鳴かぬ蛍が身を焦がす
なまえ
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「小田原に……ですか?」
目の前に座る引佐殿は静かに首肯した。
「氏政公が、どうしてもあなた様にお会いしたいと」
「大殿が……私に?」
にわかには信じがたい言葉に、何度も目をしばたかせる。引佐殿は無表情のまま、淡々と告げた。
「長が嫁を取ったと聞き、それならば一目見てみたいと、そう仰せです」
「では……城に行くのですか?」
少しだけ、胸の奥がずっしりと重くなった。
小田原の城は、かつて自分が女中として働いていた職場である。客として招かれるのであれば、当然誰かしら女中と顔を突き合わせることになるであろう。そうでなくとも、城女中というのはなにかと耳ざとい生き物なのだ。忍に嫁いでいった末の後輩が戻ってくるとなれば、その噂は瞬く間に女中全員に知れ渡るだろう。
好奇の目が、己の見えぬところから注がれるさまを想像して、気が重くなる。
「いえ、正確には小田原ではございません」
私の心の重みを一刀両断するように、引佐殿はきっぱりと否定した。思わず俯いていた顔を上げる。
「我らはあくまで忍。正式な客人として氏政公にお目通りするわけにはいきませぬ。城ではいやでも人目につく。ゆえに──暑気払いで鎌倉に出向く際に、逗留先の寺で密かに顔合わせを……というのが、氏政公のご意向です」
なるほど。城女中の人たちにバレずにすむというのなら、ありがたい話ではある。大殿のご意向とあらば、それはほぼ決定事項のようなものだ。
私は二つ返事で承諾した。
輿を降りると、むわりと湿度の高い空気に包まれた。辺りの雑木林からはすでに蝉の声が降り注いでいる。それでも幾分か涼しさも感じるのは、木立に囲まれ木陰の中にいるからだろう。
降りたすぐ目の前には、小さな門扉があった。長年雨風に晒され続け、じっくりと深みのある色合いに変化した板肌の門は、自然と周囲の景色に溶け込んでいる。
華美な装飾などせず、必要最低限の機能だけを備えた門扉は、禅の心を体現したかのようにひっそりと黙して佇んでいた。その先には、綺麗に掃き清められた小道が続いている。さらに視線を上へ向けると、生い茂る木々の合間から顔を出すようにして、大きな寺院の瓦屋根が見えた。
この先に大殿が──氏政公が待っておられる。
城女中として働いていた頃ならまずもって考えられなかったようなことが、現実として起きているのだ。まだふわふわとして実感が湧かないまま、私はぼんやりと門扉と木立を眺めていた。
視界の隅に人影が入り込む。そちらに視線を向けると、すぐそばで折烏帽子に直垂姿の若武者が一人、無表情でこちらを見下ろしていた。
一瞬誰か分からず警戒したが、じっと一直線にこちらを見下ろすその視線に既視感を覚え、すぐにそれが小太郎様の変装した姿であることを思い出した。
表情の変化で私が思い出したことを悟ったのか、小太郎様がふいと視線を正面へと向ける。その髪は黒く、骨格も鼻筋も、普段の小太郎様とは似ても似つかない。
本当に、完全な別人へと化けてしまっている。
その擬態の熟度の高さに思わず舌を巻いた。
私はと言えば、いくら元城女中といえど家臣の間で顔が広く知れ渡っているわけでもないため、完全な他人に化ける必要はないと、引佐殿はそう判断した。ただ念のため顔だけは隠すよう、薄手の袿をすっぽりと頭から被っている。
再び、今度は別の殿方が反対側の視界の隅から現れたかと思うと、私と小太郎様の前に立ち塞がった。
「氏政公がお待ちです。行きましょう」
引佐殿だった。別人に化けてこそいないものの、彼もまた折烏帽子と直垂を身に着け、見た目は立派な中級武士に擬態していた。
