鳴かぬ蛍が身を焦がす
なまえ
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──やってしまった。
穏やかな昼下がり、私は縁側でこうべを垂れて、深く深く猛省していた。こめかみのあたりがズキズキと鈍く痛むのを必死に耐える。すぐ隣には、着流し姿の小太郎様が床に胡座をかいて庭を眺めていた。小太郎様はこちらを一向に振り向かない。私もまた、いつまでも頭を上げられずにいる。
穏やかな陽気が降り注ぐ庭先で、私たちの周りだけが、気まずい空気に包まれていた。
昨晩、引佐殿から勧められるがまま無理して慣れない酒を煽った結果、よりにもよって小太郎様相手にとんでもない失態を犯してしまった。いっそ記憶が全部飛んでいてくれればよかったものを、失ったのは正気だけで、そんな自分の様子を一部始終しっかり覚えている無駄な優秀さにうんざりする。
いっそしばらく顔を合わせなければ、時が多少なりともこの気まずさを和らげてくれただろうに、こんな日に限って小太郎様は非番らしく、今朝からずっと部屋におられるのだ。
生まれて初めて太陽よりも遅く起きただけでなく、目を開けたすぐそこに小太郎様の顔があった今朝の私の驚きようを想像してみてほしい。
あまりの衝撃に一瞬まだ夢の中かと思ったが、庭から聞こえる雀の鳴き声がこれが現実だと告げてくる。自分でも零れ落ちるかと危惧するほどまん丸に見開いた目を数回しばたかせてから、文字通り褥から跳ね起き、床板に額をこすりつけて平謝りするまで、わずか三秒だった。
何度も何度も謝罪の言葉を繰り返したが、小太郎様は相変わらずうんともすんとも言わず、平伏し続ける私をじっと見下ろすだけだった。
それが許されているのか咎められているのかすら、分からない。
結局沈黙に耐えかねて頭をおそるおそる上げると、小太郎様は何も言わぬまま、ただ静かに縁側へ移動し、胡坐をかいた。それからずっと、小太郎様は微動だにせず庭を眺め続けている。
着付けを済ませて帰ってきてもなお、小太郎様はその場から動く気配がなかった。
怒っているのか、気にするなと言いたいのか。
あるいは、何の感情も抱いていないのか。
いつもなら、褥を共にすることもなくどこかへ消え去ってしまうのに。
考えれば考えるほど、小太郎様がここに居座り続ける理由が分からなくなり、かと言って自分からお側を離れるわけにもいかず、結局、遠慮がちに一人分の距離を置いて、私も小太郎様の隣に腰を下ろした。
二人きりの庭先はどこまでも静かだ。別室で着付けを済ませてからは、女中さんたちも全員離れから姿を消してしまった。世話役の引佐殿も、今日はたんと顔を見せる気配がない。
何か話しかけようか、と一瞬顔を上げてみるが、どの面を下げて何を話せばよいかまるで浮かばず、結局小太郎様の横顔を覗き見ることすら出来ないまま、再び視線を下げる。
謝罪の言葉なら、それこそ有り余るほどにお伝えした。それでもここを立ち去らないということは、この方が望んでいるのはきっと、もう謝罪でも──それこそ言葉ですらないのだろう。
心を、ゆっくりと沈み込ませていく。
小太郎様は今、何を考えておられるのだろう。
その答えは、表面に見えている行動や纏う空気だけでなく、もっと深く、見えぬところにまで手を伸ばさなければ届かないような気がした。
さらに深く、深く──
心を、ここではないどこかへと潜り込ませていく。
その時、足元でほんのかすかな物音がした。
音のした方へと視線を向けると、苔むした庭の上に散った落ち葉の一つが、わずかに揺れている。よくよく見ると、落ち葉の影から小さな蟻がひょっこりと顔を覗かせた。
蟻が落ち葉の上を歩くたび、葉全体が小さく揺れ、先ほどと同じ音がする。
まさか。
今のは、蟻の足音なのだろうか。
目の前をうろうろと歩き回る蟻を、じっと見つめる。
耳に全神経を集中させると、やはり間違いなく、乾燥した落ち葉の上を踏み締める小さな足音が確かに聞こえた。
思わず目を見開く。
まさかそんな音がこの世に存在するなどと、夢にも思わなかった。
そのうち落ち葉の上が飽きたのか、蟻は苔の上へと歩みを進める。ふかふかの苔が足音を吸収するのか、ほとんど音は聞こえなくなった。それでも、鼓膜の表面をごく薄く、幻覚と現実の狭間のようなかすかな足音が、確かに耳を震わせている。
心の表面がさざ波立つのを感じた。
こんなにもすぐそばに、当たり前にあったのに。
今の今までその音を聞き逃していたという事実に、驚きを隠せなかった。
──もしかして。
この世界には、まだもっともっとたくさんの、私が聞き漏らしている音が溢れているのだろうか。
ずっと俯いたままだった顔を上げる。
風が吹いた。
低い風音が鼓膜を震わせ、耳を覆い尽くす。一瞬で蟻の足音は掻き消された。代わりに、庭の片隅で茂るすすきの葉が擦れ合い、乾いたさざ波のような音が風音に混じり合う。
風が止んでも、まだ揺れ続ける葉がなお擦れ合い、柔らかくも高い音を辺りに響かせている。今度は頭の上の方で、小さな虫が飛んでいく甲高い羽音がした。
すすきの葉が擦れ合うよりもずっとずっと高い、耳を突くような音。小指の先ほどもないであろう、ごくごく小さな羽根を懸命に震わせるその振動が、音を通じて確かに伝わってくる。
