bsr短編
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小田原の桜が咲き誇る頃、北条家主催で開かれた茶会の席で突如として空から降り落ちてきた謎の娘を、雇い主である翁は「ご先祖様が遣わされた天女ぢゃ!」と崇め奉ると、そのまま城の離れに住まわせ、おまけに天女の世話係として俺を指名した。
たまたま、空から落ちてきたその娘を捕らえたのが俺であったというだけなのだ。
ただ意識を失ったまま落ちてくる娘を抱えた瞬間、あまりの軽さに、まさか本当に天女ではあるまいかと一瞬だけ狼狽えたことを時折思い出す。
しかし目を覚ましてみれば、落ちてきた娘はまるで天女とは言えぬ有り様だった。
まずもってやかましい。起きるなりここはどこだの、お前は誰だの、褥から飛び起きては寝巻きの乱れるのも気にせず部屋の中を逃げ回り、挙句人の顔を見てわんわんと泣き喚く姿は天女と言うよりも童のようだと思った。
おまけに、一人でろくに着替えすら出来ない。
化粧の仕方も、髪の整え方も知らぬ。
あまりの酷さに一から着付けしようとすれば変態だなんだと大声で喚いて逃げ回る始末で、手に負えるものではない。
最初こそ雇い主からの「丁重にお世話するのぢゃぞ」との命に忠実に従っていたものの、いい加減嫌気が差し、半ば押さえつけるように無理やりそれなりな格好に仕上げれば、娘は鏡に向かってぽかんと間抜けな面をしたまま、「お姫様みたい……」と訳の分からぬことを呟いていた。
大人しくなったのならばそれでいいと、しばし鏡を見つめる娘の横顔を眺めていたが、ふと、娘が視線をこちらへと向けた。それから一言「ありがとうございます」と礼を述べると、照れたように苦笑する。
その顔は──そう悪くはないと、何故かそう思ったのだった。
絢爛豪華な着物に打掛、珊瑚や鼈甲の髪飾りに、金銀螺鈿と蒔絵の煌びやかな調度品の数々。
娘は雇い主曰く〝北条家の栄光を確たるものとする天女〟として、それこそ一国の姫君以上の待遇で囲われたが、どうにもあの娘はそれが不満らしい。
隙あらば離れから逃げ出し、あまつさえ城の外へと出ようと試みること、はて何度に渡ることか。
その度にひっくり返る勢いで大慌てする女中たちに呼び出されては、どうか見つけてくれと涙ながらに懇願され、うんざりしながら城中を探し回る羽目になるのだ。
当の本人と言えば、一体どこで知ったのかと言いたくなるような、普段まるで使われていない城の抜け道などに隠れており、挙句、捕らえに来た俺の顔を見ると何故か悔しがるでもなく、毎度悪戯が成功した童のように笑顔を見せて喜ぶのだ。
「見つかっちゃった」と肩をすぼめながら娘が鼻先を擦ると、手に煤がついているせいで、鼻先が黒く汚れる。よくよく見れば頬も所々煤で黒く汚れていた。
一体どこを這いずり回ってきたのか知らないが、見すぼらしくて見ていられない。今朝だって、誰が着付けしてやったと思っているのだ。
見せつけるように深々と目の前でため息をついてやると、何故かこれまた娘の機嫌が良くなる。
意味が分からない。
唯一の救いは、見つかればすぐに逃走を諦め、大人しく自分から離れへ戻ろうとする点だろうか。
「風魔さんは隠れんぼが強いなぁ」などとふざけたことを抜かすので、こちらに近付いてきたのを見計らって汚らしい顔の煤を拭ってやれば、存外その頬は柔らかく、大人しくされるがままに目を瞑る顔は、まだどこかあどけなさが残る。
煤の取れた傷ひとつない綺麗な顔を眺めながら、どうかそのまま小綺麗な格好をして、離れで大人しく琴でも弾いていてくれればどんなに良いかと、願わずにはいられなかった。
不意に視界の隅で鈍い呻き声が上がり、それまでぼんやりとしていた頭が急激に現実へと引き戻された。
呻き声のした方で、黒づくめの忍装束を着た影がぐらりと地に倒れ込む。
ふと周りを見回せば、いつの間にやら己の周りには同じような忍の屍が累々と積み重なっていた。
ああそうか、そういえば今宵は国境(くにざかい)付近の警備に当たっていたのだった。
はて、一体いつこの屍の山たちが己に襲い掛かり、いつそれを返り討ちにしたのか、まるで覚えてもおらぬが、いかんせん、その程度の忍であったということだろう。
なんせ今夜は月が明るい。
忍にとっては致命的な、闇の少ない夜に事を起こす決断自体が、三流のそれなのだ。
静まり返った山の中、梢枝の間から覗く月を見上げる。
煌々と青白い光を放つ月は、あの娘もよく見上げていた。
もう寝ろと諫めても、そんな夜に限って娘は普段の負けん気がなりを潜め、ただ困ったように眉を八の字にして笑い、「もう少しだけ」と弱々しく返すのだ。
曰く、月だけは娘の〝もと居た世界〟と同じであるらしい。
もし娘が本当に天女であるならば、それは雲の上を意味するのか。
本当に雲の上にもう一つの世界が──天上界なるものがあるのか、俺には計り知れぬ。
ただ少なくとも、縁側にへたり込み月を見上げるその小さな背中が、天上に住まう天女のものとは、俺には思えなかった。
ただの、一人の娘である。
突然空から降り落ち、訳も分からぬままにこの世界に馴染もうと、あるいは己の居場所を探そうとする、ちっぽけな背中である。
帰りたいのかと問えば、目線を下げ、「分かりません」とだけ返した。「ただ……」と娘が更に続ける。
「風魔さんが隣に居てくれる夜は、寂しくありません」
まっすぐ俺の顔を見据えてそう告げた娘の顔が、何故か未だに脳裏に焼きついている。
綺麗だと思った。
同時に、消えてしまいそうだとも思った。
それから──消えてくれるなと、何故かそう望む己に、戸惑った。
もう一度、記憶の波の中から意識を現実へと戻す。
あの娘は、今宵もあの月を見上げているだろうか。
ふと胸の奥がざわつき、それから──無性に、あの娘の顔が見たくなった。
理由は分からぬ。ただ、おそらく今宵はもうこれ以上、間抜けな忍が国境(くにざかい)に来ることはないだろう。念のために己の分身を一人、見張り役に置いておけばそれでいい。
故に。
地を蹴り上げ、梢枝へと足を掛けると、木々の合間を縫うようにして城を目指す。
突然現れた俺を見て、あの娘は果たしてどんな顔をするであろうか。
出来ることならば、初めて着付けをしたあの日のように、少しはにかんだ、穏やかな顔であればいい。
そうすれば──この胸の奥に巣食うざわつきも、収まるだろうか。
風の如く、山あいを抜けていく。
何をそんなに急ぐ必要があるのか、自分でもよく分からない。ただ、今宵は月明かりが一段と寒々しい。
同じ月の光が天女の住まう離れにも、そして縁側で空を眺めるあの娘にも燦燦と降り注いでいるのだろうか。
そう思うと、それは随分と侘しい光景のように思えて、不思議と梢枝を蹴る足に力が入った。