その引佐殿に誘導されるがまま門扉をくぐり、寺院の敷地内をゆっくりと進んでいく。しばらくすると離れのような小さな建物に通された。
袿を脱ぎ、草鞋を脱いでぐるりと濡れ縁を回り、障子の閉ざされた一室の前に腰を下ろす。
ふと違和感を覚えて視線を横にずらすと、いつの間にか小太郎様が顔の変化を解き、いつも通りの真っ赤な髪を無造作に肩に下ろしていた。頭に乗っていたはずの折烏帽子もどこかにいってしまっている。大殿の前にそんなざんばら頭で出てもよいものかと一人狼狽えていると、引佐殿は大して気に留めることもなく、障子の向こうへと声をかけた。
「失礼いたします」
「うむ、入るがよい」
障子の奥から、久しぶりに聞くしゃがれ声がした。懐かしさに心が一瞬小田原に、そして女中時代へと舞い戻る。気がつくと体に染みついた動きで床に手をつき、深々と頭を下げていた。
視界の隅で小太郎様の姿を捉える。小太郎様は頭を下げることなく、まっすぐ背筋を伸ばしたまま縁側に座していた。びっくりして思わず頭を下げたまま、目を丸くしてしまう。
大殿にお目通りするのに、頭を下げないなんて。
障子が開く前にどうにかしなければと小声で小太郎様を呼ぶが、絶対聞こえているはずなのに、小太郎様はこちらを見向きもせず、相変わらず顔を上げたまま座している。
助けを求めて引佐殿に視線を送るが、引佐殿もまた目を伏せ、こちらと視線を合わせようとしない。さらにあろうことか、そのまま当然のごとく引佐殿の手が障子を開けてしまった。
慌てて視線を床の木目に戻す。
「おお!」
機嫌の良さそうな大殿の声がした。
「よう来たな、風魔」
大殿の前だというのに頭をまったく下げる気配がない小太郎様を、大殿は咎めるでもなく機嫌よく出迎えた。
どうしてそんな失礼をして、許されるどころか気にも留めずに迎えられるのか、理解ができずただただ頭に疑問符だけが蓄積されていく。
「そっちがお主の嫁ごぢゃな?」
大殿の意識がこちらに向くのが分かった。体が緊張で強張る。久々に味わう緊張感に、心臓がぴりぴりと痛む感覚がした。
「面を上げよ」
大殿の声に従うがまま、顔を上げる。ぱちりと、視線が噛み合った。大殿は眉間に皺を寄せながら疑い深い視線でじっと私の顔を凝視する。
大殿にお会いするのは、これが初めてのことではない。城女中として仕えている時にも、何度かお世話役としてお傍に侍ったことがある。それは宴の席でのことであったり、茶会の席でのことであったり。
大殿に侍る時はいつも、大殿は多くの家臣や客人たちに囲まれており、名門北条家の威厳にあふれ、皆が大殿を仰ぎたてまつった。その印象が強いせいか、やはりまだ大殿を前にすると畏怖の念が真っ先に込み上げ、恐縮してしまう。
大殿は──私のことを覚えているであろうか。
まさか元城女中が風魔小太郎に嫁いでいたなどと知ったら、大殿はどうお思いになるのだろう。怒るだろうか。笑うだろうか。──趣味が悪いと、呆れかえるだろうか。
どきどきと胸の鼓動を感じながら、じっと大殿の視線を受け止めていると、突然ふ、と力が抜けたように大殿は目元の皺を深めて笑った。
「ふむ……どこかで見たような気がする顔ではあるが……まあ、悪くはない顔立ちぢゃな」
「あ……きょ、恐縮でございます」
上手く言葉が喉から出てこず、最後の方は上手く発音出来ないまま、再び頭を下げる。下げながら、今しがた受け取ったばかりの大殿の言葉を頭の中で反芻していた。
──覚えて、いなかった。
少しの寂しさはあったが、それよりも安堵感の方が大きかった。自分が、ほかの何者でもない「風魔小太郎の嫁」として見なされることに喜びを感じていた。
