鳴かぬ蛍が身を焦がす
なまえ
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雨が、降っていた。
雫が屋根を打つ音だけが、静寂の中に響いている。
なまえは一人、庭に面した寝所の広縁に座り込み、雨音の響く夜闇をじっと見つめていた。
「なまえさま」
楓が背後から気配もなく声をかけた。いつもなら肩を小さく震わせて振り向くはずのなまえは、動じることなく座している。
楓はしばらく無言でなまえの背中を見つめていたが、なまえに振り向く気がないことを悟ると、静かに用向きを告げた。
「知らせが入りました。長は、今夜屋敷にお戻りになられるそうです。先ほど小田原を発ち、こちらに向かっておられます。もう間もなくお帰りになられるかと」
「そう」
「……お身体が冷えます。長を待たれるのであれば、どうぞ中へお入りください」
「あの方は」
楓の言葉を遮るように、なまえが呟いた。
「あの方は今も、雨に降られているのでしょう」
楓の言葉が一瞬、詰まった。
「我らは生まれついての忍です。雨も、雪も、痛みも、我らは慣れています」
「でも、痛まないわけではないのでしょう」
なまえは、振り返らぬまま淡々と告げる。雨音が帳のように、外界を隔絶していた。
「痛みも、寒さも、冷たさも、──寂しさも。感じないわけではない。ただそれに蓋をして仕舞い込むのが、誰よりも上手なだけ」
たとえそれが、血を流すほどの激痛であっても。
「……それが忍です」
「私は、そうはなれそうにありません」
「あなた様がそうなる必要はありません。──引佐の言葉なら、どうか気になさらないでください。あれは少し……焦っているのです。あなた様一人を責めたところで、どうにかなるものでもないと言うのに」
「いいえ、やはり私が悪いのです」
なまえがはっきりとした声を上げた。
「私に、忍の妻となる覚悟が足りなかったから」
なまえが振り返る。青白く色を失った無機質な表情は、楓を見据えると困ったような笑みに変わった。
「まさか私が武家の、それも北条の血を引いていたなんてね」
楓は返す言葉を探したが、すぐにこれは会話でなく独白であると悟った。開きかけた唇を再び閉ざす。
知るべき事実と知らなくていい事実がこの世にあるとしたら、なまえにもたらされた真実は紛れもなく後者だった。
「旦那様は、ずっと私を娘として見てくださっていた。だから、あんなに優しかったのね」
言葉を返さない楓に、なまえが諦めたように目線を再び庭へ向ける。沈黙する室内に、雨音だけがせせらぎのように響いている。
「私は何も知らないまま、すべてを捨ててきてしまった」
お屋敷に、城に、小田原に。乞われるがまま、従順に。犬のように。
「そうしてまた──いちばん大事なものを、失おうとしてる」
なまえの背筋がす、と伸び、それからゆっくりと立ち上がった。
「本当に私は、大ばかね」
するりと、打ち掛けが肩から脱ぎ落とされる。
「なまえさま?」
楓の言葉を無視して、なまえはそのまま裸足で雨のそぼ降る庭へと降り立った。突然の行動に、楓が目を見開く。
「お待ちください、どちらへ行かれるおつもりですか」
「大丈夫。あの方を出迎えに行くだけ」
「今、傘をお持ちします。ですから中へお戻りください」
「それでは意味がありません」
雨音をかき消すように、なまえのはっきりとした声が闇夜に木霊した。楓が見つめる前で、少しずつなまえの黒髪が雨に濡れていく。
「何もかも捨てて、何も満足にできなくて、私に残っているのは、この身だけ。今の私にできることは、これくらいしかないの」
「なりません、なまえさま!」
「下がりなさい」
なまえの低い声が、楓の駆け出そうとする足をその場に縫い留めた。これまでに聞いたことがないほど、はっきりと意思を持った言葉だった。
「来ることは許しません。あの方は今夜も『あの場所』に寄ってから戻られるのでしょう。だとしたら、そこに立ち入っていいのは私だけ。ほかの何人たりとも近付くことは許されない禁域──そうでしょう?」
楓の足は、それ以上前へと動かなかった。
なまえを止めなくてはいけない。そう頭では分かっているはずなのに、今の己は彼女と同じ雨に打たれてはいけないと、楓の本能がそう告げていた。
「楓」
なまえがもう一度振り向く。夜雨に打たれながら、なまえは痛みに耐えるように眉根を顰め、楓を見た。
「つらい思いをさせましたね」
なまえは楓に向かって深々と一礼すると、もう振り向くことはなかった。ぺたぺたと、なまえの足が庭を歩き出す。
「あの男は」
呆然とその様子を見送っていた楓が、息を吹き返したように声を張り上げる。
「あの男は──忍として生きるには、優しすぎました」
わずかに潤んだ語尾は、そのまま雨音と同化してかき消えた。
