鳴かぬ蛍が身を焦がす
なまえ
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ゆっくりと、丁寧に、最後の一筆まで気を抜かないように。それでいて、力は込めすぎない。最後の止めまで神経を張り巡らせ、ゆっくりと筆を上げる。
「書けた……!」
思わず、歓喜の声が漏れた。文机の上には、拙いながらもすべて直筆で書き切った短い手紙が広げられている。最後に記された宛名は──小太郎様。その手前には、差出人である自分の名前が連ねて書かれている。それらをすべて自分の力で書ききったのだと思うと、並んだ文字たちがこの上なく誇らしく思えた。
嬉しさのあまり、すぐ横に侍る楓に視線を向ける。楓は私の視線に気付いたらしく、相変わらず無表情は崩さないが、その眦はいつもより穏やかに見えた。
手紙の中身は、あってないようなものだ。初めてお手紙をしたためます。少し読み書きができるようになりました。ただ、それだけ。たったそれだけのことだが、それをどうしても小太郎様に文字で伝えたかった。
墨が乾くのを待つ間、何度も何度も書いたばかりの短い書状を目で追いかける。乾くのが、待ちきれない。
「今晩小太郎様がお帰りになられたら、さっそくお渡しします」
「それがよいでしょう」
楓の言葉はやはりいつもより優しい。するとそれからすぐ、引佐殿がやって来た。濡れ縁からちらりと私が書いた書状の中身を覗き見ると、す、と目を細め「あまり長を煩わせるようなことはなさいませんよう」とやんわり苦言を呈したのち、ぱっと貼り付けたような笑みを浮かべると、いつものように大量の甘味を差し入れてすぐにどこかに去ってしまった。
お膳に盛られた干し柿を前に、苦笑いが漏れる。
「引佐殿は相変わらずですね」
着物の袷に手を伸ばし懐紙を取り出すと、干し柿を二つほど懐紙に包み、楓へと差し出した。
「はい、これは楓の分」
「……わたくしは受け取れません」
「では今ここでいっしょに食べてしまいましょう。お腹に入ってしまえば、何もなかったのと同じですから」
楓は視線を床板へと向けたまま、再び凍りついたような無表情に戻ってしまった。その膝の上で組まれた手を取り、手のひらの上に半ば強引に懐紙に包んだ干し柿を握らせた。
「なまえさま」
「だめです。食べるまでここを離れてはいけません」
「……」
「……ごめんなさい、少し強引すぎましたね。冗談です。無理に食べる必要はありませんから」
「……いえ」
手のひらの中の干し柿をじっと見つめていた楓の視線がふと上を向いた。それからはっきりと、整った顔に美しい微笑を浮かべて、目を細めた。
「なまえさまは、お強くなられました」
「ええ? 私がですか?」
「はい。それはもう、見違えるほどに」
「そう……でしょうか」
「はい」
もう一度念を押すように楓が深く頷く。初めて向けられた彼女からの優しい視線にどぎまぎしていると、楓は微笑を湛えたまま、手の中の干し柿をもう一度眺めた。
「お言葉に甘えて、いただきます」
「え、ええ! 私も、いただきます」
楓の白魚のようなすらりと伸びた美しい指先が干し柿を摘まみ上げ、桜色に色づいた形の良い唇の中へと運ぶ。ただものを食べているだけのはずなのに、その仕草はひとつひとつが洗練され、どこか官能的な魅力にあふれていた。楓の喉がごくりと小さく上下するのを見届けたところで、それまで呆けたように見惚れていたことに気付き、自分も慌てて干し柿を口に含む。
お日様とからっ風に晒され、凝縮したうまみと甘みが口いっぱいに広がり、何もしなくても勝手に頬が緩む。今日はいつもより一段と、頬の緩みが強い。
「おいしいですね」
「はい」
こうして誰かと食べ物の味を共有できることが、こんなに幸福であることを、私は今まで知らなかった。
美味しいものは誰かと共有することでさらに美味しくなるのだと、初めて知った。
親しい誰かが美味しそうに食べる姿を見るのはこんなにも嬉しいものなのだと。
楓がさらにもう一口、干し柿を啄む。私の頬が、さらに柔らかく、あたたかく、緩んでいく。
* * *
その日、小太郎様は待てども待てども帰ってくることはなかった。当初の予定では、日の入り過ぎにはお帰りになると聞いていたはずなのに。
日がとっぷりと落ち、秋虫さえも鳴き声を潜める牛の刻を回っても、小太郎様はお帰りにならない。
屋敷を発たれてから随分と時間が経つ。きっと相当お疲れになってお戻りになられるだろうから、今夜手紙を渡すのは控えよう。
ただ、せめて一言おかえりなさいませと出迎えてあげたい。
燭台の灯りをたよりに、何をするでもなくぼうっと部屋に座していると、そのうちゆっくりと頭の奥の方から睡魔が忍び寄ってきて、頭の動きを鈍くしていく。
