bsr短編
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ふと目覚めると、昨晩まで腕の中に収まっていたはずのなまえの姿が無かった。
代わりにキッチンから包丁のリズミカルな音が聞こえてきて、釣られるようにしてベッドから起き上がる。
リビングへと続く扉を開ければ、ふわりと鼻腔を掠める、味噌汁と、卵焼きの甘い香り。
そういえばなまえの作る卵焼きは甘かったなと、ぼんやりとそんなことを考えていると、こちらに気がついたなまえが冷蔵庫を閉めながらくるりと振り向いた。
「あ、小太郎さん。おはようございます」
真っ赤な無地のエプロンは、数年前に俺が彼女に贈ったものだ。
当時はまだ別々のマンションに住んでいたから、たまに彼女の部屋で手料理を振る舞ってもらう時にしかあのエプロン姿は見られなかったが、同棲し始めてからはそれも日常の風景と化した。
「もうちょっとで出来ますから、先に顔を洗ってきてくださいね」
言われるがまま洗面台で顔を洗い、それからリビングに帰る途中でふと思い出し、収納棚からキッチンペーパーとゴミ袋のストックを取り出して料理中の彼女へと見せれば、ぱっと目の輝きが増した。
「あー、そうでした! どっちももう無くなりそうだったんで、取ってこようと思ってたところだったんです。ありがとうございます!」
ただ昨日、夕飯後の食器洗いをしていた時にふと気がついたから持ってきただけなのだが、なまえはそんな些細などうでもいいことに対しても必ず笑って礼を言う。
そういうなまえの礼儀正しさが、俺は好きだった。
彼女が味噌汁の味の最終確認をしている間に、キッチンペーパーとゴミ袋を所定の位置にセットして、ついでに二人分の食器を取り出し、机に並べていく。
ふと、机に箸を置いたところで、顔を上げた。
キッチンに立つなまえが俺に背を向けて、味噌汁をよそっている。
少しだけいつもより遅く起きた朝。
二人で買ったパジャマ代わりのジャージ。
彼女が料理をして、俺はテーブルの用意をして。
互いに何か言うでもなく、自然にそれぞれが今やるべきことをやって作り上げる、休日の朝。
こんな穏やかな朝を、俺は知らなかった。
誰かと生活を共にするなんて、面倒しか無いと、そう思っていた。
それなのに。
ふわりと室内に充満する朝食の香りが肺を満たし、その瞬間、ああ、今だと。
今この瞬間に彼女に〝伝えなくては〟と、気がつけば衝動的にリビングを飛び出して鞄の中から例のものを取り出すと、ちょうどコンロの火を止めたばかりの彼女を後ろから抱き締めていた。
「こっ、こた、ろう、さん?どうしたの?」
少しだけ上擦った声で、なまえが戸惑ったように振り向く。
その唇を、有無を言わさず塞いだ。
突然のことになまえの身体が一瞬強張るが、すぐに力を抜いて俺を受け入れる姿がどうしようもなく愛おしい。
薄目を開けて、彼女がしっかりと目蓋を下ろしていることを確認する。
それから僅かに開いた唇の隙間に舌をねじ入れ、それと同時に彼女の左手を絡め取った。
違和感を感じ取ったなまえの左手が、小さく反応する。
もう少しだけ、と逃げ回る舌を口腔内で追いかけ回すが、それどころではないとでも言いたげに、ふいと顔を離されてしまった。
そして、恐る恐る顔の前まで上げられた彼女の左手の薬指には、小さなダイヤのついた指輪が、一つ。
予感が確信に変わり、なまえが驚きと喜びで目を白黒させ、それからその瞳は徐々に潤んでいく。
「小太郎、さん、これ、これって」
信じられないものを見るような顔で、彼女が何度も指輪と俺の顔を見比べる。
本当は今日の計画では、1日どこか買い物にでも出掛けて、夜はそれなりにいいレストランにでも行き、最後に夜景の綺麗なところに連れて行って、そこでこの指輪を渡そうと、そう思っていた。
いざ心の内を決めたところで、プロポーズなど、どうすればいいのかさっぱり分からず。
それくらいしか気の利いたことなど思い浮かばなかったというのが正直なところだが。
試しに数日前に猿飛に意見を求めたところ「超王道……」と何故か笑われたので、強めに脛を蹴っておいた。
だがその計画も何もかも、あったものではない。
ほぼ衝動に近かった。
彼女の背中を眺めながら、本当に、ごく自然に思ってしまったのだ。
──彼女と結婚したい、と。
こんなプロポーズでは彼女は嫌がるだろうかとか、そんなことにさえも気が向かず。
俺にとっては、洒落たレストランよりも夜景よりもなによりも、今目の前にある彼女とのこの何気ない日常の方が、ずっと、ずっと、愛おしくて、たまらなかった。
指輪を見つめて涙ぐむなまえの前で、床に片膝をつく。
それから彼女の両手を取れば、意思を汲み取ったなまえは目尻に涙を浮かべて、それから花が綻ぶように、笑った。
「不束者ですが、末長く、よろしくお願いします」
次の瞬間、耐えきれなかったように、なまえが勢いよく俺の首へと抱きつく。
彼女の首筋から俺と同じボディソープの香りがして、ああ、そういえばあれも二人で選んだブランドだったなと、生活の何もかもに彼女の存在が染みついていることを実感する。
胸のうちに燻っていた緊張が完全に解け、そのまま彼女の痩身を軽々と抱き上げると、朝食の準備が整ったリビングを飛び出してベッドルームへと足を運んだ。
流石に驚いたなまえが「お味噌汁が冷めちゃいますよ!」とかなんとか人の胸で騒いでいるが、知ったことではない。
どうせ今日の予定は、先ほどあっけなく本懐を遂げてしまったのだ。
次に二人が起きる頃には、日が傾いているだろう。
そうだな、せっかくの記念日になるのだから、夕飯に計画していたレストランくらいは行ってもいいかもしれない。
ああしかし、俺はそんなものよりなまえの作った味噌汁と卵焼きの方が食べたい。
まあ、いい。
起きてから、二人で裸で抱き合いながらベッドの中でどうするか相談すればいいことだ。
その時間もまた、たまらなく幸福なのだから。
そうしてずっと、ずっと、そんなくだらない、馬鹿みたいに能天気な幸福を二人で噛み締めながら、歩いて行こうではないか。
なあ、なまえ。
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