bsr短編
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ピンポーン
朝から気温が上がり、8時すぎだというのにすでに猛烈な暑さだった。
不意に、玄関先のインターホンが鳴った。
しばらく二階の自室で息を潜めて様子を見ていると、再びインターホンが鳴る。
普段ならすぐに同居の祖父が出ていくところだが、生憎今日は近所の囲碁会に出掛けているため、現在この家には俺しかいない。
宅配にしては時間帯が早すぎる。嫌な予感がして、俺は居留守を決め込むことにした。
ピンポーン、ピンポンピンポンピンポンピンポン
絶対に出てはいけない。今はっきりと確信した。そして誰がインターホンを押しているかも明確に分かってしまった。
あいつだ。
しかし永遠にインターホンは鳴り止まない。まさか俺が居留守しているのが分かるのか。本当に誰も居なかったらどうするつもりなのだ。……いや、待て。もしかすると、過去にも俺が知らぬところで同じことをやっているのか、あいつ。
ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン
ぷつりと我慢の限界が訪れた。読んでいた本をベッドに投げ出し、階段を駆け降りる。勢いよく玄関の引き戸を開けると、想像したとおりの人間がインターホンに指を押しつけたまま、ポカンと口を開けてこちらを眺めていた。
──腰回りに派手柄の浮き輪を身につけながら。
「あ、小太郎ちゃんいたんだ! あのね」
即座に、開けたばかりの引き戸を閉めて鍵をかけた。
もう何も聞かなくとも用件は分かる。そして俺はそれに応じる気は一切ない。ここは丁重にお引き取り願うに限る。
「ねーえ! 小太郎ちゃーん、聞いてるー?」
知らない。俺は何も聞こえていない。
「今日海行こうよー! 暑いし!」
そんな理由だけで行ってたまるか。暑いなら家でクーラーでもつけて大人しくしていろ。
「あのねー、新しい水着買ったんだー。見て見てー」
見ない。というか人の返事を聞く前に最初から水着を着てくるやつがいるか。第一どうやって見る──
まさかと言う疑念とともに再び引き戸を開け放つと、案の定、Tシャツを裾から捲り上げて今にも脱ごうとしているなまえの姿があった。
大慌てでなまえの腕を掴んで、玄関内に引き摺り込む。あんなところを近所の主婦どもに見られた日には、ますますいらん噂を立てられるだろう。
当の本人は胸の上までTシャツを捲り上げたまま、口を開けて固まっている。思わずTシャツを引っ掴んで無理やり降ろした。
「ね、小太郎ちゃん、海行こう」
行かない。
「大丈夫! 小太郎ちゃんの水着も買ってあるから!」
なにが大丈夫なのだ。人の水着を了承もなく買うんじゃない。
「浮き輪も新しく買ったんだよー」
新品の浮き輪が嬉しいのは分かるが、わざわざ膨らませた状態で身につけて人の家まで歩いてくるバカがどこにいる。
「ねー、行こうよー、海ー」
行かない。第一、学生の俺たちには海まで行く足が──
「なんぢゃあ、玄関先で何しとるんぢゃ」
突然玄関の引き戸が開いて、囲碁会に出かけたはずの祖父が帰ってきた。いつもなら昼頃まで帰ってこないはずなのに、何故こんなに早く帰ってくるのだ。困惑していると、俺の背中からひょっこりとなまえが顔を覗かせた。
「おじいちゃん! こんにちはー!」
「おー、なまえちゃんか! よう来たのぉ。なんぢゃその浮き輪は。二人でどこか出掛けるんか?」
「うん、小太郎ちゃんと海に行くの!」
待て。俺はまだ行くとは一言も言っていない。