うつらうつらと夢とうつつの間を行き来しながらかろうじて座っていると、庭の方からごく小さな物音がした。
眠りかけていた頭を振って、音のした方へと意識を向ける。誰かが、庭の奥でぼそぼそと囁くように話している。だが上手く聞き取ることができない。目を閉じてさらにら意識を集中させると、かすかに「お待ちください……!」という声が聞こえた。その声色に、目を開く。間違いなく楓の声だった。
「楓、いるの?」
障子越しに庭先へと声を掛けるが、返事はない。ぼそぼそとした話し声も消えてしまった。
聞き間違いだろうか。
首を傾げながら念のため障子を開けてみるが、庭の中は真っ暗で人影を探すことすら難しい。夜空を見上げると、月は厚い雲に覆われ隠されている。これではますます何も見えない。
「誰かいるのですか?」
闇に向かって声をかけてみるが、返事はない。
その時、厚い雲の合間を縫うように月が一瞬顔を出した。薄ぼんやりとした青白い光が庭の輪郭を照らし出す。それでも月明かりが届かない桜の木の木陰はなお深淵の闇が広がっている。
その闇の中から、音もなく人影が一歩、月明かりの下へと歩み出た。
目線が釣られるようにそちらを向く。藍と白の忍装束に、鉛色の防具。顔の半分を覆う兜に、闇に溶ける赤い髪。すぐにそれが小太郎様だと分かった。心が俄かに喜びを覚える。しかし月明かりに露わになったその姿に、綻びそうになった顔が一瞬にして凍りついた。
忍装束が、上から下までべったりと黒い染みに覆われている。それが一体何なのか尋ねる前に、生臭い血の臭いが堰を切ったように鼻先へと押し寄せた。思わず、鼻と口を覆う。嗅ぎなれない、しかしはっきりと本能で嫌悪感を覚えるその纏わりつくような臭いが、鼻腔にこびりついて離れない。月明かりではただの黒にしか見えないその染みが、太陽のもとではどんな色を呈すのか、考えただけで背筋に冷たい悪寒が駆け抜けた。
小太郎様が一歩ずつ、こちらへと歩みを進める。黒々と染まった装束を気に留めるでもなく、いつものように、当たり前のように、小太郎様が近付いてくる。
鉛色の防具の表面にはねっとりと赤黒い液体が絡みつき、文様の隙間に染み込んで一体化している。そんな細部まではっきりと見えるほど、すぐ目と鼻の先まで。
小太郎様が、無言で、すぐ、そこに。
へたりと、気がつけば後ろ手をついてその場に座り込んでいた。纏わりつく生臭さがより濃く、強く、鼻腔を満たす。気持ち悪さからくる吐き気で呼吸が上手くできない。
怖い。
この人が、怖い。
遥か高みから血まみれでこちらを見下ろす小太郎様が、得体の知れない化け物のように見える。
全身が恐怖で震えている。怖くて、怖くて、逃げることすらできず、ただひたすら涙目になりながら小太郎様を見上げることしかできなかった。
小太郎様は何も言わず静かに私を見下ろしていたが、そのうち音もなくその場から姿を消した。
血の臭いだけが残り香のように漂っている。再び月が雲に隠れ、庭は深い闇に包まれた。もうそこには誰もいないはずなのに、不安感が全身を這い回り、どうにも落ち着かない。己を守るようにして、気がつくと両腕で自分の身体をひしと抱き締めていた。夜着に、指先が食い込む。
「なまえさま」
気配のしない闇の奥から、女の声がした。その声の主を私は知っている。縋るように闇の先へ視線を向けると、足音も立てず闇の中から楓が姿を現した。
「楓」
楓は応えない。ただぼんやりと彼女の輪郭だけが闇夜の中に佇んでいる。すると再び雲が晴れ、月が出た。朧げだった楓の表情が浮かび上がる。いつも無表情の彼女は、月明かりの下、珍しく感情を隠そうともせず、眉を顰めて私を見つめる。その視線に、憐れみと、失望が乗っていた。
「あなたは──忍ではない長を好きになられたのですね」
こちらの答えを待たずに楓はすぐに目を逸らすと、忍装束の袂から懐紙を取り出し、無言でそれを縁側へと置いた。楓の手が離れ、緩く畳まれただけの懐紙が開く。中には、昼間彼女に渡した干し柿が、手もつけられずにそのまま納められていた。
それが、失望と拒絶の表れだと理解するのに、時間は掛からなかった。ただこれまで積み上げてきたものが何もかも脆く崩れ去る感覚に、目の前が暗くなっていく。楓はそれ以上何も言わずに、静かに闇の中に消えていった。
縁側に、私一人だけが取り残される。
ここには誰もいない。誰も。ただとっぷりとした夜闇だけが、無限のように私の周りを包んでいる。
自分は一人になったのだとようやく気付いた時、背中がす、と冷える心地がした。ひとりぼっちの夜は、叫びたくなるほどに、ただただ虚しさだけが残されていた。