「ほっほ、よい、そう固くなるでない。なんせ今日は、わしの我が儘でお主らを呼び立てたんぢゃからの。ゆっくりしていくがよい」
「は、はい、ありがたき幸せに存じます」
それから、とりとめもない話をいくつかした。
大概は、小太郎様がいかに普段大殿のために素晴らしい働きをしているかという自慢話だったが、里の外での小太郎様の働きをよく知らない私にとっては、それらはどれも輝かしく、それに何より、その話を大殿自身が鼻高々に語ってくれることが、このうえなく嬉しかった。
──小太郎様は、大殿に心から信を置かれている。
それがほんの数分で手に取るように分かり、かつて「忍は使い捨て、人にあらず」と散々同僚たちから浴びせられた言葉たちが、紙屑同然に記憶の中から消え去っていくのを感じていた。
良き働きに対し、忍であろうとなんであろうと真っすぐにその成果を認め、遠慮なくお褒めくださる大殿の懐の深さと、大殿の口から優秀、伝説とまで語られる忍の妻としてこの場にいられることを、心から嬉しく誇らしく思った。
大殿の話に私が身を乗り出して真剣に聞き入っている間、小太郎様は隣で相変わらず背筋を真っすぐに伸ばしたまま、表情を崩すことも身じろぎ一つすることなく、ただ静かに座しているだけだった。
「おお、そうぢゃそうぢゃ。せっかくここまで来たんぢゃ、どれ、わしが直々に茶の湯でも用意してやろうかの」
「い、いえ、そんな殿自らお点前をいただくなど……!」
「構わん構わん! お主と話しとったら、気分がよくなったわい。風魔ときたら、そりゃあ仕事っぷりは優秀ぢゃが、わしの話を聞いとるんか聞いとらんのか、よく分からんからのう。お主、なかなか聞き上手な嫁ごぢゃな。風魔! よい嫁をもろうたのう!」
「……」
小太郎様は何も応えない。私はその隣で、嬉しいやら恥ずかしいやらで頬が熱くなるのを感じながら、ちらりと小太郎様の横顔を盗み見るだけで精一杯だった。
「どれ、よっこらしょ──ふぐぉお!」
大殿が足を崩し立ち上がったその瞬間、動きがびたりと固まったかと思うと、震える手で腰を押さえながら、へなへなとその場に倒れ込んだ。
突然の出来事に、目を丸くして慌てて大殿に駆け寄る。
大殿は四つん這いになり、ぷるぷると震えていた。
「と、殿! どうなさいました!? 大丈夫ですか!?」
「ほ、ほほ……しまった……腰、腰がぁ……」
「こ、腰ですか!?」
「いや、だ、大丈夫ぢゃ……! よくあること。お主は気にせずともよい」
「しかし……!」
「ふ、風魔! 風魔やー!」
倒れ込んだ体勢のまま、大殿が小太郎様を呼んだ。するとそれまで座したまま微動だにしなかった小太郎様が自然な動きで立ち上がり大殿に近づくと、慣れた手つきで腰を摩り始めた。
目の前の状況についていけず、ぽかんと呆けたように口を開けたまま、固まってしまう。小太郎様は私の様子など気にも留めぬようで、黙々と大殿の腰をさすっていた。
「うぐぐぐぐ……不覚ぢゃぁ……よりにもよってこんな時に……」
「本当に大丈夫ですか? どなたか医者をお呼びした方が……」
「う、ううむ……」
しばらく悩んだのち、引佐殿を通じて家臣を一人呼びつけた。話を聞きつけて入って来た若武者は目の前の光景に一瞬目を丸くしたが、すぐに「またか」といった呆れ顔を浮かべると、医者の手配をしにさっさと去っていった。
「やれやれ、情けない姿を見せてしもうたわい……このことは他言無用ぢゃぞ、よいな!」
「は、はいっ」
「ええい、風魔! もうよい! 嫁が固まっておるぢゃろ。もうすぐ医者も来る。お主らは少し、境内でも歩いてくるがよい」
「ですが……」
「ふん。これくらい、しばらく寝てればすぐに良くなるわい。医者は念のためぢゃ」