「そうかそうか。そしたら、わしが車を出しちゃろうか」
「ほんと!? おじいちゃん!」
「実は囲碁会の会場になってる公民館が、エアコンが故障してのぉ。暑くてとても囲碁なぞやっとれんということで、今日は早々に解散したんぢゃ。どうせ暇ぢゃからのぉ、わしに任せるがよい!」
「わぁい! おじいちゃん、ありがとう!」
待て。俺を置いて勝手に話を進めるな。
その間にも二人はさっさと祖父の車に乗り込んでしまい、玄関先で部屋着のまま呆然と立ち尽くす俺を、祖父と椿が車窓を開けて不思議そうに眺めていた。
「どうしたんぢゃ、お主も早う来んか」
「そうだよ小太郎ちゃん、早く行こうよ」
…………ひとまず、着替えるのとスマホと財布を持ってくるまで待っててくれ。
深い深いため息をひとつついて、俺は重たい足取りで二階の自室へと向かった。
どうして、こうなった。
* * *
「ついたー! うーみー!」
勢いよく閉まる車のドアと、防波堤によじ登るなまえと、その視線の向こうに広がる、遥か彼方まで続く青い海。
近くの森からは絶え間なく蝉の声が鳴り響いている。突き刺すような強烈な日差しに、思わず目を細めた。
「海なんぞ久々ぢゃの〜。しかし、こりゃ暑すぎて年寄りにはちと堪えるわい……わしはちと、近くの知り合いのところにでも涼みに行っとるかのぉ」
祖父がぱたぱたと手で顔を仰ぐ。たしかにこの暑さは老体には酷であろう。
「夕方になったらまた迎えに来てやるから、それまで二人で遊んできなさい」
そう言い残すと、俺たちを残して、祖父は再び車でどこかに出掛けて行った。
やれやれと再度ため息が漏れる。さて、人の穏やかな休日を奪った張本人は何をしているのかと振り向くと、つい先ほどまで防波堤の上で目を輝かせて海を眺めていたはずのなまえの姿がどこにもない。
慌てて辺りを見回すと、遥か遠く、波打ち際まで浮き輪を抱えて走っていく小さな背中が見えた。
おまけに、いつの間にやら水着姿に着替えている。
最初から服の下に着込んでいたのだから、上の服を脱ぎ捨てれば簡単に水着になれるのは分かるが、だとしてもその脱いだ服は一体どこにやったのだ。
すると、先ほどまでなまえの立っていた防波堤の上に、抜け殻のように脱ぎ捨てられた服と鞄が置き去りにされていた。
あの、大バカ者。
服も貴重品も放り出して行くやつがどこにいる。俺が回収するとでも思っているのか。それに、準備運動もなしにいきなり海に入るんじゃない。いやまずそもそも俺を置いて行くな。
とりあえず、一人で海に浸かっているあのバカタレを一度引き摺りあげて、説教するところからだ。
俺の口からもう一度深々とため息がこぼれた。
* * *
「うう、いたい……」
頭をさすりながら、涙目でなまえがうなだれている。
当然だ。脳天に思い切りげんこつを食らわせてやったのだから。
さすがに反省したのか、大人しく海から上がると俺を手伝ってパラソルやテントの準備を始めた。
クーラーボックスなどの荷物をテントに置き、なまえに貴重品類の見張り番を指示しつつ、更衣室へ向かう。水着一枚となった身で再び戻ると、パラソルの下で膝を抱えてしょぼくれていたなまえの顔がぱっと笑顔に戻った。
「やっぱりその柄似合うね、小太郎ちゃん! それ選んでよかったー」
なまえが誇らしげに胸を張る。人の意見も聞かずに勝手に買ってきたのはいただけないが、まあ、確かにセンスは悪くないだろう。ドヤ顔のなまえの鼻先を指で弾いてやろうかとも思ったが、頭をくしゃくしゃにかき混ぜるだけで済ませてやった。
文句を言いながら乱れた髪を直すなまえの水着を、ちらりと盗み見る。