なまえは何かを考え込むように一度足を止めたが、そのまま振り返ることなく再び歩き出すと、雨のそぼ降る闇の中へ消えていった。
* * *
ごうごうと絶え間なく落ち続ける滝の音に、しめやかな雨音が混じる。滝壺周辺にはしっとりと湿り気を帯びた靄が立ちこめていた。
全身にこびりついた他人の血が、雨に溶かされ滴り落ちていく。髪にも、刃にも、指先にも、人の脂の臭いが隅々まで染みついている。
──早く、洗い流さなければ。
風魔は木々の合間を素早く跳躍すると、滝の麓へと舞い降りた。その直後、風魔の手が素早く背の対刀へかけられる。濃い靄の向こう、白い闇の奥に、かすかに人の気配がした。
ここには部下も誰一人として立ち寄るなと伝えてあるはずだ。靄の向こうに神経を研ぎ澄ます。
その気配には、覚えがあった。
対刀にかけられていた風魔の手が開かれる。
まさか。
初めて風魔は己の読みを疑った。そんなことはあり得ない。なのに、そのあり得ないことが現実になっている事実に、一瞬困惑した。
何故。どうして。
靄の奥から人影が近づいてくる。月明かりはない。辺りはひたすら闇に覆われている。あちらから己の姿は見えていないはずである。
「小太郎様」
再び、風魔の心に今まで経験したことのないブレが生じた。それを人は『動揺』と呼ぶことを、風魔は知らなかった。
ただ茫然と、夜雨の中を一人裸足で近づいてくる己が妻の姿を眺めていた。
「闇とは、目が慣れるといろんなものが見えてくるものですね」
なまえがよろよろと足を前に進める。着物の裾は泥で汚れ、素足は傷まみれだった。それでもなまえは足を止めず真っすぐに風魔へと向かっていく。気がつくとなまえはすぐ目の前まで迫っていた。風魔はふと我に返ると、なまえから一歩距離を取った。
「行かないで」
か細い嘆願が、風魔の動きを止めた。
「お願いです。どうか、そのままで」
ぺたぺたと、雨音の中、土を踏みしめる音が響く。まだ水浴びをしていない体は血で染まっている。雨に流されているとはいえ、これほど近付けば嫌でもその臭いは鼻につくはずである。
それでも、なまえの白い指は風魔へと伸ばされた。
刹那、先日の出来事が風魔の脳裏をよぎる。
血に濡れた己を見るなまえの、恐怖にまみれた表情と、化け物を見るような怯えた目。
触れては、いけない。
忍としての己は彼女に近付いてはならないのだと、その時風魔は悟ったのだ。
それなのに、なまえの「行かないで」という一言が、風魔を呪縛のようにその場に縫い留めていた。
なまえの指先が、風魔の胸に触れる。
そのまま体表を滑るように両の手を風魔の背へと回すと、頬を寄せてぴったりと体を密着させた。
「おかえりなさいませ」
さらに強く、なまえの腕が風魔の背を抱いた。
その腕も、肩も、髪も、顔も、全身が余すとこなく雨に濡れている。風魔の体に纏わりついた血が、なまえの体へと滲み、移っていく。血の匂いが、なまえの体を包んだ。
「冷たかったでしょう」
なまえが顔を上げた。その頬が風魔の装束から移った血で赤く濡れている。小さな両手が風魔の顔へと差し伸べられるが、その手も同じく赤く濡れていた。
呆然となまえを見下ろす風魔の頬を、なまえの手が包む。手のひらからは、いつものなまえの柔らかな香りでなく、鉄と泥の匂いがした。
「ごめんなさい。あなたから逃げてしまって」
なまえの瞳が滲んでいた。頬を流れる涙はすでに雨と同化してしまっている。
「もう、逃げません。たとえ地獄の底だろうと、どこへでもあなたについて行きます」
風魔の兜から滴り落ちた雫が、なまえの頰に零れ、首筋を伝い落ちる。白く曝け出されたなまえの首筋が、妙に生々しく風魔の目に焼きついた。
「だから私を、あなたの妻にしてください」
✳︎ ✳︎ ✳︎
固く閉じた唇を、舌先が強引に押す。促されるままおそるおそる力を抜くと、ぬるりと肉厚な舌が口内に侵入し、なまえの肩がびくりと揺れた。
鎌倉での触れるのをためらうようなものとは違う、すべてを貪りつくすような深い口付けに、思考も何もかもが呑み込まれていく。
「ん、ぅ……」
酸素を求めて顔を逸らすと、わずかに空いた隙間から吐息とともに甘い声が漏れた。しかしそれすら飲み込むように、すぐにまた唇が深く塞がれる。
思考回路だけでなく、四肢からも蕩けたように力が抜けていく。すると狙い澄ましたように股の間に太い脚が割り込み、一気に互いの体の距離を縮めた。
開いてはいけないところを押し広げられる不安感から、なまえの腰が無意識で逃げそうになる。それを、風魔の大きな手が逃すまいと掴み、なまえは崩れるように褥へ仰向けに寝かされた。
夜着の隙間から筋張った男の手が侵入し、柔い太ももを撫でる。
──いよいよ、なんだ。
股をゆるく膝で押され、感じたことのない異様な緊張がなまえの体を固く強張らせる。すると体の中心に向かってゆっくりと柔肌の上を滑っていた風魔の手が、ぴたりと止まった。