あちらこちらを飛び回る羽音は近付いては離れ、またどこからか近付いては飛び去っていく。平面的な音の響きから、立体的な音の響きへ、耳が受け取る音の幅はさらに縦に横に、地面に、空に、大きく広がっていく。
庭中に、音が溢れている。
庭だけではない。
土塀の奥に広がる森からは、遥か遠くで小枝が折れ、地に落ちる音。
木の実が自然落下し、枝に何度もぶつかりながら転がり落ちる音。
番を呼ぶ鳥の、悲痛にも聞こえる大きな叫び声。
種類の異なる木の葉同士が風に吹かれて擦れ合い、それらが寄り集まって大きなうねりとなり、押し寄せてくる質量の大きな音。
庭の中からは、まだ日中だというのに気が早く木陰で鳴き出している、秋虫の遠慮がちな鳴き声。
飛び石の上を横切っていく、ぺたぺたと石の表面に張りつくような蜥蜴の足音。
落ち葉の隙間を縫って歩く、団子虫の連なるような幾重もの足音。
無音だと思っていた景色に、次々と、音という色彩が塗り重ねられていく。一つの音が止んでもまたすぐに次の音が押し寄せ、それはまるで絶えず押し寄せる波のように私を取り囲んで、音の渦に飲み込まれていく。
こんなにも、目に見える景色の中に音が溢れていたなんて。
どうして今まで気付かなかったのだろう。
木々と、風と、虫と、鳥と、土と、水と。
あらゆるものが脈動し、生きている証の音が、この世界には溢れかえっている。
──小太郎様にも、この音が聞こえているのだろうか。
吸い寄せられるように、横に座る小太郎様の顔を見上げる。
いつの間にか小太郎様も、こちらを見下ろしていた。
心臓が小さく跳ね上がる。
その音すら鼓膜に届いた気がした。
小太郎様の目元は、相変わらず長い前髪に隠れてよく見えない。それでも確かに、その先にある瞳が、私を真っすぐに捉えていることが分かる。その視線が、「お前にも聞こえるのか」と問うていた。
──ああ、やっぱり。
どこか安堵が込み上げる。
やはり、私だけではなかった。
どこかでそうだと信じていた。
小太郎様もたしかに、この音の波の中にいるのだ。
「聞こえています」と、同じく視線だけで返す。
その時ようやく、自分が先ほどからまったく声を発していないことに気がついた。
見つめ合ったまま、目を丸くする。
たしかに今、私は小太郎様と──言葉を介さず、会話した。
あまりに自然なその現象に、自分でも何が起きたか理解できず、何度も目を瞬かせる。対する小太郎様はまったく動じることなく、やはり無表情のまま、こちらをじっと見返していた。
──ああ、そうか。
なにか大事なものが腹の奥に、すとんと収まった感覚がした。
小太郎様が一言も喋らないのは、もしかすると──この世界にあふれる音を一心に聞いているから、なのかもしれない。
一つの音も聞き洩らさないように。
目の前で鮮やかに繰り広げられる音の色彩を、丁寧に眺めるために。
そうして、自分もまたその一部として、溶け込んでいくために。
再び風が吹いた。
低い風音が静かに耳の中で反響する。その奥に、すすきの揺れる高い乾いた音が紛れ込む。心の奥でぐるぐるとかき混ぜられ放置された重たいしこりが、さっと掃われていくような、清々しい心地。
す、と胸が軽くなった気がした。
すると風が止むと同時に、小太郎様が腰を上げた。そのまま庭に降り、土塀の近くまで歩いていくと、おもむろに腰を下ろし、小さく咲いていた桔梗の花を一輪、摘み取った。
ぷつ、と茎が折られる音が耳に届く。大きな体躯を持ち上げて、小太郎様がこちらを振り返る。鮮やかな薄紫に咲いた桔梗の花が、長くしなやかな指に握られていた。
呆けたようにその様子を眺める私に小太郎様がゆっくりと近づき、気がつくとすぐ目の前に小太郎様が壁のように立ちふさがっていた。あまりの身長差に、ほとんど空を見上げるようにして、そのお顔を見上げる。
あまりに、距離が近い。
こちらを見下ろす小太郎様の顔から視線を逸らすこともできず、私はただ、次第に加速していく心臓の鼓動を感じていた。
小太郎様が、桔梗を持った手をこちらへと伸ばした。大きな手が、私の顔のすぐ横をかすめていく。一瞬触れ合った肌に、びくりと肩が震えた。それから長い指が絡めとるように私の髪を掬いあげたかと思うと、耳の上にそっと、何かが添えられる感覚がした。
視界の隅に、薄紫の影がちらつく。摘み取った桔梗の花が私の髪に差し込まれたのだと気付くには、数秒の時間を要した。
ぽ、と頬が急に熱くなる。その熱は血管を通り、首を、耳を、それからゆっくりと下って心の臓をぽかぽかと温かくしていく。
自分でも不思議なくらい、それは優しい熱だった。
いつまでもずっとその熱の中にいたいと、無意識のうちに、そう願っていた。
小太郎様の手は、桔梗を添えたままの形でずっと顔の横にある。大きな手。私の顔なんてすっぽりと覆ってしまえるほど、骨ばった、筋の浮いた、異性の手。その手が、ふいに私の髪を指で割りながら、後頭部へと回された。その動きと連動するようにして、小太郎様の顔がゆっくりと近付いてくる。
呼吸の仕方を忘れる。首に添えられた手はごつごつしていて、それにどこかひんやりとしている。何か言おうとして口を途中まで開いたが、喉が声を忘れてしまったかのように、何も言葉は出てこなかった。何も言うなと告げるように、首に回された小太郎様の手にわずかばかり力がこもる。
おそるおそる目を閉じた。
重ねたことのない感触だけが、唇に添えられる。
耳の奥で鳴り続けるうるさいくらいの鼓動にかき消されて、世界の音はもう、何も聞こえなかった。