所謂ビキニタイプではないが、背中が大きく露出し、リボンで編み上げている。腰には申し訳程度にフリルがついているだけで、太ももから下はさらけ出されていた。当然、肩も、二の腕も、鎖骨も、うなじもである。恥ずかしくはないのだろうかと、いつも思う。そんなに肌を周囲に晒す必要が、果たしてあるのか。
黙って見下ろしていると、俺の視線に気がついたなまえと目があった。それから自分の水着を見下ろすと、再び顔を上げた。
「……へんかな?」
頬を掻きながら、自信なさげに眉は八の字に下がっている。そんなに不安なら、着なければいいのではないか。
──ああ、そうか。違うのか。
こいつが、肌を大きく露出してまでこんなものを着る理由は、おそらくひとつなのだ。この肌は、周囲に向かって晒していたのではない。見せる相手は、最初から決まっていたのだ。
なまえの頬に流れた髪を指で掬い、耳にかけてやる。それが先ほどの問いへの答えだと気付くと、なまえは黙って顔を綻ばせた。
「海、いっしょに入ろう?」
なまえが俺の指を掴む。心なしか先ほどより頬が赤い。
返事代わりにしっかりその手を握り返すと、さらに耳まで赤くなった。
強引なのか、繊細なのか。18年一緒に過ごしてもいまだに、この手のかかる幼馴染のすべてを理解し切れてはいない。
逆はどうなのだろうか。こいつは、俺のことをどこまで知っているのだろう。……少なくとも、水着のサイズまでは把握しているらしい。いや、それもいかがなものかとは思うが。
では、他は。
ただの一度たりとも口にしたことのない、この心の内の一番深いところまで、こいつの目は見透かしているのだろうか。
なまえがまっすぐに俺を見上げる。俺は──黙ってその手を引いて、灼けつく砂浜へと足を踏み出した。
降り注ぐ日差しが肌を焼く感覚がする。暑い。本当に、嫌になるほど暑い日だ。海にでも浸かって頭を冷やさなければ、うっかりこのまま──この手を引いて、どこか別のところへ攫ってしまいそうになる。
後ろを歩くなまえが、離れないようにと手のひらを固く握ってくる。離すものかと、さらに強くその手を握り返した。
* * *
一日中海を漂っているうち、あっという間に陽は西へと傾いていった。空と水面は茜色に染め上げられ、徐々に砂浜からは人影が消え始めていた。
吹きつける海風も日中は心地よかったが、この時間にもなるとやや肌寒く感じる。濡れた肌ならなおさらだ。なまえはと言えば、泳ぎ疲れて浮き輪に掴まったまま、沈み始めた夕陽を呆けたように眺めていた。
浮き輪の紐を掴み、波打ち際へと強制的に引っ張っていく。
「海水浴って、あっという間だね」
浮き輪に掴まってちゃぷちゃぷと足先で水面を弄びながら、なまえが呟く。そりゃあ、お前は昼食を取った後しばらくテントで昼寝していたのだから、あっという間にも感じるだろう。
「もっと小太郎ちゃんの水着姿、見てたかったなあ」
それは──珍しく同意見だ。
決して口にはしない本音を抱えながら、無言で浮き輪を引っ張る。なまえはいつまでも名残惜しそうに、水面を足で弄んでいた。
自分たちのテントへ戻り、撤収作業をしながらふとスマホを確認すると、祖父からの着信履歴が10件も残されていた。只事ではない気配を感じ、すぐさまかけ直す。すると、電話の奥から呻き声が聞こえた。
「お、おお〜、ようやく繋がったわい……実はの、久々に古い友人と会うたら、話が盛り上がりすぎてのぉ〜……大笑いした拍子に、腰をやらかしてしもうたんぢゃ〜……すまん……」
途中からなんとなくそんな予感はしていたが、ひとまず命の心配は無いらしい。小さく安堵の息をついた。
