鳴かぬ蛍が身を焦がす
なまえ
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あの日から、小太郎様はただの一度も屋敷に帰られない。
引佐殿も、楓も、誰一人として離れを訪ねる者はない。
毎日、毎日、意味もなく縁側に座り込んでは、日がな一日、太陽が昇って沈んでいくのを眺めているだけの日々が続いた。
出されるがまま、うまく味がしない食事を黙々と口に運び、されるがままに着替え、誰も帰ってくることのない寝所で日中と変わらずいつまでも座り込む。
耳を圧迫するような夜の静けさは、一層孤独感を助長させた。
「なまえさま、少しよろしいですか」
久々に、人の声を耳にした。緩慢な動作で顔を上げると、縁側の端に引佐殿が立っていた。なんの感情も篭っていない黒々とした無機質な瞳が、私の顔を伺うようにじっと見据えている。
「──どうぞ、こちらへ」
黙ったまま見上げる私に、引佐殿は最初から返事など期待などしていないかのように淡々と、手のひらを廊下の奥へと差し向けた。促されるがまま、抗う理由も見つからず、ふらふらと立ち上がって引佐殿の後をついていく。強制されたわけでもないのに、思考を放棄して言われるがまま動く自分がまるで糸で吊るされた傀儡のようで、無様で、愚かで、滑稽で。今の私にはそれがお似合いだと思った。
引佐殿は廊下をどんどんと進み、勝手口から屋敷の裏へ回ると、ついには裏門を抜けて、屋敷の外へ出てしまった。ここに来て、いよいよ事態のおかしさに気付き辺りを見回すが、前を歩く引佐殿のほかに人影は見当たらない。
屋敷の外に出るのは──これがはじめてだ。
屋敷の周囲には風魔の里村が広がっており、数多の上忍下忍たちがそれぞれの屋敷やあばら家で暮らしていることは楓から聞いていたが、引佐殿は周囲のどの建物にも関心を示さず、村はずれに向って真っすぐ歩みを進めていく。
次第に民家もまばらとなり、最後のあばら家を超えてさらに森の中へと進んでいく。生活用の踏みしめられた道はいつしか獣道へと姿を変え、辺りは木々と藪が生い茂って昼間でも薄暗い。その獣道の果てに、小さなあばら屋が立っていた。
藁ぶきの屋根には苔が生え、人が住んでいる気配は感じられない。引佐殿は無言でそのあばら家の戸を開くと、躊躇なく中へと入っていった。
家の入り口を前にして、足が止まる。家の中は暗く、上手く中の様子が窺えない。どうしたものかと躊躇っていると、中からギィ、と板戸が押し開かれる鈍い音が響き、直後に「早く」と引佐殿の急き立てるような声が響いたので、おそるおそる足を踏み入れた。
あばら屋の中は、やはり居住空間ではなかった。土間も何もなく、地面が剥き出しの床の真ん中に、開かれた板戸と、その中から地下へと続く石造りの階段が顔を覗かせていた。
階段の先は暗くてよく見えない。
すう、と体の芯を撫でるような冷気が地表を這って足首に絡みつく。
扉の横に控えていた引佐殿が手持ちの燭台に火をつけると、家の中は煌々とした灯りに照らされた。そのままやはり何も言わず、引佐殿は階段を降りていく。その背中が「ついてこい」と語っていて、置いていかれないようおそるおそる階段を降りていった。
階段を降り切ると、今度は全面石造りの細い廊下が続いていた。四方八方から冷気が体に纏わりついてくる。手元の小さな灯りだけを頼りに、引佐殿が前を歩く。何も、音がしない。それが逆に恐ろしかった。人はおろか、生命の気配が一切感じられない無機質で覆われた道。それでいて、周囲にはなぜかとても恐ろしい空気が立ち込めていた。
いやな空気だ。
不快感に眉根を顰めるが、その原因がどこから生じているのか皆目見当がつかない。とにかく、ここにあまり長くいたくはない。