床に寝転がりながら、大殿は鼻を鳴らして、まだなお見栄を張る。どう答えればよいか分からずじっと大殿と、その背後で腰をさすり続ける小太郎様を交互に眺めていると、大殿が深々とため息をついた。
「お主、風魔に嫁いでからというもの、一歩も里の外に出ておらんのぢゃろ」
「え……」
「まあ、忍の里に嫁ぐとはそういうこと。致し方ないことではあるが……たまには夫婦二人で羽を伸ばす時間も必要ぢゃぞ」
に、と大殿が床から老獪な笑みを向ける。その眼光は、かつて城女中をしていた頃、数多の家臣に囲まれながらも毅然として采配を振るう、私が知っている大殿の目と同じ光を宿していた。
裏に人知れず企みを抱えた、含みを持たせた笑み。
その笑みを久々に見れたことが嬉しくて、それから、城女中だった頃は決して自分に向くことのなかったその笑みが、真っすぐ自分にだけ向けられていることに、わずかばかり恐れおののいた。
「ここは鎌倉の中でも特に庭の作りが見事な寺でな。せっかくここまで来たんぢゃ。少し二人で散策してくるがよい。このまま散策もせず帰ったのでは、大損ぢゃぞ」
「殿……」
「風魔、これ、ふーうーまー! わしの腰ならもうよい! いつまで揉んどる気ぢゃ! それより、早う嫁さんを案内してやらんか。お主ならここにも何度か来たことがあるぢゃろ」
大殿が皺くちゃの腕をぶんぶんと振ると、小太郎様は大人しく腰を揉んでいた手を離した。それから、渋る私を追い出すように、大殿に「さっさと行かんか!」と叱られてしまい、仕方なく場を辞することとなった。
離れから出る際、入れ替わるように先ほどの若武者と、白い装束に身を包んだ医者らしき老人が慌ただしく入っていったが、私たちの姿など気にも留めていないようだった。
しっとりと湿度を帯びた空気が、首筋を撫でていく。むせかえるような蒸し暑さはいつの間にかどこかに消え失せ、頭上には薄灰色の雲がところどころ黒い滲みを浮かべながら、空一面を覆っていた。
すぐそこに、雨の気配がする。
いつ降り出してもおかしくないほど、空気は重たく垂れ込んでいる。そんな鈍色の世界の中でも、手入れの行き届いた広い庭園は水墨画のように静謐で美しく、いっそ雨が降ることで、また別の墨絵として完成するのではとさえ思わせる。
境内の中はどこを歩き回っても、瑞々しく伸びる若葉の緑と──そしてそれすらも覆い尽くさんとする、紫青の紫陽花が一面に広がっていた。
涅槃に咲く花は蓮の花と聞いていたが、ここにいると、それは紫陽花なのではないかと思えるほどに、どの小道も左右をびっしりと紫陽花が覆っている。
曲がりくねった小道の先には、極楽浄土が待っているかもしれない。
そう夢想するほどに、鈍色の空を背景に、小さな花弁の一つ一つを瑞々しく空に向かって咲かせる紫陽花は、どこか現実離れした美しさで、物言わずひっそりと私たちを見守っていた。
「殿が『このまま帰ったら大損』とおっしゃっていた意味が分かりました」
小太郎様は相変わらず喋らない。草鞋が土を踏みしめる掠れた音だけが、二人分、並んで紫陽花の小道をゆったりと歩いていく。
「殿は……私がもと城女中で、おまけに何度か顔を合わせたことがあるなんて知ったら、きっと驚かれるでしょうね」
「……」
「でも、覚えていなくて、よかったです」
自然と苦笑いが漏れた。
「殿の中で、城女中の私は存在しない。……ただ、風魔小太郎の嫁としての私だけが、あの方の中に記憶されるのかと思うと、なんだかとても誇らしくて。ほかの何者でもない、小太郎様の妻としてここにいることが。大殿にお目通りできることが。覚えてもらえることが──嬉しくて」