散々喰らい尽くされた唇も、静かに解放される。突然すべてがぴたりと停止してしまったことに疑問符を浮かべながら、なまえがおそるおそる目を開ける。風魔はなまえに覆い被さったまま、じっとその顔を見下ろしていた。
「どうかなさいましたか……?」
風魔を見上げるなまえの瞳に、生理的な涙が滲む。風魔はしばし考え込むようになまえを凝視していたが、そのうちゆっくりと体を起こすと、なまえから離れていった。
「あ……ま、待ってください!」
慌てたなまえが風魔を追いかけるように体を起こし、離れていくその腕を掴んだ。再び風魔の動きが止まる。
「ごめんなさい、あの、もう大丈夫です。怖くありません。だからどうか、やめないで」
真剣な眼差しが風魔を見上げるが、風魔は微動だにしない。当然、言葉も返ってくることはない。
居心地の悪い沈黙が褥の上に充満し、なまえは耐えきれなくなったようにさらに言葉を重ねた。
「お願いします。お気を悪くされたのなら謝ります。だから」
「……」
ね? と、媚びるような甘い声が自然と喉から漏れる。男を知らないなまえなりに精一杯の『女』を演じて見せるものの、風魔は相変わらずの無表情のままである。言葉が届かぬならばと掴んだ腕を引いてみても、ぴくりとも動かない。
もう一度、さらに強くなまえが風魔の腕を引く。
もう一度。
──もう一度。
何度繰り返しても、風魔が動くことはない。
「どうして……どうしてなのです。これほど懇願しているのに、どうして駄目なのですか」
なまえの表情がくしゃりと歪んだ。指先に力がこもり、掴んだ風魔の夜着に深い皺を刻む。気がつくと褥に引き込もうと引き続けていた手は、いつの間にか縋りつくように風魔の腕を抱えていた。
「なんで……もう、分かりません。私、ばかだから……ちゃんと言ってくれなきゃ、分からないです。私なんて……読み書きもろくにできないし、なんの力も無いし、忍働きもできないっ……だから、今の私にできることなんて、これしか──」
風魔の腕に縋りついたまま、次第に涙声になるなまえの肩を、言葉を遮るように風魔の手が強く押した。なまえが驚きで顔を上げる。いつもと変わらず無表情なままの風魔の顔は、しかし確実に、怒気を孕んでいた。
その微細な変化を、いつの間にか読み取れるようになっている事実になまえ自身驚くとともに、どうせなら何も理解できないままの方が、何も知らない分からない他人のままでいてくれたなら、きっと今こんなに自分が苦しむこともなかっただろうとも、また思う。
そう思うほど、ままならぬ現実がどうしようもなく、悲しいのか、嬉しいのか、悔しいのか、苦しいのか、もう何が何だか自分でもわからなくなったなまえの両の目から、気がつくと決壊したようにボロボロと涙が溢れ出していた。
「ごめん、なさい」
「……」
「ごめんなさい、ごめんなさい。うそです。本当はちゃんと、分かっているのです。あなたがとても優しいこと。私の心が定まるのを、ずっと待ってくれていること。全部ちゃんと、伝わっているんです。だけど、私」
風魔の指の背が、なまえの頬を伝う涙を拭いとる。それでも次々溢れ出る涙は風魔の筋張った指を伝い、手首まで流れ落ちた。
泣き止むどころかますます大粒の涙を流すなまえに、雨でしっとりと濡れた前髪を丁寧にかき分けて、風魔が額へと唇を寄せる。なまえはまるでそう教え込まれたかのように自然な動きで瞼を下ろし、接吻を大人しく受け入れた。
言葉は必要なかった。
そんなものがあろうとなかろうと、きっと、何もかも全部筒抜けなのだ。その上で、それでも彼は、待ってくれている。それでいいのだと、受け入れてくれる。
なまえに触れる風魔のすべてが、なまえが経験したことがないほど誰よりも優しくて、温かくて。雨に濡れた冷たい体が、風魔に触れられるたび、熱を取り戻していく。
人間に、戻っていく。
粉々に壊された心が、再び形を取り戻していく。
閉じたなまえのまつ毛がふるりと震えた。
好きです。
私、あなたが、誰よりも、好き。
額から眉根、瞼、目尻へと、なまえの顔じゅうに、ひとつひとつ丁寧に唇が降り落ちる。なまえはただ黙ってそれを受け止めていた。
なまえの頬に添えられた大きな手のひらに、一回り以上小さいなまえの手が重ねられる。同じように雨に冷やされたその手に、自分の熱が移るようにと願いを込めて。柔らかな手のひらが、風魔の手を懸命に包む。
気がつくと、なまえの涙は止まっていた。頬を伝う涙の跡を、風魔の唇がなぞる。
「すべて知っている」と、聞いたこともないはずの風魔の声が、なまえの耳奥でたしかに聞こえた気がした。
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