祖父曰く、一晩寝れば治るはずなので、今日はこのままその友人宅に泊めてもらうことになったと。
「そこでぢゃ。お主らも、今日はこっちに泊まっていきなさい。ちょうどその海水浴場の近くに、知り合いが経営しとる民宿があってのぉ。連絡したら、まだ空き部屋があるそうぢゃ。今夜はそこでご厄介になるといい。明日の朝にはわしが迎えに行ってやろう。なーに、一晩寝ればこれくらい……あたたたた……」
電話の奥の方で、「無理するでない」と祖父の友人と思わしき声が聞こえる。
本当に頼むから無理しないでくれと、再びため息が漏れた。
事情をなまえに伝えると、暢気に「やったー! お泊まりだー!」とはしゃいでいた。お前、泊まりの荷物なんて用意してきてないだろうに。
仕方なく荷物をまとめて指定された民宿へ向かうと、気の良さそうな老婦人が破顔しながら出迎えてくれた。
「北条さんから聞いてますよぉ。お部屋は準備してあるから、今夜はゆっくりしていきなさいねえ。ちゃんと夕飯も用意してあるからね」
「ありがとうございます! すみません、お世話になります」
なまえが頭を下げると、老婦人はさらに笑い皺を深くした。
「いいのよ〜、ゆっくりしてってちょうだい。はい、これ部屋の鍵ね」
ぽん、とレトロなホテルのルームキーを手渡される。が、どう見ても鍵は一本しかない。どういうことかと老婦人の顔を見返すと、視線の意味に気が付いたのか、婦人は今度は苦笑いを浮かべた。
「ごめんなさいねえ、今繁忙期だから、一部屋しか空いてなくって。悪いけど二人で使ってちょうだいな」
勘弁してくれ。
六畳ほどしかない小さな和室と、何も考えず室内で暢気にはしゃぐなまえを呆然と眺めながら、俺は気が遠くなった。
* * *
「ただいまー、いいお湯だった〜」
夕食を終え、風呂に行っていたなまえが戻ってきた。
宿の浴衣を着て、ほんのりと頬を上気させながら、実にさっぱりとした表情を浮かべている。なまえが横を通り過ぎると、洗い立ての髪からふわりと良い香りがした。思わず深々とため息をつく。
まずい。
やはりこの部屋になまえと二人でいるのは色々と危険だ。俺はそんな苦行をしに海まで来たわけではない。
なまえの香りが充満する狭い部屋から逃げ出すようにして、入れ替わりに俺も大浴場へと向かった。
精神統一を兼ねた長湯から戻ると、部屋にはすでに布団が敷かれていた。
なまえはさっそく片方の布団の上に寝転がってスマホをいじっている。両足をパタパタと動かすため、浴衣の裾が捲れて太ももまで露出している。
やめろ。足を動かすな。もう少し行儀良くしろ。
そしてもう片方の布団は──なまえの寝転がる布団と少しの隙間もなくピッタリとくっつけて敷かれていた。
思わずこめかみを押さえる。
あの老婦人、いったい何を考えているんだ。
まさか俺たちが高校生だと伝わってないのか。いや、分かっていないにせよ、いらぬサービスが過ぎるだろう。もはや迷惑だ。
なまえもなまえでまるで疑問に思っていないらしい。仕方なく布団を離そうとすると、「どうしたの?」と聞いてくる始末である。
どうしたもこうしたもない。お前はもう少し貞操観念を持て。
そもそも部屋が狭いため、離れるにしてもすぐに限界が来てしまう。結局、20センチほどしか布団は離せず、せめてもとなまえから出来るだけ体を離して寝ることにした。
布団を離して早々に灯りを消そうとすると、「えー、まだ9時だよ?」となまえが不満の声を上げた。
頼むからさっさと寝てくれ。これ以上起きていると、どんな過ちが起こるか分かったものではない。
