bsr短編
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夢を見た。
月が雲に見え隠れする夜半。
小太郎さんが、森の中に佇んでいた。
その傍には、定期的に彼を雇い入れる、あまり好きではない梟雄、松永久秀の姿が見える。
その松永氏が、何かしら彼に向かって話しかけているようだが、ボソボソとしたその声はここからでは聞き取れない。
もう少し近付いてみたい気もするが、いくら夢とはいえ二人に気付かれてしまいそうで、いや、気付かれたからといって何か問題がある訳でもないのだけれど、なんとなく私はふわふわと、その場に佇んでいるのか浮いているのか分からないような足取りで、黙って彼らを眺めていた。
不意に、それまで叢雲に翳っていた月が顔を出し、木々の合間を縫って月光が降り注ぐ。
すると突然、小太郎さんの身体が金色の光に包まれたかと思うと、その身体は小さな光の玉の集合体となり、ふわふわと蛍のように分離し始めた。
何が起きているか理解できず、ただ目を見開くしかない私の目の前で、小太郎さんが、否、小太郎さんだったはずのものが、無数の光の玉に分解されていく。
小太郎さんが、消える。
小太郎さんの形が、無くなっていく。
光の玉は蛍のように辺りをふわふわと漂いながら、月に向かって昇っていく。
待って。
行かないで。
どこに行くの。
もうこれ以上は黙って見ていられず、空に昇っていく光たちを追いかけようと足を一歩前に出すが、夢の中では足が思うように動かず、今すぐ駆け出したいのにゆっくりとしか前に進んではくれない。
そんな私を置いて、光は空へ、雲へ、昇っていく。
いやだ。
いやだ、いやだ、いやだ。
小太郎さん、行かないで。
お願いだから。私を置いて行かないで。
動かない足の代わりに手を伸ばす。
だけどもう随分と天高く昇ってしまったその光に、私の腕は届くわけもなく。
光が、虚空に消えていく。
空を見上げる私の目の前で、伸ばした手の先で、光が、──小太郎さんが、消えて、無くなる。
いやだと、気がつけば子どものように叫んでいた。
勝手に瞳からはボロボロと大粒の涙が溢れ出てくる。
もう空には光は無い。
誰も、そこには、残っていない。
いやだ、いやだと、口からはどうすることも出来ない拒絶の言葉だけが次々と零れ出る。
涙で視界が滲んで、星空すら見えなくなる。
固く瞼を閉じて、絞り出すように涙を流してからもう一度目を開けたところで、私の瞳はようやく、夢から現実の世界へと戻ってきた。
視界はぼんやりと霞んでいる。
寝起きでまだ上手く焦点が定まらない。
夢の中で流していた涙は、現実でも止めどなく溢れ出ていたらしい。
頰を伝う雫の感覚と、涙で滲む視界が、そのことを私に伝えていた。
何度か瞬きを繰り返して、瞳に溜まった涙を押し出せば、ようやく見慣れた天井が薄暗がりの中で浮かび上がる。
泣いていたせいで鼻が上手く使えず、口呼吸を繰り返す。
口から漏れる吐息の音はまるで、泣き声にも似ていた。
頰を伝う涙を寝巻きの袖で拭って、それからすぐに、言いようのない不安が胸の奥から込み上げて、たまらず、褥から身体を起こした。
「………小太郎さん?」
誰もいない室内で、小さく彼の名を呼ぶ。
しんと静まり返った室内には、返事はおろか、彼の気配すらしない。
それが、さらに胸の奥をざわつかせる。
彼が突然私の世界に飛ばされてきたのが、丁度一年半前。
それから、帰る手段を見つけた彼によって半ば無理やり私がこの世界に連れて来られたのが、今から半年前のこと。
私の存在は直ちにこの庵の中に隠され、この世界の誰一人として、私という異質な存在がここに居ることを知らない。
この戦国の世で、何の力も知識もなく、一人では到底生きていけない私を、小太郎さんはこの庵に匿って、十分すぎるほどの生活を与えてくれた。
いつだって忙しく任務をこなす彼は、なかなかこの庵に帰っては来ない。
長く長く続く一人の時間には、もう慣れてしまった。
だけど、それでも必ず、私のすぐそばにはいつも彼の分身が控えていて、何かあった時には、名前を呼べばすぐに姿を現してくれた。
きっと分身を出し続けるのはすごく集中力がいるだろうに、何度断っても小太郎さんは頑なに分身を解こうとはしなかった。
それなのに、今日はその分身の姿がいつまで経っても見えない。
「小太郎、さん。小太郎さん」
もう一度、今度は少しはっきりとした声色で、彼の名を呼ぶ。
だけどやはり、どこにも、彼の気配は無くて。
胸のざわつきが、今度は痛みとなって心臓を締めつける。
やめて。
考えたくない。
そんなこと、あるわけない。
ただ怖い夢を見ただけなの。
だから一目顔を見れれば、安心して、また眠れるから。
だから、お願い、早く──
早く、その姿を、見せて。
だけど、待てども待てども、愛しいその姿は現れない。
誰もいない薄暗がりの庵の中で、彼の名を呼ぶ私は、まるで何も存在しない虚空を求めているかのようで、虚無感だけが胸に押し寄せる。
