鳴かぬ蛍が身を焦がす
なまえ
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「こ……の……は……な……」
最後の一筆まで集中し、筆先を上げる。書見台に広げられたお手本と比べると、随分歪な文字が楮紙の上に並んだ。
「あの……どうでしょうか」
おそるおそる、すぐ隣でじっと私の手元を眺める女中さんの顔を覗き込んだ。睫毛の長い凛とした横顔は人形のように整っていて、女の私ですら、その美しさに一瞬目を奪われてしまう。
眉一つすら動かさない無表情さが、彼女の人間離れした美貌をさらに際立たせていた。
「よいかと存じますが」
無表情の顔から、同じく無表情な声が吐き出される。
これもいつものことなので、今更気にすることもない。
彼女は、楓といった。
毎朝私の着付けをしてくれる女中さんの中の一人だったが、小太郎様から手習いのお許しをいただいて、引佐殿にどなたか指南役をお願いしたところ、たまたまその時引佐殿のすぐ背後に控えていた楓に白羽の矢が立った。突然の抜擢にもかかわらず、その時でも楓は無表情を崩さないまま、ひとこと「承知しました」と頭を下げ、その日から私の手習いの先生となった。
最初こそ表情がまったく動かないことが不気味で、はたして上手くやっていけるだろうかと不安にもなったが、いざ手習いを初めてみると、楓は教えるのが抜群に上手かった。
齢十八にもなり、手習いを始めるにはあまりに遅すぎる歳だということは十分よく分かっている。何もかも初めてのことだし、きっと普通の人間に比べて要領も随分悪いのだろう。
そんな私に、楓は文字通り眉一つ微動だにせず、何度も根気強く、それでいて淡々と、私が一つのことを出来るようになるまで、ずっとそばについて指南してくれた。
引佐殿から言い渡された任務だから。
そう言ってしまうことは容易いが、だとしても、彼女にとっては降って湧いたような要らぬ仕事でしかないだろう。それでも一つの文句も零さず、手も抜かず、真摯に向き合ってくれる彼女に、私はいつしかすっかり懐いていた。
毎日必ず、楓には同じ質問を投げかける。
「どうでしょうか」と顔色を伺うが、返ってくる答えはいつも同じ、「よいかと存じますが」だけである。
当然そこに何の感情も乗ってはいない。
仕えている相手から聞かれたことに対し、最も正しい答えを淡々と返しているに過ぎない。
それでも、毎度同じ答えが返ってくると分かっていても、私はつい楓に同じことを聞いてしまう。
安心したいのかもしれない。どんなにひん曲がって、大きさも揃ってなくて、みみずがのたうち回ったような文字が並んでいようと、必ず「よいかと存じますが」と言ってくれる楓のその言葉で、自分の頑張りを肯定したいのだ。
立場を利用して随分と姑息な真似をするものだと、自分でも思う。いつの間にか「長の奥方様」という立場に馴染みつつある自分が、少しだけ怖くなった。
「以前よりも──」
今日も同じ答えを聞けたことに安堵して筆を置こうとした時、これまで聞いたことのない台詞が耳をついた。
置きかけた筆もそのままに、驚いて楓を見る。
聞こえた声はたしかに、楓のものだった。
そんなこと、今までただの一度もない。
楓は、こちらが何か尋ねた時しか言葉を発しないのだ。
楓の視線はまだ、私が今しがた書いたばかりの文字をなぞっていた。
「随分と、お上手になられたかと思います」
「楓……」
「……」
「……ありがとうございます」
「……」
「でも、まだまだもっと頑張らないとですね。今日はもう少しだけ、お付き合いいただけますか?」
「御意」
楓はまたすぐに、いつも通りの人形のような態度に戻ってしまったが、彼女の中にも確かに人間らしさが息づいていることを実感し、それがどうにも嬉しくて仕方なかった。
「なまえさま」
次のお手本のため紙面を捲ろうとしていた楓の手が、ぴたりと止まる。聞き慣れた低く無機質な声色は、濡れ縁に面した障子の奥から響いていた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
音もなく障子が開き姿を見せたのは、予想通り引佐殿だった。……が、予想外だったのは、その顔が見たこともないほどにこやかに微笑んでいることだった。