小道のすぐ脇を、自然の傾斜を利用した小川が流れていた。草鞋が土を踏みしめる乾いた音の合間に、流れ落ちる水の音が混じり合う。その音すらきっと、この庭園の中では計算され尽くしているのだろう。
辺りに人影はない。自分たちを取り囲む音が、より研ぎ澄まされて耳に届く。
頭頂部に、ぽつりと何かが落ちてくる感覚がした。
その正体を聞くまでもない。
あんなに小さな粒だというのに、落ちれば必ず気がつくのだから、雨の存在感とはすごいものだと思う。
確認するように視線を空に向けると、ぽつ、ぽつと、ついに耐え切れなかったというように、鈍色の濃くなった空から黒い筋が幾重にも降り注ぎ始めた。
その視界を遮るように、紅色の傘が空に向けて広げられる。
視線を横に向けると、小太郎様が無言でこちらを見下ろしながら、私の頭上に傘を差し出していた。
雨粒が、傘の表面を叩く。
ぱらぱらと、乾いた音が二人の頭上を彩る。
傘の外は、葉や花々を打つ雨音で、いつしか川のせせらぎのような細かな音が充満していた。小太郎様がさらに傘をこちらへと傾ける。大きな小太郎様の肩が雨粒に晒されるのが見えて、思わず、一歩その距離を詰めた。
「私──もっと、多くのことを学びたいです」
雨音が響く中、勝手に言葉が口から零れ落ちていた。
紫陽花が、視界の隅で雨に打たれて揺れている。
あっちも、こっちも、ゆらゆら、ゆらゆらと。
頷くように、傘の中の会話に、耳を傾けるように。
揺れている。
庭全体が、じっと息をひそめて、雨音の中息を殺して私たちに耳をそばだてている。
「北条家のこと、風魔の里のこと。世のこと、戦のこと。もっと多くのことを、学びたいです。あなたの、──五代目風魔小太郎の妻として、ふさわしい人間になりたい。あなたの隣に、胸を張って立てる人間でありたい」
ゆらゆら、ゆらゆら。
世界がみんなこうべを垂れて頷いている中で、私たちだけがその場に立ち尽くしている。
紫青色の極楽浄土が、雨粒を受けてさらにぱっと色彩を豊かにした。
「ずっと、ここにいたいです」
小太郎様は何も言わない。ただじっと、真っすぐにこちらを見下ろしている。垂れ下がった着流しの袖を、小さく掴んだ。
「……ここに」
目を逸らしたのは、私の方だった。
ばかみたい。
勝手に一人であれこれ喋って、自分の口から出た言葉だというのに無性に恥ずかしくなって、一人芝居のよう。
最後の言葉は自分でも分かるくらい声が小さくなってしまって、もしかすると小太郎様には届いていないかもしれない。
届いていてほしいな。
──だけど、聞こえていないといいな。
頬がだんだんと熱を帯びていく。
どうしよう。つい衝動的に言葉が口をついて出てきてしまって、この後どうすればいいのかなんて、何も考えていなかった。
すると、雨粒を遮っていた傘がゆっくりと横に傾き始めた。傘の動きを目で追って視線を横に向けると、庭園のはるか先、紫陽花の垣根の奥からひっそりと、こちらを覗く引佐殿と目が合った。
無機質な冷めきった目が、真っすぐに私を捉える。その視線に、非難とも侮蔑とも取れる色を感じ取って目を離せないでいると、降りてきた傘が視界を遮った。
視界一面が、傘の紅色で染まる。呆けたようにその紅色を眺める私の右頬を、小太郎様の大きな手が包んだ。
吸い寄せられるように小太郎様に視線を向ける。
いつの間にかすぐ目の前に、小太郎様の顔が迫っている。
よそ見をするなと、咎められたような気がした。
傘が傾いたせいで雨粒が髪に、顔にしめやかに降り注ぐ。小太郎様の鮮やかな紅の髪が、微細な水滴を纏ってきらきらと細かく輝いている。
上を向かされた私の目頭にも、雨粒が落ちる。
目に入りそうで、咄嗟に瞼を閉じた。
直後に触れた唇は、先日よりも少しひんやりと、雨の冷たさを帯びていた。