まさか。
まさか、本当に。
あの夢の通りに、小太郎さんは、もうこの世には──
「っ……小太郎、さん…!」
頭の中に浮かんだ残酷な答えをかき消すように、暗闇の中、彼の名を強く、叫んだ。
すると頭上から降る、烏の羽根が、一つ。
目の前をゆらゆらと舞い、静かに床へと落ちるそれを、呆然と目で追いかける。
次の瞬間、落ちた烏の羽根の向こう側に、よく見慣れた忍装束が見えた。
その光景に息を飲んで、顔を上げる。
僅かな月明かりだけが照らす薄闇の中で、いつも通りの彼が、小さな庵の中、窮屈そうに巨躯を屈め、床に片膝をついて此方を覗き込んでいた。
「っ、小太郎、さん?」
「…………………」
「っ、う、あ、小太郎さん……小太郎さん……っ!」
いつも通りの筈の目の前の光景に、どうしようもなく安心して、張り詰めていた緊張の糸が解けると同時に、瞳の奥から涙が溢れ出る。
突然顔を歪めて泣き出す私の肩を、小太郎さんが優しく抱き寄せる。
たまらず彼の胸に顔を押し当てれば、トクトクという心臓の鼓動が確かに耳に届いて、ああ、良かった、生きていると、嗚咽にも似た吐息が口から零れた。
ぎゅうぎゅうと彼の背に腕を回して抱き着く私は、きっとものすごく子どもじみているんだろう。
みっともないと思いつつも、それでも今だけは、彼の存在を全身で確かめずにはいられなかった。
そんな私を、小太郎さんは驚く素振りも見せず、ただ黙って、優しく頭を撫で続けてくれた。
「ごめんなさい、突然取り乱して…」
「…………………」
「……怒らないでください、ね。すごく……すごく怖い夢を、見たんです。小太郎さんが光になって、空に昇って、消えてしまう夢。それが怖くて、怖くて……だから」
「………………」
「小太郎さんに……会いたかった、です」
一回り以上違う大きな、少し武骨なその手が、私の頭を包むように撫でる。
その手つきが、どつしようもなく優しくて。
口から次々と、恥ずかしい筈の本音たちがポロポロと零れ落ちてしまう。
せめてこんな顔を見られないようにと彼の胸に顔を押しつければ、まるでそれに応えるように、頭を撫でている腕とは反対の腕が、私の腰を強く抱き寄せた。
小太郎さん。
ごめんなさい。
今日は、もう少しだけ、このままで居させてください。
あなたがどこにも行ってしまわないように。
ここから、消えてしまわないように。
今はこのまま、あなたを抱き締めていたいのです。
だから、どうか。
そう心のうちで呟いたつもりだったけど、それはどうやら無意識のうちに言の葉になっていたらしく、小太郎さんは私の膝下に腕を回して軽々と抱え上げると、床に腰を下ろし、膝の上に私を横抱きにした。
それから、褥の上に転がっていた夜着を引き寄せると、私の身体を包み込んだ。
彼の優しさに、今日だけは甘えさせてもらおうと、私は彼の背へと腕を回し、その胸元に顔を寄せる。
ほとんど匂いのしない彼の、僅かに香る森の匂いを感じながら、それからゆっくりと、瞼を閉じた。
※
すうすうと、己の腕の中で寝息を立て始めた娘の寝顔に視線を落とす。
その表情は穏やかだが、目元と鼻が僅かに赤く腫れ上がり、涙の痕跡が見える。
いくら呼んでも姿を現さない俺に、随分と不安を覚えたことだろう。
俺が必ず傍にいると信じて疑わないその健気さに、思わず歪んだ笑みが漏れる。
彼女をそう仕立て上げたのは、他でもない俺自身なのだ。
どこにもやらず、誰の目にも触れさせず、俺が居なくてはこの世界でろくに生きていけないほど無力なまま、何も教えず、ただ俺の与えるものを与えられるがままに受け入れるように、俺が、そうさせたのだ。
そのことに一つの疑問すら抱かず、素直にそれを受け入れる彼女の無垢さが、俺を失うことに心の底から怯え泣いて縋るその姿が、どうにも庇護欲と独占欲を煽る。
愚かな。
お前を置いて、まだ、逝けるものか。
真名を言い当てられ、この世に己の存在を保てなくなった俺を再び呼び止めたのは、他でもない彼女の声だった。
真名でないその名は、本来ならば意味を持たない。
しかし、彼女は確かに俺を指して、その名を強く呼んだ。
名とは、呪いであり、祝詞である。
この世にその者の存在を強く縛りつける、楔である。
一度は崩壊した己の身体は、今確かに、再びこの世に楔を打ち込まれた。
俺は──風魔小太郎、だ。
彼女がそう望む限り。
彼女が強く、強く、その名を呼ぶ限り。
まだ逝くわけには、いかぬ。
肩にかかるなまえの髪を指先で軽く弄ぶ。
この、俺の腕の中に簡単に収まるほど小さく、ひ弱な存在が、皮肉にも俺をこの世に繋ぎ止める唯一の楔なのだ。
だとしたら、今しばらくは、このままこの腕の中の温もりを感じていても良いだろう。
何、多少長引いたとて、バチも祟りも当たりはせぬ。
今己の眼に映るものが、この腕の中の温もりが、ただ雲の合間に見えし早すぎた夢だと嗤うのならば、好きにすれば良い。
この名を呼ぶ声が、消えて無くなるその日までは。
俺は、醒めぬ夢を、見続けるのだ。