失礼だとは思いつつも、つい目を丸くしてしまう。
文机に向かったまま絶句する私をよそに、引佐殿はにこやかな表情を崩すことなく、お膳を差し出した。
「よい干し柿が手に入りましてな。是非なまえさまに召し上がっていただこうと、こうしてお持ちした次第。さ、遠慮なさらずお召し上がりくださいませ」
「え、あ、ありがとう、ございます」
ずい、と体のすぐ脇まで差し出されたお膳の上には、膳と同じ朱色に塗られた大盃と、その上にこんもりと山に積まれた干し柿が乗せられている。
いくらなんでも、私一人で食べるにはあまりに多すぎる量だった。
「では、おひとつだけいただきますので、あとはどうぞ屋敷の皆様で分けていただければ……」
「いいえ、そういうわけにはいきません。どうぞこの干し柿すべて、なまえさまが、お召し上がりください」
顔も声色も穏やかだが、その口調はどこか有無を言わせない力強さがあった。その空気に気圧されて、私は返す言葉が思いつかず、口を噤んでしまう。
実はここ数日、同じようなことが頻繁に繰り返されていた。
引佐殿がやけに愛想よく大量の甘味を持ち込んでは、すべて私一人で食べろと、やんわり脅迫してくるのだ。
断っても先ほどのとおりで、まるで取り合ってはもらえないし、周りの女中さんたちにこっそり声をかけても、皆俯いて返事はおろか、目すら合わせてくれない始末である。
そのままにしておいても腐らせてしまうだけなので、もったいないの精神で結局一人でどうにか食べ尽くすのだが、そうすると夕餉の頃になってもまったくお腹がすかない。
それなのに夕餉もやけに豪勢なものばかりが並んで、それも残すわけにもいかず、無理やり胃に詰め込んでは次の日の朝、胃もたれでぐったりしているというのが、最近の傾向だった。
新手の嫁いびりだろうかとすら思うが、どれもこれもありがたい厚意には違いないので、あまり強く拒絶することもできない。何故今さら引佐殿がそんなにも私に構ってくるのかについても、謎のままだ。
結局今回も、大量の干し柿を私一人で平らげ、まったくお腹の重さが消えないうちに、夕餉の時間が来てしまった。
これからまたさらに食べ物を詰め込まなければならないのかと思うと、正直なところ気が滅入る。「失礼いたします」といつもの女中さんの声が障子の奥からかかり、私は背筋を伸ばしてひとつ気合を入れた。
ところが、運ばれてきたお膳には、ごく普通の量の食事が乗せられていた。というより、むしろやや少ないくらいだ。これはまたどういう風の吹き回しだろうかとお膳をまじまじと眺めて首を傾げていると、役割を終えて下がっていく女中さんたちと入れ替わるように、引佐殿が姿を現した。
その手には、白く大きなとっくりが握られている。
「どうですか、なまえさま。今宵は一杯飲まれませんか」
引佐殿がとっくりを持ち上げると、中でちゃぷんと小気味よい水音がした。
思わず祝言の日を思い出す。生まれて初めて飲んだ酒は、喉が焼けつく感覚しか覚えていない。あの物音ひとつしない祝言の場で咳き込むのを耐えるのは、本当に大変な苦行だった。
鮮明に甦る記憶に、思わず苦笑いで首を横に振った。
「いえ、私はお酒は……」
「まあ、そうおっしゃらず。これは薬酒ですから、お体にも良い。よく温まりますよ」
甘味を差し入れする時と同じ、貼りつけたような笑みを浮かべながら、引佐殿は有無を言わさず盃台を私の前へと差し出した。
黒塗りの盃台の上には、一枚だけ朱色に塗られた引盃が乗っている。
当然、差し出した腕は引き下がる気配がない。
よい断りの文句が出てくるわけでもなく、結局「一口だけ」と言い訳しながら、盃を手に取った。
すぐさま引佐殿がとっくりを差し向けてくる。おそるおそる盃を差し出せば、白濁したにごり酒が盃へなみなみと注がれた。
「ささ、どうぞ遠慮なさらず」
意を決して盃を傾け、口に含む。決して美味しいとは言えない苦みと辛さが舌先を駆け巡り、眉間に皺が寄るのを抑えられそうもなかった。
明らかに体は口内の液体を異物と認識している。無理やり喉奥へ流し込むと、やはり喉が焼けつくように熱くなり、思わず小さく咳き込んだ。