どうせ海で相当疲れているはずだから、こいつのことだ、暗くなればすぐに眠りにつくだろう。
非難の声をあげるなまえを無視して、強制的に灯りを消す。しばらくぶちぶちと文句を垂れていたなまえだったが、それから寝息が聞こえてくるまでにそう時間は掛からなかった。ほら見たことか。
予想通りの展開に、ようやく肩から力を抜いた。深呼吸するように、大きく肺から息を吐く。朝から本当に長い一日だった。大きな子どもの子守りから解放された疲労感が一気に押し寄せる。
久々に、俺も今晩はゆっくりと眠れそうだ。
押し寄せる微睡に素直に身を任せて、眠りの淵へと落ちていった。
* * *
どれくらい時間が経っただろう。
真夜中に衣擦れの音がかすかに聞こえて、目を覚ました。
ぼんやりとした薄暗闇の中、隣の布団に目を向ける。
なまえが、真っ暗闇の中で体を起こしていた。
トイレにでも起きたのだろうか。そう思ったものの、なまえは上半身を起こしたまま──何故か窓の外をじっと眺めて、動かない。
何かがおかしい。目の前の光景の違和感に、徐々に頭が覚醒していく。
「行かなきゃ」
突然、なまえが布団から立ち上がった。そのまま俺の足元を通り過ぎ、部屋の入り口へと向かう。
その腕を、咄嗟に掴んだ。
驚いたようになまえが振り返る。
見開かれた瞳が、薄闇の中、窓から差し込む微かな月灯りを反射して鈍く光っていた。
「小太郎、ちゃん。離して」
どこへ行く。
「行かなきゃいけないの」
どこへだ。
「誰かが……呼んでるの。おーい、おーいって。さっきからずーっと。海の方から。だから、行かなきゃ」
この、大バカ者。
俺の許可もなく、勝手にどこにでも行くな。
なまえが言い終わる前に、掴んでいた腕を強く引いた。
バランスを崩したなまえの体がこちらへと倒れる。
そのまま、その小さな体を布団の中へと引きずり込んだ。
腕の中にすっぽりと収まったなまえの顔を胸に押し当て、ついでに耳を手で塞ぐ。抵抗できぬよう、足も絡め取った。
しばらく腕の中でもがいていたなまえだったが、ふと大人しくなると、耳を塞ぐ俺の手に、自身の手のひらを重ねた。
一回り以上違う小さな手が、俺の手を掴み、更に強く耳へと押し当てる。
「小太郎ちゃんの心臓の音しか、聞こえない……」
消え入りそうな声で呟いて、なまえが顔を胸へとすり寄せた。
そうだ。それでいい。お前はそれだけ聞いていればいい。何にも──惑わされるな。
次の瞬間、なまえの体から力が抜けた。慌てて顔を覗き込むと、穏やかな表情で規則正しい寝息を立てている。その寝顔に、小さく安堵の息をついた。
それから──神経を研ぎ澄ませ、視線だけを窓へと向ける。
窓の外に立つ黒い影は、目が合うとびくりと全身を震わせた。
──随分と、舐めたことをしてくれる。
思わず視線に殺意が籠った。影は窓の外でガタガタと震え、ひたすらに縮こまっている。それすら癪に障った。
──失せろ。二度とこの娘に近付くな。さもなくば四肢を引き裂いて、未来永劫幽世の狭間を彷徨うだけの存在にしてやる。
もう一度強く睨みつけると、影は怯えるように大きく震え、立ちどころに消え失せた。
ようやく、穏やかな夜が訪れた。なまえは相変わらず腕の中で暢気に眠りこけている。寝顔はもはや穏やかというよりは間抜け面である。ついに涎まで垂れ出した。
本当に──世話の焼ける。
もはや何度目か分からないため息が漏れた。
全身余すことなくぴったりとくっついたなまえの体から、体温が俺に移る。気持ちよさそうに眠るその髪を指先で弄べば、寝ぼけた甘い声が胸元でくぐもって響いた。
翌朝、スッキリした顔で朝食を頬張るなまえと、まるで食事が喉を通らない俺がいた。