すると、石造りの廊下の奥に、錠前のついた扉が現れた。じっとりと湿度を帯びて黒々と闇に沈む扉は、まるで生きているかのようにも見える。その先に、行ってはならないと本能が拒絶していた。
理由も分からないまま、目の前でじっと息をひそめて立つその扉がどうか開かないでくれと願う自分がいる。引佐殿が錠前を外す金属音が廊下に響き渡った。「開けないで」と声を出すよりも早く、引佐殿の手によって扉はゆっくりと室内に向けて開かれた。
引佐殿が明かりを掲げながら扉の向こうの闇へ足を踏み入れる。引佐殿が明かりを燭台へと移すため横にずれると、部屋の真ん中に、人影が見えた。
見てはいけないと思うのに、ふらふらと吸い寄せられる蛾のように、足は扉の奥へと進んでいく。半裸の男が、猿轡を噛まされ腕を背で縛られながら、冷たい石造りの床に跪いて項垂れている。その横に、なぜか楓が立っていた。
「楓……?」
思わず声を漏らすと、目の前の男が勢いよく顔を上げた。真っ赤に充血した目がギラギラと獣のように光って私を捉える。その異様な迫力に、背筋がぞくりと震えあがった。
「怯えることはございませんよ、なまえさま」
すぐ隣から、この空気にはまるで似つかわしくない穏やかな引佐殿の声がした。引佐殿の手が優しく私の右手首を掴む。されるがまま深く考えず開いた手のひらの上に、ずしりと重い金属の塊が乗せられる。見るとそれは先端が鋭く尖った杭のような形をしていた。呆然と手のひらの中のなにかを見つめる私の目の前で、引佐殿の手が私の指を支え、しっかりとそれを包み込んだ。
「あの男の息の根を止めてくださいませんか」
「……え?」
先ほどと変わらず穏やかな声色で囁かれた内容があまりに声色と合っておらず、咄嗟に引佐殿の顔を見上げる。引佐殿はにこやかに笑っていた。
「ご安心ください。それは棒手裏剣と申しまして、刃先には複数種の毒を調合した秘薬が塗られています。体のどこに刺しても三十を数えるまでに確実に息絶えますから、これならあなたでも簡単に事をこなせるでしょう」
引佐殿が何を言っているのか、まるで理解できなかった。
なぜそんなことをしなくてはならないのか。
それもなぜ、わざわざ私にそんなことをさせるのか。
分からないことがあまりに多すぎて固まっていると、穏やかに細められた引佐殿の目が薄く開いた。その目の奥は、周りを取り囲む闇よりさらに深く、黒い。
「まだ不安ですか? すぐ隣にはあなたのお気に入りの楓も控えていますから、大丈夫ですよ。何かあってもすぐに彼女が助けてくれるでしょう。──いつものように」
「い、いや……この人は、なぜこんな……どうして殺らなくてはならないのです?」
「……そんなくだらないことを聞くんだな」
「え……?」
「いえ、なんでもありません」
黒々とした引佐殿の瞳が、歪むように湾曲を描いて笑みを浮かべる。
「この男は、裏切り者なのです。愚かにも同郷のくのいちに惚れこみ、あまつさえ里抜けを持ち掛けた、風魔一党の恥さらし。ですからどうぞご安心ください。これは殺してよいのです。さあ」
「そんな、どうして……どうしてわざわざ私に?」
「裏切り者の処分は本来ならば長自らが行うもの。ですが、あいにく長はしばらく任務が続くため里にはお戻りになられない。だが、こんなゴミを何日も生かしておくのは無駄でしかない──ゆえに、ここは長の代理として、その奥方様であらせられるあなたにこそ、この男の処分をお願いしたいのです」
引佐殿の両手が、暗器を握る私の右手を包み込む。そしてさらにしっかりと暗器を握らせるように、強く力を込めた。
「風魔一党の長の奥方として、これはあなたの務めなのです」
引佐殿の目は、もはや笑ってなどいなかった。黒々と見開かれた瞳孔が、逃がさないと言わんばかりに私をじっと射貫く。