小さな盃の中の酒は、まだあと半分も残っている。片手で口元を押えていると、手にしていた盃にさらに追加で酒が注がれた。思わず目を丸くして引佐殿を見るが、喉が焼けてうまく言葉が出てこない。
「これも皆、あなた様のお体のためです」
にこやかに笑いながらも仰々しい引佐殿の物言いは、どこか釘を刺すようにすら聞こえた。
* * *
風魔が寝所の障子に手を掛けた時、いつもと違う妙な違和感があった。
空気が、柔らかい。
というよりは、普段息が詰まりそうなほど室内に張りつめている緊張感が、今日はひとつも感じられない。
疑問を抱きながら障子を開いて、すぐに答えは見つかった。
いつもなら褥の上でがちがちに固まったまま正座しているはずのなまえが、正座こそしているものの、両手を褥についたまま猫のように体を折りたたみ、頭から突っ伏している。
予想だにしていなかった光景に、一瞬風魔の動きが止まった。
どうしたものかと一瞬悩んだのち、風魔が後ろ手で障子を閉める。そのかすかな物音が耳に届いたのか、突っ伏していたなまえが突然勢いよく顔を上げた。
その目はうろんで上手く焦点が合っていない。何度も細かく瞬きをして、どうにかこうにか障子の前に立つ風魔の姿を捉えると、なまえは力の抜けた人形のように首を傾げて風魔を見上げた。
「こたろうさまぁ」
呂律が、回っていない。
風魔は入って来た時のまま、障子の前で立ち尽くしている。なまえの体が不安定にゆらゆらと前後左右に揺れた。
「おかえりなさいませぇ」
ほとんど閉じかけた目で風魔を見上げたなまえが、再び褥に手をつき、重力のまま勢いよく頭を下げる。ゴ、と鈍い音が響き、それから「うぅ」と蛙を潰したような呻き声が聞こえ、頭を下げたままもぞもぞとなまえの手が自分の額をさすった。
風魔はしばらくその様子を見下ろしていたが、なまえが一向に頭を上げる気配がないことを察すると、なまえの体を抱き起し、褥の上へと寝かせた。
案の定、なまえはすでに半分夢の中にいるらしく、心地よさそうに笑みを浮かべて横たわっている。その頬も首筋も赤く上気し、柔肌はしっとりと汗ばんでいた。
風魔はなまえの顔をまじまじと眺めると、横たわる体の上から掻巻を掛けて、部屋を後にしようとした。
その手首を、小さな手のひらがしっかりと掴む。
「どこに行くんですかぁ」
呂律の回らぬ舌が、その割には鋭く風魔の行動を咎めた。
容易く振りほどけるであろうその手に、風魔は大人しく掴まっている。そのことに気分を良くしたのか、なまえはふふんと楽し気に鼻を鳴らすと、さらに力を入れて風魔の腕を引いた。
「こたろうさまは、寝ないのですか?」
「……」
「だめですよお、夜は寝るものなんですぅー」
「……」
「いっしょに、寝ましょうねぇ」
掻巻の裾を捲り上げて、なまえが風魔を褥の中へと誘う。
珍しく、風魔の口が半開きになっていた。
ずるずると、大して強くもない力が、風魔の腕を確実に褥の中へ引き込んでいく。そのうち風魔の体が完全に褥の中に横たわると、なまえは満足そうに鼻で息をついた。
「こたろうさまは、いつもお仕事がんばって、えらいですねぇ」
「……」
「まいにち、まいにち……夜も、朝も、昼も、ずーっとお仕事ですもんねえ」
「……」
「えらい、えらい。がんばりやさんなんですねぇ」
なまえの手が風魔の髪に触れる。風魔の口の端が、一瞬ぴくりと震えた。眠たそうに目を半分伏せるなまえは、それに気づくこともない。
犬にでも触るかのように、なまえの手は何度も風魔の髪を撫でた。
「やっと、いっしょに寝れますね」
「……」
「一人で寝るのは……もう、あきました」
「……」
「おやすみなさい、こたろうさま」
すぐ目の前に迫る風魔の顔にふにゃりと笑いかけると、なまえはそのまま安心したようにくたりと脱力し、ものの数秒で眠りに落ちていった。
一瞬で寝息を立て始めた妻の顔を、風魔は相変わらず半開きの口のままじっと眺めている。
時折ぴくぴくと痙攣する瞼も、呼吸のたびに上下する肩も、脱力して緩やかに開かれた唇も、いつまで見ていても飽きることがなかった。
そのうち灯台の火が消え、あたりが夜闇に包まれても、さらにしばらくして障子の向こうが明るくなり始めても、風魔は褥に入った時とまったく同じ姿勢のまま、隣で安らかに寝息を立てるなまえの顔をいつまでも眺めていた。