なまえはどうやら昨晩のことを何も覚えていないらしい。
海に呼ばれたことも、俺の横で眠りこけていたことも、そして明け方近くに俺がわざわざもとの布団へ戻してやったことも。
結局俺は、一睡もできぬまま朝を迎えたのだった。
「小太郎ちゃん、ちゃんと食べないと夏バテしちゃうよ」
鮭の塩焼きを頬張るなまえに、もはや怒る気力も湧いてこない。誰のせいでこうなったと思ってる。
幸い、祖父は本当に一晩寝て回復したらしく、朝早くに「朝食を食べた頃を見計らって迎えに行く」と連絡が入った。
結局朝食にはほとんど箸が伸びず、水を少しだけ飲んで、すぐにチェックアウトすることにした。
鍵を受付に返す際、あの老婦人が「楽しかったかしら〜?」と満面の笑みで聞いてきたので、丁重に無視して宿を出た。少なくとももう二度とここには泊まらぬと強く心に誓った。
祖父が到着するまであと10分ほどかかるらしい。ロビーに戻るのも癪なので、宿の軒先で日を避けてしばらく待つことにした。
軒先には風鈴が飾られ、海風が吹くたびにガラスの透き通った音を響かせる。なまえは俺の横に並んで、珍しく静かに佇んでいた。
「ねえ、小太郎ちゃん! これ見てよ」
突然、なまえがスマホを弄りながら、画面を指差した。
スマホの画面はなまえの方を向いているため、こちらからは上手く画面が見えない。
見ろと言うならこちらにスマホを向ければいいだろうに。
仕方なく腰を屈めて、なまえの持つスマホへと顔を近付けた。
その時。
スマホを眺めていたなまえの顔がこちらを向いた。
至近距離でなまえの双眸が真っ直ぐに俺を射抜く。
「助けてくれてありがとう」
頭上で風鈴の音がした。
柔らかな感触が唇に触れた。
一瞬、世界の全ての音が止んだ。
それから永劫にも似た一瞬が過ぎ去って、燃えるように熱い感触が唇を離れたと同時に、再びつんざくような蝉の鳴き声が周囲に降り注いだ。
押し寄せる波の音がやけにクリアに聞こえる。
腰を屈めたまま固まる俺を見て、悪戯が成功した子どものように、なまえが笑った。
「この間のお返しね」
すぐさま、先日の出来事が脳裏に蘇る。
死んだ金魚を手にしながらわんわんと子どものように泣き叫ぶなまえと、勢いで奪ってしまった唇と。
なまえはおどけたように肩をすくめると、何事もなかったかのように一歩足を引く。
──その腕を、無意識に掴んでいた。
なまえが驚いたように目を見開く。戸惑ったように俺の顔をもう一度見上げて、小さく下唇に力を込めた。
「小太郎ちゃん、だめだよ」
「………………」
「一回ずつなら、言い訳の範囲内。だけど二回目は──そうじゃなくなっちゃう」
じっとりと、むせ返るような暑さがうなじにじんわりと汗をかかせる。
なまえの首筋にも、同じように汗の滴が伝っていた。
なまえは目を逸らさない。
降り注ぐ蝉の声、打ち寄せる波の音、時折思い出したように揺れる風鈴の甲高い響き。なにもかもうるさくて、煩わしくて、照りつける太陽で世界がぼんやりと白く霞んで、眩しい。
白飛びした世界の中で、なまえの姿だけがはっきりと目に焼きついた。
なまえの頬に零れた髪を指で掬い、耳にかけてやる。
それになまえは大きく目を見開くと、ふ、と観念したように微笑んだ。
言い訳など──どうしてする必要がある。
頬に手を添えれば、なまえは大人しく目を閉じた。
静かだ。
蝉の声も、波の音も、風鈴の音色も、何も聞こえなかった。
なまえが喋っていない世界はこんなにも静かなのかと、俺はその時初めて知った。
音のしない世界で、なまえの唇だけが夏を煮詰めたようにどこまでも熱かった。