「さあ」
もう一度引佐殿が急き立てるようにその言葉を口にすると、私の体は恐怖に突き動かされるように、おそるおそる床に跪く男の方へと向いていた。
猿轡を咥えたまま、肩で苦しそうに息をする男が、じっと私の顔を見上げる。ギラギラと光る瞳は、何かを訴えるように真っすぐこちらを見つめて逸らされない。暗器を握りしめたまま、その目から逃げられず立ち尽くしてじっと男の目を見返してしまう。
「おや、あの男の目が恐ろしいですか? 仕方ありませんね──楓」
「はい」
無表情の楓が男の後髪を掴み、頭を引き上げる。男の眼前に、楓の手にした苦無が迫る。
「やめて!」
私の叫びと、双眸を掻き切る音と、地の底から響き渡るような男の呻き声が木霊したのは、同時だった。あまりの光景に、思わず目を逸らす。男が地面に突っ伏す鈍い音が聞こえた。呻き声が止まない。私は気がつくと体を庇うように上体を丸め、耳を両手で覆っていた。
「早く楽にしてやったほうがいい。このままでは長く苦しみ続けるだけですよ。ご覧なさい」
優しい引佐殿の声がねっとりと纏わりつくように、指の間をすり抜けて耳穴にするすると入り込む。まるで呪縛が掛けられたかのように、その声の通りに体が動いてしまう。ゆっくりと、開けたくもないのに目が開いてしまう。
「あなたが殺してやるのです」
すぐ耳元で、引佐殿の声が響いた。
頭に霞がかかったようにふらふらと、男に近づいていく。男は掻き切られた両目からおびただしい量の血を流しながら、床でもぞもぞと芋虫のように呻き続けている。
──早く楽に……
──体のどこを刺しても……
引佐殿の言葉が頭の中をぐるぐると回る。そうだ。早く。早くこれを刺して、何もかも終わらせなければ。こんな悪夢は、私が終わらせなければ。だって私は、風魔一党の長の、妻なのだから。私がやらなくては。私が。私の責任で。
男に向かってゆっくりと右手の棒手裏剣を翳す。
すぐに、もうちょっとで、楽になれるから。
大丈夫、大丈夫だから。
床を這いつくばる男が、最後の力を振り絞るようにして顔を上げた。呻き声の合間に、猿轡された口を必死に動かして、もごもごと何か言葉をつぶやく。
「か、え、で」
手から、力が抜けた。
指の合間をすり抜けて、棒手裏剣が床に落ち、甲高い金属音を辺りに響かせる。見開かれた両の目からは、ぽたぽたと無数の涙がこぼれ落ちた。
背後で、深いため息の音が聞こえた。
「所詮は、ただの城女中か」
引佐殿が音もなく私の横をすり抜けると、目の前で、床に這いつくばる男の首が斬り上げられ、宙を舞った。
生暖かい血飛沫が顔にかかる。飛ばされた首がくるくると作り物のように幾重にも回転し、床に転がり落ちる。切り離された胴体から血が絶え間なく溢れ出し、足元には瞬く間に血だまりが広がっていく。地に落とした棒手裏剣が、血だまりの中に沈んでいく。あまりにも突然訪れた最期の光景に、条件反射のように口元を押さえて、溢れ出す血だまりから逃げるように足が後ずさった。
「血はお嫌いでしたかな」
引佐殿はこちらに背を向けたまま、刀の血を拭って鞘に納める。声は先ほどと打って変わってあまりにも冷ややかだった。
「なるほど。その様子では、長を受け入れるなど到底無理なわけだ」
くつりと、明らかに敵意を含んだ嘲笑が、血の臭いが充満する部屋に響いた。
「まあか自分が真の意味であの方の──風魔小太郎の妻になれるとでも思っていたのか?」
引佐殿が振り向く。何の感情も持たない顔が、路傍に転がる羽虫を眺めるような目で私を見下ろしていた。
「あなたは所詮、風魔小太郎の子を産む道具にすぎない」
「子、を……?」
「自分に、妻としての価値がほかにあるとでも?」
