完全に私の中から彼の姿形が消えてしまって、ただ彼がくれたという事実だけを抱えたアイスが一つ、取り残されるのだ。
彼なりの、餞別だったのだろうか。
ひんやりと立ち昇る冷気に包まれながら、今日も私は冷凍庫の隅に小さく眠る彼の最後の心の一欠片を眺めている。
せめてまともなお別れの言葉くらい、残してくれればよかったのに。
風呂上がりにアイス食べな、なんて。
忍とは随分と器用に、人の心にかすり傷をつけるのが上手い生き物らしい。
アイスに賞味期限が無くて良かったと、心から思った。
ピーピーとうるさい警告音に促されて、そっと冷凍庫の扉を閉じる。
一人暮らしにも、随分と慣れた。
食材を買いすぎて腐らせることも、最近は滅多にない。
不意に心地いい風が頬を撫でた。
夕焼け色に染まるベランダの開いた窓から、一厘の風が通り抜ける。部屋の空気を少しでも変えたくて窓を開けていたのを思い出した。
もうすぐ逢魔時が来る。小うるさい姑みたいな忍に「不用心だ」と怒られるから、そろそろ窓を閉じなくては。
足がベランダへと向く。一際強い風が吹きつけて、レースカーテンを大きく靡かせた。
咄嗟に目を瞑ると、ベランダの外で鳥の羽音が数回響いた。
ゆっくりと、瞼を開く。
レースカーテンで霞むベランダの奥に、先ほどまで無かった黒い塊が見えた。
息を呑む。
目を、凝らす。
モザイク画のような白いレースカーテンのヴェールの中、ベランダの手すりに両足を揃えて、大きな影が、背を丸めて座っている。
夕焼け色に溶けてしまいそうな、狐色の髪が揺れていた。
その顔は申し訳なさそうに俯きながら、こちらを向いている。
もう一度風が吹いた。
心地いい風だった。
レースカーテンが勢いよく捲れ上がり、ベランダに佇む影もゆっくりと顔を上げた。
「……ごめん」
八の字に眉の下がった、困ったような、情けない笑顔。記憶の中で掠れ、消えていく寸前の表情だった。
──恋慕ではない。
だけどやっぱり、この感情になんと名前をつけていいか、私にはいつまで経っても分からなかった。
怒りでも悲しみでもなく、喜びなのか嬉しさなのかも分からない。心は不思議なほど穏やかで、だけど沸騰するように熱い血潮がぐんぐんと全身を巡っていく。
ベランダの網戸を開けると、軽やかな音が響いた。
「おかえり」
ようやく言葉に変換できた気持ちは、いたってシンプルだった。
今は、それしか出力できそうになかった。
小難しい理屈や感情は、後から少しずつ言葉に翻訳していけばいい。
多分──次は、その時間はあるのだろう。
佐助は少しだけ目を見開いたあと、野良猫みたいに人懐っこい表情で笑った。
「ただいま」
そういえば、佐助のこの表情が、私は好きだったのだ。