今度は面と向かって、嘲笑を浴びせられる。ぐにゃりと歪んだその顔は、今まで見たどの顔よりも一番感情が豊かに表現されていた。しかしすぐにその顔からは笑みが消え、今度はじっとりと睨みつけるように私を眺めると、小さく舌打ちをした。
「あなたはたまたま選ばれただけだ。あの方の子を成す器として。本来なら里の中にもっと器にふさわしい女は十分いたのだ。それなのにあの方は、そのどれにも興味を示さなかった。あろうことか、どこの馬の骨とも分からない城女中を妻にすると言い出した。より良い後継ぎを、次なる風魔小太郎を、完全な忍を作るべく、十年以上かけて準備してきた我らの計画は、すべて狂うことになった。それでも──我らはあなたを受け入れた。何故かお分かりか?」
ふ、と引佐殿の表情が一瞬和らぐ。
「里に迎え入れてみれば、不慣れながらも忍の里に少しでも馴染もうと努力を続ける姿があまりに健気でいじらしかったため、つい心が絆されてしまった──と、言ってもらえるとでも思ったか?」
顔から表情が消えた。一言も言葉を発していないのに、心のうちをかすかによぎった最後の希望を一言一句違わず言い当てられ、踏みにじられ、恐怖と羞恥と絶望がつま先から頭まで薄衣のように纏わりつく。私の絶望の表情を堪能するように、引佐殿は目を細めた。
「それはあなたが、北条の血筋だからだ」
「……え?」
「城に仕える前、あなたは別の屋敷で働いていたな? それが北条の分家筋にあたる家だということくらいは、さすがのあなたでも分かっていたはずだ。あなたは生まれてすぐに屋敷の前に捨てられていた。それを当主の四郎殿が哀れに思い、あなたを女中として屋敷で養うこととした。そうだろう?」
その通りだ。それはあの屋敷にいたころ、先輩女中から何度も何度も聞かされ、その度に「殿に感謝なさい」お説教をされてきた。当然、殿のことは今でも心より敬服しているし、この命は殿にいただいたものと言っても過言ではない。小太郎様以外に命を差し出してもよい相手は、殿だけだ。そんな私の心のうちを読み取ったのか、引佐殿は侮蔑するように首を斜めに傾げた。
「関東の覇者であり大大名である北条家の分家筋の当主が、本当に憐憫の情だけで幼な子をわざわざ引き取って養うとでもお思いか? この乱世に捨て子など、道端で毎日一人ずつ腐っていくほど溢れているというのに。なぜあなただけが拾われたのか」
心臓に、スゥと冷たい氷の剣が突き刺さったような心地がした。
やめて、それ以上、何も言わないで。
私の生きてきた人生の何もかもが、今まさに目の前で転覆しようとしているのを肌で感じていた。
「それはあなたが、ほかならぬ四郎殿の実子だからだ」
うっとりと、実に楽し気に、引佐殿の眦が歪んだ。
「あの方は正妻との間に子ができなかった。だが皮肉なことに、たった一晩抱いただけの白拍子との間には子ができたのだ。あなたは屋敷の前に捨てられていたのでなく、密書にて四郎殿を屋敷の外までおびき出した白拍子本人の手で、四郎殿に手渡されたのだ。生まれた子が男ならば胸を張って正門から屋敷に足を踏み入れたが、女ではそれも出来ぬ。それでも正統な北条の血を継ぐ娘である。ゆえに、実子としてでなくとも構わぬから、この子を屋敷に置いてほしいと。万が一のことがあった時には、何か御家の役に立つことがあるやもしれぬ。それに何より──こぶつきでは、客を取りにくくなると。そう言って、白拍子は産着にくるまれたあなたを四郎殿に手渡した。屋敷の前で拾ったというのは、四郎殿のついた嘘だ」
喉の奥がぐっと狭くなり、呼吸がしづらい。頭の中に何度も殿の顔が浮かぶ。殿は、私にいつも優しかった。誰よりも下っ端女中であるはずの私をわざわざ指名してまで茶の湯を運ばせることが何度もあった。見ず知らずの赤子を拾って養ってくださるようなお方なのだ、だからこんなにもお優しいのだと、そう信じていた。
だとしたら、あの時のあの表情は。あの言葉は。
あれは。あれも。全部、──全部。
あの人は、父の顔をしていたのか。
「だが、しばらくして四郎殿は正式に別の側室を娶ると、ついに男児が生まれた。そうなればあなたの存在が万が一にも御家の役に立つという未来はなくなった。それどころか、あなたが屋敷の中をうろついていると、己のついた嘘と向き合っているようで、次第に嫌気が差してくる。待望の後継ぎが、なんの憂いも躊躇いもなく己を父上と呼び胸に飛び込んでくるのを、この娘に見られていると豆粒程度の罪悪感が胸をかすめ、素直に喜ぶことができない。故に──あなたは屋敷を追い出されたのだ。ちょうど人手が不足していた城女中として拠出されることで」
──幸せにおなり。
殿の最後の表情が、浮かんで、消えない。
「うそ、だ」
「我々の持ち帰る情報に、齟齬などない」
絞り出したせめてもの抵抗は、一瞬にして切り落とされた。
「ただの城女中でも、北条の血が流れているとなれば話は別だ。万が一北条がこの先我らを軽んじ、契約を違えるようなことがあっても、北条の血を引く者が里に存在していれば、それは大きな交渉材料となりうる。故に我らは、長の決定に目を瞑ることにした。そして、あなたが来たのだ」
引佐殿の視線が上がる。高みから見下ろすその目は、目の前に立つ私を品定めするように無機質に、頭の先からゆっくりと視線が下がっていく。
「貧相な栄養の足りていない身体。読み書きもろくに出来ない学の無さ。刀はおろか体術すら知らない、なにひとつ能のないあなたが。あまりの使い物にならなさに、愕然としたよ。それでも我らはじっと耐え、静かに待つしかできなかった。あの方の血を継ぐ子が生まれてくるのを。それなのに、長は一向にあなたに手を出そうとしない!」
突然激しく叱咤され、肩が反射的に跳ね上がる。𠮟りつけられる幼な子のようで、無様で、惨めだった。引佐殿ははっきりと憎悪を込めた目で私を睨みつける。
「あまりに貧相な体で組み敷く気にもなれないのかと思い、少しでも肉付きをよくしようとエサを多く食わせても、任務帰りの血が昂ったところにわざわざ香をしたためて出向かせても、いまだに手をつけようとしないではないか!」
耳の奥が痛い。耳鳴りのように引佐殿の怒鳴り声が何度も鼓膜を打つ。頭が痛い。肩が、心細い。血の臭いが充満する薄暗い地下室で、たった一人、私は今、己の全人生を、心を、体を、存在価値さえも、何もかもを否定されている。叱咤されるたびに自分の体が少しずつ存在価値を失って剥がれ落ち、闇に溶けて消えていく。私は空気と同化していく。
「あなたは器だ。子を成す器。それ以上でもそれ以下でもない。あなたの存在価値は、あの方の子を成し、産むだけ。その役目すらろくにこなせず、何をのうのうと生きている?」
かろうじて、最後に問いかけられたことだけが分かった。答えることもできぬまま、朧げに視線だけを上げる。侮蔑と失望の篭った視線が、最後に残った私の欠片を完全に闇へと溶かした。引佐殿は私への興味を完全に失ったように、ふと視線を床に転がる男の死体へと向けた。
「これはあなたが手を下すべき役割だったのだ。風魔小太郎の妻になるとは、こういうことだ。これがあなたの望んだ答えなのだ。だがあなたはその役目を果たせなかった。あなたは自ら、役目を放棄したのだ」
首のない身体が、無機質に床に転がっている。私もまた、無機物のようにぼんやりと死体を見下ろしている。ああ。ここに、生きた人間はいないのだな。
立ち尽くす私の耳元に、引佐殿が顔を寄せた。
「ならばもう一つの己の役割を、果たせ」